第五十三話 夢一夜
その夜、人間が東国アマツと呼ぶ地の南にて異変が起こっていた。
南風波止場の東にある森では、変異を窺う魔物や獣が眠れぬ夜を過ごしている。
奇妙な魔力の奔流が人の多いマゼ波止場の方角からであれば、賢い魔物ならば阿呆な人間がまた何かやらかしたかと瞳を閉じることもできた。が、変事は普段人のいない場所、それも住処の近くから匂う。
彼らの耳目が向けられる先は森の淵、かつて呪術師の集落があった場所であった。
朽ちた廃屋が並ぶ中、辛うじて人が住めそうな一軒から紫の光が零れている。あわよくば食ってやろうと偵察に来ていた大猿は、家に近付いた途端首が飛んだ。頭が落下する音に続いて、木に剣が突き刺さる。
その様子を見ていた、おこぼれに預かろうとしていた魔物たちは一斉に住処へと帰っていく。死ぬことに比べれば、不眠の享受など軽い。
生き物の息遣いが全く途絶えた暗夜には、ギシギシと古木が軋む音だけが残った。
魔力に震える家の、埃舞う一室。
そこでは失敗の許されない魔術が行われていた。
黴臭い木の床に掘り込まれた神霊刻印。左右対称の絵の如き美しい文字は完璧な円を二つ描き、それを正三角形を上下に重ねた六芒星で囲み、更に円で大枠を描いて囲っている。
並々ならぬ魔力が篭められた術式は紫光を放ち、溢れた魔力が家全体を軋ませ今にも崩壊を起こしそうだ。
そんな抜き差しならない状況など目に入らぬというふうに、ネリウスとヴァルフはそれぞれ術式の中と外で、両者動かず横たわるアルクゥを凝視する。
端々が煙のように覚束ない体に光が――ネリウスが渡した膨大な情報が溶け込んでいく。しばらくして消えかけていた体の線が落ち着いたのを見て、二人は詰めていた息を吐き出した。
「成功……したのか?」
「ああ。あとは目覚めてくれたら……ともあれ、情報は物事と己を繋ぐ糸だ。一つでは弱くとも、これだけ渡せば、もうあちらに揺らぐこともあるまい」
受け渡した、生涯積み重ねた半分以上の知識は強固な楔となった筈だ。
使用した魔術は禁術、他人の体を乗っ取る目的で開発された忌み嫌われるべき術も使い方次第ということであろう。
人格が情報に潰された様子もなく、順調に行けば明日の夜にでも目を覚ます。
――失う前に間に合って本当に良かった。
ネリウスが気を抜いた途端、心臓が不規則に波打って手足の端が鈍く痺れた。ヴァルフの鋭い声が飛んでくる。
「見とくから休んでろ」
「しかし」
「しかしもクソもねぇよ。突っ立ってても何もすることねぇだろ」
「すまんな」
鎮痛剤を飲み、投げて渡された毛布に包まると体が鉛のように重たくなった。
パチパチと薪がはぜる暖炉の温度が眠気に拍車をかける。
ゆっくりと瞼が閉じる。
火を透かした橙の瞼の裏を眺めていた時間は僅かで、意識は宙を舞う灰のようにあてもなく落ちていく。
そしてこんな夢を見た。
暗い暗い深層で、何者かが追ってくる。形すら持たぬ朧げな悪夢だ。
水のように粘ついた空気を掻き分けてどうにか逃げようとするが、悪夢の爪先は既に背中をなぞっている。それの気まぐれでいつ命を絶たれるか分からぬ状況よりも、振り返ってそれの正体を見てしまうことがとても恐ろしかった。
見ぬよう聞かぬよう逃げ続けるネリウスに柔らかい光が差す。
その源は後背、気がつけば背をなぞる鋭い爪の感触もない。
恐々と振り返った先、悪夢が炎に焼かれている。
夜が明けたような炎に手を伸ばせば、触れた瞬間ネリウスも炎に包まれる。
