第四十三話 覇の証明
「こっちは変わらずだな。日がな一日、護衛対象の近くに控えて、時々暗殺者を殺って、それだけだ。あのいけすかねぇ聖職者が矢面に立ってるせいでお前の方が危険だろ。外は随分な騒ぎになってるらしいが、こっちの異変と言えば精々大臣共の行き来が増えたくらいか。――それでお前。何かあったか?」
ヴァルフが言葉と共に吐き出した白息にはアルクゥの中身を探るような調子が含まれていた。
外殿の奥。王の執務室に繋がる回廊。
ヤクシの端から興味がないという顔に対して、クロはきょとんとした顔をして「曖昧だな」とアルクゥの代わりに答えた。
そのまま有耶無耶にして欲しいところではあったが、クロは以降口を挟まず有象無象の真面目な近衛騎士に化けた。
職務中なので本来ならヴァルフもこうあるべきなのだが、追求の目は厳しく何か答えなければ納得しそうにない。
アルクゥは口に笑みを作る。
「何かあったらここにいないけどね」
「そういうのは止めろ」
あえて嫌がる言葉を選ぶと、兄弟子はいかにも機嫌を損なったように低く呻いた。
たちまち空気が張り詰める。
肌を焼くような怒気にヤクシとクロは身構え――しかし双方気まずげに目を逸らして今まで通りの無関係を決め込んだ。ヴァルフがアルクゥに手を伸べていたからだ。
体温の高い指先が頬に触れ、指の腹が目元を撫でる。身を引くと、
「死ぬなよ」
真逆の予感を抱いた、生存を願う重い声が耳朶に沁みた。
勘が鋭い人だ。
アルクゥは大丈夫だと笑ってみせ、王との話を終えて退室したサタナに付いてヤクシ共々その場を後にした。
****
魔導院、教会の襲撃から三日が経過している。
両機関の被害は甚だしく、官に説明を求める声が殺到して王宮は蜂の巣を突いたように騒がしい。
教会は元枢機卿――現大司教の主導者の殆どを失くした。いずれも齢百五十を越える、旧体制の残滓だった者達だ。辛うじて生き残った石の聖女は意識不明の重体であり、更には信仰の中心であった大聖堂も閉鎖され、聖職者や信徒たちは混乱の極みにあった。
魔導院は損害状況を詳らかにはしていないが、報告された被害総額は国家予算の半分に迫る。これを補償しろと使者が詰め寄り、財務担当の文官が卒倒したという。
国の最重要機関が相次いで襲われた二つの事件は、組織立った者達が同時に起こしたという見方が強い。
大規模な破壊から見て最低でも魔術師十名を擁する、旅団または師団クラスの力を保有しているというのが今のところ公式な見解となっている。
この情報を流したサタナは、己の嘘八百に準じて堂々と王宮の警戒レベルを引き上げるよう進言した。国王が「それならば」と即刻頷くことに何の不思議もない。
そして宣言された無期限の厳戒態勢は、組織的暴力行為に対する防御よりも、軍部から忍び入る不穏な空気を遮断するのに一役買っている。各所に敷かれた検問は、たとえ軍高官と言えども許可なくば入ることができず、当然武器の携行は禁じられている。襲撃の騒乱を利用した角の立たないクーデター対策となっていた。
「仕事中に逢瀬とはいただけませんねえ」
今や軍部の苛立ちと殺意を一心に受けることになった白皙の聖職者は、自身の執務室へと帰ってくると同時に思い出したようにアルクゥを揶揄る。教会の半瓦解にも、王宮内の騒ぎにも、特に感じるところがないようだ。
木偶と称して嫌悪したアルクゥの変化にも反応を示したのはあの一時のみ。
今では何の変わりもない。
「あの光景が親愛に見えなかった方は心が濁っているのでしょうね」
アルクゥは「逢瀬?」と目を剥いたトゥーテを宥めながら、サタナ、ヤクシへと順番に視線を移す。
ヤクシは肩を揺らして切れ長の目をアルクゥに返し、無言で外に出て行った。一方サタナは至極つまらなさそうに溜息を吐く。
