第四十六話 逢魔の刻
抜けるような青さが印象的だった空は、この日も冬の例に漏れず礫のように落陽する。
白亜の王宮、その一室の中に照り返す橙色を見て夕刻を知ったアレイスターは、文献を置いて隈の浮いた目を擦る。
馬車馬の如く働いてようやく貰った休日は泥のように気持ちよく眠るのが常だが、妙に目が冴えて眠れなかった。僕も歳か、とレイスは凝った首をごきりと鳴らす。
見掛けは二十代の時と変わっていないがもう三十半ば過ぎ、一般人ならば体の衰えを気にし始める頃合で、ともすればうっかり死ぬ者も現れる。魔力保持者という長命の特質を持つ者にとって死は遠いが、調子が悪いときにはふと己の死に様を考えてしまう。それでも特に魔力を多く持つレイスには遥か先の話ではあるのだが。
遅めの昼食、或いは早めの夕食でもとろうとレイスは部屋を出る。
特に声を掛けなかったが、扉前にいる物々しい二人の護衛官の片割れが無言で後ろからついてくる。
「お疲れ様。キミもご飯食べる?」
「いえ」
言葉短く断られる。
護衛はむさ苦しい男より女の子が良かったなあ、と内心でぼやきながら食堂で食べ物をくすねて同僚が集まっている研究室に足を伸ばした。
外殿の東側に面するだだっ広い大部屋は研究器具や書物が散らばり、薬草の匂いが充満する混沌の部屋と化している。
遠慮したのか入りたくなかったのか、護衛は部屋の中にはついてこなかった。レイスは何らかの魔法陣が書かれた紙を危うく踏みそうになりながら奥へ進む。そこでは八人の魔術師が思い思いに動き回っていた。誰かが部屋の狭さに悪態を吐いている。
「あれ、魔導師長。今日は休みだったんじゃないですか?」
「そうなんだけど、目が冴えてね」
「仕事依存ってヤツですかあ? いつか死んじゃいますよお。ほら、滋養強壮マンドラゴラ」
「僕に死ねっていってるんだなキミは」
王宮魔術師を統べる魔導師長、などと大層な役職にはあったが、レイスは皆と気安い間柄である。ラジエル魔導院出身が三名、野良の出が五名。
普通ラジエル出身は選民意識の塊で、市井出身の魔術師と敵対するものだが、敗色が目に見えていた国王陣営に居残った変人達は奇妙に馬が合った。
広大な外殿と内殿の魔術的防御を固めるという仕事は、そんな彼らだからこそ成し得たことだ。通常、王宮の魔導師団八十余名を総動員してあたるような任務だ。一人で十人分の働きをした換算であった。
レイスはパンを齧りながら各人が作成した報告書に目を通す。
竜の突進にも耐えるという謳い文句のデネブ製の結界魔具を三十設置。各所に索敵等の防衛術式を百、攻撃術式も同数。各廊下に通信魔具を設置。音を撒き散らす魔術と併用しているので密談は不可、警報として機能させる予定。使用方法は――。
「やっぱ仕事中毒じゃないすか」
一番若い魔術師が書面を覗き込む。幼さすら残る面立ちにレイスは滅多にない諧謔が抜けた素直な笑みを向けた。
「何だか眠れなくてね」
「さっきのマンドラゴラ貰ってきましょうか?」
「永眠はしたくない」
「まあ実は俺も寝れないんすけどねえ。ほら、師長とおそろいの隈。もしかして、術式の魔力が昔から王宮を守ってた防衛魔術と競合してんじゃないかな。何か空気ピリピリしてません?」
「ああ、そういう可能性もあるわけだ。でもそうだったら魔力を持たない奴らが軒並み倒れてるよ。嵐の前の、ってヤツじゃないか?」
「あー、第六感的な……でも俺幽鬼は見えないんすよね」
「その方が良いさ。見えるってことは近付いたってことでもある。――さあ仕事に戻れ。僕は術式を見回ってくるから」
