第五十二話 星光を得た者
灯を落とせば室内は全ての輪郭を失う。
目の中で光の余韻が消えたとき、アルクゥは今夜が朔であることを知った。魔力が満ちる望と対になる静穏。
万物が休まる夜であり、息吹さえも聞こえぬ恐ろしく静かな宵は、魔物さえも暗闇に溶けて安らかに眠る。暗月が率いる透明な音は全ての耳目を柔く包む。
ゆえに、密かに事を運ぶのに適した日でもあるのだ。
静謐の室内に一筋の変事が滑り込んできたのは、明かりが消えて間もない頃だった。
鈍り切っていた警戒心は一拍遅れて機能し、アルクゥはベッドから半身を起こして身構える。扉前に佇む気配は居心地悪そうに身じろぎ「こんな夜中に申し訳ない」と律儀に非礼を詫びた。
「準備が整った。塔の最上階へ来るように……と、兄弟子様からのご伝言です」
「テネラエさん……? わかりました、行きます」
知人と知ってアルクゥは肩の力を抜き、ベッドから夜気が立ち込める床に降りる。
畳んであった衣服に手を伸ばすと、テネラエは慌て気味に「外見張ってますんで」と出て行く。
素早く着替え少ない私物を外套に詰めれば準備は完了だ。一度室内を見回し、ふと机の上に置いたままだった誰かからの贈り物も手に持って、アルクゥは部屋の隅で耳をそばだてるケルピーを振り返る。
「ネロ。私が居なくなったときは、ユルドさんがお前を外に出してくれることになっている。自由に選んで生きればいい」
鼻先を下げて頭を垂れたケルピーにアルクゥは「ありがとう」と別れに代えて感謝を言い渡した。
そして全ての楔が消失してスカスカになった身体を翻し、床を踏む感覚のない足で部屋を後にする。
長い療養を終えたアルクゥを待ち受けていたのは冷気の抱擁だ。
粟立つ肌を気にも留めず、扉の両端に沈む二人の護衛騎士を覗き込む。一人は見知らぬ女性騎士、もう一人は馴染みの深いトゥーテだ。夕食に遅効性の睡眠薬でも盛られたのだろう。彼女らにはとんだとばっちりだ。せめて風邪を引かないようにと二人を寄り添わせる。
「行きましょう。途中までお供します」
促すテネラエに頷き、アルクゥは最後にケルピーを残す部屋を振り返る。
病室代わりだった貴賓室。ここでの日々は王都に来たこれまでの中で最も暖かいものだったように思える。
緩やかに過ぎ行く時間、見舞いに訪れる人々との他愛もない会話。
――忘れてはならない。
もし、万が一、アルクゥが自分というものを取り戻したときの為に必要な記憶だ。忘れなければ、謂われない恨みも抱かない。
「心残りでも?」
アルクゥは首を振り、追憶から視線を引き剥がし歩き始めた。
月のない暗夜の道行きは、始まりの森を思い出す。
木陰から見上げる空には月があったが、生い茂る木々に光は遮られ、かえって暗闇は深かった覚えがある。闇は必死に歩むアルクゥの足を鈍らせようと何度も恐怖を語りかけてきていた。
あの日も影だけが道連れだった。足音も立てず隣に並ぶテネラエはその影に似ていた。
「――貴女の母君はとある時期、人形のようになってしまわれたそうです。習慣だった庭園の散歩もしないようになり……毎日欠かすことのなかった娘への祈りもやめてしまった。日がな一日、部屋でただ外を眺めるだけだったとか」
不意に話し始めた影は、ともすれば聞き逃してしまう密かな声で続ける。
「アマツから母君の祖父を招いて治療させ何とか快癒したらしい。公爵は屋敷の者たちに聖なる病だから心配ないと説明したそうです。当然、俺は方便だと思いました。大方、娘の喪失によって心を病んでしまったのだと。けど貴女の様子は母君のものと合致する。聖なる病とやらかは分からないが、何らかの理由によりアルクゥ様も同じ状態を発症しているのかもしれない――と、貴女が軍部に捕らわれた時、兄弟子様に告げ口しました」
「ああ、道理であの手紙」
「気に障りましたか」
テネラエは自身の推量に矛盾したことを言っているが見立ては正しい。アルクゥがクーデターの日に取り戻したものは、体が万全に戻るにつれ抜けた。一時の熱のような感情だったのだ。
様子を窺う視線に表情なく首を横に振って見せると、テネラエは安堵とも嘆きとも取れる溜息を吐く。その横顔に問いかけた。
「いつ気付いたのですか?」
「様子がおかしいと思ったのは魔導院襲撃の後です」
「ほぼ直後ですね。よく見ていらっしゃる」
「……俺はあのクソ聖職者の監視が仕事ですから、その、大体貴女は側に控えていましたし、目に入るのは必然だったというか」
