第五十七話 神隠し
デネブの南方を穏やかに取り巻く低山。
その山裾に沿い馬で四半日駆けると、大切なものを優しく隠すように背丈の低い木々が行く手を阻む。
先頭を行く騎士たちが馬を降り枝を払って道を作る。
そうして進むと、唐突に視界は開ける。
微かに濁りを帯びた水縹。その初夏に近付く空を鏡のような水がさかしまに写している。
ここが目的地のメンシス湿原――廃域発生の場所である。
「ここからは歩きだ。小休止にしよう。その間に二つ、三つ、確認をするから耳だけこちらに向けていてくれ」
快活な声が響き渡る。
金髪癖毛、ビルグレイ・アンダールの指示で騎士五名、民間からの協力者十二名、総勢十七名の廃域調査隊は歩を止めた。
騎士らが素早く魔除けの囲いを設置したのを見届けたアルクゥは索敵の魔術を切る。
するとその感覚を察してか、明らかに民間人といった風の男が不安を露わに近付いてきた。
「おい、それ止めても大丈夫なのかい? 魔物が近寄ってきたら分からなくなるんじゃないか?」
「これまでに反応はありませんでしたし、今は魔除けがあるでしょう。ここを出るときまた探りますのでご心配なく」
それでも何か言いたげにしていたが、アルクゥが苔の生えた倒木に腰を下ろすと渋々引き下がる。後ろの方で会話を聞いていた民間協力者がなぜかその男を責めている。不満はあるが、魔術師に文句をつける度胸はないらしい。
目端で観察する限り全く場慣れしていない人間が九人、有事に動けそうな民間協力者は僅か三人しかいない。
屈強な男が二人――これは雰囲気からして玄人、傭兵だろう。そして残りの一人は、とアルクゥは目を細める。
深窓に肘を突いて外を眺めていればさぞ絵になるであろう、色白の女だった。
平静極まりない、誰よりも静かな空気が気になったが、動きにこちらを振り返る気配があったので視線を逸らす。
先行きは不安だ。
アルクゥは密かに嘆息してフードを取り肌にべた付く湿気の露を払う。まったく、カビの生えそうな按配だ。
面子の立場が噛み合っていない。即ちそれは思考の差異であり、反応や対応の差異に繋がる。想定外の事態が起きた場合、容易く脱落する人間が九もいるというのが怖い。
更に恐ろしいことに、その九人は隊で唯一の魔術師を非常に当てにしているのだ。
相手が魔物というならまだ守る方法もあるが、残念なことに今から訪れる場所は神さえ見放す廃域なのである。
廃域――局地的に発生する災害。前触れなく出現する魔界。
その特性ほど度し難いものはない。
局地的な自然災害であったり、猛毒の沼であったり、時には魔物の苗床となり近隣を食い荒らす。
命核という黒い珠を破壊すれば廃域は消え去るが、命核が存在する確率は半々だ。命核が廃域を作るのか、廃域が命核を作るのか。議論は尽きないが廃域を消したくば人は命核を探さねばならない。
なければ自然消滅を待つしかない。そしてそれは悲劇だ。
アシュル地方、北領と総称される地にあるグガランナには命核がないと言われる。
伝説の怪物を冠する巨大な廃域は発生を数百年にも遡る。性質は廃域の中で最悪たる苗床。魔物を生み育んできた異界に幾多の猛者が挑み、戻って来ない。無辜の民が食い荒らされることも多いという。
北領の軍隊が日夜魔物を狩ってはいるが、五十年に一度の大繁殖は領軍の手に負えない。先立っての大繁殖には魔物討伐に長けた国軍第八師団が出動し、その際に活躍したハティは嵐の英雄となった。これは余談ではあるが。
「もう少し先に行けば廃域の境界だ。事前調査で分かっているのは、廃域の種別は“装備を整えていれば概ね”無害、範囲は、あー、デネブの平均的な民家が百棟……なんだこりゃ。まあ、とにかくそれくらいだ」
ビルが明るく張りのある声に思考を中断する。
時折紙片に視線を向けながら満遍なく笑みを向け説明する様子は、自分の役割を十全に理解している。
頼もしいが、と廃域の方向に目を向ける。無害は言いすぎだ。
「諸君の仕事は命核の捜索だ。各自、支給された防護は身に着けてきたか? 外套、マスク、手袋、靴に保護眼鏡に、幻惑避け転移避けの魔具、以上の六つだ。特に魔具は肌に触れるように身に着けていてくれ。ここまでで何か質問がある人は……」
間髪入れずに白い手が挙がる。促される前に、色白の女は平坦な声で質問を投げた。
「他の二つと同じく、この先の廃域が魔物の巣である可能性は? 概ね無害なんて、無責任極まりない言葉で誤魔化さないで答えてくださいな」
切れ長の目は無感動にビルを見据えている。
一行にまぎれもない動揺が走る。
デネブ近郊にて確認された三つの廃域の内、二つは小規模な魔物の温床だと確認されていた。どうにかして掻き集めた協力者、ヴァルフ含め腕の立つ魔力保持者や魔術師は皆そちらに回されている。
本来ならアルクゥもあちらに行く予定が、いつの間にかメンシス湿原の方に配属されていた。後でヴァルフを殴らねばなるまい。