レイスは残りのパンを詰め込んで、口を尖らせる部下の頭を軽く叩く。
扉を開いて外に出ようとしたとき、いってらっしゃい、といくつもの声を背後に聞いた。仲間を送り出す何気ない言葉だ。いつもなら正面を向いたまま応じるレイスだが、今日は何となく振り返る気になった。
奥に引っ込んでいた魔術師たちが顔を覗かせて自分を見送っている。
レイスは数回瞬き、臓腑を擽るような奇妙な感覚に鼻に皺を寄せ、払うようにして片手を振った。
報告書で気になった箇所を見て回り、最後に守備の先駆けである外殿正門の大扉を訪れる。
大きく開け放たれた空間に東から西にかけて色を変える空が切り取られていた。既に三分の二は黒い青で、僅かに残る陽の残滓は生々しい紅赤。鮮やかな血色を受けた雲が立体的で禍々しい怪物のようだ。
万物の輪郭が曖昧にぼやける逢魔が時から、全てが境界を失くす日没へ時は進む。
郷愁を誘う筈の風景が酷く不吉なものに思えてレイスは身震いした。
さっさと確認してしまおう。
門番の近衛に許可を取って大扉に触れようとすると、前庭から続く大階段からこちらに来る人影があった。格好からして軍人魔術師、しかし纏う空気の異様さはどうしたことか。
官舎の帰途につく疎らな人波が下っていくのに対して、その人物は一人上ってきていたためよく目立った。門番四人の内、即座に気付いた一人の近衛騎士が、影絵のような出で立ちの魔術師に近付いていく。
レイスの背筋に崖の淵を歩くような緊張感が這い回る。
大階段は立っているだけで魔術の行使が困難になる、通常封魔の枷に使用される稀少な鉱石が使われている。その階においては、仲間を含めた魔導師団八十余名全てを思い返しても、簡単に魔術を行使できる者などいない。
ましてや、口の動き一つで発動させるなど。
「っ門を閉じろ!」
騎士が崩れ落ちた瞬間、反射的に決を下したレイスは叫ぶ。
残った三人の中で従ったのは二人。一人は仲間を助けようと走り、僅かな後に同じ末路を辿った。
容赦なく門を閉ざしたレイスは、状況を知らず罵倒してくる官僚を意に介さず、張り巡らせた通信魔具を使いながら魔術で拡声する。
「こちらアレイスター王宮魔導師団長。外殿正門前、敵襲だ。視認可能な限りでは敵は一人。しかし複数である可能性が高い。所属は不明。現在の犠牲者は近衛二名だ。万が一を考慮して門は閉ざしている。警備の者は別口から捕縛、不可能ならば殺害を。……あ、忘れてた。官僚の皆々様方は近衛の指示に従って避難してください」
数秒の沈黙、そして蜂の巣を突いた騒ぎが始まった。
その中でレイスは一人動かず大扉を睨み据え、近くから集まってきた近衛に待機の指示を下す。
現状戦力は護衛と自分を合わせて十四人。魔導騎士一人が中隊に匹敵するという通説を信じるならば、ここには連隊並の戦力があることになるが――。
「討って出ないんですか」
斜め前に陣取る護衛に問われ、レイスは即座に否定した。
「出ないよ。相手は一人じゃない。恐らく周囲に仲間がいる。能力も人数も未知数。どこから侵入してくるかも分からない。だからこの大扉が閉じていることが重要だ。昔からある王宮ってのは一種の魔導要塞だからな。正面玄関を閉ざす、つまり訪問者を拒否する施錠の概念が働いて結界や防御術式が強化される」
「はあ、そうですか。アンタは避難しなくていいんですか」
「突破されない限りここが一番安全だ。安心したまえ」
「突破されない限り……ねえ」