「言うようになりましたねえ。可愛げがないな」
「それどころか喜怒哀楽もありませんが」
「性質の悪い冗談はやめなさい」
「気に障ったのなら謝罪いたします」
事情を知らないトゥーテは沢山の疑問符を浮かべていたが、信望する英雄の醜聞ではないと知って表情を和らげヤクシに続いた。
サタナはそれを見届けると外に声が漏れないように遮断する。
耳を警戒して念を入れたわりには、内容はただの伝言だという。それも自分宛にと聞いてアルクゥは首を傾げた。
「友人が帰ってこない。それについて聞きたいことがあるので会って話をして欲しい。今日の昼の鐘が鳴る頃、外殿の入り口付近にて、とのことです。伝言を承ったのはユルドですが、彼女は監視業務に忙しいので私が引き継ぎました」
「ギルベルト上級大尉からですか。ハティさんが消えたと」
「ご明察。三日前から姿が見えないそうです。軍部は素知らぬ顔をしています。今失踪を報告すれば、擁立した聖人が襲撃に関わりがあると喧伝するようなものですからね」
やはりあれは別れの言葉かと腑に落ちた。
その納得以上には特別な感想もなく、アルクゥはサタナに選択を委ねる。
「ハティさんを、どうなさいますか?」
「貴女の意見を聞かせてください」
「関わるべきではないと考えます。捜索する場合の人員は私一人です。王宮内にいるとしても探し出すまでに膨大な時間を浪費します。それに、やり残しの消化を妨げてしまい彼の逆鱗に触れないとも限りません」
アルクゥには確信があった。
ハティは悔いを残さないための行動を開始したのだ。地位も仕事も名誉も部下も、何もかも投げ捨てて。
彼が何を目標として、何を遂げようとしているのかは皆目見当が付かない。だが一つだけ言えることがある。
ハティは嵐を冠する英雄だ。
天を巻き、地を抉る風は、穏やかに消え往く甘さなど持ち得ない。
「やり残しですか。教会組織を吹き散らかした所業がその手始めならば、今後どうなるのかいっそ楽しみです」
「……ハティさんが」
「大聖堂の術式と守護騎士団を反応させず、教会最強の化物を半死半生に追い詰めることが可能なのは彼くらいでしょう。崩壊直後にお会いしたときの様子も、いかにも戦闘後といった風でしたしね。しかしこうしてみると実に英雄的な事件だ。聖人が魔窟を占拠する怪物を成敗した、など」
そしてその余波がこれ、とサタナは迷惑そうに書類の山を睥睨して頬杖を突いた。
組織というものは頭を潰しても容易に死にはしない。
逆に統制を失った胴体手足が活発化して暴れ出すことも少なくない。統率者を殺せばそれでお終い、という簡単な話ではないのだ。
ゆえに国王を助ける者達は策を弄し、一計を案じ、奸計を巡らせ、あの手この手で敵の力を削ぐことに苦心してきたのだ。
教会襲撃による組織の機能不全は降って湧いた僥倖ではあるが、同時に、監視すべき危険因子が爆発的に増えたという奇禍でもあるのだ。
――ともあれ、三大派閥の一角は落ちた。
教会勢力に見切りをつけた者達をいかにしてこちら側に引き込むか。急を要する課題だ。
それだけにハティという不安要素がサタナには気にかかるようだった。
「子爵の目的次第では我々も危険ですが、対処のしようがありません。襲われる側にとって貴女たちの能力はつくづく脅威的だ。子爵が同能力を保有していると知った時点で排除しておくべきでした」
「見えないことが最大の問題なのですね。私の眼球は二つあります。一ついかがですか」
「その馬鹿を突き抜けた提案は一顧だに値しませんが、あえて真面目に答えておきます。その金眼に魔眼の特性はない。よって移植しても能力が受け継がれることはない。その目があちら側を映すのはひとえに貴女自身の力があってこそだ」
