第四十四話 分岐点
執務室から出て行くとき、ふと振り返ってみる気になった。
余裕なようでいて忙しく仕事をこなしている真っ白な聖職者を視界に収める。
「どうしましたか」
命を狙われる者の性なのか、サタナは他人から向けられる気配に聡い。書類に掛かり切りの体勢はそのままアルクゥに問いかけた。
しばらく無言で佇んでいたアルクゥは、サタナが手を止め顔を上げそうにそうになった瞬間「何も」と答える。
「私は行きますが、無理はしないでください」
別れに相応しく空々しい言葉を吐くと、外に出て扉を閉める一瞬の隙間からサタナの訝しげな顔が見えた。柄にもない事は言うべきではないという教訓だろう。
「昼食ですか?」
「近衛の休憩所に行ってからと思っています。いつも付き合せてしまって申し訳ないのですが……」
「とんでもない」
はにかんだ笑みで快諾したトゥーテと近衛騎士団に宛がわれた休憩所を訪れる。
机と椅子のみが並ぶ簡素な部屋には休憩する数人の騎士がいたが、アルクゥたちが入るとピタリと会話を止めた。
「どうした嬢ちゃ……あー、いや、大尉殿?」
気安く手を上げたクロは周りを憚って笑みを潜めた。
大きな声で話したくはなかったので手招きすると、他の騎士の眼光に大きな体を縮めながら近寄ってくる。外に出るまでそうしていた。
「ふう、危なかったぜ。危うく袋叩きだ」
「意味が分かりませんが、ヴァルフに伝言頼めますか?」
「おう任せろ」
トゥーテは心得たもので、会話が聞こえない場所で待機している。それを確認したアルクゥは胸を張ったクロにこう伝えた。
「最近忙しいのでネロ……ええと、ケルピーの世話をして欲しい、と」
「ああ、わかった。けど言っちゃ悪いが、アイツも結構忙しいぞ。腕が立つ奴は最近陛下や重臣の警備に出ずっぱりだ。ケルピーちゃんは近衛の獣舎に移したんだろ? あそこにゃ魔物の世話に慣れた使用人がわんさか雇われてる。心配しなくてもいいんじゃねぇか?」
「顔を見せるだけでいいのです。住む場所が変わって過敏になっているようなので。私は今ちょっと気軽に外に出られませんし、ネロはヴァルフに懐いていますから」
「ああ、そういうことか」
「できれば今日見に行ってほしいと伝えてください」
「わかった」
「ありがとうございます」
丁寧に礼を言って、鳥の巣頭の穏やかな大男を見上げた。
「どうした?」
「いえ、何でも。ではお願いしますね」
「おうよ。……あー、嬢ちゃん。気ぃつけろよ」
心配そうに見送るクロに小さく手を振り、アルクゥはトゥーテと再び歩き始めた。
人と擦れ違うたびに視線がしつこく追ってくる。中には竜殺しにおもねろうと声を掛けてくる者もあったが、それはトゥーテが全て追い払ってくれた。
「苦労をかけていますね」
小動物のような愛らしい顔立ちが何回か鬼の形相に変わるのを見て、無意識の内に呟いていた。トゥーテはきょとんと目を丸くしてから眉を下げる。
「軍部の馬鹿げた言葉をお気になさっているのでしたら、その必要はありません。私はアルクゥ様の潔白なら命を懸けて証明する所存です」
「命は止めてください」
「でしたらこの魂を」
「それも止めてください」
フラウロスの焼死体が発見されて丸一日。
元帥殺しの嫌疑をかけられたアルクゥを引き渡すよう、軍部からサタナに要請が出ている。現場不在を証明した護衛のトゥーテにも共犯として疑っていると仄めかされていた。
外殿から一歩でも出ようものなら、目を怒らせた軍人に捕らえられるか、闇討ちでもされるかと言った有様だ。宿舎にも帰れないので、外殿の客室を使わせてもらっている。
「あのギルベルトとか言う男……」
「彼も強要されていたわけですから、仕方ないのです。私の行動が軽率でした」
フラウロスを排除したのはシャックス元帥だろうというのが、サタナや軍を監視していたユルドの見解である。目指す先は二人とも軍閥だが、思想は微妙に食い違っていたという。決起後を見越し先んじて指導者の地位を争う邪魔者を排除し、指揮命令系統と思想の統一を図ったのだと思われた。