そう言って護衛が見上げた魔術で加工された重金属製の扉は、突如として異常な軋みを発し始めた。
「まずいんじゃないですか。避難してくださいよ」
「まだだ。逃げ出すのはせめて敵を知ってからだ。じゃないと司祭に色々言われるだろ」
液体の塊をぶつけるような、粘ついた不気味な衝撃音が繰り返し響き渡る。
扉はその性質上魔術を拒む。ならばこの攻撃は実体を持った何かが行っていると推測されるが、この音は一体。
軋みが大きくなるにつれ息を詰めた一同の顔色が悪くなっていく。レイスはこの場の指揮者として兵を鼓舞する、或いは最低限士気の維持をする役目があったが、元より研究が本分の魔術師だ。出来るのは状況の報告と、周囲へ覚悟を促すことくらいだった。
「大扉、正体不明の攻撃を受けている。兵は急いでくれ。――来るぞ。備えろ!」
一際大きな一撃により、大扉は呆気なく陥落した。
レイスは間髪入れず練り上げていた魔術を放った。そこらに漂う冬の冷気を掻き集めた氷弾だ。拳大の氷は着弾すれば爆ぜて対象を周囲ごと凍てつかせる殺傷力の高い術である。
蝶番が弾け飛ばんばかりの勢いで開いた扉は、その先に居る敵ごと白い冷気に包まれた。
氷弾は当たったようだが、念のため大きく張った防壁は解かず、風で冷気を散らす。
吹き払われた白煙の中から現れたのは、砂鉄を流体にしたような不定形の半透明な黒い何かだった。
レイスは狼狽して一歩下がる。
発動し切った魔術が効かなかった。それにいつの間にか大扉周辺を守る術式が気配すらなくなっている。あれほど入念に書いた魔術も、元から施されている古の護りも、何もかも痕跡すらない。
この場において一番疑わしいのは黒い塊だ。
それは汚らしい水跡を残しながら動いている。一応生きているようだが意思があるかは怪しい。ねちゃりと糸を引いて零れるように進み、レイスたちの方へ迫ってきている。
護衛が慄いたように剣先を揺らしたのは仕方のない反応だろう。小さければ不恰好な生物だと一笑に付すことができたが、それは馬一頭がすっぽりと浸かる高さと幅がある。そして半透明の内部には、薄っすらと死んだ近衛騎士が二人浮いているのだ。
「投降するならば命は助けましょう」
耳から背筋を震わせ腰に直接響く官能的な声が場違いに響き渡った。
黒い塊の後ろから現れた目も眩む美女から発せられた声のようだった。赤銅色の髪に見事な碧を湛えた瞳、小作りな色白の顔。すらりと伸びる肢体も素晴らしく、その気になれば容易に国一つを傾けるに違いない。
レイスは一瞬だけ奪われた思考を危なげなく引き戻し大きく手の平を打ち鳴らした。
その魔術干渉で魅了に絡め取られそうになった何人かの近衛騎士が我に返るも、踏み込んできた数人の軍人により三人の命が刈り取られる。
やはり単独犯ではなかったか。
黒い怪物の後ろに隠れてはいるが、軍人が大挙しているのだろう。正面からとは剛毅なことだ。
畜生、とレイスは大きく舌を打った。
「魔術師は僕が抑える、キミたちは」
勢い込んでそこまで言った刹那、ずちゃり、と怪物の這う音が耳についた。
微かに目線を動かす。味方の命を奪った軍人がこれ見よがしに死体を担ぎ、無造作に怪物の中に放り込んでいる。
怪物はぶるりと歓喜に身を震わせ、目に見えて大きさを増した。
レイスの頭に火が灯る。
怒りではない。探求心だ。魔術師として最も重要な感情が脳を支配していく。
疼く思考に従ってレイスは怪物に小さな火を放った。薪を起こすのに丁度良い大きさの火は予想通り吸収される。そして僅かに怪物は成長した。
――魔術を分解して糧にした?
