第五十六話 犬も食わぬ
リリを家まで送り届けたあと、ヴァルフと待ち合わせる場所に向かおうとした足が止まった。
アルクゥは瞬きを繰り返して何度も周囲を見渡す。先程までの人波が嘘のように絶えていた。
人間の気配はまるでなく、歩く者のいない道には廃墟のような空気が漂い綺麗に整えられている筈の景観を錆びて黒ずんだものに見せている。今にも沈まんとする毒々しい色合いの夕陽は、街を不気味な様相へと変えていた。
アルクゥは我知らずの内に歩調を速め、異世界の一端に紛れ込んでしまったような夕闇を走る。どこまで行っても人影はない。
何を馬鹿な、と怯える自分が愚かなようでアルクゥは足を止めた。脇腹の痛みと呼吸を整える。
集合の目印にしていた銅像の前にヴァルフは佇んでいた。睨むように空を見上げている。その険悪な雰囲気に足音を忍ばせて近付くも、一歩近づいた途端にヴァルフは気付いた。「何してんだ」と鼻で笑う。
「帰るか」
言葉は暖かい。
アルクゥは躊躇ってから何も聞かないことにした。機嫌の悪さをあえて隠しているならば、何があったのか聞くべきではないだろう。
隙あらば開こうとする口を何度も手で閉め直してやっと帰り着いた拠点で、ヴァルフは無言でアルクゥを担いだ。
目を白黒させている内に、一も二もなく自室に放り込まれ、来客があるのでしばらく出てこないよう一方的に言い渡され扉は閉められる。
怖ろしげなまでに優しく閉まった扉の向こうで足音が遠ざかっていく。
誰が来て、何故接触させまいとしているのか。
窓から外を監視することしばし、森の向こうから真っ黒な人物が現れた。
ヒルデガルド、と複雑な心境を小声に乗せる。ガルドはくいと三角帽子のつばを押し上げてこちらを見た。
アルクゥを見詰める紫の瞳は束の間懐かしげに細められ、しかしすぐに怯えが走って視線は逸れる。
ガルドはそそくさと拠点を囲む結界に手を触れ、透明な波紋をくぐるように抜けた。家主から正式な客人として招かれている証拠だ。
ガルドを目にしても、思ったほどの激情はない。
溜息を吐いて額に手を当てると、眉間に渾身の皺を刻んでいたことに気付く。なるほど、戦闘を苦手とするあの魔女が怯えるわけだ。噛みつかれては堪らないといったところか。
読書で幾許かの時間を潰せた頃には外はすっかり暗闇が満ちていた。ヴァルフが呼びに来ないということは、まだ何かしらの話は続いているのだろう。
内容が気になるがヴァルフに知られず盗み聞きする手と言えば一つしかない。しかしアルクゥはそれを使う気はない。
更に時間が経過し、星座が夜を彩る頃になってようやく拠点の大扉が開く音がした。
窓辺に近寄ると、ささやかな光源を手に黒い魔女が歩いている。その足は帰り道ではなく月陽樹の下に向いていた。
何のつもりか察したアルクゥは窓から飛び降りる。
魔術を駆使し音も無く着地して、黒く小さな背中を静かに追った。
墓石の前に辿り着いたガルドは、帽子を傍らに置き跪いた。
アルクゥは冥福を祈る女を冷やかに眺める。
「キミも、何も言わないのだね」
祈りを終えたガルドは立ち上がって服の草を払う。
「人は貴女の都合に合わせて動かない。良い機会です、学んではいかがでしょうか」
口を突いて出た嫌味が元契約主に似ているようで舌打ちする。
「王都でずいぶん揉まれたようだね」
「お陰様で」
「祈りを許してくれるとは思っていなかった」
「故人への祈りと私的な悪感情は関係ありません」
「刺されると思っていた」
アルクゥは面白くもない言葉を吐き捨てた。
「考えなくもありませんでしたが、貴女の大切なものには既に何か悪意が突き刺さっているようなので。竜に、厄害に、続いて今度は廃域ですか。どれが意図的でどれが偶発なのやら。精霊鳥も鳴き止まないのに、災難は次から次にだ」