反射的に顔を庇い、ふと何ともないことを知って腕を下げれば――色褪せた、遠く懐かしい風景が眼前に広がっていた。
*****
黒髪黒目の、大人びた空気を持つ少年は、硝子の器に張った水に手を遊ばせていた。
少年――コルネリウス・ネテスハイムは期待に輝いた眼差しの両親をチラと見て、微かに溜息を吐き観念して魔力を込めた。
水が起き上がり竜の像を作る。
鱗一枚、爪の細部まで再現した精緻な水像に両親は歓声を上げ、ネリウスを抱きしめた。お前は良い魔術師になると笑う彼らの頭の中には、農業を生計とする家から労働力が一人欠ける重大さなど微塵もないのだろう。
「素晴らしい才能だ。おめでとう。キミは魔導院で学ぶ権利を示した」
「ありがとうございます」
魔力試験に立会った役人に失礼にならない程度に会釈する。
正直を言えば善良過ぎる父母を村に残すのは心配だが――こうなってしまえば拒否は難しい。食い扶持が一つ減って家族の暮らしが楽になる、と渋る気持ちを納得させようとしたその夜。ご馳走が並ぶ食卓を見てネリウスは激怒したが、ゆるゆると笑う両親はひたすらネリウスを褒めそやし、出発の日も笑っていた。
魔導院に到着してからは、時間は引き絞った矢のように過ぎていった。
充実した設備、書物、そして話が合う友人との出会いは、農村で学に飢えていたネリウスの腹を満たした。とは言え母親の料理に勝るものではなく、時折郷愁に駆られることもあったが、貪欲に学べば優しい家の匂いを思い出すこともない。
そして十八の誕生日を迎え成年に至る頃、気がつけば実技知識共に他の追随を許さない段階まで上り詰め、首席という地位に立っていた。
しかしながら、当時は貴族がまだ絶大な権力を持っていた時代である。
独立機関であるはずの魔導院においても幅を利かせていた貴族の子息たちが、平民のネリウスを認めるはずもない。
彼らは日々嫌がらせに勤しみ、温厚なネリウスの我慢が限界に達しようとした正にその直前、平民出身の学友が一斉に反発した。以後続いていく対立構図の完成である。
教師から何とかしろと泣き付かれたが、ネリウスはただ事態の静観をする他になかった。意に沿わぬとは言え、ネリウスは状況の中心にいる。下手に動けば落下した蜂の巣に追い討ちをかけることになりかねない。
避けようのない悪意に遭遇したのは、一挙手一投足に細心の注意を払い、無事学生生活を乗り切れることを確信していたとある日の夜だった。
寒さが目立ち始めた秋口だった。
寮の門限まで図書館で過ごすのを習慣としていたネリウスは、その日も遅くまで本を読み耽り、暗くなった空を見て寮への帰路についた。
「冬が近いな」
真冬の匂いがする風が顔を嬲る。
この風が終わり春が来れば胸を張って家に帰れる。母は優しく抱きしめてくれるだろうし、父は伸びた身長を見て驚くだろう。その光景を想像するだけでネリウスの心は温まる。
微かに笑って建物の角を曲がった――直後、肩に灼熱の痛みがあった。
歯を食い縛って見上げた暗い空には夥しい氷柱が浮いている。その鋭い矛先が全て自分を向いているのを見て、ネリウスは走り出した。
「っやめ……やめろ!」
追いすがる氷の牙は手を足を貫いていく。
強かに転げ、勢い余って壁にぶつかる。遮二無二振り回した腕に、一際大きな氷柱が突き刺さる。肉どころか骨すら穿って、半ば千切れかけた腕から噴水のように血が噴出した。
――死?
