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精霊のシジル  作者: 染料
幕間
55/135

第五十四話 穏やかな眠りの夜

 季節は移り変わる。


 胸に透き通るような快晴、浮かぶ雲はくっきりと白い。

 雪解けが終わり新緑が芽吹いたと思ったのも束の間、ティアマトとは違い四月も続く夏がアマツに訪れようとしている。

 ヴァルフの努力により幾らかましになった古家の軒下に座り、ネリウスは一人長閑な時を過ごしていた。アルクゥたちは波止場へ買い物に出ている。アマツに来た当初は三人で方々を巡ったが、近頃は近場について行く体力すらない。

 弟子二人となら飛ぶように過ぎ去る一日は、一人でいると酷く緩慢だ。

 日中に聞こえてくる筈の声がないという状況はどことなく座りが悪く、ネリウスは立ち上がり自室に足を向けた。

 空いた時間の習慣となっている、頭に残っている知識を書き溜める作業を開始して間もなくのことだった。


 窓を揺らす強い夏風に顔を上げると、世界がキラキラと光を帯びていた。


 陽光に目が霞んだかと瞬きを二回し、瞼を擦る。改めて目を開けて、ネリウスはようやく異変を理解した。

 世界は光に満ちている。

 陽光に霧雨を透かしたように波打つ輝きは、ふと気付けば自分の体からも発せられている。

 これが、幽世。

 愛弟子から聞いていた知識から導き出した答えを呟いた瞬間、光は吹き払われた。


 ネリウスは常と変わらない自室を見回す。

 幾許かの時間、目に焼き付いた美しい光景を頭の中で繰り返す。

 そして――取り落としたペンをひやりとした指先で拾い上げたネリウスは、真新しい机の引き出しをするりと開く。そこから何通かの手紙を取り出した。

 手紙は二種類。友に宛てたものと、有事の際に役に立つものだ。

 それぞれの宛名や内容を確認しながら、ネリウスは眉を下げ微笑みながら思う。

 後者は使うことがなければいいが、残していく弟子は二人して平穏とは遠い星の下に生まれた人間だ。だからきっとこれは必要だろう。

 確認を終え、手紙を再びしまい込むと生涯で最も穏やかな溜息が漏れ出た。

 椅子に深く背を預けて脱力したあと、まったく普段通りに作業へと戻る。何ら特別なことはない、と。

 それから数時間の後に帰宅した弟子二人を出迎えた。


 「おかえり」と迎え入れながら声を掛ける。ヴァルフは気のない風に片手を挙げ、アルクゥは「ただいま帰りました」と花のような笑みを返して台所へと向かう。

 あれでは懸想する男も多かろうと複雑な親心を零すと、ヴァルフが「あんなガキにか」と鼻で笑う。その調子が妹離れできない兄のような物言いだったので、ネリウスは少しの揶揄を含んだ笑みで、アルクゥが常に身に着けている首飾りが贈り物だと教えてやった。

 ヴァルフは奇妙なものを飲み込んだ表情で、珍しく夕食の手伝いに行った。

 その思わぬ助っ人のせいでか台所からは焦げた匂いが漂ってきていたが、食卓に並んだのはいつも通りの美味しそうな料理だ。ヴァルフの分が少ないのは推して知るべしということだろう。