ビルは寸の間、瞳に怒りを灯したが笑みは崩さず答えた。
「これは失礼をした。何事にも絶対はない、つまり準備万端でも警戒を怠るなというのが騎士団長の教えでね。ありのままの事前調査報告を読み上げるなら、メンシス湿原の廃域から魔物が湧き出た形跡はなく、苗床である可能性は極端に低いと思われる……これもまた曖昧だが、理解して貰えるだろうか」
女は場を乱すだけ乱したくせに、既に興味を失ったように余所を向いている。
口を開きかけた騎士をビルは目線で黙らせ「説明を続けよう」と一巻き程の細い鎖を取り出した。
「探索時にはこれを握ってもらう。特殊な術式が使われた魔具らしいが……」
と、ビルはアルクゥを見る。
説明してくれという意味を取ってアルクゥは言葉を継いだ。
「どこまでも、と言えば語弊がありますが、デネブを横断できるくらいには伸びる鎖です。軽くて頑丈なので探索の妨げにはならないでしょう。これでもし視界が利かない場面があっても隊と逸れることはありません」
「原始的なのね」
「他に考えがおありでしたら提案されてはいかがですか」
色白の女にそう返すと彼女は初めて感情を露わにした。
頬は紅潮し目が刃のように鋭い。アルクゥは顔を背ける。胸元の首飾りが熱を持っていた。
「さて、出発しよう。なに、夕方には帰れるさ」
ビルの声はあくまでも明るかったが、アルクゥにはどことなく不吉に聞こえた。
++++++++
「ここからだ。入るぞ!」
湿原を少し進み、ビルが警告した直後、突如として白い怪物のような霧が辺り一帯を覆う。
あちこちで上がった悲鳴を上回る怒号が混乱を制する。
「慌てるな、ただの霧だ! 絶対に鎖を離すな! 魔術師は感知を頼む!」
アルクゥは頼まれて了承の声を返したはいいが、感覚を広げようとしても粘着質な空気に押される。辛うじて十七人が縦二列に並んでいる様子は分かったが、それ以上遠くに索敵の糸を伸ばすことが出来ない。
魔術を使ってもこの様だ。魔力保持者が五感を強化したところで、蝋燭を灯して夜闇を歩くのと大差ない状況だろう。
制限の掛かった視界での探索は、足場の悪さと相まって困難を極めた。
ぐしゅぐしゅと苔や草を踏んで泥に靴裏が埋まる足音たちは、初めは活発だったが三十分も待たずに沈黙しがちになり始める。
潅木の下を覗き込んで命核はないか探していたアルクゥが何気なく振り返ると、後続は見えない位置まで下がっていた。感知範囲にはいるが動きが鈍い。このままだと範囲から外れる。今のところ霧以外に廃域らしい異変は感じられないが、離れるのは危険だ。
傍で額を拭う騎士に進言する。
「後ろに遅れが出ています。少し待ったほうが」
「当たり前じゃないの。腐っても廃域であるわけだし、雀の涙ほどの魔力しか持たない人間なら疲れるに決まっているでしょう。それだけ抵抗力が少ないということなのだから。貴方もそうなのではなくて?」
音も無く隣に来ていた色白の女が騎士を小馬鹿にし、アルクゥをチラと横目に見る。
「その点、貴女は駄犬のように元気ね。元気な割には役に立っていないようだけれど」
「そうですか。次は鏡に向かって仰ってください」
鎖を辿って後ろに避難すると、気だるげな様子の一団がいる。アルクゥを見て叱咤されると思ったのか身構えた者もいたが、大半はそんな元気もない。
先で待っていた騎士らに様子を伝えに行くと、一旦外に出ることになった。探索済みを表す杭と鎖を頼りに引き返す途中、霧の向こうからおおい、と男の声が聞こえてきた。
思わず視界の利かない左右を見回す。
「馬鹿面になっているわよ」
いつの間にか横にいた色白の女が怪訝そうにしている。
不本意ではあったが、彼女に今の声を訊くと、細い眉がくっきりと歪んだ。
「何も聞こえなかったわ。そんな幼稚な手で脅かそうと思っても」
「初対面の相手を脅かそうなんて思っていません。……ほら、また」
同意を求めると、色白の女はアルクゥをじっと見詰めていた。首を傾げると、薄い紫色の目が段々と歪んでいく。頬が薄っすらと赤みを帯びていた。少なくとも羞恥の感情ではない。
「あ……貴女なんて!」
女は叫び、幼い頃絵本で見た、熊が人を襲う手つきで掴みかかってきた。
ぎょっとして一歩下がると、空を掻いた手が首から提げていた廃域用の魔具を千切って肌に赤い線を作り――。
「っああ!」
青白い呪が現れて女の手に絡みついた。
途端に火膨れが出来て女は手を引っ込める。咄嗟に怪我を診ようと手を追いかけるよりも早く、忽然と女は消え去った。
それと同時に感知範囲にあった十五名の存在も掻き消える。それどころか、草木や水の匂い、地面すらも感知できない。ない、ということになっている。感覚上は。
しばらく目を点に冷や汗を流していたアルクゥは、足を踏み鳴らして足場の有無を確認する。
――何が起こった?
