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精霊のシジル  作者: 染料
五章
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第五十五話 誰そ彼



 膝を抱えて見詰める先には、敬愛する者の名が刻まれた墓石がある。

 ただの名を刻した石版だ。それだけの器物である。それが本人で在るわけではなく、その下に埋んでいるわけですらない。魂は輪廻に還り、肉体は灰に帰して散骨により自然の循環に戻った。

 ここには誰もいない。

 それを頭で理解していながらも、アルクゥは墓石の前から長らく離れられないでいた。


 大樹の隙間を縫って降り注ぐ陽光が茜色に変わる頃、見詰めていた墓石が黒く陰る。

 アルクゥはしばらくしてから軋む体を捻りうっそりと振り返った。シャツを埃で汚したヴァルフが佇んでいる。今まで掃除をしていたのだろう。


「帰るぞ」


 声から感情を推し量ることは難しい。間近に立たれては首を無理に上げないと表情が窺えない。半ば天を仰ぐようにすると、ヴァルフの視点も今し方までのアルクゥと同じく墓石にあった。眉を下げて口を引き結んでいる。その切なげな顔に喉の奥がじくりと熱くなる。

 ヴァルフはアルクゥの視線に気付くと故人を悼む表情を消した。


「問題なく眠れるくらいには片付いた。まあ、騎士団の連中が気に掛けてくれていたようで、目立って荒れてはいなかったがな」


 ヴァルフは手を差し出す。応じないでいると、アルクゥの両脇に手を差し込んで抱え上げた。

 そのまますとんと降ろされてアルクゥは何時間かぶりに地面の堅さを思い出す。そこに夜気を含んだ風が通り過ぎ、両腕を擦った。膝と共に抱え込んでいた体温が逃げていく。

 すると不意に体が浮いた。強靭な腕に軽々と抱え上げられたアルクゥは高くなった視点で空を仰ぐ。西から紺青を溶かした夜が迫っている。


「ああ、こっちはまだ寒ぃな。お前ひょろひょろしてるからすぐ凍えちまうぞ」

「……そんなことない」


 ヴァルフの肩口に冷えた頬を当てる。鳥肌が立つほど暖かい。

 アルクゥは瞑目する。

 頭上では夜風に揺られ、透明へと変じつつある大樹の葉がさらさらと鳴っている。

 一際強く吹いた風は驚くほど冷たい。ティアマトの夏はまだ少し先に違いなかった。



++++++++



 魔導都市デネブ近郊、月陽樹の真下。

 久方振りに帰還した拠点の内部は、ヴァルフの掃除と騎士団の好意あって目だった荒れは見当たらない。

 ウル石あかりが灯された廊下をゆっくり歩いていたアルクゥは通りすがった大扉の前でふと足を止める。

 拠点を離れた日の殺戮が脳裏に蘇る。今までなぜ忘れていたのか不思議なほど鮮明な血の記憶に息を呑んだ。この扉の向こうは、どんな有様なのだろうか。

 扉を開けると微かに鉄臭い気がした。手の平に光を作り、指先で弾いて先を照らす。

 後退した暗闇から現れたのは整えられた工房があった。

 些か拍子抜けしたアルクゥは再度息を吸い込む。今度は懐かしい匂いがして涙が滲んだ。

 雑多な器具、広い木製の机に、壁に立ち並ぶ硝子瓶、塔のように積み上げられた書籍の数々。

 師の愛用したこの場所が血で穢れたままでなかったことに安堵したが、一方で誰が肉片と血糊を片付けたのか気掛かりだ。


 殺した相手は北方から派遣されてきた何某だったか。


 聖人が欲しいと強行に及んだようだが、それにしてはその後がない。一度の失敗で諦めたか、あの時点以降にすぐ王都へと赴いたアルクゥを見失ったか。

 しばし考えたアルクゥは両方を否定する。

 廃域を抱える不遇の地として有名な北領だが力は十二分だ。常に王政を見て、隙あらば頭を食い千切ろうとする野心を持っている。有用な駒を易々と逃す筈はなく、しかしながら手を伸ばせなかった理由を考えるならば。あの場に居合わせたサタナが何らかの対策を講じたと考えるのが妥当か。

 あちらにはあちらの都合があるとはいえ、感謝するのが人としての正道だろうが、当人は生死不明である。即死でなければしつこく生き残るのが魔術師なので、サタナに死ぬ気がなければ生きているかもしれないが、だとしてもこの先会うことはまずないだろう。謝意は心の中で呟いておくことにした。