「一応不自然でないよう装っていたのですが、浅はかでしたか」
「俺が諜報員だってこともあります。洞察にはそこそこ長けていないと仕事になりませんから。普通に接する分には気付かれなかったと思いますよ。俺よりも余程貴女を知っている兄弟子様もそのようでしたし」
テネラエはさらりとこの場にいないヴァルフに皮肉を投げる。
アルクゥはそんな人間味溢れる諜報に一つの疑問を呈した。
「そこは問題にはならないのでしょうか」
「何がですか?」
アルクゥはテネラエと自分を交互に指差す。
「ああ」と合点したテネラエは、他国の間者と英雄が夜半連なって歩く絵面を問題ないと断じた。
「この時間帯、外殿の南東区画に見回りは来ない。目撃されても俺の姿はただの文官です」
「黒尽くめな文官なんであまり居ませんけど」
「……そうか、貴女はしばらく外に出ていなかったので知らないんですね。今、官は黒服が多い。喪に服しているんです。各人の葬儀は終わりましたが、国が催す慰霊が行われるまでは王宮は黒一色だと思いますよ」
言われてみて、アルクゥは今更ながら自分が知人の弔いすらしていないことに気付いた。死んだ者を記憶に問いかければ、レイスを筆頭にして沢山の顔や名が鮮明に思い出される。
だが今のアルクゥはそれだけなのだ。
付随する感情がない。ゆえに多くの記憶の一つとして埋没し、気にし続けなければ容易く忘れてしまう。
俯いたアルクゥに何を思ったかテネラエはすかさず言い添える。
「貴女には休息が必要だった。それに差し出がましいようですが、貴女が怪物を討ったことが最大の弔慰だと、俺は思います」
「今の私に気を使っても徒労なだけです」
「気なんて使ってませんよ。とにかく、問題はないです。だいたい俺を知る者なんてほんの一握りの重臣共だ。万が一そいつらに出くわしたとしても逃げればいい。どうせ俺も貴女も夜明けを待たずに王都から消える」
「テネラエさんも?」
「帰還命令が下っているんですよ。まあ、俺はこっちに詳しいからまた来ることになるんでしょうけど。何かあったら呼んでください。出来る限り力になります。三大商会に属するグリトニル商人に俺の名を言えば連絡はつきますので」
それからしばらくは一つ分の足音に耳を傾ける。
アルクゥはその間に影の思惑を色々と想像しては否定し、結局は尋ねるという選択に着地した。
「前に聞きそびれてしまったのですが、なぜ私を助けるのですか」
テネラエは立ち止まる。
一歩遅れてそれに倣ったアルクゥは、影から脱却したテネラエを正面から見上げた。
枯葉色の髪と目。前髪のせいで陰のある瞳には思慮の深さがある。かつて、失礼極まりないことだが陰気な平凡の一言で表現した。しかし今改めて観察してみると、自若として深みを感じさせる青年へと印象は変わる。
「俺は、元は貴女の父君の配下でした。アルクゥ様は第一公女、つまり次期公爵で、爵位を継いだとき俺はアルクゥ様の部下になるはずだったんです。今では中央から扱き使われる身ですけど……お仕えする予定だった、それも死んだはずの人間を見つけて、奇妙な縁だと感じたのが最初です」
「最初……」
「はい。次は不憫に思いました。家に捨てられ、損ばかりしながら英雄と称され利用されるかつての公女。でもすぐに違うと気付いた。猫だと思った生き物は虎どころか竜すら越える、俺の知らない何かだった。尊敬……とは違うか。畏敬の念でもない。強いて言うなら、強烈な憧憬を感じたんです。貴女に」
釈然としないアルクゥにテネラエは微かに笑った。
「俺は貴女に関わりたかった。理由として説明するならこれが一番適切です。それが結果として助ける形になっただけのことで、実のところ貴女は俺が手を出さなくてもたぶん自力で何とかしたんだと思いますよ。それでもお礼をくださると言うなら、しかるべき地位についたとき、俺を使ってください」
「…………まず当てのない話ですが、それで良いのなら」
返答を探す間の意味をテネラエは正確に読み取っていたようで、「俺は酔狂なんですよ」と元の無表情で自称する。そのせいで冗談なのか本当なのかアルクゥには読み取れない。
それすらも見透かしたのかテネラエは念を押した。
「俺は気長に待ちます。まずはその病を治して……」
と、急に息を詰めて言葉を切った。
人よりも薄いように思われた眼光が鋭く闇の一点を睨み付ける。