「そう、まるで呪われているかのようにね。……どこを探しても原因がわからないのだよ。地が枯れているわけでも、川が死んでいるわけでもない」
アルクゥは軽く目を見張る。
「……精霊鳥の意味を知っていたのですね」
「信仰のない者が調べれば真実は容易く見えてくる。災禍に見舞われた土地は精霊鳥の囀りと共に復興する。馬鹿馬鹿しいくらいに、明らかじゃないか」
紫の目は星光を透かして輝く月陽樹を苦く見上げる。
「今や精霊サマはデネブだけでなく古今東西神出鬼没だ。精霊鳥が泣いている。廃域が現れ、魔物が跋扈する。権力が定まり国の方向が示されたばかりなのに、この騒乱は一体何だろうね」
「知ったことではありません」
「キミはそうだろうさ。だが根を張って生きている者にとっては違う」
「お気をつけて。崩壊は瞬きの間すら待ってくれませんから」
「体験した者の言葉は迫るものがあるね。でもワタシはキミの友人含め、デネブの者にその経験をさせたくはない」
アルクゥは言葉を失い、不用意な皮肉を酷く恥じた。
帽子を被り直したガルドは流れるような動作で堂々とアルクゥの正面に立つ。
「奴の最期を聞かせてくれないか」
「穏やかでした」
「ありがとう。……綺麗な髪と目だ。キミもいずれ奴のような魔術師になるのだろうね」
「嫌味ですか」
「本心さ。嘘偽りなく、心の底からそう思っているよ、アルクゥ」
ガルドは暗闇に溶けるように去った。
虚脱を引き摺りながら、足場と魔術を使い窓から自室に戻る。窓枠に足をかけたところで「出るなっつったろ」と呆れた声を聞いて踏み外した。猫が仔にするように襟首を掴まれる。
「ヴァルフが何を心配したのか知らないけれど、気を使う必要なんてなかったよ」
「それは反省している。が、過保護が性分だ。許せ」
明快な謝罪にそれ以上非難のぶつけようがない。
椅子の上で膝を抱えて渋々不満の鎮火に努める。
「何を話したの?」
「情報交換だ。俺からは少し古いが権力争いの顛末と王宮内の情勢を、魔女からはティアマトの現状をな。それと気になることをいくつか」
「現状を知りたいなら、ガルドさんである必要はないと思うけれど。例えば、ヴァルフは騎士団と仲が良いじゃないか」
「俺は魔女が大嫌いだが能力は認めている。無駄に年食ってるだけあって頭が良いし情報の精度も高い。……そう不機嫌になるなバカ。あとで全部話すから」
嘘付け、と心中でぼやく。
ガルドから仕入れた情報のどれほどがアルクゥを守る為のものだろうか。力はある。自分はもう守られているだけの子供ではないというのに。
頭を二回撫でて背を向けたヴァルフにぼそりと零した。
「廃域調査」
或いは、それは反抗期のようなものだったのかもしれない。
ヴァルフの歩がピタリと止まり、アルクゥは何故か少し気分が良い。
「人手が足りないんだってリリが言ってた。万が一広がってきて、この場所を失うのは嫌だから協力する」
「俺と同じ隊に入るってんならっ……テメェなにしやがる!」
思わず振り返った顔に枕を投げつける。
鼻を赤くしたヴァルフに体当たりをするも微動だにしない。ただ胸に飛び込むような形になった。
ヴァルフは「は?」と怒りから困惑へと表情を変えながら反射的にアルクゥを受け止め、衝撃を殺そうと後ろに一歩軸足を下げた。それを目敏く見たアルクゥは軸足でない方の膝裏を後ろ足で蹴り上げ、思い切り前方に力をかける。
ようやく倒れてくれたヴァルフからさっと離れて立ち上がる。眉根を下げて困惑の極地といった風の顔を冷たく見下した。
「心配するのが自分の特権だと思わないでよ」
憤然たる想いでそれだけ言い放ち、思い切り扉を閉める。
きっとアルクゥが言い出さなければヴァルフは素知らぬ顔で廃域に行って、帰ってきたのだろうと思うと腹が立つ。
数十秒の後、扉向こうで笑いを堪える声を聞いたアルクゥは、夕食時ヴァルフの皿に塩の塊を盛り、自分は部屋で美味しいパンを食べた。




