第五話 淀みない流れの行き先
アルクゥは暁を背に浅く息を乱しながらひたすら進んだ。
吐き出す呼気は熱いが、吸う外気は冷たい。鼻腔を焼くような朝の冷たい空気だったが、黙々と必死に歩き続けることで余計な思考をせずにすむ。
悪路は唐突に終わりを見せた。
アルクゥは境目である緩やかな坂道の上に立ち、切れた息を整える。
道を目で辿っていくと色味のない質素な建物の並びが見えた。所々で薄く煙が立っているのは、朝食を作り始めているからだろうか。
街、と呟く。安堵で膝から崩れそうだった。何者にも襲われることなく無事に辿り着くことができた。
「着い、た……無事に……」
歩いた時間はそう長くはないだろう。
しかし森に残る暗闇は常にアルクゥを狙うように揺れていた。物陰から恐怖が飛び出してきそうな不安の中ですり減った神経はどれほどか。獣の鳴き声を間近に聞いた時もあった。意識が飛びかけて幻覚を見たのか風景がキラキラと光を放っていた時間もあった。しかし何かの加護があったかのように無事に辿り着いた。
きっと母のお陰だ。
わけもなくそう思い泣きそうになって慌てて涙を飲み込んだとき、腹の虫が盛大に吠える。そういえば昨日の夜から何も食べていない。街に入ったら一番に朝食を求めるべきだろう。空腹で倒れてしまえば、それで終わりだ。
持ち合わせの銀貨二枚銅貨三枚を手の平に乗せて眺める。
残念なことに街で食べる朝食の相場がわからない。足りなければ早々に短剣を手放さなければいけないが、どんなに世間知らずな自分でも、街での売却が危険だとはわかる。
港なら珍しい物が沢山集まるのでこの短剣は目立たずに済むだろう。出来ることならば、その時までポケットに忍ばせておきたかった。
とにかく街に入ってしまおうと疲労を訴える足を無視して進む。
木でできた一見粗末な門には鉱山の町ロキナと彫られている。早朝だからか道行く人は見当たらないのが好都合だ。
門からすぐの道は居住区なのか木や煉瓦で出来た家が所狭しと立ち並んでおり、その数個から良い匂いが漂ってきた。道の端を隠れるように進むとやがて広場らしき場所に出て、そこでこの街が中々規模が大きいのだと知る。
四方に伸びた大通りにどちらに行くべきか迷い、目を回していると、その内の一本から流れてきた香ばしい匂いがアルクゥの進路を決めた。灯蛾のごとくフラフラと匂いを辿っていくと、細道に入り込む。その一角にウル石の光が見え、更に近付くと小さなパン屋を見つけた。
目を輝かせて立ち寄る。
店頭に並べてある湯気の立つ焼きたてのパンは、アルクゥに食べてと囁きかけるように艶々と美味しそうにしている。店内にもパンは何種類か置いてあり、我慢できない空腹の虫が大きく空気を震わせた。ハッとしてカウンターを見ると、立っていた仏頂面の中年の女がその顔のまま肩を震わせている。
「あ、あの! このパンはおいくらですか……!」
「二個売りで、銅貨一枚」
「ではこれと、これを」
火を噴きそうな頬に耐えながら、今にもこぼれそうなバターが乗ったパンと、ハムが挟んであるパンを指さし、銅貨を差し出した。女は未だに震えながら茶色い紙袋に包む。
「まいど」
「ありがとうございます」
思えば自分で何かを買ったのは初めてかもしれない。大抵はあれが欲しいと言えばアンジェが買ってくれたものだ。思い出すと何故か途轍もない羞恥を感じた。今度は耳まで赤くしていると、パン屋の女がついに笑いながら「アンタ観光客かい?」と気安く声を掛けてくる。
素性を問う質問に聞こえてにわかに顔が強張った。
「え、ええ。そんなものです。……どうして?」
「小奇麗な身なりだからね。もしかして鉱物商の子かい? どうだい、当たりだろう」
疑問符を浮かべていると、女は肯定と取ったのか満面の笑みを浮かべた。
「鉱脈が見つかってから、訪れる商人は多いからね。大歓迎だよ。町が豊かになって生活が上を向くから。ほら、サービスだ。持っていきな」
上機嫌でパンを一つ寄越した女に胸を撫で下ろしながら礼を言う。ふとアルクゥは、この自分に好意的な人物から情報を得るべきだと思い尋ねた。
「ここから一番近い港はどこでしょうか?」