その反応から何秒も遅れたアルクゥはいつの間にか警告のような熱を発している胸元の首飾りを握り、もう片方でテネラエの袖を引く。
「――行ってください。私に用があるのでしょう」
「しかし」
「貴方は、引き返して、先に行ってください。私は魔術師相手に背を向ける勇気などないのでこのまま真っ直ぐ行きます。またいつか会いましょう」
数秒、逡巡した気配は「ご無事で」と夜闇に消える。アルクゥはそれを待ってから深く呼吸をして足を進めた。
****
「こんばんは。良い夜ですね」
低く、涼やかで皮肉げな声が掛かった時点で再び歩を止める。
とても、とアルクゥが応じれば、支柱に体をもたれ掛けていたサタナは体勢を正した。どこまでも暗闇に映える白い男に、テネラエすらあの距離まで気付かなかった理由は明白で、アルクゥは早々に犯した過ちに軽い息を吐いた。
近付きすぎだ。
闇で距離感が多少狂ったとはいえ迂闊である。
一息で詰められない位置まで下がるか――否、退く者は疚しさを抱える者と相場が決まっている。穏便に済ませたいのなら、この場で言葉を尽くすほかないが。
アルクゥはどうしても血生臭い想像とは別の未来を考えることができなかった。
「元気そうで安心しました。見舞いにも行けず申し訳ない。引継ぎと苦情の処理で連日大忙しでしてね。どうですか、左腕の調子は?」
とにかく慎重な対応をと決めた矢先の意味深長な言葉に、アルクゥはしばし不自然な間を作ってしまう。
そのまま言葉通りにも取れるが、契約の消失を暗に指しているようにも聞こえる。深読みしすぎだろうか。
「つつがなく。医師の腕が良かったようで」
「お褒めに与りまして光栄です。あの場で適当に繋げてみましたが、案外上手くいくものですねえ」
「……お礼を申し上げます。貴方には出来ないことの方が少ないのでしょうね」
「いいえ、これでいて案外不器用でして」
「――ここが分かったのは、ヤクシが監視していたからですか?」
アルクゥが軽い詮索を入れると、サタナは大仰に肩を竦める。
「ご明察。護衛の一人に魔眼をつけ、貴女に不審な行動あらば必ず私に報告するよう厳命していました」
「その不審な行動の報告を受けて、貴方は一人で出てきたわけですか。護衛もつけず」
「事を大きくするわけにはいきませんからねえ。他国の間者もいましたし、何より英雄の出奔など」
「職を辞させていただくだけです」
「貴女の存在は手元にあれば非常に便利だが、外にあれば非常に危険なものとなる。出て行かれるのは困ります」
「目的を達してここを去るのは貴方も同じでしょう。消える人間にそこまで気を使う必要があるのですか?」
アルクゥは幽世へと、サタナは責を負ってどこかへ。
どうせ二度と交わらず関わらない。そう説けば、サタナは口の端を嘲笑に歪めた。
「持ち込んだ凶器の後始末までが仕事です。その能力は野放しにできない。国の管理下に留まるか、ここで死ぬか。選んでください」
「それは随分な話ですね」
「とてもそう思っているようには見えない顔ですよ。良心が咎めなくて助かる……本当に」
吐き捨てるように言って抜いた剣は僅かな光源にも煌めく。
「見逃してはくださいませんか」
「私にそれほどの度量はない。このまま見送れば、寝ても覚めても貴女のことしか考えられなくなる。貴女は私を評価してくださいますが、所詮はその程度の、腐るほどに有り触れた男です。――けじめはつけなければならない」
「貴方の内面など知ったことではないのですが」
「そうでしょうね」
額を片手で押さえて呟きサタナは剣を振り上げた。型も何もない無防備な挙動に違和感を覚えるも、アルクゥは余計な苦痛から逃れる為に力を抜く。
一瞬反撃を考えなくはなかったが、やはり近すぎる。
せめて閉所であれば。せめて時間の猶予が数秒でも確保できるならば。そう仮定してみても現状が変わるわけでもなく、アルクゥは辞世となる光景を眺めるだけだった。
ゆっくりと降りた剣先は喉元で止まる。
「……ここで無抵抗に殺されるくらいなら、留まった方がましだと思いませんか」
「私のいる場所は始めから師匠とヴァルフの側です。……気付くのが遅すぎて色々と失ってしまいましたが、こうなったのも因果応報というものでしょう。何人も殺しておいて自分だけ望みを果たそうなど虫のいい話だった。以前私は貴方に殺されるのではないかと怯えていましたが、形は違っても正解でしたね」