 自室へ帰ると、ここもまた清潔に保たれている。


 出て行ったときと同じく、ベッドと机、箪笥のみが置かれた広く殺風景な眺めだ。

 真新しいシーツのベッドに倒れ込む。

 あとでアマツから持って帰ってきた物を飾ろう。

 物を欲しがらないアルクゥに、ネリウスやヴァルフが買ってくれた物たちだ。自分でも何かを買って来よう。

 ――もっと欲を出していい。

 つい先程、一階の談話室でヴァルフに言われた言葉だ。お前は卑屈すぎる、とも。

 自分の面倒など極力見ないでいい、何なら私はデネブに住居を求めるからと、伝えた矢先に小突かれた。人相悪い兄弟子と一緒にいるのは嫌かと問われ、嫌ではないと答えると、


「俺だって嫌じゃねぇよ。まあ、いつかは離れることもあるかもしれねぇが、その妙に突っ走る癖が抜けるまでは傍にいさせろ」


 この話題は終わりとばかりに買ってきた食事を口に押し込められ、ヴァルフは暖炉に火を着けに行ったのでそれ以上の消極的談判は成らなかった。そのことに言い出したのは自分ながらもホッとした。


「師匠……コルネリウス師匠」


 枕に顔を埋めて亡き人の名を呼ばう。

 アマツで過ごした二ヶ月間は幻のように楽しく、それでいてアルクゥに死の許容を促す日々でだった。間近に迫る死神に恐れを見せるどころか、ネリウスは友の訪れを待つようですらあったのだ。

 傍らでその様子を見詰める内に、アルクゥの中で酷く残酷で冷たく苦しいものであった死への考えは少しだけ変化した。少なくとも、闇雲に拒むだけでなく、穏やかに迎え入れることも出来るのだと知ったのだ。

 最初は付いて行くつもりだったなんて、言えば師も兄弟子も激怒するだろう。今は悼み悲しむ気持ちだけが心に満ちている。

 アルクゥは流れる涙をそのままに、頭の中にある受け継いだ知識の一端に触れた。これらは言わば書物だ。開けば情報が書いてあるが、そこにはアルクゥの理解がない。長い時間をかけて読み込み、解釈をし、理解してこそ輝くものだ。

 アルクゥは微かに笑う。これは骨が折れそうだ。

 学ぶというのはそういうことだと、笑い含みの声が耳の奥から聞こえてくるようであった。



+++++++++



 翌日、デネブに訪れたアルクゥたちはまず中央塔やくしょへと向かった。

 国に登録せずとも、ここで魔術師の申請をすれば簡単な技量試験を経て仮の身分証が発行される。正式にデネブの住民となりたいのならばもう少し煩雑な手続きが必要だが、仕事を受ける分には簡易申請で問題はない。

 胡散臭い感じのする小さな金属製のバッジをしまい込み、ヴァルフはと周囲を探すと役人らしき人間と話しこんでいるのが見えた。後ろから近付いてい会話を聞けば、住居権の相続やネリウスの死亡届について話しているようだった。

 その辺りはグリトニルのものならば完璧に暗唱できるアルクゥだが、ティアマトの制度は無知も甚だしい。

 大人しく耳を傾けていると、どんどんヴァルフの周りに人が集まってきて輪の外側に追い出されてしまった。そこには騎士の姿も多く、気安げにヴァルフの肩を叩いたりしている。

 友人なのだろう。

 そう思うと不意に寂しさが込み上げ、振り返ったヴァルフに手で合図して一足先に外に出た。向かう先は友人の家だ。

 足取り弾んで北区へと足を踏み出した瞬間、分かれた時点と同じ場所にリリが住んでいるとは限らないと気付く。

 困って考えを巡らせていると、誰かが駆け寄ってくる足音がしてその方向を見遣る。息を弾ませ頬を紅潮させた友人が、アルクゥに手を伸ばしていた。その指先が被っているフードを落とす。


「アル! アルクゥ! ヴァルフが帰ってきたって聞いたからもしかしたらって!」

「リリ、人違いだ! すみません、コイツ友達とキミを間違って!」


 後ろからガチャガチャと団服を鳴らしながら追いかけてきたパシーが、アルクゥの髪色を見てか間髪入れず頭を下げる。

 リリはしばしの間、色彩の変わったアルクゥを不思議そうに眺めていたが、何か自分の中で納得したらしく「久しぶりだね!」と再び笑みを弾けさせた。パシーはリリの腕を掴み平身低頭で謝り続けている。