しかし魔術干渉の気配は一切ない。怪物に触れた瞬間、勝手に魔術の方から解けたような手応えだった。まるで定められたが如く、だ。
相手が力を持つ高位の魔物ならまだ理解のしようがある現象だ。無意識に発する魔力が魔術を打ち消す。そうやって説明が付けられる。
しかし発する魔力も極小で、知性も何もないような低俗な物体が、そんな現象を起こし得るものなのか。
「それは……生き物か?」
「こちらに来れば幾らでも教えて差し上げますよ。さあ、裏切りなさい」
女は満面の笑みでレイスを手招く。
非常に心惹かれるお誘いではあるが――レイスは皮肉げに片頬を歪めた。命乞いにはまだ早い。
手の平に灼熱を作り出し怪物の真上に放つ。爆砕音と共に壊れた門と周辺の天蓋が怪物と女の頭上に降り注ぐ。
「やるんですか」
「勝機がないわけじゃないからな。外から兵が来ているはずだ。そうすれば挟撃の形に……」
煙が晴れた先には怪我一つない女と怪物、その背後には目算で五十名程の軍人が控え――その更に後ろを見たレイスは勝機という言葉を撤回した。
暮れた空に飛び交う夥しい影。
思わず我もなく上空を見渡すと遠くの方に発光する魔法陣があり、そこからエイの形を取った海魔が吐き出されている。
耳を済ませば交戦の音と怒号が聞こえる。
増援は来ない。
****
ものの数分で決着は着いた。
足元に転がった護衛の生首を見遣ったレイスは眉を寄せて痛いものを堪えた。そして展開していた防壁を解除する。
見渡せば、両腕が無い者、足が欠けた者、内臓が飛び出している者、胴体から二つに割れている者――瓦礫の中に事切れた無残な仲間。未だ血から湯気が立っている。
無残な敗戦だ。そして非業な有様である。
しかしレイスは心中騎士の健闘を讃えた。敗北明らかな多勢に無勢、だが彼らは一歩も引かず相手を十も削った。数の上では刺し違えた計算になるが、それ以上の奮戦を見せていたのだろう。
個々の力は相手よりも上回っていた。
――それだけに悔しい。援護すればまだ保っていた。
黒い怪物を忌々しく睨む。女の命令で伸び縮みする怪物はレイスの魔術を悉く吸収した。微かにも攻略口が見えず、敵の魔術師が放つ攻撃を相殺するだけで手一杯だった。
降参すべきだったのか。
もしくは、自分にもう少し力があれば、違う結末があったのだろうか。
文句一つ言わずレイスの指示に従ってくれた近衛騎士たちを死なせてしまった。腹の底に蟠る煮えたぎった慚愧は持て余すほどに大きい。
「僕は殺さないのか」
防壁を解いたせいか、敵は戦意喪失と見做してピタリと攻勢を止めている。戦闘の熱狂というのは収まり難い。なのに誰一人として殺しにこない統率が不気味だ。
何よりも、それを行うのが反逆の首謀者ではなく一人の女魔術師であるということが。
「魔導師長アレイスター・ファーガス。貴方様なら、どちらにつくのが賢いかお分かりでしょう?」
嫣然と微笑む女に、レイスはゆっくりと両手を上げた。
通信を壊される前に怪物の特性は報告した。充分に義務は果たしたと言える。ここからは生存のみを考えればいい。
「投降させてもらう。こんな所で死んで死体をシャムハットに弄くり回される趣味はないんでね」
「何のお話かしら?」
「ありゃ、違いましたかな。奴らは魔物の改造が得意でしたから」
勘に従って口を吐いた言葉に女は目だった反応を見せなかった。
一昔前に国を騒がせた邪教集団シャムハット、その残党。サタナが掘り返したその名が実体を持ったとすれば、痛烈な皮肉になったのだが。
その真偽はともかく、レイスはそれを聞いて面食らうサタナの反応を見ることはなさそうだ。
「拘束なさい」
女の一声で走り寄ってくる軍人は五名。
実に用心深いことだ。こちらは魔術だけが取り得の枯れ木が一人だと言うのに。
「本当に、用心深い……」
口に入った汗を吐き捨てて呟いたレイスを取り囲んだ軍人たちは怪訝そうにし、一刹那の時間動きを止める。何事もなく動き出した彼らに従い、レイスは粛々と連行されていく。
