第四十九話 反攻
人の足を鈍らせてやまない威圧感に、もれなく歩みを止めかけたクロの踵付近をアルクゥは爪先で小突いた。振り返った大男にしおらしく謝る風を装う。クロは眉を下げ意
を決したように正面を向くと、いかにも重たそうな一歩を進め、上擦った明るい声音を発した。
「おう、機嫌悪いなお前。そんなに気ぃ張ってると敵さんが入ってくるまでもたねぇぞ。それに、ほれ、嬢ちゃんだ。無事で良かったよなあ」
「そうですねえ。よくこの劣勢の中、外の魔物を越えてここまで来る気になったものです」
柄を撫でる手つきは警告じみている。
後背の湖畔にいる重臣らと国王を庇い立つ挙動に、アルクゥは離反どころか裏切りを疑われているのだと悟った。左腕を撫でて微苦笑すると、サタナはつられたように己の左腕に手を伸ばしかけ、ふと止め眉根に苦り切った感情を滲ませる。
元より契約がなければ信用は成り立たない。
アルクゥがいくら正直に誠実に言葉を尽くそうがサタナは武器から手を退けないだろう。それは真っ当な関係を築いていない相手に対しては当然だ。第一に、敵対の意思がなかったとは言え反したのは自分なので文句が出よう筈もない。
それでも協力は取り付けなければならない。
海魔を操る術者の殺害と、あわよくば、この世の何よりも気持ち悪いあの化物を排除を。きっと最後の仕事になる。何としてでもやり遂げなければ。
アルクゥは難物から視線を外し、その隣に控える護衛に目を向ける。ユルドの名前を出せば簡単に切り崩せそうだと口を開けば、案の定「ユルドがどうした」と思い切り眉を寄せた。
「外で魔物相手に戦っています。私は術者の方を頼まれました。協力してください」
「あいつ、なんて無茶を……それで貴様、策はあるのか。あの妙な物体がいる限り安易に手を出せば返り討ちだぞ」
「策というほどのものではありませんが、私があれを引き付けます。ある程度距離を置けば魔術を無効化されません。その間に敵の掃討を」
「待て。何でそんなことがわかる。あんな知能もなさそうな物体を引き付けられる確証は? そもそも数で負けているのに真正面からぶつかれと?」
「一人頭、約二人というところですね」
「簡単に言ってくれる……」
「抵抗するのなら真っ向からしかないでしょう」
アルクゥはヤクシの隣から発せられる威圧を千切るよう大きく廟門を振り返る。クロは約束通り離れずにいてくれているがうなじ付近がそら寒かった。
古めかしい装飾の門は周囲に透明な防壁があるばかりで潜む場所などないに等しい。奇襲をかけたければ笑顔の裏に刃でも仕込むくらいか。それも相手が投降を受け入れる前提での話だ。
「貴様は妙な術があるからいいかもしれんが、俺たちがここを出るには陛下を聖域外に出す必要がある」
「転移術式があるのでしょう?」
「王都は元々空間魔術が行使し難い土地だ。王宮内は特にな」
「相手は際限なく魔物を召喚してますけど」
「知るか。こちらは安全に転移できる距離などたかが知れているし、敵は当然感知に長けた魔術師を待機させているだろう。方向さえわかれば捕捉は簡単だ。国主を危険に晒すわけにはいかん」
「転移先に護衛はいないのですか?」
「待機している者が五人と共をする者が三人。数は少ないが質は良い。貴様の兄弟子がその内の一人だったのだがな。どこへいったあの野郎」
真っ先に師の安全確保に向かったとは言えずアルクゥは曖昧に頷く。
「他の建物から動けないのではないでしょうか。――もうすぐ護りが破られる。勢いをつけて攻め入られてしまえば終わりです。とにかく、私はあれの注意を引いてどうにか引き離します。私が食われる前に打って出るか引き篭もるか、皆様とご相談して決めてください」
「馬鹿、待て。貴様や俺が判断することじゃない。どうしますか」
「そうですねえ」と特に感情のない声がひやりと背筋を浮き立たせる。
「あちら側からの術者の排除は?」
「初めはその予定でしたが、術者を見定める前にあれに襲われたのです」
