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精霊のシジル  作者: 染料
五章
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第五十八話 曇天と虹



「――捕らえろ!」


 闖入者によって奇妙に間抜けていた空気は高らかな一声にて終わりを迎えた。

 瞬間、相手の敵意を認めたアルクゥの脳は激突の痛みを忘れる。首を突っ込む危険を理解していたので思考は冷静だ。胸元の首飾りだけが火傷しそうに熱い。

 攻撃は駄目だ。どんな言い訳も利かなくなる。それならば。

 ヒビ割れて白く濁った防護眼鏡越しに前方の地面を睨み付ける。

 土が爆ぜて曇天の空へと立ち昇る。

 立ちはだかる土砂の黒壁に兵たちの足が鈍るのを確認し、アルクゥは男の傍に膝を突いた。


「立てますか」


 男は血塗れの顔面を持ち上げ噛み付くような目線を寄越し、仰向けの体を反転させ立ち上がり地面を強く蹴る。跳躍した先にある茂みを派手にへし折りながら森の奥へと逃走した。

 追うか別方向へ逃げるか逡巡する刹那、肩越しの視線を見て取り男を追う。

 土砂の落下音を後背に置き去りに先を行く背中に追いつく。男は少し振り返り、目を見張って速度を上げた。

 追走しながら背後へと索敵を展開する。追いすがる数は二十一。部隊の大半が土砂の雨に怯まず追ってきた計上である。

 大半が負傷し、部隊としては満身創痍の有様なのに恐ろしく士気が高い。何より兵の足は速い。全員が魔力保持者か、それに相当する身体能力を持っていると考えれば、このまま素直に逃げられると楽観できない。

 小声で定型術式を呟いて後ろに手を突き出す。

 初歩中の初歩である光の魔術は、過剰な魔力供給によって目を焼く光へと昇華する。

 不意打ちが利いたのか、魔術師のアルクゥを警戒したのか、追跡者たちの足は鈍り、やがて感知範囲から外れた。

 小さな沢の川原に差し掛かって先導していた男は止まる。肩で大きく息継ぎをし、血塗れの顔がアルクゥを振り返った。


「ぞんで、デメェは、あっぢ側が?」

「――まず手当てをしましょう。沢で血を落としてください」


 ようやく落ち着いて向かい合った顔は、血糊でほとんど人相が隠れている。

 大量出血の原因は額の真ん中に突き刺さった防護眼鏡の欠片だろう。鼻血で言葉は濁り、唇も酷く切れていて痛そうだ。

 男はアルクゥを警戒しながらも血が気持ち悪かったのか素直に顔を洗いに行く。水が傷を浚う度に肩が跳ねていた。

 涙目で戻ってきた男の面立ちは意外にも若い。アルクゥと同じ年頃だろう。

 まじまじと見詰めると、男は猛禽を連想させる橙色の瞳を何度も瞬かせ、同色の髪をガシガシと掻いて目を逸らす。


「見んじゃねーよ」

「え? ああ、ごめんなさい。傷を治します。動かないで。――なぜ追われていたのですか?」

「なぜって……おっと危ねぇ、騙されるとこだ。ただの通りすがりって油断させようってんなら甘ぇぞ。あんなタイミング良く現れて、しかも魔術師ときたもんだ。どうせアイツらの仲間だろぉがよ」