「そうですか。……とにかく、ギルさんにお会いしてきます」
アルクゥは当初の話題に戻って友人の副官を思い浮かべる。
ハティは口止めなどしなかった。ならば自分が代わりに状況を教えても構わないだろう。特にギルは公私共にハティを支えてきた人間だ。知る権利を持っている。
だがアルクゥの考えに反してサタナは不服を眉に滲ませる。
「応じる必要はありません。どうせ探してくれと泣き付かれるのが落ちだ。それに現在の状況下で貴女を軍部の人間に接触させたくない」
「命令ならば従いますが……」
「異論があるのならどうぞ遠慮なく」
「ハティさんはもう戻ってはこないでしょう。ギルさんはそれを知って解放される権利がある。消える人間は他者を縛るべきではないのです。私は消える側としてそう考えています」
何秒待っても返ってこない返答に、決済書類の山を数えていた目をサタナに流した。
「トゥーテを連れて行くことが条件です」
眉間を指で摘み俯いた姿に首を傾げる。
「申し訳ありません。何か、失礼を」
「自覚がないのなら何故謝るんですか」
「気分を害していらっしゃるようなので」
「――木偶に感情を忖度される程の侮辱もありませんねえ」
アルクゥは数度目を瞬く。
勘気か――いや違うと片手で頭に触れる。
楔から流れ込む感情は熱い一方で暗くどろりとした粘性があった。良心の呵責とそれによる苛立ち。
この人は、とアルクゥは知らず内に溜息を吐く。
(こうなったのは貴方のせいではないというのに)
責めた覚えもない。
つまるところサタナが勝手に思い起こした感情なわけだ。そして、その勝手に気付かない鈍感さを持ち合わせた人ではない。自覚済みの感情に気にするなと伝えても無駄だろう。
アルクゥは沈黙を金として、約束の時間まで執務の手伝いに励む。昼を告げる鐘の音が聞こえると同時に椅子を立った。
「用心してください」
こちらをチラとも見ずに言うサタナに一礼し、報告に来たユルドと入れ替わりに執務室を出る。
トゥーテを連れて伝言の場所に向かう間、何となしにサタナの言葉が胸に引っ掛かっていたが――アルクゥはそれが虫の知らせだと終ぞ気付くことはなく。
****
「忙しいときに呼び出してすまない」
ギルは外殿の大扉近くに佇んでいた。アルクゥを見つけると複雑そうな表情で、それでも無理に笑みを作り片手を挙げる。
アルクゥは頷いて周囲を見遣り、
「移動しましょう。ここは目立つ」
外殿は官僚が半ば走るように行き来して人が多い。
保身の為、家の為、国の為、各々の考えがあって奔走する者達は、連れ立った軍人姿の三人には仲良く眉をひそめている。
しかしギルは「すぐに済む」と移動を拒否した。
精悍な顔には薄暗い影が落ちている。
悄然の理由を理解しているアルクゥは、無理に動く必要はないだろうとトゥーテを少し離れた場所に待機させ場を整えた。
「気を使わせてしまったな」
「いえ。ご用件をお伺いします」
呼び出しに応じた以上、当然の問いかけなのだが、ギルは大きく目を見開く。
「貴公も……変わったか?」
「どういう意味ですか」
「気を悪くしないで欲しいんだが……前のハティに、似ているように思ったんだ」
「そうですか」
「ああ、やはりか。無感動な反応もそっくりだ。いや、こうやって懐かしんでいいことではないのはわかっているんだが……」
疲れきった瞳に一時光が差したが、ギルは頭を振ってそれを振り払う。
陰を呼び込んだ暗い目は「本題に入ろう」と用件を切り出した。
「――貴公のことを教えて欲しい」
「私……ですか? ハティさんのことではなく?」
「そうだ」
「それはおかしくはありませんか?」
率直に言うとギルは僅かに怯み「なぜだ?」と低い声で問い返す。
