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精霊のシジル  作者: 染料
四章
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第四十八話 招かれざる者


 外殿を抜け、内殿の奥に進むにつれ、淀んだ冷気が足元に纏わりついた。


 半ば駆け足なので身体は熱いくらいだが頭は芯から冷えている。

 道々に残った痕跡は味方の一方的な逃走を示し、その上この異様な跡と臭気。定められた数箇所の防衛ラインにも積極的な戦闘はなく、ただ床や壁を破壊して敵の足止めに徹していた印象が読み取れる。

 罠はおろか防御術式にすら発動痕跡がない。

 魔術的な防護はレイスの管轄だが、彼が失敗したということはないだろう。アルクゥが及びもつかぬほど優秀な魔術師だ。

 ならば――不発は故意か。

 ややあってアルクゥは頭をもたげた疑念を打ち消した。誰の予想をも逸脱した事態だ。疑おうと思えば誰も彼も疑わしい。それに、この先に行けば知りたくなくとも何が起こったのかわかる。


 アルクゥは最終防衛ラインに近付いて足を止め、巨大な廟門を見上げた。

 ここから続く七重門の先は円環状の建物である内宮神殿の中央にあたる。母神ティアマトが建国の際に降り立ったとされる聖域だ。

 屋内にて唐突に現れる、眺め渡すほどに広々とした沃土には、木々の緑があり、濃厚な大地が香り、そして初代国王がティアマトに献じた尊い湖がある。魔力を潤沢に含んだ湖の甘い水は王家と神の絆を象徴だ。その加護により、聖域に王族があればあらゆる災禍から護られるという。


 絶対不可侵の護りは神の御業である、と言うことになっているが、実のところ今は廃れた神霊刻印という危険極まりない術式を使った防御魔術だと聞いている。即ち奇跡ではなく人の手による必然だ。

 しかしその防護力は堅固だ。ギルタブリル王がここに逃げ切ってさえいればかなりの時間稼ぎにはなるはずだが。

 アルクゥは一つ目の廟門に背を預け、肩越しに向こう側を窺う。最奥の門前に多くの人影と、門に喰らいつく黒い怪物を見た。


(蛇……いや、あれは)


 異様な臭気からして魔物を連れていることは予想していた。しかしあの姿は。


「竜……?」


 思わず身を乗り出す。

 デネブで殺した竜の姿に酷似した怪物は、鋭い眼光も鱗の光沢もなく、ただただ全ての光を飲み込まんばかりに黒い。総身は厄の如き塵芥だ。とぐろに大事そうに抱え込んだ粘ついた塊は何だろうか。中に折り重なった影が見えるが、あれは一体。

 ――気持ち悪い。

 唐突な感情に困惑しながら、アルクゥは頭を振って思考を阻むものを追い払う。

 自分がすべきことは召喚者の処理だ。それ以外視界に入れるべきではない。

 アルクゥは深呼吸を繰り返す。


(――行こう)