「あいつら?」

「いけ好かねぇ澄ました野郎と目付きの悪ぃ野郎のこった。とぼけてんじゃねぇよ。お前ら、軍人だろ。俺を保護しに来たとか言いやがったが、大きなお世話だ馬鹿野郎」


 保護、と呟いて金の手枷に視線を落とす。魔力持ちの犯罪者にかけられる封魔の戒めだ。


「これはアンタらと別れた後にあのノロマ共からつけられたんだよ。けどな、あの後もさっきも俺は一人で逃げられた。そこんとこ勘違いすんなよ」


 アルクゥは男を助力したというよりも、青銀の兵たち――恐らくは北領に所属する者たちの行動を私怨による条件反射で妨害したつもりだったのだが。

 真っ当な人助けだったようだと短剣を抜いて鎖の部分を断ち切る。枷はそのままだがこれで封魔は途絶えた。


「……礼は言わねぇ」

「構いません。その代わりにここがどこで、人里はどの方向にあるのか教えてください」

「あァ? ここがどこかって……そりゃ北領だろ」

「北領のどのあたり?」


 男は怪訝そうにしながらも細い棒切れを拾い上げる。柔らかい地面に歪な台形を描き、左下に「アルカエ」と綺麗な字で記す。


「鉱業と林業が盛んな、まあ人が集まっては死にまくる呪われたド田舎だ。貧乏人と傭兵が稼ぎに来る場所だな。で、ここが悪名高きグガランナ」


 アルカエからやや北東に行ったあたりを大きく囲む。


「俺らがいんのは、アルカエの鉱山都市からだいぶ西だな。モルス山脈の左端、細々と魔石なんて掘ってた地域だが、近くの鉱山街は数日前から無人だ。なんの気まぐれか無翼竜が付近を徘徊してる」

「つまりこの近辺は」

「硫黄の臭いがしたら逃げろってこった。それで、テメェは迷子か何かか? ……いや待て、歩きながら話す。妙だな、完全に引き離したと思ったんだが」


 遠くの木立ちから騒々しく鳥の群れが飛び去る。

 舌打ちした男は素早く身を翻して再び道なき森林に踏み込み、ふと立ち止まる。


「マニだ。マニヴェール・ストルトス。お前は」

「アルクゥアトル・ネテスハイム。アルクゥと呼んでください」


 返礼として真名と師から貰い受けた姓を名乗る。男はわざわざ振り返って目を瞬かせ、視線を逸らした。

 

「……とにかく逃げっぞ。北の忠犬共が竜に喰われてくれりゃあいいとこっちに来たが、そう都合良くはいかねぇようだ」



+++++++++++


 不慮の事故により不運な状況を余儀なくされたアルクゥと、罪無き事情により追われるマニは、無人の鉱山街を目指すことに決めた。

 マニを追う部隊は二つで、一つは鉱山街に引き返した可能性もあったが、森の中を彷徨っても消耗するだけだ。

 追跡者の気配に急き立てられながら互いの状況を話し合う。


「俺ァ二年くらい前から鉱山都市で護衛の仕事をして飯食ってんだ。今回の仕事は鉱山街に残ったお偉いさんの息子、つっても三十路に入ったオッサンなんだがな。鉱夫の避難が完了するまで逃げねぇって監督所に張り付くそいつを引っぺがして連れて帰るのが言い渡された内容だった」

「それはまあ……良い監督官ですね」

「まあな。それに輪をかけて良い奴な俺と他の傭兵共は、オッサンの監督根性に付き合っちまった。晴れて避難は完了、竜害は最小限に抑えられメデタシメデタシ……となりゃあ気分は良かったんだが」