とにかく進むしかないのは確かだった。
進むごとに霧が濃くなり体に纏わりつく。
水中を歩くように不自由だ。全身が霧を吸って重い。歩みを妨げているような感覚がある。目印になるものもないので、どれほど進んだかも分からない。
途方に暮れたアルクゥが歩みを止めかけたとき呼び声を聞いた。上下左右すら曖昧になる霧の中でそれはアルクゥに方向を与える。
勢い込んで走り出した。脱出できるという希望に胸が躍ったのも束の間、足場が消失する。
突然の浮遊感。
何もかもゆっくりと動いている。上に流れ行く曇天、落ちていく自分、岩肌に逞しく絡みつく木の根――反射的に掴む。
ガクン、と強い衝撃が掛かって落下が止まる。肩の関節が酷く痛み爪が少し剥げたようだが悲鳴は飲み込んだ。無意識に自分の居場所を告げる行為を拒んだ。
アルクゥは静かに息を吐いて上を見る。険しい岩肌の遥か上方に崖があり、木々がある。
下を見る。遥か下方に木の梢があり、木々の切れ間を走り抜けていく青銀の半甲冑を着た人々があった。
存在を殺して彼らがどこぞへと消えるのを待ち、アルクゥは再度上を見る。
道も霧も湿原もない。
「人勾引の廃域……」
神隠しとも言う。魔具を壊されたせいで飛ばされた。
大きな溜息を吐いて空寒い沈黙を誤魔化す。
慎重に地面を目指し、降り立った地面は不安定な腐葉土で足場が悪い。
アルクゥはしばらく岩肌を見上げていたが、当然他の調査員は転移してこない。
取り急ぎ、一体ここがどこの大自然なのか知らなければならない。
――青銀の軍人が駆け回っている辺り、碌な場所ではない気がするが。
アルクゥは麻痺した危機感や恐怖心が戻ってくる前に思考を回す。
待つのは得策ではない。転移魔術は技術的に敷居が高すぎる。アルクゥに可能なのは精々一都市分を跨ぐ程度で、それも目印がないと不可能である。
木の根にしがみ付いていたときに零れた砂粒のような場所があった。あれは街か村か集落か。とにかく人がいるだろう。人がいればとりあえず何とかなるだろう。
そう考えて樹林帯を猫のように歩き始めた直後、騒々しい足音を聞き慌てて木立ちに引っ込む。
先程とは別の一団が怒号と悲鳴が入り混じった声を上げながら目前を通り過ぎていく。
「見つかったか! 捕らえたのか! ええ、どうなんだ!」
「知るかよお! ああ、痛ぇんだよ畜生! え……見ろこれ、まさか腐って……あの白糞野郎ぜってぇ殺す!」
「無駄口を叩くな能無し共! 失敗は許されんぞ!」
暴力と血の臭いを撒き散らし駆け抜けて行った一団は、手負いの兵が多いくせに妙に走りが淀みない。地に目を凝らすと予想通り道があった。古道のようだ。
どうする。
選択は左右に分かれている。好奇心で死ぬのを覚悟で一団を追う右か、予定通り遠くの人家らしき場所を目指す左か。
――右だ。
どうしようもない欲求だった。本能が告げる選択に任せ、隠密の術式を纏い古道に沿って走り出す。すぐに一団の最後尾を視界に捉えた。つかず離れず追うこと数分、古道が木々に侵食され途切れた。一団は足を止める。這う這うの体ながら歓声や罵声を上げた。茂みの向こうにいるのは岩肌で見下ろした一団だろうか。彼らが何かを捕らえたのだろう。
大きく迂回して木に身を隠しながら回り込む。
さて、何があるか――。
「消えたぞ!」の怒声が飛び怪訝に思ったアルクゥはそっと顔を覗かせる。瞬間、眼前に燃えるような橙が広がり、
「あァ?」
「え?」
額をかつてない衝撃が襲った。
アルクゥは魔力強化の恩恵で仰け反りながらも踏み留まる。ぶつかって来た主は転倒し、枷で戒められた両手で顔面を覆い痛みに悶絶している。「見つけたぞ! 誰だ!」という些か間抜けな誰何の声が延々と山中にこだましていた。