その瞬間、ネリウスは己の死角全てに向けて避け様のない爆発を起こしていた。
朦朧とする頭で治癒術を使いながら、白煙に目を凝らす。攻撃が沈黙したと確信してから、意識を手放した。
目を覚ましたとき、難しい顔をした教師が傍らに佇んでいた。
ネリウスを目にかけてくれていた彼は重い口を開く。
「飛び散った死体は三人分。肉の断片から成績二位、五位と六位の者……三人とも貴族の子息だ。魔眼持ちの現場検証で彼らの殺意は証明されたが……」
言わんとすることは即座に理解したネリウスは、人を殺した罪悪に浸るよりもまず先に家族の姿を思い浮かべ、
「先生。僕は孤児です。家族はいない」
「――引き受けた。すまない」
出自の記録を抹消し、家族を別の領に逃がした。
それから謹慎すること十日。
正当防衛を認めながらも学長はネリウスの退学を決めた。
――事実上の見殺しである。
一歩でも魔導院の敷地外に出ようものなら、待ち構えた貴族の私兵がネリウスを捕らえるだろう。
撃退も逃走も恐らくは容易いが、彼らは難癖を書き連ねた書状を持ち、自分を正式に捕らえる権利を持っている。
退けても逃げてもいよいよ自分は犯罪人、一生追われる立場だ。
進退窮まり対策を取れないまま訪れた退学当日、門をくぐった先にいたのは数人の私兵と見知らぬ生徒一人だった。侮られているにしてもあまりに少ない。世間的に魔術師一人は大隊等価と言われている。
それに、と場違いに佇む生徒を見遣ると、ひょろりと背の高い青年は人懐っこく近付いてきた。周囲の兵が止めようするのを見て、こいつも貴族かとネリウスは目を細めた。
「俺を知っているかい?」
「いや……申し訳ないが、貴族の方としか」
「まあその程度さ」
「……この辺りに兵がいたはずですが」
「さっき解散したよ。罪人は初めからいないんだから」
「あなたが退かせたんですか」
「立場上、権の暴力を見過ごすわけにはいかないからなあ」
青年はごそごそと懐を探り、金に縁取られた記章を取り出した。
紋章は角と尾を持つ獅子――神の御姿を身に付けることが出来る者は。
だがネリウスは驚くより先に紋章が偽物ではないかと疑った。露骨な不信に青年は大きく笑い、
「俺はザハグリム・アンシャル・ティアマトだ。俺が王位についたら、気が向いたらでいいから仕えてくれ」
第三継承権を持つ名を名乗った青年は、見返りを求めることもなく魔導院の中へと消えていった。
たとえ青年の言葉が真実だったとしても三番目、野心で玉座に手を伸ばすにしろ第一、第二継承権を持つ王子二人を押し退けることは出来まい。有能で知られる二人に対して、ザハグリムに関する評判は全く聞こえない。つまりはそういうことだろう。
しかし数年の後、ザハグリムは玉座を得た。僻地を巡り隠遁者から知識を学び終えたネリウスはそれを知り、何となく彼の言葉を思い出して王都へと向かう。
一先ず職を探そうと訪れた斡旋所で名と得意魔術を登録し、一晩明けた翌日、王宮に呼び出された。
「ようやく来てくれたか! お前の名声は聞いているぞ。ぜひ力を貸して欲しい」
細々とした手続きもなしの謁見だった。
ネリウスは周囲を見渡し思わず眉を顰める。
「どうした?」
「あまりにも無用心かと思いまして」
「信頼できる手勢はこれだけなんだ。助けてくれ」
かくしてネリウスは歓待され、日々殺されかけるザハグリムを守り、やがて近衛騎士団団長、筆頭王宮魔術師まで上り詰める。
******
ザハグリムは壊滅的な魔術の才能に反して政治的な能力は非常に秀でていた。
隣国との蟠りを解決し、内乱の種火だった各領地の権を削ぎ、平民を支援し富ませ、改革を進めていった。
稀代の賢王としてザハグリムの名は各国に轟くまでになる。ネリウスはその傍らで世の中の変革を見るのが楽しかった。
やがて国は安定を迎える。
怒涛の日々が終わり、差し込む安穏とした陽光の中で振り返ってみると数十年もの時が経過していた。主であり友でもあるザハグリムの顔には浅い皺がいくつも刻まれていた。一方で、鏡を覗き込めば王宮で働き始めた頃と変わらない自分がいる。だからどうということはないのだが。
「お前は老けないな」
「魔力が多いせいだろう。加齢速度は人の三分の一程度と言ったところか」
執務室には二人きり、常の言葉遣いで事も無げに答えれば、ザハグリムは苦笑した。
それから一拍置いて「頼みがある」と切り出す。聞きもせず了承したネリウスに、ザハグリムは真剣な顔をした。
「王命じゃない。断ってくれても構わない」
改まった物言いに片眉を上げて続きを促す。
「神の実在を調べてくれ」
「……大聖堂の怪物から何か吹き込まれたか」
あまりに突飛な頼みに思わず言うと、
「違う。違うんだ。嫌ならいいんだ。変なことを言ったな。忘れてくれ」
この頃、ザハグリムは王である自分に疑問を呈することがあった。
会話の端々に現れるそれを冗談として受け取っていたネリウスは、このとき自身の間違いに気付く。
――病んでいるのではないのだろうか。
その疑念を抱いた日から、所々の奇妙な振る舞いが目につき始めた。
――以前からこうだったか?