 魔導院でのあの日以来、寝ても覚めても意識の端から自分を手招いていた幽世に、アルクゥは微かな高揚を感じながら踏み入った。

 すでに現世より幽世の方が呼吸が楽なことに気付く。アルクゥにとって幽世こそが自分の世界になりつつあるのだ。

 ハティのように完全に現世と分断される前に、アルクゥは第七廟門まで走る。見張りの目をすり抜けて五十名程度いる反逆者の眼前に回り込む。

 アルクゥはその中に赤銅色の女を捜し――己の浅慮に小さく舌打ちした。

 あの女魔術師が召喚者というのはただ海魔を見ての連想でしかなかったのだ。どこを見てもあの忌々しい美女はいない。

 ならば、と魔術を行使している何人かを見遣る。いずれも魔術師の格好をした男で、幽世からは何をしているかは分からない。

 数は六。

 とりあえず全員殺しておこうとテネラエに借り受けたナイフを抜いたアルクゥの頭上に、深い影が差した。

 腐った臭いが充満する夜よりも冥い影中で、アルクゥは振り返り天を仰ぐ。

 そこには真黒の蛇の顔があった。

 澱の底を煮詰めたような薄暗い眼差しが、はっきりとアルクゥを見下ろしている。

 アルクゥは息を飲み、体を半身ずらし視線から逃れる。すると蛇の瞳もズルリと動きに倣う。


 こいつには私が見えている。


 アルクゥの退却と蛇の襲撃はほぼ同時だったが、蛇の見た目に反した緩慢な動きがアルクゥを助けた。

 空振りした蛇はアルクゥの直線状にいた反逆者数人に突っ込んでいった。蛇が退いた後に惨状を予想したが、そこには何の異変も起こっていない。

 軍人らは微動だにせず外傷もなかったが、次の瞬間唐突に膝を突いて絶命した。

 驚いたのはアルクゥだけではない。

 突然死した仲間に騒ぎ出す反逆軍人らに、アルクゥはようやく彼らは蛇が見えていないことに気付いた。


 逆に蛇はアルクゥしか眼中にないようで、粘液の塊を引き摺りながら迫ってくる。

 その動きには軍人たちは反応した。怪訝そうな顔、或いは嫌悪の顔付きで巨大なスライム状の塊を避ける。塊と仲間の死を結び付けていないようだ。

 蛇の動きは遅いが動作の規模は大きい。

 幽世の中で魔術を使えないアルクゥの足の速さは高が知れている。どうすれば、と周囲を見渡したとき、蛇の後ろにある第七廟門に目が行った。

 軍人たちは門前に集まり、先の蛇は門を壊そうとしていた――越えられないのだ。

 アルクゥは脱兎の如く駆け出す。

 振り下ろされた蛇の鎌首を寸でのところで回避し、粘液の塊の横を通り過ぎる。そのとき、脇見する余裕などないのに何故か視線がそちらへと絡め盗られた。

 半透明の粘液の中にアルクゥを見返す虚ろな瞳がある。

 レイスさん、と呟いた声に応じたのは粘液の方で、アルクゥに粘ついた触手を伸ばしてくる。その動きでレイスの体は反転し、深く抉れた背中をアルクゥに見せ付けた。



****


「トゥーテさん!」


 塵芥の蛇から逃げるよりも幽世から出ることに苦労しながら、少し離れた草原で門外を睨み付ける近衛の一団の前に姿を現した。

 あまりに不釣合いな長閑な草原と木々と、遠く奥に見える湖。そこに契約主と国主、その他重臣の姿を認めながら、警戒と共に向けられる武器に対してフードを脱ぎ、手近な知り合いを呼ぶ。

 トゥーテは零れんばかりに目を見開き「アルクゥ様!」と駆け寄り、大仰に迎えてくれた。そのお陰で近衛騎士の疑念は払拭されたようで歓迎の空気すら漂う。若い騎士の青い顔に赤みが戻ったのを見たアルクゥは、自分は魔物に追われて逃げてきたのだという言葉を口内に閉じ込めた。


「アルクゥ様、今までどこに……」

「軍に捕らえられていました。たったさっき逃げたところです」

「よくご無事で! ああ、御髪が……さぞお辛い目に合ったのでしょう。謝罪のしようもございません。護衛の私が不甲斐ないばかりに!」

「それについては私が悪いのです」

「先程、反逆者共が数人倒れましたが、まさかアルクゥ様が?」

「いえ……それよりも、レイスさん……レイス魔導師長が」


 今しがたの光景が、目の下に隈を浮かせて飄々と喋る男と結びつかない。

 自信なく先が細る声に、しかしながらトゥーテは肯定を返した。息を止めたアルクゥに、微かに俯いて「敵を食い止めようとして殉職なさいました」と渇いた事実を淡々と告げる。無理に感情を抑えつけた声音であった。


「力は及ばずとも、彼は我らに敵の異質を警告してくださいました。陛下も重臣らも、戦力にすら大きな損失なくここまで撤退することができたのは、レイス魔導師長殿の決死の覚悟があってこそ。決して無駄ではない、尊ぶべき死です。なのに……あの外道どもは!」


 廟門の外にトゥーテは咆哮し、辛そうに眉間に皺を寄せて瞑目する。


「――取り乱しました。敵はレイス魔導師長を、いいえ、彼だけではありません。厳かに弔われるべき我らの仲間たちを、あの醜悪な物体の糧にしている。辱めているのです。どうにかして取り返したい。けれど、我らはあの生き物かどうかも分からぬものに抗することができないのです」


 アルクゥは薄く口を開けて喉に詰まっていた吐息を吐く。

 責務を果たそうとした人間を軽率に疑った。無が大半を占めていた心に一塊の慚愧が落ちてくる。

 音が聞こえるほどに歯を噛み締めてアルクゥは門外を見遣った。

 騎馬が隊列を組めるほどの門口は粘液と塵芥の怪物で覆われており、仲間の突然死による混乱がどれほど広がったか、それとも収められたか窺えない。

 蛇は微かに光る聖域の護りに無音のまま噛み付いている。クエレブレがデネブを襲撃したときと重なる光景だった。

 とは言えあの時の竜とも、先程アルクゥを襲ったときとも違い、今の怪物には意思がない。非常に無機的な動作だ。使役者は優秀のようだと頭の片隅に置いてトゥーテを振り返る。


「トゥーテさん、アレは何に見えますか?」

「透けた汚泥の塊に見えますが……」

「そこの貴方は?」

「俺ですか? 俺も護衛官殿と同じですけど」


 その後何人かに問うても蛇と答える者はおらず、アルクゥは口元に手を当てる。

 自分にしか見えていないということは、アレは幽世の存在なのだろうか。

 幽世あのよに行ける存在は大別して三つ。

 精霊か、聖人か、それとも死した命か。

 どう見ても人ではありえない。精霊にしては醜悪すぎる。

 ならば残るは死だけだ。

 神話によれば、死んだものは罪の決裁の後に光子に還るか転生するか――魔に身を変じさ現世に戻ってくるか。幽鬼亡霊厄の類がそれだと言われている。しかし奴らは実体を持たない。ゆえに何かに憑いて存在を保つ必要がある。