ばれてしまえばフラウロスの手勢に反旗を翻され戦力半減どころか命すら危うくなる所業だ。しかしこの緊迫した時期に味方を殺すわけがないという先入観と、二日前の騒動が目隠しとなり、罪をアルクゥに擦り付けることに成功したようだった。
――こちらとしても良い機会だ。
労を増やすのは忍びなく、危険の大きい賭けではあるが。
「昼食に行きますがトゥーテさんはどうしますか?」
「勿論お供いたします」
「では一緒に食べましょうか」
アルクゥは企みをひた隠す笑みを浮かべ、護衛の目を掻い潜る計画を頭の中で繰り返す。
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「おい三白眼野郎。鳥頭が呼んでたぞ」
「そうかクソガキ。伝言ご苦労」
「んだとこの野郎! 俺の方が先輩だぞ!」
「俺の方が年上で階級も上だけどな」
「くそっ魔術師特権め!」
国王の警備を交替すれば、夜警前の長い休憩時間が訪れる。
仮眠を取るも良し、市街に繰り出すも良し、近衛の自由は幅が広い。
ヴァルフはラトという若い騎士をあしらいながら、今しがた聞いた用事を先に済ませようと詰所に向かう。
鳥頭ことスキャクトロの大柄な姿を見つけ背中に声を掛けると、農作業が似合いそうな顔が温和な調子で振り返った。
「よう、お疲れさん。嬢ちゃんから言伝だ」
「アルクゥから?」
「昼間に来てな。ケルピーの顔見に行ってやってくれってよ。近衛の獣舎に移したんで気が立ってるらしい。お前に懐いてるんだろ?」
「あの馬が? まさか」
「できれば今日行ってほしいとさ。確かに伝えたぞ」
ケルピーは懐いているどころかヴァルフを目の敵にしている。アルクゥが知らないわけがないだろうに。
奇妙な頼み事に眉をひそめるも、直接聞けば良いと思い直し微かな違和感を追いやる。どうせ今から会いに行くのだ。ここ数日で劇的に変化した環境に馴染めているか、気を病んでいないか様子を見に行くのが目的だった。有体に言えば心配なのだ。
一昨日からアルクゥが借りているという外殿の客間に向かっていると、道中で亜麻色の髪を靡かせた女と擦れ違う。
ただならぬ様子に思わず「そこの」と呼び止めると、女はどんな魔術を使ったのか、乱れ一つない隙のない微笑みを浮かべて急停止した。
「あれ、あなたは……」
しかし知り合いと分かると一転して気の抜けた表情になる。
「久しぶりねえ、アルクゥのお兄さん」
「お兄さんじゃねえよ。あー、ユルドだったか? 何かあったのか?」
「期待に沿えなくて悪いけれど、ちょっと忙しいだけ。あなたは何しているの?」
「いや、アルクゥに会いに」
ユルドはほんの一瞬口を引き攣らせ、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「アルクゥちゃんもまだ仕事中。たぶん今日は帰れないんじゃないかなぁ」
「聖職者の野郎と二人で夜通し仕事か」
「大丈夫。サタナ様は肉感的な女性が好み……って何言わせるのよ。じゃあ、またね」
「ああ。呼び止めて悪かったな」
「気にしないで」
半ば走るようにして去っていくユルドに、ヴァルフは重い溜息を吐いて踵を返し、空いた時間を伝言の中身に使おうと獣舎へ足を向けた。
近衛騎士団の宿舎近くに設置されている獣舎は、騎乗用の魔物が収容されている。
中は飛行型、馬型、獣型、特別房と四つの区画があり、ケルピーがいるのは馬の区画だ。
老人の厩番に案内を願うと、彼は皺だらけの顔をくしゃりと曲げて苦笑した。
「ああ、あのケルピーですか。英雄の騎でございましょう? 何とも、その、乗り手に相応しい、その……力強くて素晴らしい魔物です。それで近衛騎士様は彼に何用ですか?」
「飼い主からちょっと頼まれたんだ」
「英雄様とお知り合いなのですか?」
「それなりにな」
房の前に到着すると、ケルピーのギョロリと瞠った水面の瞳がヴァルフを出迎えた。激しく蹄を打ち鳴らして今にも襲い掛かってきそうな様相に、厩番はさり気なくヴァルフの後ろに隠れながら、