自問しても思い出せない。それが恐ろしく思えた。日々、気付かない程度の、しかし確固たるズレが生じているのならば。
私室の護衛官にそれとなく尋ねると、彼は一瞬迷う様子を見せて密やかに吐露した。
「ネリウス様の仰る通り、最近……三月ほど前からでしょうか。奇妙なご様子です。どうも悪夢に魘されていらっしゃるようで……酷いときには叫び声を上げて飛び起きるほどで。一度、夢と現実の区別がつかなかったのか、混乱した風に扉を叩いて叫んでおられました」
「何と?」
「私は神の末だ、貴方たちには資格がなかった、と」
「そうか……よく教えてくれた」
ネリウスは額に手を当て、意を決して執務室を尋ねる。
快く迎えてくれたザハグリムの瞳に陰を認めながら、出来る限り軽い調子で切り出した。
「前言っていた件のことだが、調べさせてくれないか。一魔術師として興味が湧いてしまってな」
「ああ、あれか。お前がそうしたいなら、頼もうか」
何でもない態度を装ってはいたが、ザハグリムは明らかに希望を得た顔をしていた。
以降、ネリウスは国の神話を紐解き、現在も確認される月陽樹の奇跡や聖人の記録を読み漁る。
「しかし、今更になって廃した兄二人への罪悪感かねえ。あんなに堂々と、魔力なしの二人を神の血族でないと罵って引き摺りおろしたくせに、その自分すら実は凡人だったかも……ってのは言わなきゃわかんねぇのに、いやいや気が細かいお人だあ」
調査の世話になっている、齢八十を越える記録室の管理人はクスクスと笑う。
ネリウスは渡された資料を眺めながら言い訳がましく反論する。
「客観的に見れば悪でも国民にとっては違うだろう。今の繁栄は陛下が玉座に座ったがこそだ。それに今論じるべきなのは、怪物女がなぜ今になって陛下を惑わしたか、だ」
「論じるまでもあるめえよ。石の聖女様は気狂いだって噂だぜ」
「本当なら世も末だぞそれは。――精霊鳥はほとんど、周辺地域に何かしらの異変があるときに鳴いているな。これは奇跡というよりも……」
「信者に言わせりゃ神の降臨だわな。災厄に心を痛め、我らを救ってくださる慈悲深きティアマト様ってこった。ほれ、これも持ってけ。報告はこまめにな。気の病にはそれが一番だ」
「神の証明」という目的に対しての成果はゼロであったが、助言に従い何度も中間報告を告げにいくと、その度にザハグリムは本来の自分を取り戻していくようであった。
胸を撫で下ろしたネリウスは、それからも調査を続け、そして――歪な形で神と見えてしまう。
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転機の日は、特筆すべきことなどなにもない、平穏の象徴のような一日の終わりだった。
王都近郊の月陽樹の下で、ネリウスは溜めた血をインクにして大きな召喚陣を描いていた。本来魔物を呼び出す陣を、手探りで精霊用に改良した術式である。今まで何度も挑戦し、失敗して奇怪な物体を呼び寄せてきたが、今回は違う目が出そうな予感があった。
この頃のネリウスは、義務感よりも好奇心で調査に臨んでいた。神について調べる内に、様々な未知が立ちはだかったことが原因である。魔術師とは破滅と知っても英知を求める生き物だ。
胸を弾ませながら、最後に供物としてザハグリムの血液を撒き、神霊刻印に魔力を流して発動させる。
空気が渦を巻き、乾き、静電気が迸る。
さて今回は何が出るか――ネリウスはこの時点で精霊は来ないものと決め付けていた。
地面が盛り上がる。ようやくまともな形の何かが来たか、と形を成していく土塊を眺めていると、リン、と澄んだ小さな音が鳴り、風に溶けた。
初めは耳に届かなかった音は、やがて数を増して一帯を巻き込む大音量を発し始める。精霊鳥の囀りである。