「死んだのですか」

「勝手に殺すな。いや三人死んだんだけどよ。竜が来やがったんだ。オッサンは、何つーか、俺が一応守ったんだが……そのやり方が、なあ? ちっとばかし、アレで」

「やはり死にましたか」

「生きてるっての。五体満足で頭も正常だが……ちょっとばかし言動がな」


 そう言うわけだ、とマニは肝心要の部分を隠して話を終える。

 詳しいことは分からなかったが、追われる理由が犯罪でないのならば他領へ逃げるべきだろう。


「私はデネブに帰りますが、マニはどうしますか」

「どんなとこだ?」

「住み易いとは思います。魔力持ちは特に。仕事も多い。……でも、近くに廃域が」

「ああ……互いにとんだ災難だなオイ。しかし、前に聞いた印象と随分違うもんだ。デネブは悪い噂しか聞かねぇ場所だったんだがな」

「どこも魔力保持者が欲しいので、他を悪く言うのですよ」

「そんなもんか。デネブは候補の一つだな」


 一緒に来ればいいのにと思いながら口には出さない。それはマニの災難を共有することと同義だ。好人物だとは思うがそこまで肩入れするには動機が薄い。

 会話が途切れた空白、思い思いに歩いていた二人は一斉に振り返る。


「聞こえたか」

「はい。……おかしい。早すぎます。魔術師が探査している様子もないのに」


 空が陰りを帯びたというのに追跡の気配が消える様子はない。

 最初以降の接敵は今のところないが、足を緩めればすぐにでも発見されてしまうだろう。


「魔眼でもいんじゃねぇのか?」

「それほど正確ではありません。大体の位置を知る別の手段……私の感知範囲外から使い魔で見ているとか……急がないと。ここから街までどれほどかかりますか?」

「蛇行したり迂回したりで時間くったからな。休まず歩いて深夜ってとこだが、夜の散歩は推奨しねぇ。魔物が活発になる。出くわすとするなら、竜の気配にも怯まねぇ大物だ」

「となれば……」


 アルクゥは周囲を見渡して顎に手を当てる。


「待ち伏せして、追手を排除するか」

「排除ってお前……」


 マニは目を見張り、意味もなく左右に視線を走らせる。


「ほとんど魔力持ちだぞ相手は」

「半数が負傷して、部隊としては満身創痍です」

「待った。言っとくが俺がやったんじゃねぇ。やったのは、たぶんヤツらが来る前に保護だの何だの言ってきた胡散臭ぇ野郎共だ」

「今更のようですが、その人たちに付いて行ったほうが良かったのでは……」

「お前ならそうしたのか? 違うだろ。とにかく迎撃は却下だ却下。陽が落ちて行動不能になんのは何も俺らだけじゃねぇ。行けるとこまで行くぞ」


 マニは強情な顔で断言して歩調を速める。

 その後、何度も背後に足音を聞き、そのたびアルクゥは罠や待ち伏せを提案したが、マニは頑として首を縦に振ろうとはしなかった。


 日没を迎え、森には深淵に落ちたような闇が訪れる。


 待機場所を探すのは造作なかった。

 聳え立つ巨木の一つを選び、二人はそれぞれ太い枝を選ぶ。


「木登りなんざガキ以来だな」

「落ちないでくださいね。少し失礼します」


 アルクゥは枝に魔除けの術式を書き込む。

 竜種が鼻先で突けば即壊れるお粗末なものだ。魔術的な技術は未熟そのもの、ネリウスの知識がなければ魔術師を名乗るのもおこがましい。道具と時間があればましなものを作れるが、生憎持ち合わせはない。

 にも関わらず、マニはしきりにアルクゥを褒めそやした。


「すげぇな。俺なんて一日で破門されちまった。不便がねぇからそのままだ。そうだ、お前、弟子とかは?」

「あと十年くらいたてば考えることもあるかもしれません」

「何だそりゃ。素直にとらねぇって言えよ」


 ケラケラ笑うマニに廃域調査の前に支給された食料を投げる。

 栄養食なので味は微妙だったが、お腹が膨れるとようやく人心地ついた。

 幹に背を預けて息を吐く。せき止めていた不安や疲れがようやく肩にのしかかってきた。

 ――早く帰らなければ。

 ヴァルフは心配しているだろう。だが帰るにしてもお金がない。銀行には護衛官をしていたときの給金は預けているが証書などは軒並み王宮の兵舎に置いてきた。別口に預けている金銭はないので鉱業都市とやらで稼ぐしかない。