そして女の横を通り過ぎた――その瞬間。
「殺れ」
レイスの命令で五人は一斉に女に襲い掛かった。
精霊文字を介さない魔力行使、全身全霊の支配によって五人は一時レイスの下僕だ。魔力の枯渇で血を吐きレイスは笑う。
怪物を打ち倒すのは不可能だ。だったら災禍の使役者を消せばいい。
レイスの目には白刃が女を斬り伏せる未来が確かに映っていた。
「――意外でした。この局面で尚歯向かうなんて。国王にそれほど尽くす価値があるとでも? 全く、愚かな人だわ」
不意に体の力が抜け、膝を地面に落とす。
視界の中央に我に返った軍人が映り、その真横を海魔が飛び去っていく。
背中が熱い。
びちゃびちゃと液体が地面を跳ねる音がし、下を見ると血溜まりが満潮に変わる干潟のように広がっていく。口内にも血の味が充満した。吐き出さなければ呼吸も困難なのに、喉はひくついただけで、せり上がってきた吐血の半分は元の臓腑に落ちていく。
無意識に残り滓の魔力を掻き集めて治療を始めるが、どう楽観視しても止血程度にしかならないとレイスにはわかった。
死期を悟る。同時に寒々しい耳鳴りが聞こえてきた。癇に障る女の呆れ返った声が遠い。
「本当に馬鹿だわ」
「生け捕りはできなかったのかね」
「元帥様。魔導師長に恭順の姿勢は期待できませんでした。いつ寝首をかかれるか分からないでいるより、ここで殺してしまった方が良いというもの。マシュキの食べ物にもなりますから」
「ふん。最後は餌か。哀れな男だ」
レイスは膝立ちのままゆっくりとシャックス元帥を見上げ、にたりと口の端を上げる。
「これはこれは、元帥殿……餌に、されているのは、どっちでしょうなあ……」
シャックスは鼻で笑う。
「私は部下を御している。それどころかキミたちの英雄も手の内。思うがままですよ」
「ああ……アルクゥ殿は、生きてたか……じゃあ、怪物退治は、心配しなくても、いいか……な」
「聞いていなかったのかね? 彼女は」
「そうだ。彼女は、英雄だぜ。……お前の、手の平なんかに、収まるかよ」
レイスは歪んだ元帥の表情を満足げな気分で見遣り、崩れ落ちて血潮に顔を埋めた。
シャックスが反逆の徒を指揮する声が離れていく。軍靴が目前を過ぎていくのを見送っていると、上から艶やかな声が降ってきた。
「――やっぱり助けて差し上げましょうか? 条件付きだけれど」
レイスは返答を考えもせず反射で最大限の侮蔑を言葉に込める。
「は……うるせえよカマ野郎。サタナに殺されちまえ」
「……そう、残念」
親切にも背中を蹴り付けてくれたようで、喉に残っていた血反吐が抜ける。
レイスは相手の勘気を知ってヒューヒューと声にならない笑い声を上げ、薄れる意識で生に別れを告げる。
義侠心と言うおよそ縁がないと思っていた感情で死ぬ羽目になったが――存外、悪くはない。
****
簡素なベッドに横たわったアルクゥは、高熱に魘される体を意識の後ろ側から冷静に自覚していた。
宣言した五日が経過し体内の損傷はその通り治っているようだったが、今度は封魔と体内の魔力が反発した。無理に魔力を動かしすぎたのだ。
汗が後から後から流れてるのを世話係の女が眉を下げて拭っている。その手は乳母や母の柔らかさを思い出させる。動き難い口を動かして「ありがとうございます」と呟くと、彼女は目を丸くして微笑んだ。
情を移してくれたのなら都合が良い。
後に利用できる人材の確保に励もうと更に喋ろうとしたが、激しく咳き込んで失敗する。
落ち着いた頃には激しく体力を消耗していて瞼が勝手に閉じていく。意識が体を剥がれる感覚にアルクゥは身を任せた。
夢現の狭間にも熱は追ってくる。
紛れもない悪夢を振り払おうと首を振るアルクゥは、ふと頬を撫でた風に目を開けた。
横たわって見える部屋の風景はそのまま、しかし先程まで居た世話係は消えている。
その代わり風を従えた人影があった。
視界の範囲内に移るのは胸元までで顔は見えない。
誰だ、と誰何する。なんだか妙に自分の声が遠い。相手の声もまた然りで、薄い壁を隔てたような調子で返答を寄越した。
