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精霊のシジル  作者: 染料
四章
51/135

第五十話 決着



 天蓋の硝子から取り込む月明かりが届かない土壁の内、薄暗い中で蛇とにらみ合うこと数分が経過した。

 怪物の背後に屹立する巨大な壁はレイスの部下だった魔術師の一人が命を代償に作り出したものだ。反逆の頭目であるシャックス元帥は猛攻を仕掛けてくる近衛騎士と対するのを不利と見做し怪物の傍まで退却を命じたが、この壁で退路は断たれた。壁向こうでは否応なしの総力戦が始まっている。

 隔絶された空間で英雄と怪物は相対する。

 派手な破壊音が遠く別世界の出来事のようだ。アルクゥと蛇の間はまったくの静寂で、敵意と怨嗟に満ちている。

 負の情念が凝り固まった塊。触れた命を喰らう魔。あの蛇は厄だ。これまでのものと性質が些か違うようだが。

 不特定多数の恨みである厄は本来決まった形を持たない。

 なのに特定の形を持ち、その上死後の幽世に漂うもの。


 アルクゥは魂の存在には懐疑的である。


 聖書が魂を説くにあたって必ず幽世を引き合いに出すが、アルクゥはあちらで霊魂に類するような物体を見たことがない。

 しかしアレに関しては蛇の――形からすればクエレブレの死後の怨念としか言いようがなかった。もはや厄というより悪霊のようにも思える。憑いている実体の方を何とかできれば成仏してくれると思うのだが、今のところ方策は思いつかない。

 竜と厄。自ずと両方に襲われた魔導都市デネブが連想される。実験場にされていたのだろうか。

 

(――戦況は?)


 後退による減衰を考慮に入れても、アルクゥの耳に届く戦闘音は減っている。すなわち交戦する者の減少だ。勝敗の天秤は傾きつつある。

 どっちだ、とアルクゥは五感を凝らす。

 その聴覚に押し寄せる波の音を捉えた。背後から迫る不吉な音に、アルクゥはその正体を悟って唇を噛み、為すすべなく身体を伏せた。

 次の瞬間、黒い波が土壁に殺到し、瞬く間に空けた穴に吸い込まれていく。


「海魔……」


 ベルティオが呼んだのか。

 となれば戦局は間違いなくトゥーテたちに傾いていたのだろう。魔物の援軍はそういうことだ。

 一体どれほどの数が来たのか。蛇や粘液にぶつかってそのまま食われた個体もいたが、それでも百は下らない。

 アルクゥは眉を寄せて大群を見遣り、

 ――星光を突如夜空に現れた影が遮る。悪寒を感じた。咄嗟に火を消して木に身を寄せた。肌をチリチリと焼くような感覚が全身を蝕む。空には無数の影が飛び交い、時には低空を掠めて旋回している。

 ――震える足は進もうとしない。躓いて転んでしまった。その横を急降下してきた一体が通り過ぎ、直後絶叫が頭上から降ってきた。一拍置いて黒い飛沫が目の前に落ち、続いて重い金属音と液体を混ぜた不協和音が落ちてくる。

 衛士の着る制服、その下半身だけが。


 アルクゥは一瞬の忘我を経て唇を噛み切った。

 顎に血が伝い、口内に鉄の味が広がる。

 目に映るものの輪郭や色が痛いくらいに明瞭になり頭がくらくらする。

 怒涛の如く脳裏を駆け巡った誘拐の夜の記憶。

 肌が粟立つほどの恐怖と――屈辱。


 アルクゥは全てを焼き払いたい衝動を抑えてその場に留まる。自分の役目は怪物を戦闘から遠ざけておくことなのだ。壁に空いた穴から形勢が均されていくのを見ているしかない。

 焦れったさに歯噛みしていると穴から人影が顔を覗かせた。逆光で男だということくらいしかわからない。

 男は粘液体を見上げ、密やかな声で囁く。


「汝の主たるベルティオが、下僕たるバシュムに命じる。こちらに来なさい。来て、私に降りかかる火の粉を全て払いなさい」


 命令に応じて怪物は動き出す。

 いとも簡単に、あまりにあっさりと、呆気に取られるアルクゥの目の前で怪物は壁を単なる土に還した。

 アルクゥは土煙に邪魔されながら、遠ざかる怪物とベルティオを名乗る男を追いかける。


(なぜ……あんなに簡単に操れたなら、なぜ怪物が退くのを黙って眺めていた?)