 三人で食卓を囲み、食後はヴァルフが持ち出してきた酒をちびちびと呑みながら談笑する。酒を嗜まないアルクゥは早目にその場を立ち、先に湯浴みをしに行く。

 妹弟子の退室を横目で見送ってしばらくすると、ヴァルフは空になったグラスをつまらなそうに小さく振り、酔いが回って緩んだ三白眼を伏せて「そういえば」と口火を切る。

 掠れ気味の低い声が各国各地の目立つ情報を語る。最後まで耳を傾けたネリウスは窺う目線に苦笑を返した。


「相も変わらず耳聡いことだが……酒の肴には少し苦いな」


 ヴァルフは珍しいものを見た顔をしたが、それもそうだなと口元を緩める。


「と言っても、ジジイが喜ぶ話は持ってねぇんだがな」

「ほう。では教えてやろう。年寄りはな、昔話を何よりも好むものだ。お前と初めて会ったときの話でもしようか」


 意地悪く言うと、間違って蛇のいる藪でも突いたような反応があった。思い切り首を振ったヴァルフは目を逸らし額に手の平を当てる。


「まあその気持ちは分からんでもない。誰にでも思い出したくない過去はあるものだ」

「あーうるせえ」


 酒精も手伝ってか、普段より感情豊かなヴァルフは頭を抱えて自戒に沈んでしまった。

 笑いを堪えながら、鮮烈な初対面を思い返す。

 弟子を取らないかと知人に勧められ、付き合い上仕方なく訪れた待ち合わせ街の広場。そこでヴァルフは、騎士の一団を容赦なく一方的に殴り倒していた。

 誰もが足を止めてその光景を凝視していた。さもありなん、ヴァルフは腹に刃物を突き刺したまま大人数を圧倒していたのだから。

 いっそ清々しいほどの暴威は、問題を起こして軍を抜けた直後の荒みきった感情から生まれ出でたものらしい。

 裏路地のごろつきよりも性質の悪い、幼さが残る青年は、声を掛けたネリウスにまで牙を剥いた。よって地面に転がってもらい、半ば強制的に弟子に迎えた。

 魔術を教え、考え付くままに知識を講釈し、時折師匠らしく諭した。

 根が素直なので態度の軟化は早かったが、今考えると教えることの楽しさに耽る自分に合わせてくれていたように思えなくもない。

 ――こんな師の下でよく学び、よく育ってくれた。


「……何だよ」


 射殺すようだった激情の瞳は、今は静かな炎を絶えず宿す。短気は変わらないが、聡明でお節介焼きで、実に良い人間になった。その成長はしみじみ思い返せば寂しくもあるが。


「いや……よく成長してくれたな。お前は儂の誇りだ。恥ずかしい過去も含めてな」


 おどけたつもりがヴァルフは思案気な顔をし、そして瞠目する。


「なあ、師匠……」

「どうした?」


 あくまでも穏やかなネリウスにヴァルフはしばらく黙り込み、その我侭を許した。


「自分勝手な奴だな、アンタも」

「それは最初から分かっていたことだろう?」


 ヴァルフは人懐こく笑う。


「それも、そうか」


 他愛ない雑談を交わして夜も深まった時分、ネリウスは椅子を立つ。

 ほんの一瞬、ヴァルフは名残惜しげな視線でその動きを追ったが、すぐに普段と変わらない様子で「年寄りは夜が早いな」と軽口を叩く。


「まったく、その通りだ。先に休ませてもらうとしよう。ヴァルフ、お前も早く寝なさい」

「俺はもう少し」


 新しく開けた酒瓶を振る。大仰に眉をしかめてみせた後、ほどほどになと笑って部屋を出る。


「俺も師匠を誇りに思う。アンタが師で俺は幸せだった」


 閉めようとした扉の隙間から、微かに上擦った声が耳に届く。

 ネリウスは微笑み、扉を静かに閉める。


*****


 軋む廊下を抜け、自室では正面玄関に足を向ける。

 外に出ると思った通り、アルクゥが倒木に腰掛けてぼんやりと夜空を見上げていた。抗い難い、差し迫る眠気にまだ早いと言い聞かせ、声をかける。

 アルクゥは弾かれたように振り返った。深い藍色の、ほとんど黒に変わってしまった髪が動きに合わせて靡く。驚いたように見開かれた目は黒金だ。その色を見るたびネリウスは申し訳ない気分になる。アルクゥは好きな色だと笑ってくれるが、何も情報と一緒に色まで移らなくともいいではないかと魔術に理不尽を感じたものだ。


「師匠、どうなさいました? 夜は冷えます。中に」

「そう邪険にするな。よい風が吹いているな」


 アルクゥは物言いたげにしたが、渋々といった風にネリウスが外に出ていることを許容した。これが過保護と言うのだろうな、と愉快な気分で唇を尖らせる弟子を見遣る。


「いつもこの時間はここにいるのだな。何か、思うことでもあるのか?」

「え……と、その、特には、何も」


 恐らくは、自惚れでなければ自分の容態について考えているのだろう。

 アルクゥはネリウスには嘘が吐けない。挙動と目の動きが偽りを拒む。その素直な気性を愛おしく思うと共に、心配にも思う。背負った力は余りに大きく、福も禍も際限なく引き寄せてしまう。願わくば、生涯この子を守る人間が現れて欲しい。


「その首飾りは他人に貰ったと言っていたか」


 ふと目に留まった夜闇にも鈍く光る首飾り。

 アルクゥはほっとした顔で頷いた。


「はい。療養中に、見舞いの品の中に混じっていました。誰からなのかは未だにわからないのですが……」

「随分強力な魔具だ。見た目でそうは分からぬが、許可のない所持は禁じられるような一品だな。護りと癒しか。しかしのろいのようなまじないだな。それに鏡鉄鋼とは……」


 意味を問い首を傾げるアルクゥに何でもないと首を振る。これ以上は野暮が過ぎるというものだ。

 森の奥から吹き抜ける冷たい風が頬を撫でる。


「寒くはないか」

「私は大丈夫です。師匠こそ」

「儂もだ」


 何か言うべきことを携えてきたはずだが、とネリウスは心の中でひとりごちる。

 二人で静かに夜天を見上げていると言葉が出てこない。夏の夜空は星の川を作り、昼間見た幻想世界よりもよほど美しく思える。


「アルクゥ」

「はい、師匠」

「……自分を労わり、体を崩さぬようにな」


 考えていた小言の数々は結局この一言におさまった。

 ネリウスは立ち上がる。眠りはすぐ傍まで来ている。

 いつも通りを心がけてアルクゥの目を見、「おやすみ」と歩み去ろうとしたとき、袖を引かれた。

 アルクゥが愕然とした表情でネリウスを見上げている。

 ヴァルフに続いてこっちも気付いたか、とネリウスは苦笑し、己の言動を振り返ってみて更に苦笑を深めた。普段通りに一日を終えるはずが、これでは別れを惜しむようではないか。

 見る見るうちに瞳に溜まる涙を、アルクゥは唐突に強く拭って震える唇を動かす。


「わ、私……師匠が、私に新しい居場所をくださいました。それなのに私は、何も」

「お前が弟子でいてくれるだけで儂には充分だ。楽しく、幸福な一時であった」


 頭に手の平を乗せる。

 その振動で一粒だけ涙が零した。ネリウスの瞳からも一筋の雫が伝った。

 ――しばしの別れだ。

 神はいる。死後もある。それは愛弟子と自分が証明した。

 ならばその先も必ず。いつか必ず、またどこかで。


「おやすみ、アルクゥ」

「おやすみなさい、師匠。――良い夢を」



  

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