「背伸びた? 何か雰囲気も変わった? やだな、私だけお子様のままみたいじゃないかあ。それより、いきなり帰ってきたって聞いてビックリしたよ。帰ってくるなら事前に言ってくれなきゃ、お祝いもお迎えもまだ用意できてないんだ。ん? 帰ってきたってことは、仕事は終わったんだよね? またあの家に住むの? ――とにかく、おかえり」


 会話に飢えていたような質問攻めに呆気としていたアルクゥは、最後の言葉で感極まったふうに抱きついてくるリリを受け止める。


「ただいま」

「だから、お前っ人違……え?」


 目を白黒させるパシーを置き去りに、リリはアルクゥの手を引いて歩き出す。

 お祝いにご飯を食べに行こうと足を弾ませるその後ろで、パシーが財布の中身をそっと確認していた。


 お腹が満たされ、リリと穏やかな気分で木陰のベンチで休む。

 パシーは休憩時間が終わったので騎士団の仕事に帰っていった。気を使わせて奢らせてしまったようで申し訳ないことをした。


「人が……増えましたか?」


 通りに目を遣ると、旅行者らしき服装の者が多い。

 リリは眠気を滲ませながら頷く。


「精霊鳥のありがたーい鳴き声を聞きたがって観光客が増えているんだ。昼間ならいいけど、真夜中に鳴くとありがたいどころか五月蝿いだけだっていうのにね」

「まだ、鳴っているんですか?」


 すっと腹の底が冷えた。

 どういうことだ。アルクゥは目を細める。

 精霊鳥――月陽樹が鳴るのは付近に何かしらの異常があるときだ。

 リリはその反応に気付かず頷いた。


「うん。アルクゥが仕事で王都に行っちゃったときよりかは全然だけど、今でも月に一度は鳴ってるよ。ほんと、何なんだろうねアレ。信心深い人は神様が来てるって言うけど、その割には誰かが神様を見たって話は聞かないし……」

「他にデネブに変わったことはなかったですか?」

「変わったこと? あるよ。廃域がデネブの近くでも発生したってさ」


 廃域と口の中で呟く。

 頻繁に起こるような災害ではない。年に数回といったところだ。しかしリリの口ぶりでは他にもあるようだ。尋ねてみると、最近ティアマト各地に廃域が多数発生していると答えた。


「もしかして知らなかった?」

「ふた月ほどはアマツにいましたから」

「それなら知らないかあ。デネブの近くに三つも出来ちゃったみたいで、騎士団が調査員の募集に駆けずり回ってるんだ。私も志願したんだけど、魔力がちょっぴり足りなくって」


 廃域は常人を狂わせる。

 ゆえに魔力保持者でなければ正気を保つことができない場所だ。

 本当に残念そうに言ったリリは足をぶらつかせながら口を尖らせて空を見上げた。


「他に変わったことは……魔物が多いのは相変わらずだし、そうだ、風の噂だとどこかの小さな街が魔獣の群れに襲われたとか、赤竜がどこかの鉱床に現れて大変だとかあるけど。廃域以外じゃデネブは平和な方かな。厄も出ていないよ」

「そうですか……」


 しかし月陽樹の恩寵が続く中、異常なしと判断するには不安が残る。

 ガルドに月陽樹が鳴る意味を伝えたほうがいいのかもしれないが、あの魔女はサタナを拠点に差し向けた元凶だ。目の前にすると敵意を抱いてしまうかもしれない自分がアルクゥは怖かった。


「そろそろ、帰りますね」

「ええ、もう? 泊まっていけばいいのに」


 ふざけて腕に縋るリリを笑いながら引きはがしていると、突然ぞくりと背筋が泡立った。

 それは悪意ある視線に似ていた気がして、間髪入れずに振り返る。

 丁度陽が傾いたのか木陰から覗いた黄昏が眩しい。陽を背にした全てが真っ黒な影法師の光景に思わず息を飲んだ。


「どうかした?」

「いいえ……」


 何も、と答える声は自分でも心もとない。

 人魔が曖昧になる時刻、冷たい夕風がくすくすと嗤いながら通りを駆け抜けていく。


 

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