お好きにどうぞ、と外套のフードを落とす。短くなった髪のお陰で夜に目立つ白い首肌は良く見えるだろう。これで簡単に殺せるはずだ。無力な小娘だった自分すら出来たことなのだから。
しかし切っ先はいつまでたとうと微動だにしない。剣を持っても全くぶれない筋力に素の実力差を見た気がするが、肌すら傷つけないのでは技量にも武器にも意味はない。
一体どれほど視線を合わせていたのか考えることの馬鹿らしくなったころ、唐突に目線を下げたサタナは無表情を押し固めていた顔がふいに緩ませ、
「こう……なりますか。参ったな」
重い衝撃を受けたように一度体を揺らし、踏みとどまった後に笑みを純然たる自嘲に変えた。ずるりと手から落ちた剣が大理石の床を食む。鋭く硬い音が廊下に反響して消えていく。
何が起こったのか把握できないアルクゥの目の前で、サタナは胸に手を這わせた。
そこには鋭利な銀が生えている。
血が滴る突き出た切っ先を微笑のまま眺めていたサタナは、次の瞬間胸郭を震わせて血を吐いた。反射的に口元を押さえたのでアルクゥには掛からなかったがサタナは「失礼」と侘び、
「容赦が、ないですねえ」
「そう何もかも思い通りになると思うなよ屑が。――行くぞアルクゥ。師匠が待ってる。歩けるか?」
膝を突いたサタナの背後、無造作に剣を引き抜いたヴァルフは酷く詰まらなさそうな顔で刺した相手を一瞥し、一転して気遣う表情をアルクゥに向ける。歩けると頷くも、構わず腕を伸ばしてきたので、素直にその手を取って抱え上げられた。
夥しい血溜まりに膝を折るサタナの背が遠ざかっていく。
手を突いて身動ぎする動作には振り返ろうとする意思が窺えたが、アルクゥが担がれたまま角を曲がるまでにあの琥珀色の瞳がこちらを向くことは終ぞなかった。
****
外殿を出たヴァルフは濃い闇を突き進み、辿り着いた医療塔を見上げ、あらかじめ開けておいたのだろう、二階の窓から軽やかに侵入する。暗い塔内を歩む足にも一切の迷いなく、階段まで来ると数段飛ばしで駆け上がる。通い慣れた様子だった。
昇降機があるはずと呟くと、それだと屋上に出られないとヴァルフは答える。
眼下を流れていく階段を数十秒眺めたところで「ここだ」とアルクゥは降ろされた。振り返った眼前にあるのはいかにも頑強な両開きの扉で、薄く開いた隙間から光が溢れている。
引き寄せられるように扉を開け放つ。
一気に吹き寄せた冷たい風に目を細め、空気を含んだ外套が落ち着いた頃。アルクゥは屋上の中央に燐光する膨大な文字の連なりを見た。
公式な書面のように整然と並ぶ精霊文字は、端から端まで眺め渡してようやく何か分かる緻密な作りをしている。
「転移……でも、ここじゃそんなに距離は」
「近場にしか跳べねえような柔な出来じゃねえよ。医療塔にある使えるもんは全部使った、まがりなりにも大賢者様が作った術式だ。それに新月だしな。師匠、用意は」
無造作にヴァルフが投げた言葉の先に、アルクゥはゆっくりと視線を移していく。
「――死人でも見たような顔をしておるぞ」
何度も思い返した記憶と寸分違わない。
ネリウスが鷹揚な、アルクゥを幾度となく安堵させた笑みを湛えてそこに立っている。隣にいる気難しそうな老人が「くたばり損ないめ」と横目に悪態を吐くと、ネリウスは同じくらい気難しそうに眉を寄せ、しかし楽しげに「お前こそな」と返す。旧知の間柄なのだろう。
アルクゥは肺が痛くなるほど冷たい空気を吸い込み、声を見つけられないまま同じ分だけ吐き出す。辛うじて言えた言葉も「私は」と申し開きをする前の罪人のようで、思考が追いつかず口を閉じるも、強く結んでいないと唇が震える。
「さて、アルクゥ。どこに行こうか」
言葉が出てこず俯くアルクゥの頭に暖かい温度が下りてくる。
「久しく体が軽くてな。そこの藪も中々馬鹿にできぬようだ。これならお前が行きたがっていたアマツでも、古巣のデネブにも、どこへでも行けよう」
頭を撫でる大きな手を両手でそっと握る。
血が通っている、がさついた、とても暖かな手だ。
強く握れば、同じくらい強く応えてくれる。
「苦労をかけたな」
違う、と首を振る。
自分が勝手にやったのだ。迷惑をかけてしまって申し訳ない。
それらは全て声にならない嗚咽となった。何が悲しいわけでもなく、心はやはり空洞で、なのに表情を作らない瞳から零れる涙は止まらない。
アルクゥは瞑目して握った手の甲に額づく。
何にも勝る敬愛の記憶が、星のように瞼の裏を流れては消えていった。




