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精霊のシジル  作者: 染料
一章
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第四話 自由を得た鳥

 

「探せ! まだ遠くには行っていない!」


 夜天を破らんばかりの怒声が響き渡る。

 もっと遠くに逃げないと。ここは殆ど目と鼻の先だ。

 アルクゥは焦るが、遺体を発見して騒ぐ声を聞いて膝が萎えた。本当に殺してしまったのだ。木の幹に背を預けてずるずると座り込む。

 兵たちは夜の森を前にし、更なる犠牲を危惧してアルクゥの捜索は断念したようだった。だが怨嗟の声は長い間空気を震わせた。耳を塞いでも肌から染み入って罪を責め立てる。恐怖と後悔で叫びだしたくなる衝動を堪えきれなくなりそうだったとき、不意に罵りや悲しみの声が止んだ。


 水を打ったような唐突な静寂。


 耳を済ませるとほんの微かな足音が聞こえた。悪路を踏むにしてはあまりに静かで淀みない。


「こんばんは皆さん。良い夜ですね」


 足音がしなくなると、男性の声が聞こえた。低く、涼やかで通りが良い。兵は皮肉と受け取ったのか色めき立つ。


「まあまあ、皆さん静粛に。浮かない顔をしていらっしゃいますが、どうなさいました? もし……もしも、ですが。何か不備があったのならば、私でよければ微力ながらお手伝い致しますよ」

「なぜ貴方がこのような場所にいるのだ!」

「子供の戯言を真に受けたような計画を耳にしたので、もしやと思って見物に。言わば単なる野次馬です」

「……極秘任務です。サタナ司祭。特に貴方には言うことができません」

「つれないですねぇ。ですが、隠したいなら徹底的に隠さないと。鉄の臭いが漏れている」


 サタナ司祭と呼ばれた声を一層低くする。


「状況を説明なさい。事によっては収拾をつけて差し上げましょう」


 そこから幾許かの沈黙があり、絶えかねたように一人が吐露を始めた。制止する仲間の声も聞かず長く懺悔とも恨み節ともつかない言葉を連ねる。

 我々は上から命じられて動いただけで罪咎はない。

 戦争を起こす気はなく、司祭の仕える者に剣を向ける気はなかった、と。

 要約すればこうなる。アルクゥは、再び炎が胸を焼く音を聞いた。

 司祭の男は「つまり手違いで誘拐したのか」と懺悔部分には一切触れず呟いた。


「令嬢と夫人を間違えるなんて失礼な話ですが……まあ聖人ともなれば時の流れは緩やかなのかな。ところで、そこの魔術師。兵士に刺さっていた短剣はあなたの物だと言うことですが、事態に何か心当たりは?」

「ねぇよ」


 ベルティオは体面も礼儀もなく言い捨てる。機嫌が悪い。


「武器を渡してどうするおつもりだったのです?」

「死にたいってめそめそ泣いて鬱陶しかったから渡したんだよ。勿論、使えるなんて思っちゃいなかった」

「事実、死人が出ています」

「殺されるようなヤツがいるなんて知らなかった。令嬢だぞ? 箱入りだ。護身の心得すらない無力な娘だ。……ああ、それとも、やることやろうとして、手痛い反撃でも受けたのかもしれないねぇ」


 軍なんて禁欲的で、とベルティオは喉で笑うと兵士が猛然と罵倒を始める。

 飛びかう悪罵の中、司祭が提案した。


「少し周囲を探りましょうか」

「私がもうやった」

「あなたは信用できませんよ」


 アルクゥは狼狽して頭を抱えた。

 敵が探しに来る。

 ドクドクと跳ねる心音が塞いだ耳の奥に五月蝿く響く。


「魔術で探そうが無駄だって。今頃は森の奥で獣にでも喰われているんじゃないかな。特に、ここいらはよく狼が出る」

「まるで死んでいて欲しいような口ぶりですね。何か不都合なことでも?」

「別に。やるならさっさとやって、伝令役が来る前に消えれば」

「ではさっさと致しましょう」


 見つかったら殺される。

 魔術で探すのだ。きっと見つかる。きっと容赦なく叩き殺される。打ち捨てられた死体は誰にも葬られず酷い有様で腐っていくのだ。


(厭だ。死にたくない)


