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精霊のシジル  作者: 染料
四章
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第四十二話 炎が消えた日


 雨滴が頬を滑り落ちる。

 緩やかに空を仰ぐ間にもポタポタと体を濡らす。完全に見上げ切った曇天から荒れ狂う潮騒に似た音が降り注いだと思った瞬間、数多の冷雨が林道を叩いていた。木の傘を容赦なく突き抜ける冷やかな水はアルクゥの灯火を消さんばかりの勢いだ。

 冬に雨を被ればどうなるか分かりきったことではあった。しかしアルクゥに動く意志は皆無だった。

 どうにか魔導院が見えない場所まで這いずったが限界だ。精神は海綿のように密度に欠け、心を支えていた大切だったと思われる数々の感情も細って用を成さない。無気力、無感動。更地になった心は皮肉にも最高に清明で、起伏を差し挟まないので状況の理解は容易であった。

 人間が幽世と付き合う上での禁則を破った報い。

 アルクゥは白い息を吐き出す。幽世に舞う光の粒子の正体は生命力や魔力などの核となる剥き出しの力のようなものだろう。全ての根源たる無垢な力だ。それはまだ何者でもないが故に簡単に体内に入る。そしていたずらに体を乱し、心を溶かし――最終的には慣れる。慣らされる。

 幽世との同化とでも言うべきか、とアルクゥは瞑目する。毒物を食らい続けて毒そのものになった姫の御伽噺が頭を掠めた。


「必ず……帰れ、か」


 絶対であった筈の命令も失効している。

 こんな抜け道があったのかと感慨なく思い、僅かに残った興味が重い右手を持ち上げて左手に触れさせた。

 契約の紋様は奇妙なまでの温度を持っている。

 唯一それだけがアルクゥの部位で生きているかのようで、今までなぜ気付かなかったのか不思議なほど鮮明で力強い脈動があった。

 アルクゥは瞼を持ち上げて左手に視線を落とす。

 ――これはまだ私の世界に繋がっている。

 自覚すると耳奥で響く声に気付いた。

 切れ切れで言葉自体は聞き取れないが、主が自分を呼ぶ声のようだ。

 応えようとしてふと口を噤む。果たして意味がある行為なのかと自問する内なる声にアルクゥは「否」と判断を下した。応えたとしてこの世界から出られるわけでもなし、主が己を探してくれるわけでもない。

 ここでこのまま朽ち果てる。

 それについて恐怖はない。怒りもない。嫌悪もなければ、未練すらもない。

 大切な者の顔を懸命に思い浮かべるも徒労と感じ、生への執着を呼び起こそうとしても心は波一つ立たないのだ。以前のハティと同じ情動なき人形だ。

 そこでふとアルクゥは思い付いた。

 ――ハティなら私を元に戻せるのではないだろうか。

 胸に僅かな期待が灯る。しかしそれを上回る合理的思考がアルクゥの出鼻を挫いた。自分は徒歩だ。王都に帰り着く前に力尽きるのは目に見えている。意味がないと分かっている行動に労を裂くのは無駄だ。

 やはりここが終着点かと目を瞑る。

 その矢先。

 雨垂れの静寂に無視を許さない異様な音が飛び込んできた。

 それは獣の疾走を連想させる音だった。雨を突き破り、水に濡れた地を蹴り上げる力強い足音。

 アルクゥは知らない内に立ち上がっていた。錆び付いた歯車のような音で軋む氷の体を林道の中央まで動かし、白く煙る道の先を見据えた。


 風が来る。


 察知と同時に腕で顔を庇った。

 しかしいくら経っても風はアルクゥに吹き付けてはこなかった。命を穿っていた雨粒の感触までなくなり不思議に思って腕を下ろす。

 視界が開ける直前の一瞬、眼前に銀灰の巨大な獣を見た気がした。


「――ハティさん?」


 相手を呼ぶ語尾が上がる。その疑問にハティは微笑み頷いた。彼という認識を彼女と改めそうになるほど、慈愛に満ちた笑みだった。


「おいで。帰ろう」


 膨らみのない閉じた右目を見てから、伸ばされた指先にこびり付いた血を横目に眺めていると、不意に引き寄せられて前に倒れる。ハティの胸に頭をぶつけたとき、水面から出て空気を吸い込んだような充実感が体を満たす。

 辺りを見ると虚ろだった世界に色が芽吹いていた。

 戻った、と呟く。情動があるわけでもないのに涙が零れる。

 無表情のアルクゥにハティは残念がるように眉を寄せた。


「自分の身に何が起きているかわかる?」

「大体は」

「……そう」


 差し出された手を改めて取る。目を瞑り、開けた時には既に王都の中だった。


「さすがに王宮内には跳べなくてさ。歩ける?」

「何とか」


 短いやり取りの後は両者とも無言で歩く。

 ハティは誰もいない道を巧みに選び取ってアルクゥを導いた。王宮の門を守る兵以外に二人を目撃した者はいなかっただろう。雨を弾く風の中、アルクゥは粛々と進むだけであれほど遠く思えた帰るべき場所に到着する。

