第五十一話 無秩序の奪還
濡れた感触と生暖かい風が額に触れている。
薄々と目を開ける。起きぬけで酸素を欲する頭が命じるまま大きく息を吸い込むと真水の匂いがした。
「……ネロ?」
呼べば、ケルピーは主人の額に鼻面を押し付けて呼吸するという奇行をやめた。
顔を寄せてくる使い魔を撫でながら押し返すと、左腕に痺れるような痛みが走る。反射的に眉を寄せたアルクゥは、地に転がった左腕の映像を思い出した。
しかし長袖の寝間着からは左手が覗いている。
動かしてみると微かに痛み多少ぎこちなくはあるが、確かに身の一部として機能していた。
浮かせていた頭を落として脱力した。
傷口の様子を見ようと袖を捲くりながら視線を巡らせる。ここは医務室ではないようだ。貴族が数拍泊まる分には豪奢な調度品が揃い、しかし住み着くには足りていない。となれば貴賓に宛がう部屋だろう。間違っても怪我人を放り込む場所ではなかった。
室内を暖める陽光の加減から時刻は昼過ぎだと予想される。随分なご身分なことだと自身の待遇を揶揄し、肘で体を押し上げた。注意深く枕に背を預けて眼前に左腕を掲げる。
「なんて荒療治を……」
率直な感想が漏れる。
しかしそこからは目を離しがたい。しばらく生白い肌を眺めていたアルクゥは、意匠が凝らされた扉が音を立てて開け放たれたことで我に返る。
「飼い葉とお肉は右隅の木箱にね。使い魔は基本的に主人以外気を許さない生き物だから近付きすぎないように……あっ起きてた?」
使用人を伴って訪れたユルドは、視界を塞ぐほど何かが山積みになった大きな籠を机に置いてからようやくアルクゥに気付いて破顔する。
「気分はどうかな。ご飯は食べられるかしら?」
「あれから何日で、あの後はどうなったのですか」
「やっぱり最初はそれよねえ。ああ、手伝ってくれてありがとう」
ユルドは一礼をしたまま固まっている使用人を外に出し、一言で端的に答えた。
「今日はクーデター鎮圧から六日目よ」
「端折りすぎでしょう。海魔は?」
「コンラート大元帥指揮下って建前になっちゃった、実際は自主加勢の第八師団が来た後、突如発生した小規模な竜巻により大半の海魔は上空に吹き上げられ、とある近衛騎士の手で無防備な禁呪仕様の召喚陣を破壊することに成功。自然が味方したことによる勝利ってところかしら」
「自然が味方……」
「不自然な話よねえ。聖域にいた人たちは何か知っているみたいだけど、皆超現象としか教えてくれないしー? まあ勝てたから文句はないのだけれどね」
少し拗ねた風のユルドは上目にアルクゥを窺う。何か話してくれないか期待する目ではあったが黙殺し、構ってもらえなくなって拗ねるケルピーを一つ撫でた。
「ここが王宮の中なら……魔物を入れるのは禁じられているはずですが」
「何事にも柔軟に対応してくれるのが現国王陛下の良いところよねえ。といってもそうするよう計らったのはサタナ様だけれど。英雄とその使い魔は絆が深いので近くに置いておいた方がいい、とかちょっと変な説明だったな」
確かにその通りであった。ケルピーはアルクゥの存在がふらりと飛んでいかない重石になっている。
アルクゥは左腕を握って思案する。
サタナはこれを知らないわけがない。放っておけば消え行く者をわざわざ押し留めるような真似をする意味は――幾通りか存在するが横に置いておこう。
「ですが、それならこんな部屋でなくとも良かったのでは?」
「そうなのよねえ。アルクゥちゃんの働きっぷりだと医療塔の一番良い部屋で至れり尽くせりされても足りないくらいよ。でも英雄が療養しているって聞いて、お近づきになりたい輩が大量発生しちゃって。大した怪我もないのに入院させろって五月蝿かったの万が一があっては面目ないから、こっそりこの部屋に移ってもらったってわけ」
ユルドはそう言って持ってきた籠を探り果物を取り出す。
「一部の人間しか知らないからゆっくりながーく静養してよ。一旦回復宣言しちゃうととても忙しくなるから」
「護衛のお仕事ですか? まあ確かにあの人は事後処理で動き回る身ですから、盾は常に持ち歩くべきだとは思いますけど」
「そうじゃないわ。サタナ様はもう護衛を必要としていらっしゃらないから。聖域で戦っていた近衛の中にお馬鹿さんがいたの。絶体絶命の危機に英雄が駆けつけて国王を勝利へと導いた……なんて。割と事実を語っているのだけど、騒いでしまったものだから。たぶん貴女は表舞台に立つことになる。施政者とするなら、この期に及んで宝石を隠しておく意味はないもの。――林檎とかなら食べられる?」
「待ってください。護衛が必要ない? あの人死ぬつもりですか」
軍部の反乱を抑え、教会の力が削げている今こそ最大にして最高の機会だ。
政務補佐は馬車馬以上に働き、そしてその働き以上の恨みと憎しみを受ける局面である。
困惑するアルクゥにユルドは眉を下げて笑った。
「内実の調査を欠き、冤罪の可能性も考慮しない独断での極刑は看過することができない。――反逆者及び、反逆に加担したと思われる者の皆殺しに対する糾弾の声よ。汚名を被る役にサタナ様が手を挙げたわ。元々退くつもりだったから丁度良いって」
「……あの人が何のつもりで国王に手を貸していたのか、知っていますか?」
「いいえ、全く。国を憂いたのか、権を求めたのか、全然わからない。性格を鑑みるなら……高みの見物で笑ってそうね、あの人。アルクゥちゃんは?」
「私は――何も」
アルクゥは以前サタナに投げた問いの答えを紡ぐ。
――それなら貴方には何があるのですか?