 膝に額を押し付ける。

 目を塞いで、呼吸まで止めて自分の存在を消そうと躍起になる。

 私はここにいない。だから見つけられない――。


「――いませんね。本当に森の奥に行ってしまったのなら……」


 司祭の声で永遠と思われた時間が流れ始めた。

 アルクゥは冷や汗が浮いた顔を上げる。


「外見の特徴を教えてください」

「死体を探して弔いでもする気か聖職者」

「万が一を周辺の街に知らせておこうかと思いましてね。家出した貴族の娘、とでも言っておきます」


 ベルティオは思い出すようにしばらく黙ってから特徴を挙げていく。


「髪は暗い青みがかった……紺色のような、そういう系統の色だ。背中辺りまで伸ばしている。服装は、貴族らしくない、街娘が着るようなボロ臭いやつ。色は白。細部は見ていない。それと、目は茶色・・だった。暗い茶色だ」


 アルクゥはそっと瞼に触れる。ここに収まっているのは金色の瞳だ。

 間違いは訂正されないまま、静かな足音が遠ざかり始める。


「サタナ司祭、どちらに?」

「この先の街に。ああ、心配しなくてもあなた方の上司には私が取り成しておきますのでご心配なく」


 兵の憂慮に答え、いよいよ足音が消えようとしたときだった。


「サタナ司祭。その腰の剣は何に使われるおつもりだったのですか?」


 ベルティオが嫌に畏まって尋ねた。そこからどんなやり取りがあったのか分からない。

 一拍置いてベルティオは「下種野郎」と吐き捨て、反対に司祭は笑いながら「外道よりはましです」と応じる。そして今度は誰にも呼び止められることなく足音と共に去って行ったようだった。

 伝令役が来たのはそれから随分後で、再び立てた聞き耳から入ってくる情報は作戦失敗への怒声と反論する兵の声だった。それも兵の一人が司祭の名を挙げた時点でピタリと止まる。それからすぐ馬車が去っていく音がした。


 アルクゥは暗闇の森に取り残される。


 いや、取り戻したのだ。手枷首枷のない自由を。

 歓喜に打ち震えた。思考は間を置かずして目まぐるしく回転を始める。先を思い描くことが出来るようになったのだ。すべきことは一つしかない。

 家に帰る。それだけだ。

 手段は船しかないだろう。商人はまだ活発に行き来をしている。乗船代はいくらで、どの港に行けばいいのか分からないが、この先にあるという街に辿りつけば活路は必ず開ける。


 アルクゥは固まった体の緊張をほぐす充分な時間を取った。

 そして動けるようになってから木に縋って立ち上がる。

 足には前に進む力が戻っている。

 しっかり土を踏みしめ、左右を確認して道に出る。一歩目は深淵に踏み出す勇気が必要だった。待ち構えるのは怪物か、それとも。

 息を呑んで踏み出した二歩目、目の端に月光を薄く弾くものが写り込んだ。

 黒い血痕の傍ら、抜身の短剣と鞘が置き捨てられている。

 アルクゥは震える手で短剣を拾い上げた。これは高価な一品だろう。売れば船代になる。

 そして敵がいれば――アルクゥは刃にこびり付いた血糊を木の幹にこすり付けた。

 パラパラと赤い滓が剥がれ落ちていく。こするたびに殺人の痕跡は消えるが、アルクゥの記憶には永遠に残り続ける。

 しばらく無心になって短剣を清めていると、いつの間にか頬に涙が伝っていた。

 目を瞑って溢れる水分を遮断する。泣いて良いことがあるのは周りに優しい人たちがいるときだけだ。今は一人だ。疲れるような真似はしてはいけない。

 袖で強く目元を拭い、暗闇の先に続く道を見据える。気を弱めてはいけない。一歩動くごとにも警戒は怠ってはならない。


 街に行き、港への道のりを聞いて、船に乗る。

 これは決して不可能な話ではない。


(お母様もアンジェも――きっとお父様も心配なさっている)


 胸に詰まっていた息を吐き出して、海の匂いが流れてくる方を見遣った。明け方が近いのか空は白んでいる。このように遥か遠い場所でもエルザと同じ色の空だ。世界は繋がっている。

 だから、きっと帰れる。


   

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