 ケルピーがいればな、とアルクゥは膝を抱える。心の中で名を呼んでも、親愛を込めた嘶きはもう聞こえない。


「巻き込んじまって悪かったな」


 アルクゥは膝から顔を上げて眉を下げる。


「考えていたのは別のことです。巻き込まれたのは私の好奇心ですから」

「あーそうかよ。物好きなこった」

「それに……北領の兵士は嫌いなので」


 マニは首を傾ける。


「何があったか聞いてもいいか?」

「似たようなところですよ」

「どうやって逃げた?」

「……逃げませんでした」


 マニは瞳を揺らし何か言おうと薄く口を開けたが、言葉は出てこないようだった。

 会話は途絶え、夜は更けていく。

 頬を抓りながら不寝番をするアルクゥの耳を静寂が刺した。追跡の足音も獣の息遣いも、マニの寝息も何もない。

 星が空を巡り、夜が白んできた頃にようやく寝息が聞こえてアルクゥはホッと息を吐いた。

 ――陽が昇ったら起こして出発しよう。

 一気に鉱山街まで行って、そこでマニとはお別れだ。少し寂しい気もするが。

 黒く冷たい地面が光を帯び、朝の空気が夜気を塗り替えていく。

 そろそろ頃合いだろう。

 固まった体を伸ばし大きく深呼吸する。マニに声を掛けようとし――異臭に気付いた。次いで、異様な温度の上昇を。


「マニ! 起きて!」


 声は後半、轟音に掻き消される。

 飛び起きたマニが枝から落ちそうになるのを支えながら、アルクゥは最大の警報を鳴らす本能を抑え五感を強化し音の方向を睨む。ビリビリと痛む鼓膜は、間を置かずに入り乱れた足音を拾った。


「やり過ごしますか」

「無理だ。街まで逃げる。――走れ!」


 アルクゥとマニは枝から飛び降りて全力で駆ける。

 木々が薙ぎ倒される生々しい音と人の悲鳴に急き立てられひたすら走った。


「あンのクソ共、連れてきやがって! やっべぇこっち来てやがんぞオイ!」


 地を割るような振動が近付いてくる。

 マニは迷うように速度を緩め、急にアルクゥの手を取り方向を変えた。


「どうしましたか!」

「このままじゃ追いつかれちまう! 近道すんぞ!」


 緩やかな斜面を駆け上がる。

 唐突に木々が退き、木の幹しか映らなかった眼前が広大な曇天に染まる。


「ここを下りて林を抜ければ街だ! 何とかしてくれ!」

「ちょっと待っ……!」


 マニは速度を落とさず切り立った崖に直進する。

 アルクゥは引きずられながら、木が点にしか見えない高度から――跳んだ。

 浮遊感は一瞬のみ、後は落ちていくだけだ。

 耳元で空気が唸りを上げて体は段々加速していく。アルクゥは青ざめてマニを思い切り抱き寄せ風を呼んだ。


「とっ……止まれ……!」


 割れた保護眼鏡の下で瞳を金に光らせ、拙い技術は魔力の量で補う。

 風力が落下に勝り冷や汗を拭うのと、遠くなった崖から深紅の怪物が飛び出してくるのはほとんど同時だった。

 無翼竜――翼のない赤竜は、重力に逆らわず真っ逆さまに落ちてくる。

 アルクゥはとっさに風を止める。


「あああ落ちる! 死ぬ!」

「死なないから口閉じて! 舌噛むから!」


 地面すれすれで再び風を呼び、落下の衝撃を殺す。骨が軋んだ音を無視してマニの手を引き即座にその場を離れた。

 数秒して、地面が割れる音と衝撃が大地を震わせる。


「死んだか!」

「死んでません! 振り返らないで走って!」


 林を抜けると、草臥れた街門が現れる。

 その向こうに灰色の街が寂しく佇む。そして――。


「どうすっかな、ありゃあ。なあ、どうする?」

「さあ……どうしましょうか」


 駆け込んでようやく足を止めた、焦げ付いた広いだけの大通りは交戦中の人影で賑わっていたようだった。すでに大半は戦いの手を止めてアルクゥとマニを、その後方の竜を見ている。

 奇妙に静止した場で、一人だけ動く者があった。竜の出現に固まる敵を何人か斬り伏せて、頬に飛び散った血糊を無造作に拭う。

 生きていたのか。

 あまりにも見覚えがある白皙の男に、アルクゥはフードを深くかぶりなおし、下ろしていたマスクを引き上げた。


 

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