――何も。
ユルドはそれをアルクゥの返答と取り、大きく頷いた。
「そうよねえ」
「……そう言えば、皆殺しとは何があったのですか」
するとユルドはなぜだか目を丸くし、ニヤニヤ顔で口に手を当てる。
「普通まずそっちを聞くわよねえ」
「邪推です」
「あらま、アルクゥちゃんは一筋縄ではからかわれてくれないのね」
「ヤクシさんとは違いますので」
切り返すと一瞬はにかんだ笑みを浮かべたユルドだったが、本題に入ると軍人の顔つきに切り変わる。
「反逆の実行犯は全員討たれたのは知っているでしょう? アルクゥちゃんも聖域にいたものね。それだけなら釈明なんていくらでもできるの。問題はクーデターを支持したと思われる者たちまで死んだという点にある。王都に居を構える貴族だったり、領主だったり……」
「犯人は?」
「魔物かはたまた死霊か……報告によれば、全員が突然何かに切り裂かれて死亡したそうね」
「……なるほど」
心当たりに目を伏せると、記憶の中から唸りを上げ吹きすさぶ嵐の風を聞いた気がした。
アルクゥは小さく嘆息して「それで」と別方向に水を向ける。
「ユルドさん、ヤクシさんもですが、これからどうなさいますか」
「私たちはサタナ様から離れるだけよ。少し寂しくはあるし、死んで欲しくないとも思うけれど我が身が一番だもの。でもあの人のことだから逃げ切って閑職に落ち着くんじゃないかしらねえ。アルクゥちゃんはどうするの?」
「私は……ユルドさんの言った通りです」
「あれは状況に諾々と流された場合の話。これからは貴女の気持ち次第よ」
「そうですか」
淡白に答えたアルクゥにユルドは眉を寄せ、唐突にアルクゥの左腕を握る。白魚のようなのに間近で見ると軍人の手だった。亜麻色の瞳には無表情の自分が映っているのに、瞳に湛えられた強い光のせいで随分生気に溢れて見える。
「貴女はもう自由を得ている。どこまでも好きに考えて思うままに行動する権利が戻っているのよ。何かの異変を抱えているのは見ていて分かるけれど、その状態に甘えて状況に流されるのだけは止めなさい。私、アルクゥちゃんにずっと言いたかったことがあるの。協力してもらった上に命を助けられた身としては、とても勝手で傍で聞けば殴り倒したくなるような言葉だから聞き流してくれて構わない。――自分を蔑ろにして大切に想う人を悲しませてどうするのよ」
呆然としていたのではなく、かと言って何も感じなかったわけではないが、アルクゥは無言で憤るユルドを見上げるだけだった。
ユルドは口を曲げたまま踵を返し、懐から何か取り出して籠に突っ込む。そしてアルクゥを振り返り、
「ネリウス様のお部屋……時篭の稼動は止まっている。恐らくはネリウス様と貴女の兄弟子の意思だわ。魔石の消費がなくなったのはクーデターが起こる一週間も前よ。……栄養たっぷりの飲み易いスープを考案して作るまで一時間くらいかかるから、お見舞い品に目を通して暇を潰しておいてね」
ユルドはさっと亜麻色の髪を翻して退室した。
それから数分間扉の方を見詰めていたアルクゥは、一歩動くのも難儀な体力の落ちた体を引き摺り籠に掛かった布を取り払う。「検品済み」と書かれた紙の下には、知り合いからの見舞い品が詰んであり、菓子箱の隙間にくしゃくしゃになった手紙を見つけた。
慎重に抜き取るとまだ人の体温が残っている。ユルドが憤りに任せて少し握り潰したのだろう。
封筒から取り出した真っ白な紙に魔力を篭める。浮き出る筆圧の強い文字は一目で送り主が知れた。