 簡単だ。

 敵にも味方にも、己が怪物の使役者だと知られることを避けたのだ。

 しかしこれでベルティオがどこにも所属しない蝙蝠だとはっきりわかった。利するところがあれば教会にも軍部にも力を貸す。危なくなれば保身を選ぶ。

 アルクゥは口を歪める。それに関して下種と罵る資格はない。自分も同じことをした。

 だからこんな中途半端な者たちが国を左右する戦いに水を差してはならない。

 アルクゥは走りながら幽世から脱出する。それによって蛇はアルクゥを見失った。


「ベルティオ!」


 魔力を込めた咆哮。混戦に堂々と立ち入ろうとしていた美しい女は足を止めて振り返る。

 アルクゥは怪物の横を駆け抜けて手を伸ばした。その手の平にはベルティオがアルクゥに刻み付けた嫌悪の象徴である魔力の刃が生成されている。

 身を捩った女の首に凶器が届く――刹那。


「貴女でしたか英雄様」


 アルクゥは目を見張り、小さく舌打ちした。

 首を刎ねるよりも、ベルティオが逃げるよりも早く粘液体がアルクゥの手を絡め取ったのだ。こんな動きが出来るとは想定していなかった。すぐさま振り払おうとするが粘ついて離れない。接触した部分からは魔力が吸い取られていく。


「お前っ……!」

「あらあら、随分やんちゃにおなりなのですね。あのお淑やかで無力なご令嬢が好きでしたのに。野垂れ死んだかと思っていたら、いつの間にか英雄ですものねえ」


 膝から力が抜けたアルクゥの顎をベルティオは人差し指で掬った。息がかかるほど間近にある顔が心底おかしそうに笑っている。


「でもこのままだと死んでしまいますわ。あの時と状況が似ている。周りを御覧なさい。皆自分のことで手一杯。誰も助けてはくれない。頼れるのは私一人……さて、どうなさいますか?」


 馬鹿にした物言いにアルクゥは肩を震わせる。


「命乞いをしろと……お前に隷属しろと? 馬鹿にするのも大概にしろ女装男! あの時とは全てが違う。私は無知ではない、抵抗できない無力な娘でもない、とうに命も惜しいとは思わない……!」

「へえ、じゃあ……そのまま食べられてしまいなさい」


 肩を竦めるベルティオにアルクゥは精一杯の嘲笑を向ける。


「――ただで死んでやると思うな」


 もう片方の手も粘液体の中に突っ込む。そして幽世に引っ張った。

 他人を連れて行くのはユルド以来だ。あの時はあんなに容易かったのに粘液体は酷く重くて頑なだった。それどころかアルクゥを引き戻そうとさえする。

 数時間にも思える刹那、幽世と現世の境界で存在の取り合いが続く。

 アルクゥは冷たい息を吐く。呼吸が苦しく、喉を通る酸素が鋭くて細いような感覚だ。視界が明滅する。

 血の気が失せていく頬を柔らかなものが撫でた。

 腐臭に紛れた一筋の清い空気がアルクゥを励ました。ハッとして最後の力を振り絞った瞬間、吹き抜けた風に背中を押され、アルクゥは粘液体を幽世に引き摺りこんだ。


 そして粘液体と蛇かいぶつたちは邂逅する。


 蛇は現れたアルクゥを喰らおうとして動きを止め、自身が憑いている粘液体を見遣る。

 そこにプツリ、という音が響いた。

 粘液体は膿が溜まった腫瘍に針を入れたように破れ、どろどろとした中身が遺体と共に溢れ出す。座り込んでいたアルクゥは直撃を食らったが、それはすでに単なる粘ついた液体に過ぎず、力を吸われることはなかった。