「まさか……」
土は異形を成していく。
初めに角が、次に獅子の体躯が、最後に長い尾が。
それは言い伝わるティアマトの御姿そのものであった。彼女はネリウスを見下ろし、喉を鳴らす。
土を通しての顕現――悟った瞬間、肺が潰れた。いや肺だけではない。全身が軋み、目の前の圧倒的な存在に悲鳴を上げている。
苦痛の中でネリウスは神という存在を身に沁みるほど理解した。
悪意はない。敵意もない。ただそこに形を持つだけで見る者の命を縮める強大さ。
呆気なく昏倒したネリウスは、翌日王宮の病棟で目を覚ます。
治癒術師から無言で差し出された鏡を覗き込むと、そこには壮年半ばを越えたくらいの男がいた。
然程の衝撃はなかった。それよりも一刻も早くザハグリムに神はいるのだと告げたかったネリウスは、杖を突き、フードを被って執務室まで歩いていった。
「ネリウス! 動いて大丈夫なのか? 一体何が……」
「そう急くな。喜べ。神は実在した」
「お前、その声……」
「ああ、これはな。お前と同じだ」
老けただけだ、と笑ってフードを外す。
そのときの、親友の表情は永劫忘れることはないだろう。
「俺か?」
「……どうした?」
「俺のせいか? 俺が無茶な頼みをしたせいか?」
「何を言う。やりたいようにやっただけで、決してお前のせいでは……それにたかだか老いただけのことだろう」
ザハグリムは悲痛な、見る側まで締め付けられるような表情をした顔を手で覆う。
息を吐き切ったような低く細った声で呻いた。
「コルネリウス・ネテスハイムを近衛騎士団団長及び王宮魔術師から解任する。――今まで振り回してすまなかった。これからは自分の為に生きてくれ」
唐突な事態に、ネリウスは生まれて初めて思考が停止するという状態を経験した。
私物はあっという間に運び出され、王都の一等地にある屋敷に運び込まれた。自失に近い状態で屋敷に送られたネリウスは、待ち受けていた何十人も召使、執事、専属の治癒術師、料理人等に我に返り、入った瞬間魔術で姿をくらます。
だが、そのごく簡単な魔術は人ごみにまぎれるまでもたなかった。
いつにない疲労に異変を感じ、魔力の流れを意識する。すると微量ではあるが常に魔力が漏れ続けている状態にあると気付いてぞっとした。魔力の器に穴が空いている。
幸い、流出量よりも自然回復が勝っていたが、魔術師としての能力は半減したに等しい。王宮に戻ったとしても今までの働きは不可能だ。
ネリウスは心身に喪失を抱きながらも、王都を去る決意を固める。
無二の友に別れを告げるか迷い、苦慮の果てにティアマトにあった状況を書き記した書類を信頼できる知人経由でザハグリムに送ってから出立した。
それから数年の時が流れる。
ネリウスが目付きの悪い弟子に悪戦苦闘している頃だった。国王が政治に飽いていると伝え聞く。在位が長ければそういう時期もあるだろうと影を差した不安を追い払い――そして更に数年。
弟子が一人前になって久しく、安穏とした日々を送っていたネリウスに、ザハグリムが病魔に冒されたと王宮の知己より手紙があった。
もう長くないだろう。会いに来てやってほしい、と。
躊躇っている間に逝去の報があった。
王宮を出たとき以上の空虚がネリウスの胸を穿ち――気付けば、月陽樹の下に居を移していた。
万が一、ティアマトが傍を通り過ぎでもすれば、自分の寿命は縮むだろう。そう分かってはいても。
王家の人間は死後、神の序列に加わると言われている。
いつか親友がこの樹の下を通りすがるかもしれない。そんな馬鹿げた想いがあったのだ。
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「こう……見てみると、滑稽なものだな。過去というものは」