お世辞にも綺麗とは言えない癖のある文字は、まず謝罪から始まり、次によく体を休めておけという些か説教染みた文章に繋がり、そしてアルクゥの状態に気付いている旨の内容が記され、そして――。
アルクゥは目を見張り、三度読み直して指先の上で手紙を燃やした。一瞬夜明けが訪れたような光を湛えた室内は、すぐ長閑な冬晴れの陽光に上書きされる。
「ネロ、おいで」
怯えた風のケルピーに詫び、水のような毛並みを痛みの残る左手で何度も梳く。痺れが鈍痛に変わる頃、ケルピーは四肢を折り曲げてアルクゥを見上げた。湖面のような瞳に映るのは表情のない自分のはずだが、瞳に湛えられた澄んだ水のせいで奇妙に歪んで見える。
アルクゥは使い魔の視線から逃れ、一瞬過ぎった理由がわからない躊躇いを振り切って再び左の袖を捲り上げた。
現れたのは生白い肌と二の腕に巻かれた純白の包帯――たったそれだけだ。
主従の契約紋様など跡形もない。
「本当に、乱暴な」
左腕ごと主従契約を断ち切るなど。
人の殻を脱ぎ捨て神と同化したのか、それともその姿を得たのか。どちらにせよハティはもう人の枠にはない。人間同士の楔を断ち切るなんて簡単だったろうに、あえて乱暴な手段を取った辺りに僅かな羨望が感じられる。ハティは人のままでいたかった。
アルクゥは次に右手を掲げた。鱗と思しきものは変わらず手の甲で仄かに光っている。ユルドが騒がなかったので人には見えないものかもしれないし、もしかするとアルクゥが正式な聖人でないからかもしれなかった。宝具はアルクゥを聖人としたが、アルクゥは幸か不幸か神に出会ったことがない。
「自由か。ねえ、ネロ。自由だ。……難しいな。何をすればいいのかわからない」
至上目的であったネリウスの回復は見込みなしだと分かってしまった。
結局、アルクゥが突っ走った結果は無残で無様だ。ネリウスとヴァルフの時間を無駄に浪費させただけ。詫びる言葉もなければ、共にいて彼らの為になる筈もない。
ならば利用される存在のまま、少しでも彼らの住む国を良くすることに貢献すべきではなかろうか。
思案に暮れ忘我していたアルクゥは、ケルピーが食べ始めた果実の匂いに見舞い品の存在を思い出す。後で礼を言わねばと一旦考えを止め、無心で品を選り分けた。
品の送り主を確認し、籠を空けていく。
やがて品物が絶え軽くなった籠を逆さにすると、見逃していたらしい細長い小箱が落ちる。拾って耳元で軽く振ると微かに金属が擦れる音がした。装飾品のようだ。送り主の名はない。
高価な物を貰っても困ると思いつつ箱を開けば、ふっくらとした青い緩衝材の上に、美しい首飾りが横たわっていた。
目の高さまで掲げ細部を見ても粗がない精緻な細工である。
菱形にも十字にも見える控え目な銀色の造り、その周囲と中央を彩る黒い宝石が不思議な光輝を放っていた。
その宝石に触れ――アルクゥは熱いものに触れたときのように手を引っ込めた。
「魔具……一体誰がこんな」
かなり強力な一品。その気配を念入りに消すなど製作者はかなりの術者だろう。
精査の結果、辛うじて魔除けに似た祝福が施されていることだけ分かった。これが呪いであれば相当悲惨な目に合っていたに違いない。
改めて宝石に触れる。そこは優しい熱を孕んでいた。
人肌に近い温度を両手で押し包むと、心無い思考に柔らかな靄が漂ってくる。
(私が望む未来は――)
唐突に、それは追想という形でアルクゥに降りてきた。
脱力して床に倒れこむ。何事かと心配するケルピーに額を押し付け、アルクゥは己の行き先を決めた。
そして来る朔日。
月のない夜の暗がりから、変革の先触れは訪れる。