「港ねぇ。漁をするような小さなものならいくつもあるけど、商売するならキュールだね。外国の船がわんさかいる場所だよ。そんなことアンタの親なら知ってるだろう?」
「その……一人で学べと言われておりますので」
「ふうん? 金持ちは変人が多いって言うけど本当なんだねぇ」
苦しい言い訳を吐いて頭を下げその場を後にする。
後はキュールに行く馬車を探せばいい。はしたなさと多少の惨めさを感じながら、歩きながらパンを齧って挙動不審に辺りを見回す。栄養が巡って冷たかった手足の先が温まっていく。気力が充実していく最中、馬車乗場の立札を発見して喜びに沸いた時には、すでに仕事に行く人々が道を行き交う時間となっていた。
――急がなければ。昨夜の司祭が言うには、私は探し人として衛士に手配されている筈だ。
視界の中に兵は見当たらないが、恐怖から一層体を縮めて歩く。目的地まであと少しに迫ったとき、肩を叩かれた。小さく悲鳴を上げて振り返る。
「おい、お前……」
無精ひげが目立つ衛士は、まだ眠気が覚めきっていないような目付きを向けてくる。上から下まで、という表現が的確な動作で怯えるアルクゥを観察して、ふいにニンマリと笑んだ。
「ええと、お前、いや貴女に捜索願いが出ている。いや、います。捕獲……いや、保護するから一緒に来てくれ」
胸に抱きこんでいた手を無理やり掴まれ、アルクゥは乾いた音が響くほど強く振り払った。
男は気分を害した顔をして口元を引きつらせるが、あくまで丁寧な言葉遣いをしようと努力する片鱗が窺えた。
「何も捕縛するわけじゃない、んですから。ガキみたいに駄々捏ねちゃ困ります」
「だ……誰かと、人違いをなさっているのでしょう?」
震える言葉に説得力などないように思われたが、視線を逸らさず、気力を振り絞って「間違っています」と言い直す。ここで勝たなければ終わりだ。その生死を懸けた気迫に男はたじろぎ、顎に手を当てて首を傾げた。
「だって、特徴が……青っぽい髪で、長くて、娘で」
「その方は何をなさったのですか?」
「家出したご令嬢だって……それにお前、喋り方だって」
「その方が私だと言う証拠は? そもそも、令嬢がこの街にいらっしゃるという根拠は?」
「えっと、だからよ。だってこの街に通達があったんだからよ、ここにいるんだろうがよ」
「わ、私は、鉱物商の子です! 人違いです!」
咄嗟に、胸を張って叫ぶ。
男は何か言い募ろうと口をパクパクさせていたが、ふいに自信を無くしたように肩の力を抜いた。
「んだよ、人違いかよ。今気付いたがお前の目、変な色だな。金色だ。ご令嬢は茶色だってよ。くそっ似たような特徴しやがって……ああ、街の外に出るなら気ぃつけろよ。傭兵崩れの盗賊もそうだが、昨日辺り街道で魔獣が出た」
男はアルクゥの向かう先を見てだるそうに忠告した。
円く開けた門に近いところにある広場には数台の馬車が停留している。馬は地面に撒かれた馬草を食んでいる。周辺の衛生状態はいかにも悪そうで悪臭が鼻を衝く。
「じゃあな」
「あっお待ちください。キュールに行く馬車を探しているのですが……」
料金表があるわけでもなく、行先が示されているわけでもない。
困り果てたアルクゥは巡回に戻ろうとしていた衛士を呼び止めて尋ねる。眠たげな顔に戻っている男は面倒そうに馬車の方向へ歩いて行った。慌ててついていくと、一番流行っていなさそうな、言い返れば古びた馬車の御者に男は話しかける。
「そっちの嬢ちゃんがキュールに行きたいんだと。フルドまで出してやれよ」
「ああ? 一人じゃねぇか。三人以上じゃねぇと割に合わねぇよ。料金の倍出すってんなら話は別だがなぁ」
透き通った緑色の石を手で玩びながら、赤ら顔の御者は後半アルクゥを覗き込むように言って鼻を鳴らす。衛士は助けてくれる気はないらしく、当人同士でやってくれと言わんばかりの足取りで去って行った。
「あの、倍となると、料金はどれほどに……」
おどおどしながら聞くと御者はきょとんとした。それから獲物を見つけた猿のように黄ばんだ歯を見せて笑う。
「銀貨一枚くらいかなぁ……どうだ?」
「そんな……」
相場は知らないが、銀貨一枚払えば手持ちの大半を失うことになる。
困りきって他の馬車を見回すと、眺めていた御者たちが近寄ってきて口々にはやし立てる。