 扉前のヤクシはアルクゥとハティを見て化物を見たかのように顔を引き攣らせた。

 入っていいかと目で問いかける。頷いたヤクシを見て扉に手をかけると内から勝手に開いた。


 顔に掛かった影の主を見上げる。


 そこには二つの、一分の隙もなくこちらを凝視する瞳があった。

 「只今帰還いたしました」と告げれば、サタナは「ご苦労さまです」と眉を寄せて口の端を持ち上げる。含むところのある笑みだ。


(ああ、こわいな)


 と胸の内で言ってみるも感情はこもらない。

 その態度を見てサタナの目に角が立つ。しかし感情を隠すことに長けているだけあって、ハティに言葉をかけるときにはすっかり怒気は消えていた。


「子爵。私の部下がお世話になりました。用事は済みましたか?」

「そういえばまだだった。アルクゥ。わたしと結婚しないか」

「……は?」


 聞き返すサタナも意に介さずハティは真剣な顔でアルクゥに詰め寄る。ぎょっと目を剥いていたヤクシが思いがけず、庇うように間に割って入ったので、アルクゥはその背中からハティを窺った。

 許しを希う熱を孕んだ瞳がアルクゥに注がれている。

 生まれて初めて向けられる種類の感情だったが――アルクゥは冷静に考え、表情に皮肉という形だけの感情を乗せた。


「貴方は傷を舐め合う相手が欲しいだけです。私は貴方と共有するものが多いから特別に見えるだけだ。本当の特別は別にあるのでしょう? だから長い間、幽世で迷いながらも耐えることができた」


 ハティは目を丸くした後「手厳しいね」と哀歓を綯い交ぜにして笑った。


「そうなのかもしれない。望みがあればと思ったのだけれど、ごめん。キミを軽んじていたようだ」

「不安はわかります。でもどうして突然、こんなことを?」

「わたしに残された時間は少ないから。そしてキミも。避けようがない終わりは怖い。一人で抗えるほどわたしは強くなかった」

「終わり? ……まあ、よくは分かりませんが、確証があるのならそうなのでしょう」

「少しくらい驚いてよ。わたしは駄目でも、せめてキミだけは助けたかったんだけどな。遅かったみたい」


 ハティは左目を固く瞑り束の間の苦慮を見せ背を向ける。


「わたしはキミと出会えて幸福だった。――悔いを残さずいこう。お互いに」


 今生の別れの物言いは一切の疑問を拒絶しており、アルクゥは何を問うこともないまま、サタナとヤクシの怪訝な視線を受けながらハティが去り行くのを見届けたのだった。


◇◇◇◇


 その後、サタナに手招かれて入った執務室にはトゥーテの他にもう一人、見慣れない姿があった。他国の間者がよくここに入る度胸があるなと純粋な賞賛を視線に乗せる。するとどうしたことかテネラエは狼狽して瞳を揺らした。


「報告をお願いします」


 アルクゥは意識をサタナに戻す。その端正な顔にはやはり含意があり、アルクゥは考え得る追求の内容を挙げて大凡を答えられるように整理してから口を開く。


「ラジエルの件ですが、ユルドさんの推測通り、見取り図にない空白の部分に研究施設がありました。大量の魔物が実験体として飼育されており、厄の魔物も発見いたしましたので施設ごと焼却いたしました。研究者の方々ですが指定されていた者は全員、他にいた者も一人を除いて片付けましたが、その一人に顔を見られました。申し訳ありません」

「目撃者は気にするほどのものではありません。良くやってくださいました。当面、彼にも他国に手を回すほどの余裕はないでしょう。その間に押さえ込めばいい」


 甘すぎる見解に口を開きかけ、冷たい一瞥に気付いて噤む。

 なるほど、とアルクゥは納得する。グリトニルへの建前だ。魔導院にだけ構っていられる余裕がない以上、成果を示して「一応は解決」としておいたほうが都合が良い。報告者のテネラエがどう感じるかが問題だが、間者の顔に表情はなかった。


「他に何か報告すべき事は?」

「何もありません」

「よろしい。ここからは私的な話になるのでお二人は退室を」


 トゥーテが一礼して退室する。一拍遅れてテネラエも続いたが、扉を閉める際に後ろ髪を引かれているような視線をアルクゥに送っていた。

 気にかかるが一先ず置いておこう、とアルクゥは些事から意識を外してサタナに集中する。座ってはいるがサイドテーブルに先程までなかった剣が置いてある。

 アルクゥは試しにサタナと戦う状況を想定してみた。

 攻撃魔術や得意とする炎は立ち上がりがやや遅い。近接戦闘を得意とする者に正面から使って勝てる道理はない。となれば意識の反射だけで作れる刃が主な手段となる。牽制に使うか、それとも執務室に隙間なく刃を生やせば――。