「見定める? 貴女なら一目でそれとわかるでしょうに」
「あの中に知人はいませんが……」
「因縁ある相手ですよ。貴女の家を襲った魔術師……確か名前は、ベルティオだったかと」
門外を指差され思わず敵方を見遣ったアルクゥは目立つ容貌を探しながらも「まさか」と否定する。
「あれほど目立つ女性を見逃すはずがありません。彼女は、いませんでした。魔術師の格好をしている六人は全員男性でしたし、軍人の中にも見当たりませんでした」
「魔術師が全員男……ですか」
アルクゥが強く頷くとサタナはしばし考え、
「ヤクシ、クロ。魔術師の中に赤銅色の髪をした女性は見ましたか」
「あー見た見た。あの美女なあ。あれが術者か。俺も召喚されてぇわ」
「クロ貴様は黙ってろ。司祭様、魔術師の装いをした者の中に女はいません」
それぞれ違う返答をした二人は互いに変なものを見る目をしている。一人で納得したサタナは、アルクゥが見ていることに気付くと小さく溜息を吐いた。同時に息苦しい感覚が消える。
「貴女を部下にしてから予想外な事ばかりが起こるな」
「後悔は先に立たないものです」
「最近憎たらしいとは思いますが後悔はしていませんよ。今は貴女に頼るしかない。あの物体は任せます。得体の知れないもの同士、仲良くやってください。我々はどこで動くべきですか」
アルクゥは目を逸らす。
威圧は受け切れるのに、迷いのない眼差しを正視するのは苦しい。
「確実とは言えませんが、六廟門辺りまで下げれば余裕が持てるでしょう。敵も安全圏から出たがらずに退くかもしれません。ですがそこまでは絶対に待機していてください」
「わかりました。待ちましょう。万が一、あの魔物が釣れなければどうしますか」
「あれが私を無視するなら好都合です。あちらから魔術師を排除します。……そろそろ本当に護りが危ない。私は行きますので、陛下にご説明を」
酷い顔色で震えながら、しかし背筋を伸ばして毅然たる態度を保とうとする国王を見ると視線が合った。跪くべきだったがアルクゥは一礼に留め、この場の面々を見回す。
王都に来てから長い時間を共にした者たちだ。
特別な感情はない。敬意も友情もあってないようなものだ。
しかし誰がどこでどう死ぬかわからない。自分含め全員が生き残ったとしても、幽世から戻ってこれるかわからない。別れは唐突だ。アルクゥが親元から引き離されたように。レイスも別れを交わすことなく殺された。
「――お世話になりました。さようなら」
これがアルクゥが告げることのできた別れの言葉となる。
クロは眉を下げ、ヤクシは縁起でもないと鼻で笑い、サタナは憮然とした面持ちで目を細める。三者三様の反応にアルクゥは頭を下げ、軽い足取りで走り出した。
「お供します!」
「合図があるまで待機!」
行き先など些事だと言わんばかりに追従しようとするトゥーテに叫び返す。
その際に観察した騎士たちは理解不能の脅威に歯を食い縛り、しかし一矢報いようと反撃の意思を失ってはいなかった。敗色の濃かった国王陣営を護ってきた者たちなだけある。死がちらつく劣勢に誰一人として取り乱さない強さが頼もしい。
アルクゥは怪物の粘液で詰まっている門を避け、門の端、ただ草原が広がるばかりに見える場所に立つ。手を伸ばすと柔らかく反発する護りに触れた。
そのまま斜め前方を偵察すると、怪物の背後に固まる軍人らの中央、サタナの言った通りの人物を見つける。
捕らえているはずの英雄を見て騒ぎ出す面々の中、ベルティオはアルクゥに優雅に微笑みを送ってきた。
――お前は必ず死ぬ。
いつか必ず報いが訪れる。今はそうして笑っていればいい。
アルクゥは静かに境界を越え行動を開始する。
蛇はあやまたずアルクゥに気付いた。破壊をやめてぞろりと首を巡らせる。
そのおぞましい瞳と視線を合わせたながらゆっくりと歩を下げる。
「こっちだ。……ついておいで」