「そうだぜ、おやっさん。高すぎんだろうが。たかが半日程度の道だ。銅貨五枚が相場だろう?」
「それによ、酒が切れて横転、お陀仏が落ちだぜ嬢ちゃん、ウチのに乗らないか? 今ならそっちの半値で請け負うぜ」
「おいおい、取り過ぎだっての。可哀想だろうが、娘さんには優しくしろよな」
「黙れお前ら! 俺の客だ。さあ散った散った!」
客を取られるのは困るのか、御者は怖ろしい剣幕で怒鳴りつけて同業者を散らす。
アルクゥも馬鹿ではないので、相場を教えてくれた別の御者を頼ろうとしたが、困った顔で首を横に振られてしまった。赤ら顔が元締めのような位置だと耳打ちされて、仕方なく再び向かい合う羽目になる。
「さあ、どうするんだ?」
優位に立つ者の表情がこんなに憎たらしいものだとは知らなかった。
唇を噛んで何か交渉材料を探そうとするも、世間に疎い頭では考え付かない。苦し紛れに御者が握る石を指さした。
「そのウル石。魔力切れのようですが」
「ああ、不景気でなぁ。魔力を入れてもらう金もねぇんだ」
だから金額は譲れないとニヤニヤ笑う。
屁理屈だが、石に魔力を込めれば普通料金でも構わないということだ。アルクゥは勇気を振り絞って男のウル石持つ手に触れる。すると何を勘違いしたのか「まあそっちでもいいが」と男は相好をだらしなく緩めてもう一方の手をアルクゥの頬に伸ばしてきた。
生理的嫌悪を感じて一歩引き、避けると同時にウル石を奪い取る。途端に男は顔の赤色を強くして唾を飛ばしながら叫ぶ。
「おい、返せ!」
「魔力を込めて差し上げます、ですから相場通りのお値段で乗せてください」
「はあ?」
断られる前に石を両手で握った。
相手の確約を得ないままでの行動は、ただの自発的な行為だ。ウル石に魔力を入れても相手が条件を飲むかどうかもわからない。だがアルクゥはそんな考えは念頭にもなかった。必死になっていたこともあるが、まだ自分の常識の範疇でしか人を理解できなかったからだ。要は世間を知らないのである。
魔力を注ぐと石は微かに熱を持ち始める。
色が緑から完全な青に変わったとき、軽く振動を与えてみる。すると鮮烈な光が御者の赤ら顔を照らした。
「か……勝手なことを……俺は一言も、いいだなんて」
御者は世にこなれた大人らしく約束などした覚えはない、と言おうとしていたようだった。
しかし言葉尻が少々怪しい。聞き取れなかったアルクゥは「申し訳ありませんが」と近付いて耳を寄せる。すると御者は弾かれたように後ずさった。
「お、お前……魔術師か……」
「え? 私は……別に……なりたいとは思っていますけれど」
なぜ怯えるのかわからないアルクゥはとにかく御者を安心させようと素直に告げた。
「それで、代金なのですけれど」
「わ、わかった。送る、送るから。ほら、乗れ、乗れよ!」
御者の態度は変わらなかった。
アルクゥを追い立てる仕草一つにも震えが見える。御者の様子は訝しかったが代金の減額は嬉しく、気が変わらない内にと乗り込んだ。馬車内は案外綺麗だが微かに酒の臭いがする。
座り心地も決して良いとは言えない。それでも森を歩いたことを思えば馬車での旅路は非常に快適だった。無用心にも半日間昏々と眠っていたくらいだ。
フルドという港への中継地点に到着して御者に深々と礼を告げる。
長時間ストレスに晒された様な青い顔をした御者はアルクゥを一瞥もせず、それどころか代金も受け取らず、乱暴に馬を打ち据えて逃げるように行ってしまった。
(もしかすると、ティアマトで魔術師は忌まれているのだろうか)
しかし魔術師は技術の発展に貢献し続けている。
昨今、市井にも生活に便利な魔道具が普及している。それを使う身として魔術師を忌むというのは不自然に思えた。
フルドという街は前の街よりも数倍大きかった。
何より旅人にとっては親切な街で、あちこちに立つ道案内板がアルクゥの足取りを迷わせない。古着屋という物珍しい店で衣服を売れることを知り、ドレスを売って代わりに質素な服を買う。着替えて髪を結ぶと、どこからどう見ても街娘と変わらない。
アルクゥは安宿で一泊し、早朝に再び馬車に乗って街を発つ。
御者も相乗りとなった人々も親切で優しく、家への旅路は順調に進んでいる――ように思われた。