光陰が消え去り、元の暗闇でネリウスは自嘲し、語りかける。
「見る限りでは、儂の最大の失敗はティアマトを召喚してしまったことであろうな。……ああ、一概にはそう言えぬかもしれぬ。王宮を離れねばお前たちと会えなかった。だがしかし、やはり全ては儂の責任だろう。無意識で認めているからこそ、先の怪物が心に住み着いたに違いない」
闇全体が微かに動く。
否定してくれるのはありがたいが、と心臓に手の平を当てる。
「発端は、何らかの理由でザハグリムが政務を離れてしまったことだ。他の権力機関は押さえがなくなったのを良いことに各々が自己中心的な主張を始めた。極めつけは確たる継承者を決めずに逝ったことだな。自惚れかもしれん。おこがましい考えだとは知っている。だが……儂がいれば、ヤツの飽きも病魔も防げたかもしれぬと」
服に皺が寄るのも構わず心臓の上を強く握る。
「あの時は、遠ざけられてはならぬ時期だった。調査など手を抜いてザハグリムの話し相手に努めるべきだった。好奇心は猫をも殺す。愚かな魔術師ならば、尚更に。……弟子をとる資格などなかったのであろうよ。いらぬ労苦を負わせてしまった」
固く目を瞑る。
悔恨を綴る老人の何と見苦しいことか。だがそれでも詫びずにはいられない。
「儂は己の不治を知っていた。……ティアマトが近くに来て魔力の流出が激しくなったとき、師であることを全うするだけの時間はないと、悟っていた。儂はお前たちに告げるべきだった。告げて、あの白皙の青年と共に己の蒔いた火種を踏み消しに行くべきだったのだ。枯れた魔術師が、お前のようにやり遂げられたかは分からぬ。だが、儂がやるべきことだったのだ……」
頭に細く柔らかい感触が乗り、ぎこちなく動く。
慰撫など久しく与えられたことのないネリウスはしばしの間硬直し、眉を下げる。
――この愚者を許すのか。
瞼を上げると、そこに暗闇はない。
ただ遠くに光があり、望めば容易く手に収まった。
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薄い紗のような光が差していた。
目を瞬かせたネリウスは首を巡らせ、埃に軽く咳き込む。暗闇ではない、現実の部屋を見て先程の夢を自覚する。
随分と都合の良い、と皮肉げに口を歪め目を伏せた視線の先――椅子に座る自身の膝。アルクゥが片頬をつけて縋るように眠っている。
「さっきいきなり飛び起きてな。アンタの傍に行くとまた寝ちまった」
「そう、か」
果たして、あれは都合の良い夢か、それとも術の余韻による意識の共有だったのか。
アルクゥの頭を撫でると縋る手の力が強くなる。
判然としないでいると、窓辺に佇むヴァルフが「それで」と眠る妹弟子を気遣う声量で尋ねた。
「これからどうする?」
「儂がどうするにせよ、お前たちにこれ以上の迷惑は」
「ああ?」
ヴァルフは三白眼を更に尖らせ吐き捨てる。
「馬鹿言うなよ。何の話か知らねぇが、俺は俺がやりたいようにやっただけだ。アルクゥもそうだし、さっきのアンタだってそうだろ。命を削って頭の中身を渡したのは、何もアルクゥを助ける為だけじゃねぇだろうが。師匠の責務を果たしたかった。違うか?」
「……否定はできんな」
「だったらくだらねぇこと言うな。……最後まで俺たちの師匠でいろ」
ハッとして見返すと、灰眼は窓の外に逸れた。
そこでは暗夜を退けた鮮やかな黎明が空を燃やしている。
「とりあえずは飯か。街に出て適当に買ってくる。――いつまでここにいる?」
「そうだな。……時間が許す限り、三人でのんびり過ごそうか」
ヴァルフは横目でネリウスを見て「補修が必要だな」と目を緩ませた。
買出しに行く背中を見送り、ネリウスはアルクゥの頭をもう一度撫でる。
不可避の日が来るその時までは、この子らと共に。