アルクゥは片眉を上げてみせ、偽ることを得意としない男に「おかしいでしょう」と投げた。
本当に知りたいのはアルクゥのことなどではない。それは気乗りしない声音がすでに教えているというのに。
「俺は……ハティを探す手がかりになればと思ったんだ。貴公はアイツと同じなのだろう? ハティがそう言っていた」
「同じですか」
「そうだな、たとえば英雄という括りで見ても同等、もしかすると……その能力も。ハティは煙のように姿を消すことができた。聖人の力だと言うのが上層部にハティの監視を命じられていた魔術師の見解だ」
「よく利用されませんでしたね。透明人間ならば何でもし放題でしょうに」
自分の立場を棚に上げて言うと、ギルは物言いたげな苦い顔でアルクゥを見る。それは涼しい顔でやり過ごした。
「聖人が度々不在になるのは神に会いに行っているからだと俺が吹聴して回ったからな。不埒なことに利用すると天罰が下るぞ、と。上層連中も得体の知れない聖人を刺激するのは避けたかったのだろう。アイツは人集めの広告塔に徹した……というより何にも興味を持たず流されるだけだった」
「ハティさんが、こうなったのはいつ頃でしたか?」
自身を指差しながら尋ねると、ギルは少し考える素振りをして、
「北領の魔物討伐でアイツは英雄となり、その後に宝具の選定を受けて聖人と認められた。それから段々と変わっていったように思える。……貴公の方が詳しいのではないか?」
「知りませんよ。私が彼と話すのは大体が世間話でしたから」
「そうか。それで、アルクゥ殿はどうなんだ? 貴公も聖人なんだな?」
「とても確信を持っておられるようですが、残念ながら」
「隠さなくていい。素晴らしい、名誉なことだ」
「その口振りで言われても信憑性に欠けますが」
鼻白んだギルは、アルクゥの感情のない視線ごときすら受け止めきれず余所を向く。
「貴公が聖人ならば、サタナ司祭の傍などは不当だろう。しかるべき地位が必要ではないのか」
「何をもって不当とするのか議論の余地がありそうですが、しかし随分目的が逸れましたね。ハティさんを探す手がかりとやらはどうしたのですか」
「貴公、司祭に似てきたな」
「心外ですね。少し、私の考えを言っても?」
「……聞こうか」
すうと大きく息を吸い込む。
「竜殺しの英雄は公の人間ではないため数々の噂が囁かれています。中には聖人だというものもある。それが軍部は気に掛かっていた。なぜなら子爵がそうだったように、聖人は隠密に優れた能力を持っている可能性があるからである。それがどんなに危険か、利用を考えた者だからこそよく知っている。よって確認する必要があった――まあなぜ今更なのかは分かりませんが。とにかく、それで貴方は知人という立場とハティさんの失踪をだしに、私を呼び出した」
「――半分は正解だ」
「潔いですね。けど貴方の意思ではない」
「言い訳は好きじゃないんだ」
罪悪感をチラつかせて笑う顔は、企みが露見して寧ろ安心したかのようだ。
アルクゥは聞くべきではないと思いながら、そっと瞼を落とす。
「事情がおありのようで」
「ああ」
「ハティさんに関わりがある」
「ああ。……もう行ってくれアルクゥ殿。恩人への背反はまだ半分が残っている」
「私も貴方に一つお伝えしたかったことがあるのです」
「……早く、行ってくれ」
「貴方が聞くべきでないと思うのならそうします。確かにその方が良いのかもしれませんね。恐らくは、貴方の行動を否定する事実になるでしょうから」
ギルの動揺が衣擦れの音で伝わる。
長い沈黙の後、掠れた声が「言ってくれ」と呟いた。アルクゥは瞼を上げ、確りとギルの顔を直視して、残酷な事実で空気を震わせた。