 そうか、とアルクゥは体の力を抜いた。勝てる想像ができない。最悪、逃げる準備と斬られる覚悟はしておかねばならない。

 サタナはその思考が終わるのを待っていたかのように静かに口火を切った。


「従わないでください。――アルクゥアトル、跪け」


 無意識に落ちそうになる膝と、直前の矛盾する命令を覚えている意識が反発し、爪を手の平に食い込ませた痛みに助けられた意識が勝った。勝敗が決した瞬間、体を支配しようとしていた真名の命令は消え失せる。痛んだ体に強いられた負担を逃がすつもりで深く息を吐いて、はたと気付いた。

 命令の優先順位は後者が上だ。

 サタナは愉しげに口と眉目を歪めている。低い声が背筋に這い入り、恐怖を感じなくなったアルクゥにすら寒気を催させた。


「どのような抜け道を使ったのか是非とも教えてくださいませんか」

「まず最初に一つだけ弁明の機会をいただきたいのですが」

「どうぞ」

「契約が薄れたのは私の意思ではありません。即ち、貴方に反する意思もないということだけはご留意を」


 アルクゥは波立たない感情に任せて淡々と告げる。サタナは目を眇めた。


「信じろと?」

「貴方の信用はともかく、契約が薄まったということは、貴方が履行すべき約定の強制力も薄くなったということです。私の行動原理である師は未だに治療中、それにヴァルフも貴方の手の平にある。この状況下で、いくら首輪が外れたとしても私が何か企てるわけがないでしょう。珍しく思考が鈍くていらっしゃるようですが体調でも悪いのですか?」


 率直な感想を述べるとサタナは目を丸くし、深い溜息を吐いて左手の甲を撫でた。


「まるで別人だな。それとも、私が見抜けなかっただけでそれが貴女の本質だったのか」

「私の人柄云々は重要な問題ではないと思います」

「私に疑念を抱かせているのはその眼差しと振る舞いですよ。主従契約が薄れたと思った矢先に、そんな道端の塵を見るようにされてはさしもの私も警戒します。報復でもされるのではないか、とね」

「報復という行為はする側の仕打ちとされる側の恨みがないと成立しません」

「私を恨んでいないのですか?」

「何の感情も。――誰に対しても」


 心は澄み渡るを通り越して更地だ。意識は何を考えていても常に幽世を向こうとしており、気を抜けば境を越えてしまいそうになる。ハティが言った終わりと関係があることなのだろう。


「暗殺は厭ではありませんでしたか」

「仕方のないことでした」

「私を恨んでいなくとも、貴女を攫った者には? つい先程起こった襲撃で大司教バルトロマイは生死不明とのことですが、何か思うところは?」

「特には。ところで襲撃とは何でしょうか?」

「後で話します。――師と兄弟子は貴女にとってどのような存在ですか」

「大切な人たちだったと思います」


 続け様の質問を終えると、頭が痛むのかサタナはこめかみを押さえて目を伏せる。


「なぜそんな木偶に成り下がったのか話しなさい」


 木偶は心外だったが、理由の隠し立てをする必要もない。そう判断したアルクゥは今まで詳しく話すことがなかった幽世の特性とそれについての推論を混じえ、自分の状態が出来上がるまでの経緯を余すところなく語ってみせる。口を挟まず聞いていたサタナは、話が終わると眉間に指先を当てて目を瞑り、


「この手の煩わしさは想定していなかったんですけどねえ」

「申し訳ありません」

「すると、私が貴女に師と兄弟子を殺せと命じても何も感じないということですか」

「……勘違いしてもらっては困るのですが、彼らを大切に想っていた記憶が欠けたわけではありません」

「例えが悪かったことは謝罪します。それで、治る見込みは?」

「ありません。ハティさんの言う通りだとすれば」

「残された時間は少ない、ですか」


 頷くとサタナは増えた懸案に気が滅入ったのか苦しげに眉根を寄せる。


「子爵の言葉に心当たりは?」

「感覚的には理解しています。幽世に囚われて二度と出られなくなるとか、そのような類のことでしょう」

「……随分と他人事のように言うのですね。子爵は血迷って貴女などに求婚するほど畏れていたようなのに」

「自我が消えることが前段階なら、私はハティさんよりも進行しているのです。もう何も怖がる必要がないのはありがたいことですね」


 アルクゥは呆れた風のサタナに「それで」と選択を求めた。


「師匠を保護し治療してくださる限り、私は今までと変わらず貴方に従います。いつ消えるか分からないという欠点を除けば、貴方にとっては寧ろ使い易い駒になったかと。なにせ何も感じませんので。どうなさいますか?」


 そう言って剣に目を遣る。

 結局それは抜き払われることがなく、サタナは額に手を当てて恨みがましい吐息を零しながら低い声で呟いた。


「厭な聞き方をする。切り捨てられるわけがないでしょう」

「そうですか。では今まで通りに――」


 そのとき不意に脳裏から聞こえた他人の情動にアルクゥは驚く。

 主従の楔は弱っているが未だに両者を繋げていると考えれば、一方に強い感情があれば流れてくるのは当然のように思われたが。


「忘れてください。取るに足らない感傷ですから」


 目を決して合わせようとしないサタナに、アルクゥは僅かに動いた心情を無視して頷いたのだった。


 

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