 蛇は不思議そうにという表現がしっくり来る動作で首を傾げ――唐突に叫喚する。塵芥の体が大きく拡散し、収束し、たわみ、捻じ曲がり、散っていく。


「消えた……」


 遺体の山に囲まれてアルクゥは呟いた。

 倒すつもりはなかった。ただ行動不能になれば御の字くらいに思っていたのだが。


「本当に……幽世こちらの仕組みはよくわからないな……」


 両手をだらりと垂らすと冷たいものに触れた。ゆるりと下を見ると、レイスの遺体が仰向けに倒れていた。首筋に手を当てる。脈はない。薄く開いた瞳を手の平で覆い瞼を下ろした。無造作に投げ出された腕を整える。

 仲間の死に何も込み上げるものはなかった。

 心身共に使い切って空しい。だがこれで良かったのかもしれない。悲しんで泣き喚いても死は淡々とそこに在り続けるからだ。

 アルクゥは座り込んで未だ止まない戦いを眺める。一人、また一人と倒れていくのは敵の軍人だ。本当に一人頭二人を実現させたらしい。軍部から寄せ集めと陰で揶揄されていた近衛騎士の質は、皮肉にも軍の精鋭が身体を張って証明してくれた。

 趨勢を逆転させると思われた海魔はいつの間にか消えている。ベルティオは逃げたのだろう。


 やがて降服する者が現れると急激に戦闘音が減り、聖域は元の静けさを取り戻し始める。

 ――帰らなければ。

 半ば惰性で境界をまさぐるが、意識の端にすら引っ掛からない。

 サタナとの主従の楔に触れてみる。これでは真名に命じられても動きが止まるかどうか、という機能不全っぷりだ。当然現世の道標にはなりそうにない。

 これで本当に終わりか。

 頬に張り付いた髪を払い――アルクゥはその短さにふと思い出した。

 髪を、身体の一部を食べさせた。

 自分が名付けた名を呼ぶ。


「ネロ……?」


 頭に響く嘶きが帰り道を示す。

 助けたつもりが助けられるのか。

 アルクゥアトル、と何度も自分を呼ばうその声に手を引かれ、アルクゥは死者の国を脱する。


****


 身体に迫ってくる現実の実感と、気を抜けば幽世に行きそうになる相反した感覚にアルクゥは頭を一つ振る。

 とにかく状況確認だ、と立ち上がるため地面に突いた右手甲に見慣れぬ色がちらついた。

 透き通った翠と赤金。

 不思議に思って目の前に掲げた手甲には、中央から手首にかけて奇妙なものが連なっていた。魚の円鱗に良く似た形のそれは、見たところでは雲母を剥がしたような感触で、触ると堅く金属のように冷やかだった。


「アルクゥ様!」


 トゥーテの危機を知らせる声に我に返り、さっと見回した眼球に剣を掲げた男が映る。

 髪を振り乱したシャックス元帥だった。軍服は破れ、あちこちから血を垂れ流す格好はもちろんのこと、その挙動はいかにも無様な敗者だ。足を引き摺り、聞き取れない罵声を発している。目的はアルクゥの道連れか。

 時機を逸したとしか言いようがない。アルクゥが自ら首を差し出しにきたときに、悦に浸らず欲を出さず殺すべきだったのだ。今殺したとしても恨みが僅かに晴れるくらいで、感情に任せた愚行であることは明白だった。

 じっと見返せばシャックスは鼻面を殴られたように怯み微かに歩みを鈍る。

 その瞬間、重い風切音と銀の一閃がシャックスの首元を過ぎっていった。

 間もなく落ちた頭部は恨みを紡いだ口の形のまま、死んだことすら気付いていないかもしれない。


「生かしておくべきでした」


 鞘を片手に歩み寄ってくるサタナに言うと、事の重大さの割には軽い溜息が降ってくる。


「貴女が抵抗しないからでしょう」

「怪物退治のせいで調子が悪いのです。……戦いは専門外だったのでは?」


 見上げたサタナは近衛たちと違わずあちらこちらに怪我が見える。白いので赤がよく目立っていた。

 珍しく体を張ったなと思ってまじまじと見ていると「どちらに転んでも同じでしたから」と意味不明なので追求はやめた。


「立てますか」

「一応。いいです、汚れます」


 差し出された手を辞去して緩やかに立つ。それだけで息が切れた。

 視点が上がったことで状況が良く見渡せた。

 見る限り、味方の死者は片手で数えられるだろう。馴染み深い者たちもしっかり生きている。ヤクシは敵の監視、トゥーテは頬を染めてこちらを凝視、クロは血塗れだが自分の足で立っていた。