最後の心残りを果たしに来た、と。
――全部キミに教えて行こうと思うんだ。
人影はそうやって笑う。
アルクゥは小さく首肯して耳を傾けた。
****
わたしがつい大聖堂の高さを変えた日、片目と引き換えに知識を直接譲り受けた。
聖人についての、二百年の集積。
信仰に全てを捧げた女から受け取ったそれは、わたしに一つの確信を抱かせた。
聖人はかくあるべしとして選ばれた存在ではない。
名声を聞きつけた精霊から無造作に調整能力を投げ渡されただけの人間だ。古来より賢帝や勇者に聖人が多いのはその為だろう。尤も記憶をくれた彼女は気付いていなかったようだけれど。
わたしの経験に照らすと、北領の廃域から湧いた魔物を討伐しているときだ。英雄なんて囃し立てられるようになり始めた頃だね。
風の大狼霊ウェプウェトが訪れた。原初の大精霊が遣わした世界の秩序たる四神の一。
そう、彼はわたしの評判を聞いて訪ねて来たんだよ。狼のくせに野次馬だね。でも彼らの目的からすると結構理に適っているんじゃないかな。
精霊は人間にも世界を律して欲しいと思っている。
だから歪みを正すべき人間を選び出す。
あちら側の光は力になる前の核。天候や地の恵み、生命の出生すらも掌握できる根源の物質だ。月陽樹の頂上を見たことはあるかな。
聖人はそれに触れられる。
そうだよ。わたしたちの持つあちら側に行く力のことだ。
でもやはり人には荷が勝ち過ぎる。わたしたち人間が持つ強い感情や理性にとって光は優しくない。浴び続けた分だけ自分というものが軽くなってしまうんだ。
だから自分を重く保てばいい。
一人で駄目なら誰かに手伝ってもらえばいい。
他者と深く繋がるのは有効だ。例えば力を交換したり……ああ、キミが司祭と結んでいた契約も存在を留めるものとして良い方法だけど、今は名残しかないな。それはただの枷だ。一旦解消しなさい。
さて、心残りはこれであと一つだ。
今まで何をしたかって?
そうだな。土地や家の譲渡とか、わたしの第八師団の敵を排除するとか、他は――人間であることに拘ってみた。さだめに抗ってみたかったんだよ。でも私はこちらを選ばざるをえなかった。
何だ。そんなことを心配していたのか。暗殺なんてしないよ。
大聖堂の高さを変えてしまったのは、悪いことをしたと思ってるよ。けどあれはものの弾みというか、真実を知った衝撃で、ほら。わたしはこう見えて血の気が多いんだ。
それに彼女は残りの眼球も欲しがったから正当防衛かな。
ああもう脱線したじゃないか。話を戻そう。
これはとても言い難いことなんだけど――ああ、キミは今情動がないんだっけ。じゃあ遠慮なく。
ネリウス様は魔障や呪いがあるわけではないんだ。
治す箇所は存在しない。
勝手に調べてごめん。だけどキミの無茶を見てどうしても気になったから。
彼は過去、何らかの方法で自分から四神のどれかに接触したんだろう。それは理を曲げた行いだ。
人にあらざる偉業。賞賛に値する功績。
けれどそのせいで彼の力が大きな存在に引っ張られている。恐らく一度目の邂逅で予期せぬ繋がりができたんだ。聖人と神の間にある絆を歪にしたような。それが神の再接近で開いてしまった。
神は人を愛することはあっても憎むことはないのだと思う。ゆえにその接近には敵意も悪意もなく、ただの偶然の結果だったのだろう。
キミの師匠は治らない。
よってアルクゥ。キミがここに転がっている理由なんてはなから存在しないんだ。
早く起きて目を開くんだ。外は大変な騒ぎだよ。起きないとキミはきっと後悔することになる。
わたしも、わたしが無くなる前に行く。せめて友人の助けになる為に。あとギルが仕出かしたことのお詫びに。
彼が、悪かったね。でもわたしがアイツの立場でも同じことをしたかな。友人とはそういうものだから。
わたし? ああ、大丈夫だよ。言ったろう、絆があるんだ。
さあ起きて。
キミはもう思うがままに動けるはずだ。




