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精霊のシジル  作者: 染料
四章
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第四十五話 密やかな背反


 夜目にぼやりと浮かぶ白い床に、煤けた濃紺色の塊がカサカサと這いずり回る様を、外殿を巡回している二人組の近衛が気味悪そうに一瞥していく。

 塊はそんな生理的嫌悪を向けられたことを歯牙にもかけず、腹這いでガラス製のスポイトから赤黒い液体を滴らせ、細い筆で文字を描く。一文を書き終えるたびに文字は薄っすらと燐光して暗闇に罠の完成を知らせた。

 レイスはこうして夜な夜な、随所に侵入対策の魔法陣を書き込んでいる。

 仕組みは単純極まりない。許可証を持たない者が踏めば一般兵士が瀕死になる程度の魔術が発動するといったものだ。魔力保持者相手には心許ない罠で、こうして暗いと目立ってしまうが、隠蔽や威力を上げるには時間と手が足りない。あくまで数ある魔術的防衛策の一つと割り切って、襲撃の際に敵のふるいを期待するくらいのものである。


 さて、と最後の文字を書き終えたレイスは立ち上がり、冷えた懐から外殿の見取り図を取り出して印を付けた。部下の仕事と合わせれば、大雑把だがこれで一先ず外側は囲んだことになる。

 隈の浮いた目を擦り、達成感と徹夜四日の高揚感からへらへらと笑う。先程から聞こえる上司の声をした幻聴にも機嫌よく、全くふざけた言葉を返しながら、研究室兼寝室へと歩を向ける。

 するとしばしの後、後頭部に鈍い痛みが走った。「あぐっ」と舌を噛んだ上にすっころんで悶絶する。


「て、敵襲」

「仕事の進捗状況を訊いているんですが」

「この幻覚上司野郎、徹夜で仕事に励む部下になんたる仕打ちを……ありゃ、一人で出歩いていいのかお前。ヤクシとか竜殺し殿は?」


 レイスは術式を踏まないよう慎重に床に手をついて身を起こし、暗闇に目立つサタナの白い顔を見上げた。ピクリと跳ねた柳眉に不機嫌を察する。それを笑うと向こう脛を蹴られた。

 からかうことに命を懸けるべきではないと早々に仕事の状況を伝える。サタナは二、三度頷いて納得した様子でふらりと踵を返した。慌ててその背を追う。


「ちょっと待て。だから、護衛は」

「ヤクシは休憩中、竜殺しは失踪中でその他は別の仕事にあたらせています」

「ええ、失踪ってまた……あっ、なるほど。今度こそ愛想つかされて逃げられたか」


 サタナはピタリと足を止め冷めた眼でレイスを見下ろした。

 レイスは上等な人間を揶揄したくなる性癖を呪いながら諸手を挙げ、事態が事態なので寝不足で呆けた頭に魔力を巡らせた。レイスの頭に事の重大さと寒さが凍みる数秒を待って、サタナは怠そうに口を開く。


「トゥーテが少し目を離した隙に姿を消したそうです。貴方の言う通り愛想をつかして出て行ったのか、やむを得ず・・・・・消えたのか、軍部に捕縛されたのか……ユルドが方々に探りを入れています」

「その、やむを得ず消えたっていうのが分からないな」

「能力上の副作用と解釈してください」

「体や寿命を生贄にする魔術?」

「似たようなものですかねえ。無理をさせてしまいました」


 半ば独白のように呟いたサタナは、再び密やかな足音を立てて歩き出す。

 背筋と両手を確りと伸ばした歩き方は軍人のそれに近い。


「待てって。アルクゥ殿はどうするんだ」

「当然、失踪については隠して探します。まあ本気で隠れられてしまえば見つからないのですが」

「どんな事情で引き抜いてきたか知らないが、もう少し彼女への信用があってもいいと思うがね僕は」

「今まで手元にあったことが僥倖だったのでしょう。彼女は充分働いてくれました」


 前回失踪した時とは打って変わった装いにレイスは首を傾げた。

 サタナがそう決めたのなら末端は従うのみだが、本当にそれで良いのかは疑問だ。

 竜殺しの噂が実体を持ったのは昨日の今日で、少なからず状況に揺らぎを与えている。及び腰でいつ裏切るともしれなかった連中には、手の平を返して友好的になった者もいた。妬みや嫉妬の声も大きいが、歓迎の方が強い。