 あの怪物は現世に戻らず幽世内で魔物化しているという特殊事例ではあるが、存在を留める部分を消してしまえば同じだ。あの汚泥を消し去ればよい。


 アルクゥは怪物を睨み付けていた視線を武勇の者たちに向ける。

 すると内心を読み取ったかのように白髪の目立つ男が首を振った。近衛師団の副団長だ。有能だが愚痴が目立つ男で、こういった場面で騎士を指揮するには器量が足りない。

 団長は運悪く非番の日で――敵はそれを狙ったのかもしれないが――恐らく魔物まみれの外に出られず、兵舎で立ち往生しているということであった。


「気持ちは察せられる。これだけいて何と情けないと思っているだろう。だが、あの妙な物体に魔と名のつくものは一切が通じないのだ。聖域の護りもほぼ壊滅。残っているのは第七廟門の一層だが」

「それも、じきに……」

「じきとは言わず今にでも壊されるな。そうなれば全面衝突だが、相手は怪物を盾にした上で委細問題なく魔術を使える。はっは、絶望的という言葉が実に相応しい状況だ」

「魔物の使役者を殺すのは?」

「特定できん。疑わしい魔術師を片端から殺すにしろ、そこまで我らの刃は届かん」


 副団長は乱暴に舌打ちして背後を見遣る。


「ぎりぎりまで踏み留まるおつもりのようだが、陛下にも重臣共にも転移陣がある。どうせ死なんのだ。ならば敗北が目に見えている現状、早く後ろから消えてくださった方がましだ。護る者がいなくなれば我らは戦わずに済む」

「他国に助けを求めれば半分属国化するのです。最後まで粘りたいのでしょう。それに、早々に陛下が退いたところで命乞いが通じる状況でもないようですし」

「嫌なことを言うな。俺はまだ死にたくないのだ。……それより竜殺し。貴様どうやってここまできた? どうやって敵前と聖域の結界を抜けたのだ?」

「……竜を殺した能力です」

「おお、そうか。便利だな」


 詳細も聞かずすんなり納得した副団長は、ふと明るい声音で提案する。


「お前、竜殺しだろう。あの化物をどうにかできるか?」

「私の攻撃手段は魔術です」

「役立たずめ……」

「手立てがないとは言っておりませんが」


 半分は周囲で聞き耳を立てていた騎士に言ってから、アルクゥはここへ逃げ込んでからずっと感じていた視線の主に向かって足を踏み出す。

 本来なら真っ先に謝辞を述べにいかねばならない相手だが、アルクゥは一歩一歩が重い。騎士団や護衛官の群れから外れて本人との距離が近付くにつれ、引き返した方が賢明なのではと思い始める。視線が冬の冷気よりも肌に冷たく突き刺さる。

 ――勘付かれていたのだろうか。

 しかし今刺されるのは遠慮したい。

 

「おい、おい、嬢ちゃん! 何で来た! ヴァルフはいねえぞ!」


 そんな中、近衛の列から離れたクロが小声で叫びながら駆け寄ってくる。咄嗟の助け舟にしようとアルクゥは歩みを止めないで知っていると頷く。目論んだ通りクロはついて来てくれた。


「知ってるだって?」

「王宮の門前でユルドさんから聞きました」

「だったら何で逃げなかった。嬢ちゃんが巻き込まれる必要はなかったろう」

「どの道、外の魔物をどうにかしないと」

「嬢ちゃんだけなら逃げられただろうが」

「ヴァルフたちが逃げないと意味がないのです。それよりも、クロさん」


 アルクゥは苦虫を噛み潰した顔のスキャクトロを横目に疑問を零す。


「まるで私が今までどこにいたのか、そこから逃げ出すことを知っていたような……そんな口振りに聞こえます」

「……まあ、な?」

「テネラエに流したのは貴方ですか」

「あー……嬢ちゃんに借りがあるヤツにちょろっと耳打ちして、そいつが経由地点かなぁ」

「ギルさんね」

「出所は聞かねえのか」


 アルクゥはしばしの沈黙を経て大きく息を吐き、小声で呟いた。


「贖罪かお人好しか知りませんがお節介は最後まで焼いてください」

「言っている意味がわからんな」

「司祭との会話中は横にいて護ってください」

「はあ? お前さん、何した?」


 アルクゥは口を噤む。

 既に声が届く範囲に佇むサタナは剣の柄に利き手を置き、口の端と目を微かに歪ませてアルクゥを迎えていた。



 


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