 一方、敵方で残っているのは十数人といったところか。後ろ手に縛り上げられた彼らは、ある者は俯き、ある者は未だ敵意を瞳の奥底に滾らせている。


「彼らは?」

「尋問の後に裁判にかけます。シャックス元帥ほどではないにしろ、結構な悪役が揃っている。徹底的に叩いて埃を出すつもりです。まあ、出てきても色々と絡んできますので罪を問えるかは別ですが。不慮の事故が頻発してもしぶとく生き残る輩はいるでしょうねえ」


 そうですか、とアルクゥは視線を落とす。


「レイスさんに家族は?」


 サタナはふと気付いたように視線を下げ、どこか呆然とした面持ちを浮かべた。


「幸いにも、と言っていいのかは分かりませんが。彼に血縁はいません。とは言え悼む者は多いでしょう。優秀な男でした。……不思議な感覚だ。他の誰が死んでも……レイスは生き残りそうな気がしていました」


 低く掠れた声が呟く。

 アルクゥは「怪我人の介抱をしてきます」とふらつく足取りで背を向け、向かい風に押され反射的に目を覆う。

 その渇いた目を瞬かせ、涙で滲んだ風景がはっきりと形を取り戻したときだった。

 眼が廟門の下に鎮座する巨大な獣を捉える。

 淡く光る黒の強い銀の毛並み、黄褐色の瞳――風脈を従える大狼。


「見えますか」


 駆け寄ってきていたトゥーテに、だらりと垂らしていた手を持ち上げて狼を指差す。

 笑顔でそちらを向いたトゥーテは一瞬の後に硬直した。肩を揺すると高揚と恐怖が入り混じった表情で、


「あの……あれは、教本に載っていた精霊と、大狼霊様と、良く似ているのですが……アルクゥ様のお知り合いでしょうか?」

「精霊に知人は」


 いない、という答えは遠吠えに遮られる。

 大気を震わせた物悲しげな旋律は、また労わるように優しくもあった。死者を悼みにきたのか。

 誰も彼も、異変に慣れたアルクゥも指揮官として優秀なサタナでさえも、何の対応もできないまま、長い鎮魂を済ませた狼はおもむろに立ち上がり、


「……っ魔物だ! 討伐!」


 狼から発せられた風が捕虜の一団を撫でた瞬間、血煙が周囲に立ち込める。

 唐突な殺戮に身構えるも、狼はその場から動かず静かな瞳で一同を見返すだけだ。知性がある。死を尊ぶような感情も見せた。

 単に軍部の反逆者たちを屠りに来たのか――でもなぜ?

 いつでも狼に攻撃できるよう魔力を練りながらアルクゥが考えていると、狼が自分を見ていることに気付く。


「……ハティさん?」


 馬鹿げた思い付きを零すと、狼は肯定するよう一度尻尾を振り、視線を僅かにずらした。


「何を見て……っ!」


 間髪入れず身を翻したアルクゥは、狼の視線に割って入りながら体当たり気味にサタナの位置をずらす。時を置かずして鋭く裂かれた地面に明確な殺意を見た。

 次撃を警戒して振り返った刹那、アルクゥは左腕に熱い衝撃を感じて右側に傾いた。

 何が起こったのか確認しようと思うが体は言うことを聞かず倒れていく。サタナに受け止められて、ようやく自身の状態を知った。

 左腕がない。

 今しがたまで宙を舞っていたであろう切断部分が重い音を立てて足元に落ちる。

 私にも恨みがあったのか、と目を遣るが狼はすでに影も形もなく。

 称号通り、嵐のような惨状を残して立ち去った友人に恨み言を呟く。


「一体……何をしに来たんだあの人は……」


 意識を落とさせまいとする切迫したサタナの声を聞きながらアルクゥは目を閉じる。直後に訪れた優しい深淵の手招きに、アルクゥは抗うことができず落ちていった。


 


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