 市井に出回る逸話を纏った見目の良い娘は、民の支持を得た「英雄」という権威である。国王陣営にとって手放すには痛すぎる人材であろう。

 にもかかわらず、だ。レイスは肩を竦めた。


「私情を挟むなとは言わないけどな」

「いつまでついて来るつもりですか」

「僭越ながら上官殿の護衛を」

「まあ的くらいにはなりそうですねえ。私が暗殺者なら隙だらけの貴方から始末します」


 サタナの笑っていない瞳を見た瞬間に息が止まる。

 冗談の域を越えた威圧に、これが殺気というものかと落ち着いて呼吸を取り戻す。深呼吸すると肺に優しくない冬の酸素に激しく咳き込んだ。


「うえっげほ……なんて酷い奴」

「私には護衛などいらないんですよ」

「驕りは死神を招きますぜ上司殿。僕みたいなのは命乞いして寝返ればいいけど、お前は違うからな。用心するに越したことはない」


 ケヘケヘと笑いと咳の間を彷徨う吐息を漏らしながら言うと、サタナはようやくいつもの笑みを浮かべた。


「堂々と裏切りを宣言されても困りますね。牢に転がして差し上げましょうか」

「いやいや喩え話ですよう。まあ、本当に死にそうだったら保身に走るがね。僕じゃなくてもそうだと思うぜ。命は大事だろうし、中には家族がいる奴もいる。だから精々負けないように努力することだな」

「――保身か」


 ぽつりと澄んだ水面にどす黒い一滴を落としたような呟きだった。

 気安いとはいえ砕けすぎたか。恐る恐るサタナを見ると、視線は遠くを向いていた。

 レイスは災いを呼びそうな己の口にきっちりと蓋をする。

 近日、軍部が周辺都市に何事かを働きかけ、王都郊外では物騒な集団が目撃された。官僚は長期休暇を申請する者が後を絶たない。

 決着は刻々と近付いてきているのだ。

 殊にサタナにとっては生死を左右する戦いになる。敗北すれば国王は殺されずともサタナは必ず処刑される。

 不用意なことを言って気を逸らさない方がいいだろう――とレイスは心ここに在らずの様子を呈するサタナを見て、手遅れ気味に考えたのだった。


****


 薄暗い室内で白く浮かぶ手を眺めていた。

 荒れた肌、指先と視線を辿り、黒い渇いた血がこびり付いた爪に行き着く。

 怪我をしているのかと曖昧な意識で疑問を感じ、長らく考えて肉から爪が剥がれる感触を思い出した。

 アルクゥは一つ瞬く。

 すると拡散し茫洋と掴みどころがなかった意識に痛みが走った。

 体を丸めると苦痛の出所がはっきりする。

 腹部がじくじくと蝕まれるような痛苦に騒いでいるのだ。

 ひゅ、と上擦った息を慎重に吐き出していく。二つ目の瞬きで、アルクゥの脳裏に軍人風の男が数人浮かび上がった。

 回想の中で、その内の一人が何度も何度もアルクゥの腹を踏みしだいている。暴力と一緒に力なく跳ねる細い手足に、一番偉いような佇まいの男が顔を歪ませて悦んでいた。

 

「ええ、ええ、お嬢さん。強情なのはとても良いことですとも。貴女はその存在だけでなく内面も真に価値あるお方だ。流石は竜殺し。だからこそ貴女は、真に価値ある者に忠誠を誓わねばならない。誰と契約を交わしたか教えてください」