「ハティさんはもう帰ってこない」
瞬間、ギルの時間が止まったように見えた。
呼吸もなく表情もなく――しかしそれは束の間で、ギルは大きな手で自らの目元を覆った。知っていたさ、と上擦った言葉が空の胸にも痛々しい音として響く。
「ああ、全く勝手な奴だとは思っていたが、これほどまでとは恐れ入った。士官学校時代から十年来の親友をあっさり置いていきやがったのかアイツは。何の説明もなく」
「……友人だからこそ、なのではないでしょうか」
「そうかもしれないな。きっと俺はわかっていたのだ、アルクゥ殿。記録を紐解けば聖人は皆失踪という形でその後の足跡を消す。だからいつかアイツも消えてしまうだろうと思っていた。だがあまりに……情けない。俺は相談一つされなかった不甲斐ない己をどうにかして補いたかった。副官としてアイツの立場を守ろうと……いや、これは言い訳か。結局、俺は貴公を売ろうとした」
「私が恨むとするなら貴方にそれを命じた者です」
「そうだとしても……」
ギルは言葉を切り不意に顔色を変えた。
「アルクゥ殿。今すぐ」
大扉付近で起きたどよめきが先の言葉を掻き消す。
何事だと確認する前に背後から腕を引かれた。トゥーテが険のある目でギルを睨み付けている。
「この痴れ者が。よくもアルクゥ様の厚意を踏み躙ったな。後で覚えているがいい」
まるで悪役のようにトゥーテは唸り、問うアルクゥに答える時間も惜しいとばかりに踵を返した。
その勢いに引き摺られる直前、アルクゥは背後に重みのある軍靴の音を聞く。ギルの切羽詰まった声が混じり、危機を感じて肩越しに後ろを見ようとした瞬間。
フードが強く掴まれて引き摺り下ろされる。
巻き込まれた髪の毛が嫌な音を立てて千切れ、相手にそれが伝わっていない筈がないのに容赦はなかった。
変に曲がった首と頭皮が訴える痛みに生理的な涙が浮かぶ。
トゥーテが動くよりも早く後背の不審者に手を跳ね上げた。当たりはしなかったが牽制にはなったようで、軍靴の主が数歩下がった気配があった。
「そうか貴様か!」
肩に落ちた髪を振り払う勢いで身を翻した矢先、喉に雷でも飼っているような雄叫びが頭上から降り注ぐ。
足を止めて事態を眺めていた野次官僚たちは身を縮ませ、中には腰を抜かした者までいたようだ。
そんな暴力的な怒号を間近で受けたアルクゥの鼓膜は少なからぬダメージを受けていた。思わず耳に手を当て顔を顰めると、正面に仁王立ちする大男が不穏に喉を震わせて笑った。
「礼儀も知らぬか――竜殺し」
****
男の声は廊下によく通った。
竜殺し、と告発のように響き渡れば、微かなざわめきすら拭い去られてる。
水を打ったように静まり返った空間には声に代わり数多の視線が飛び交う。それらは全てアルクゥに向けられていた。
「断りも無く女性に触れた礼儀知らずの無恥がなにを言うっ!」
身じろぎ一つ憚られる雰囲気の中、勇ましくもトゥーテは沈黙の怪物を切り裂き大男に詰め寄った。
護衛官は帯剣を許されている。その特権を今にも振るわんばかりの勢いを、横から割り込んだ二名の軍人が阻む。
この注目の中で問題を起こすのは愚行なので、アルクゥはトゥーテを制止して下がらせた。その際、素早く大男を一瞥して特徴を浚う。
四十がらみ、茶斑の髪、厳つい顔。左胸に付いた階級章は――。
アルクゥはトゥーテを押し遣ってから改めて向き直り、胸に拳を当てて敬礼した。
「失礼をいたしましたフラウロス元帥閣下。魔術師ゆえ、人前で顔を晒すことに慣れておらず、少々驚いてしまいました。どうかご寛恕ください」
「そうか。小心ならばしかたあるまいな。竜殺し」
「失礼ながら申し上げますが、竜殺しというのは」