応答するように蛇は鎌首をゆらめかせ、目一杯頭部をアルクゥの方へと伸ばす。そうだ、と更に下がると蛇は不意に動きを止めた。煩わしげに頭を反し、自らの長い身体で包んだ粘体を見る。これがなければ、と言わんばかりの動きだった。
どうするのか窺っていると、蛇はおもむろに勢いをつけて上体を前に傾けた。その反動で粘体がず、ず、と移動する。蛇とは別の意思を持っているのか粘液体は第七廟門に戻ろうと動くが蛇の方が強い。
「そいつは何をしてる」
「わからん。魔術師共、そいつを止めろ。使役している者はどいつだ!」
突如として好き勝手動き出した怪物に、同志が死んだときの比ではない混乱が生まれる。
その様子にアルクゥは我知らず口に笑みを滲ませていた。
察するに、彼らは怪物の正体も知らなければ、怪物を操る者すら教えられていない。この得体の知れぬものに対する知識は我々と同等、ならば脅威の矛が翻ったと錯覚すれば――。
アルクゥは第六廟門への最短距離、敵の中央を突っ切る形で下がっていく。怪物の進路に入らぬよう割れていく人垣に触れないように、しかし蛇の牙が届かない位置を神経を削りながら維持する。
「竜殺しが消えたのを見ただろう、ヤツが自由に空間を行き来することが出来るという噂は本当だったのだ! そいつに任せていればいずれ見つけ出して」
人垣の半ばを過ぎた頃、惑う軍人に説明する魔術師を見つけた。
職業魔術師らしい細身の身体を見て腕を掴み、顎に手の平を叩き込みながら引き倒す。こいつがベルティオだったら儲けたものだ。
怪物は怪物のままでいてくれなければ。
受身も取れず転げた魔術師の足に全体重をかけ、切っ先が地面に届くまでナイフを突き刺す。
血と共に噴出す光子をむせびながら回避した刹那、今しがたアルクゥがいたところに銀の軌跡が煌く。咄嗟に思考が追いつかず背筋が緊張で強張ったとき二撃目が薄く頬の皮膚を裂く。
剣を掲げた軍人は宙に目を彷徨わせて舌打ちし、確実に捉えられた筈の三撃目を振らぬまま魔術師を助けもせず退いた。
アルクゥもはっとして逃げる。
「止めてくれええ! いやだああああ!」
遺体が詰まったどろどろの粘液体が先よりも早い速度で魔術師の上を通過していく。断末魔ごと飲み込まれた魔術師は狂ったように宙を掻き毟っていたが、すぐに力が抜けて死んだ魚のように液中に浮かび上がる。
アルクゥは頬の怪我を乱暴に拭って誘導しやすくなった道を後退していく。抑えようのない畏怖嫌厭により大きく二つに割れた反逆者たちは、ただ怪物がのっそりと移動していく様子を眺めるしかないようであった。
そしてついに宣言した距離が開く。
アルクゥは滴る汗もそのままに敵と味方の動静を窺う。
敵は怪物に追従はしなかった。魔術無効の安全圏からは外れているだろう。
味方は――サタナたちは。
アルクゥは未だにじりじりと逃げながら、ナイフを回収し魔術師を殺す算段を立て始めていた。怪物が退けば聖域の護りが破られることはない。彼らは出てこないかもしれない。
アルクゥは深く息を吸い蛇の腐臭を肺に送り込む。
自分の存在が薄い。海に落ちた一滴の水の気分だ。溶ける。
聖域の護りは空の胸に迫るほど美しい。幽世の光子に彩られた神霊刻印は繊細なガラス細工のようで、この世の果てに存在するという常世を思わせる。
――別に、悪くはない人生だった。
さあ末期まで足掻こうと身構えたとき空気が変化した。
聖域の護りが光の幕を上げていく。
儚げな情景に目を奪われた瞬間、第七廟門の広い門口から巨大な手が出現し、近くにいた敵を数人鷲掴みにする。
容赦なく握り潰した音と共に、その手は透明から薄暈けた赤色に変化した。どれほどの魔力と術式で練られているか、考えるのも恐ろしい強力無比な水の魔手。
アルクゥは軽く拳を握る。奇襲の準備は整えられていた。
――報いなければならない。
うねる魔手に乗じて聖域から近衛騎士が流れ出て来る。総勢二十余名、彼らが吼え上げた鬨の声は頭上に昇った月まで届こうかという勇壮なものであった。