 アルクゥが答えないでいると、頭目の男はその細面を神経質そうに引き攣らせ、アルクゥの左腕に重い軍靴の底を落とす。


「まあ良いでしょう。ハティフロウズに代わる聖人、国民の覚えも良い英雄が手に入ったのは美味しい。見ていてください。やがてこの国は、歴史の中で最も大きな版図を持つ。強大で豊かな国になる。いずれ貴女には指導者わたしの子を孕んでいただきます。聖なる血脈ほど国民を納得させるものはありませんから――」


 天の石版という宝具で聖人であると判定されたのは昨日だったか一昨日だったかそれとも今日の出来事か。

 はっきりとしない。

 アルクゥは寝返りを打って痛みを反復し、記憶を手繰り寄せようと瞬きを繰り返す。すると何の脈絡もなくサタナたちとの会話を思い出した。


「決起前に片割れを殺すなど思い切ったことをする。フラウロス元帥閣下もこの時期に首を狙われるとは思っていなかったのでしょうねえ」

「一人死んでくれたのは良いことなんですけど……」


 顔に似合わず辛辣な言を吐いたユルドは、眉を下げてアルクゥを見る。


「まんまと擦り付けられちゃった感じよね。大変ねえ」

「国王の陣営にいる者なら誰でも良かったんだろう。だが目を付けられたのは軽率な振る舞いのせいだ。自覚しろ化物」

「ヤクシ!」


 ユルドに咎められたヤクシは顔を背けるが言葉を止めない。


「あの対立のせいでこちら側にさえその化物が犯人だと思っている人間がいる。侮辱に対する報復だとな。そういった噂を理由に軍部は強い態度を取っているわけだ。犯人扱いをして捕縛、あわよくば英雄とか言う聞こえの良い称号を持つ化物を取り込もうとでもいう腹だろう」


 渦中のアルクゥは執務室にいる三者を見遣ってようやく口を挟んだ。


「私が犯人なら骨も残しませんけど」

「そういう問題ではない馬鹿か貴様は。馬鹿か。阿呆か」

「わかってますよ。出頭要請に応じるか否かの問題でしょう。責任は取ります。都合が良い方を命じてください」


 後半部をサタナに向ける。皮肉げに歪められた口から受け取った答えは否。決して隙を見せるな、捕まるなという命令だった。しかし――。


「起きろ」


 水をかけられて思考を中断する。

 のそりと顔を上げると、視界に映った顔中古傷に覆われた軍人の男が水差しを引っくり返し残りの水を零した。鼻と口から流れ込んだ水に大きく咳き込む。

 しばらくして息が整う直前に男はアルクゥを蹴り上げた。決して意識が飛ばない力加減で、確実に苦痛を与える調節をして。

 「喋れば楽になる」とアルクゥの持つ情報を問いながら淡々と実行される暴力は、血を吐いた時点で終わりを迎えた。後ろに控えていたもう一人の軍人がさっと間に入ってアルクゥを囲む治癒の魔法陣を書き始める。


「どんだけやっても無駄みたいだなぁ。全く手応えがない。主従契約とやらで命じられているのか、それとも常人じゃないから精神構造も違うのかもしれないなぁ」

「……聖人様にこのようなことをして、罰されませんかね俺たち」

「天罰が下るとすれば真っ先に元帥が死ぬさ。薬はどうする? 効き目が薄くなっているようだけど」

「魔物を材料にした薬で、これ以上強いものは毒しかないですよ」

「普通の薬は駄目なのか?」

「そもそも魔力持ちに普通の薬は効きません。魔力を含んだ薬じゃないと。もう混濁させたままというのは無理でしょう。そうなれば封魔の手枷がどれほど信頼できるかに掛かってきますが……」