「昨日、英雄様に連れられてここに入った時からこの様子で」
「怪我でもしてるんじゃねぇのか」
「ああっお気をつけください」
ヴァルフが一歩近付くと、ピタリと威嚇行動が止まる。
「……なんだ?」
「おお、素晴らしい。さすが、騎士様です。魔物の扱いに手馴れていらっしゃる。それで、どんな魔術をお使いに?」
「いや俺は何も」
喜色を浮かべた厩番がいそいそとブラシを持って来て同じように近付くと、再びケルピーはいきり立った。ヴァルフは良いがお前は失せろ、と。そういうことだろう。
ヴァルフは厩番を下がらせてケルピーを見上げる。
「アルクゥから、何か言いつけられたのか?」
人語を解する幻獣に問えば、知性の光る目が気に喰わなさそうにヴァルフを一瞥し、魚の尾を激しく動かした。
後ろに回って覗き込むと、尾の付け根付近の鬣の一房に結ばれた紙を見つける。
ヴァルフは軽く息を詰め、慎重にそれを取り外した。
嫌な予感がする。
力任せに開きたくなる衝動を抑え、薄い紙を破かないよう丁寧に広げる。
目に飛び込んできたのは白紙に魔力を込めると、見知った文字がくっきりと浮かび上がってきた。
そこには心情を一切介さない淡々とした説明が綴られていた。
読み返すごとに、夜目が利くはずの視界が段々と色をなくして暗くなっていく。
ケルピーが鼻先を押し付けてきて、ヴァルフは息を止めていたことに気付いた。
「まだ、間に合う……アイツはまだ仕事に」
否、とヴァルフは希望を自ら打ち消す。
手紙の内容と先程のユルドの様子を併せて考えれば、事態がどのように進んでいるのか分かってしまう。
「お前はどうするんだ」
使い魔に聞いても栓のないことだが、動揺を鎮める為に問わずにはいられない。そんな心情を知ってかケルピーは間髪入れずヴァルフに頭突きを食らわせた。
柱に背を打ち付けたヴァルフはそのまま座り込んだ。
強く目を瞑り拳を握り込む。
爪が手の皮を突き破る感触、その痛みと血の臭いを胸に吸い込み――そして虚脱する。
ヴァルフはアルクゥを守る為、あわよくば主従契約を破棄させる為に王都へ来た、つもりだった。
しかし蓋を開けてみれば割り振られた仕事は王の護衛で、妹弟子がどんな仕事に就いているかも本人の事後報告で知るのみだ。
そしてその内容には偽りがある。
司祭はアルクゥの隠密能力を見初めて手駒とした。本人は護衛や補佐の仕事だけだと言っているが、司祭が能力を腐らせたままというのは有り得ない。
恐らくは諜報や暗殺といった危険な仕事をしているのだろう。
そこまで予想をしていながら、ヴァルフは今まで何の行動も起こさなかった。
司祭を殺すには難が多い。護衛に囲まれ、司祭自身の実力も未知数。それに国王陣営の要である――と、そんな言い訳を巡らせて、アルクゥを救い出そうとしなかった。
その根底にあるのは天秤だ。
片方にアルクゥ、もう片方にはネリウスが乗っている。
ネリウスは軍を放逐されたヴァルフを拾い、魔術師に育て上げてくれた恩人だ。そのネリウスが水晶部屋の精巧な大魔法術式の中で穏やかに眠る様子を見て、思ってしまった。
もしかすると治るのではないか。
治らないとしても、苦痛を和らげられるのならば、このままでいいのではないか。
気付けば秤は拮抗もせず傾いていた。
ヴァルフはアルクゥが、ネリウスの為に他人へ隷属し続けるのを良しとしたのだ。
それが間違いだったことがこの紙切れ一枚に集束されている。
ヴァルフが何よりも優先してしなければならなかったのは、状況の許容でも、主従契約の破棄でもなく、アルクゥの過度な想いを正すことだったのだ。
ヴァルフは長い間、悔恨の泥にまみれながらこれから何をするべきか深く考えた。
二度目の過ちは許されない。
夜警の時間になってようやく立ち上がった。
ヴァルフはケルピーの首筋を叩いて労い、獣舎を後にする。向かう先は持ち場ではない。暗い夜空に白く浮かぶ医療塔だ。
黄泉路のような無明の闇を突っ切りながら、ヴァルフは握り潰した手紙を燃やして捨てる。
薄っすらと夜闇に舞った灰は冬の風に攫われ、頼りなく崩れていった。