「否定ならば結構。藍の髪に金目の小娘。市井を賑わした英雄の絵姿そのものではないか。貴様の噂はかねがね。近頃はニンアズの屍竜を討ち取ったとか」
「人違いだと申し上げておきます。私は王に忠誠を誓う身、その命もなく王都を離れて廃域に足を運ぶ理由がございません」
心にもないことをつらつらと述べ立てながら、フラウロスの少し後方に目を移す。
灰色赤目に細面の男。フラウロスと同じ階級章とその特徴からしてシャックス元帥だと窺える。
元帥がなぜ二人もこんな場所にいるのか。取り巻きを引き連れて仰々しくしてはいるが、緊急の召集があった様子でもない。
アルクゥは回廊の端に佇むギルを見遣る。
頑なに睨む視線の先を窺う限りでは、シャックス元帥がこの邂逅を仕組んだ人物のようだが、アルクゥの前に立つのはフラウロスだ。シャックスは目が合うと深く馬鹿にした笑みを浮かべるのみに留まる。
どうにもおかしな具合だったが、今はこの場を穏便に切り抜けることが先決だ。
アルクゥは意識の中で主従の楔に触れ――しかし繋がらない念話に契約の弱体化を思い知らされる羽目となった。
アルクゥとフラウロスを中心に発生した、魔術師と対峙する元帥一行、それを取り囲む野次馬という絵面は静かだが混沌としている。
野次馬には近衛の姿も多い。しかし誰一人として止めに入ろうとする気配すら無く、寧ろ何かを期待して事態を見守っている。
多くの人目がある場所で、実体がないからこそ様々な想像の余地があり、存在すら不明だった英雄が形を持った。
どう振舞うべきかサタナの指示が不可欠だ。なのに念話が繋がらない。
「では、貴様は件の英雄ではないというのか?」
英雄という言葉に拘るフラウロスに違和感を覚えながらアルクゥは頷く。とりあえず謙遜して刺激しないでおこうという腹だ。
「閣下の仰る英雄がどなたかは存じませんが、私は英雄と称される大層な人間ではございません」
「つまりこの王都に竜殺しの英雄はいない、そういうことだな? 貴様は私と目も合わせられぬ、臆病な魔術師ということで相違ないな?」
重ねられた確認に、アルクゥは敵意を回避する為に伏せている目を細めた。
頷いて早々にお帰り願うのも手だが、こちらを貶める言葉に乗っても良いものか。迷い、再度サタナに呼びかけるが返答は無い。
「私は竜を殺したことはございますが、英雄ではありません。従って閣下の仰る通り竜殺しの“英雄”はいないのでしょう」
「友よ、どう思う?」
当座を凌ぐつもりで言葉を遊ばせると、フラウロスは太い首を逸らして背後に呼びかけシャックスを加勢に呼んだ。シャックスはそれを歓迎し、神経質な細面に酷薄な笑みを浮かべる。
「英雄と容姿が似ているあまり、市井の演劇などに感化されて、己が竜を討ったのだと思い込んでしまっているのだろう。夢見がちな年頃にままある妄想だ。フラウ、可憐なお嬢さんを苛めるのは止めなさい。可哀想だろう」
「ほう? 血も涙もないお前が随分と甘くなったものだな。しかし小娘に世の厳しさを教えるのは大人の役目だ。それ以前にその娘は軍人だ。上官たる我らが教育せねばなるまい。英雄を騙って人心を惑わせた罪は重い。そう……いくら可愛げのある冗談といえど、竜殺しと証明できねば罪だ」
周囲から戸惑いを含んだどよめきが上がる。
アルクゥはサタナとの接触を試みながら、片手でトゥーテを押さえ、もう片方を軽く前に突き出して「お待ちください」と忙しなく動いた。
「お言葉ですが元帥閣下。私は一度たりとも英雄を騙った覚えは」
「先程竜を殺したと言ったではないか。竜は災害。災害を屠った人間はすなわち英雄である。同じことだ」
「私を最初に竜殺しと仰ったのは元帥閣下でございます」
しばしの沈黙の後、フラウロスは「そうだったかな」とニヤニヤ笑う。