「その辺りはキミら魔術師が何とかしてよね。俺はただの尋問要員で魔術は門外漢だ」

「俺もただの治癒術師なんですけど。ああ本当に恐れ多い……」


 治癒術師は顔を青くしてブツブツと文句を言いながら手早く陣を書き進めている。

 そういえば剥がされた爪を再生させたのもこの男だった。優れた技能を持っているのだろうに、拷問の片棒とは勿体無いことをする。

 拷問、とアルクゥは自然に選び出された言葉に自分で納得した。

 薬で曖昧にされていた期間の記憶と思考が急激に戻ってくる。

 それは痛みの回想でもあった。

 初めに意識を混濁させる薬と自白剤らしきものを飲まされ、何度も吐き戻して効かないと分かると暴力に切り替わった。五指を折られ、顔を殴られ、爪を剥がされた。その度に完璧に治す治癒術師が有能なのか、治せる匙加減で暴力を振るう尋問官が優秀なのか。 

 恐怖など幽世の彼方だ。暴力が脅しになることはなく、アルクゥは一度も何も喋らなかった。もっとも、喋っていたとしてもアルクゥが知る情報など雀の涙より少ないので、彼らにとって有益になったかは疑問だが。


 アルクゥは更に記憶を手繰り、サタナの元を離れてから訪れた朝と夜の回数を数える。

 大体四日くらいだろうかと当たりをつけて、目の前にいる二人を観察する。

 気弱そうな治癒術師と、一見普通の好青年に見える尋問官。

 窓に鉄格子が嵌っているこの部屋で繰り返された暴力と治療は数えるのも面倒なほどだ。尋問官もいい加減飽きたのか惰性が見える。アルクゥとしてもこうやって意識を取り戻した以上、だらだらと不毛な痛みを受け続けるつもりはない。


 深く切った唇を舐め、術の行使を始める治癒術師に意識を向ける。

 その気弱な顔が困惑に変わるのを見て取り、アルクゥはゆっくりと瞼を下ろした。治癒や再生は繊細な魔術だ。封魔の縛めの中で動かせる微かな魔力の干渉でも簡単に止められる。

 恐らくは――目論見通り、軍は自分を利用しようとしている。彼らはアルクゥを殺さない。よって傷を負った状態での拷問は行われない。


「何のつもりですかね聖人様」


 異変に気付いた尋問官が髪を掴む。アルクゥは持ち上げられた血塗れの顔で礼儀正しい笑みを返した。


「怪我が治る頃にまたお会いします。そうですね。五日あれば自然に治るかと」

「……とんだ聖人様だな。不気味だよアンタ」


 尋問官は絶句する治癒術師を引き連れて退室した。

 その後に訪れた世話係の女も、アルクゥの有様を見て悲鳴を上げ逃げていった。

 アルクゥは体を丸めて冷気を含んだ絨毯に顔を擦り付ける。暗い瞼の裏に思い浮かんだのは意外にもサタナの顔だった。

 ここを出るときには死体になっているかもしれない契約の主。できることなら勝ってほしいが、勝敗はどちらに転ぶか分からない。


 だからこそ、アルクゥには勝利がどちらの手に渡っても良い保険が必要だった。

 ネリウスが静養する特殊な病室は国費によって動かされている。軍部が勝てば当然そこも管理下に置かれ、膨大な魔石を使用している病室を不審に思うだろう。

 アルクゥの一番の目的はネリウスの快癒だ。他を顧みずその一点のみを考えれば良い。

 軍部が勝った暁にも今まで通り治療を続けてもらわねばならない。

 よって元帥殺しの嫌疑は渡りに船だった。

 国王陣営から見れば不当に捕らわれているように見え、軍部から見れば都合よく手に入った利用価値のある肉の袋。

 死を見据えて実行した賭けはアルクゥの大勝だ。どちらからも敵と認識されない状態を見事手に入れることができた。

 国王が勝てば今と変わらず、軍部が勝てば恭順や従属との交換で師の安全を買う。

 後者だとヴァルフには逃げてもらう必要があったので、手紙で計画は伝えてある。

 後はここで結果を待つだけだ。


 この行動を裏切りと呼ぶかは知らない。


 だが痛む胸がなくて良かったとは思う。

 アルクゥはもう一度主の顔を思い浮かべ、傷を癒すまどろみに意識を沈めた。



   


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