「とにかく罪人には手錠が似合いだ。くれてやる」
鋼鉄製の拘束具が投げ渡され、重い音を立てて足元に落ちた。
「この方をっ……よりにもよって罪人扱いなどっ……!」
トゥーテの怒りは限界に近い。
あわや刃傷沙汰と事態が切迫し始めた最中の四度目。不安定ながらもようやくサタナに繋がりがついた。
『顔を上げて毅然とした対応をお願いします。士気に関わる』
状況を説明する前の指示に内心首を傾げると、なぜかテネラエによる先触れがあったのだという。互いに連絡を取る意思が出来上がったので繋がったのだろう。
『士気ですか』
手錠を見詰める振りで時間を稼ぎながら訊くと、サタナは行動を見ているかのように真逆のことをしろと繰り返す。ヤクシの魔眼が状況を知らせているのかもしれない。
『視線を上げて周りを見なさい。貴女でも分かります』
『ですが衝突は避けた方が良いのではないでしょうか。ここで元帥御一行に出会ったのは……その、偶然ではない気がします』
『だから行くなと言ったんですよ私は。ギルベルト上級大尉は貴女を売ったのでしょう』
『そういうわけでは』
『相手の企みはわかりませんが、誘き出された時点で目論見に嵌ってしまったこちらの負けです。開き直って噂に違わない英雄振りを演じるしかないでしょう』
『噂とは一体……』
『貴女は周りに興味を持つべきですね。いずれにせよ脅しまでは許容範囲です。陛下もお許しくださいます。その場を収めて早く帰ってきなさい』
念話はそこで切れてしまった。
アルクゥは軽く息を吐き、なるだけ毅然と見えるように顔を上げた。視界が広がり、多くの表情が目に飛び込んでくる。
その中で国王陣営に所属する者たちは顕著だった。
「……これはお返しします」
アルクゥは手錠を拾い上げてフラウロスに突き出す。
両脇に控える部下が目を剥きアルクゥを威嚇する中、生まれ付いて他を睥睨する為にあるようなフラウロスの瞳は興味深そうな色を湛えた。
「証明できねば罪人だが」
「では証明致しましょう」
わざと大きめに宣言すると、野次馬の中で焦れた、或いは失望し冷めた表情をしていた者たちが微かに反応する。
見知らぬ他人の噂だけで期待と失望が可能なら、士気が上下するのも道理だ。
アルクゥは軽く笑い、手錠を持った拳を下に向けて指を開いた。
床に落ちる一寸の間に、鮮やかな夜明けの炎が罪人の証を焼き尽くす。
炎は廊下に蔓延る冬の冷気までも追い払い、後に残ったのは見物人の驚愕のみである。
「そうか……英雄か。英雄……はは! これはいい!」
フラウロスは間近で燃え上がった炎にしばし呆気としていたが、ふと我に返ると怒りもせず愉しげに笑った。
色を似せただけだと否定することもできただろう。しかしフラウロスはそうせずアルクゥを認める。
謝罪こそなかったが、蔑んだ態度は改められた。アルクゥはその変化を引き際と理解し、丁寧に礼を取って堂々と背を向ける。それに落胆を浮かべる者はいない。
畏敬と賞賛の眼差しを一身に受けながら、アルクゥは左右に割れた人垣を抜けた。
「お美しい炎でしたアルクゥ様!」
「巻き込んでしまって申し訳ありませんでしたトゥーテさん。あと様付けは止めてください」
廊下の角を曲がったところで頑張って作り上げた英雄の仮面を脱ぎ捨て、頬を紅潮させ迫ってくるトゥーテを押し退け思案する。
切り抜けたはいいが、これから騒がしくなるだろう。さてどうやって厄介から身を守るか。元帥共には目を付けられた。特にフラウロスには。後々あれが攻撃行為だと抗議されると面倒だが――。
執務室に帰りアルクゥを出迎えたサタナの小言も聞き過ごし、そんな事を考えた――その翌日に事は起こる。
魔術師の兵舎近くでフラウロス元帥の焼死体が発見されたのだ。




