第四十話 理の喪失
飽食を重ねてヒキガエルの眷属にでもなったような男はレイスを見ると嬉しそうに声を上げた。
「やあやあアレイスター君、久方ぶりですね」
「こんにちは、ブルフォニア先生。お久しぶりですねぇ、相変わらず丸々として蛙か豚かよくわかりませんな」
「はっは、枯れ木よりはましでしょうよ。ほら、部屋に案内します」
ヒキガエルが門に手を翳すと、鋼造りの重厚な門扉が真ん中から左右に分かたれる。敷地内へと先んじた男はチラと背後を窺い見た。レイスは薄ら笑いでそれに続く。外と内の境にある敵対者捕縛の術式は発動しない。男はにわかに豊満な笑みを浮かべてレイスの肩を叩いた。
「いやあ良かった良かった。キミが敵と言う人もいてね。違うとは思っていたけれどヒヤヒヤしたよ」
「それは酷いな。私が敵になるわけないでしょうに」
薄い肩を竦めたレイスは先の男と同じく僅かに後ろを窺ってから「行きましょうか」と勝手知ったる様子で一人歩き出す。
肉を弾ませて追いかける男の背後、アルクゥは無造作に術式を踏み消し、院内の地図を片手に職務を開始した。
ラジエル魔導院は魔術師養成、魔導研究機関である。
王都からユルドの翼竜を借りて一時間程の場所にあるこの機関は、国の将来を担う人材を育成、排出していることからあらゆる権を跳ね除ける力を有している。技術の前に罪などないという理念が当然のように罷り通り、ここで特に目を掛けられて育った者は環境のせいで常識と倫理を欠くという。
幽世を出たアルクゥは堂々と研究区画の近くまで歩いていった。
時折視線を向けてくる者もいたが、生徒姿のアルクゥを呼び止めはしない。入ってしまい溶け込めば、どんな場所でも笊の目だ。
門と塀に囲まれた区画手前で幽世に入り、番兵と魔術で守られた入り口を難なく越えていく。
戦闘特化の魔導師が警備にあたり、主要区画には相手を三度殺すほどの術式が張り巡らされ、その他様々な状況を想定して二重三重の防護がある。だがその万全と謳われるラジエル魔導院の防御も幽世において意味がないのだ。
幽霊のようだとアルクゥは苦笑する。
誰にも見えず誰にも気付かれない。声を上げても届かず、触れてみても気味が悪く思われるだけ。幽世とは確かに死後の世界で、そこにいる間、自分は死人なのだ。
研究区画にある六つの建物の内細長い建物へと入る。
中は妙に光子が多く魔力に満ちている。前情報通り、王都の大聖堂と同じく「迷宮型」の建物だと窺い知れた。術式を書き換えれば構造が変わるという建築様式であり、ユルドに貰った図面が役に立たない可能性もあったが、幸い組み替えは行われていない。
図面に従い迷路のような通路を進み、螺旋階段から下へ下へと降りていく。
地獄に手が届く深さまで下るとようやく床が見えてホッとする。地下の階層は上と比べて不自然なほどに整然とし、だだっ広い場所だった。
階段下の警備兵を一瞥して正面に目を遣ると、真っ直ぐ伸びた縦横広い真っ白な廊下、左右に規則正しく並ぶ部屋の扉があり、ずっと先に小さく観音開きの扉が見える。
アルクゥはすうと息を吸い込み腹に力を込めた。ここからが本番だ。
最低でも施設と実験体の破壊、リストの十二人は討ち漏らしがあってもお咎めなしだというが、祖国のためにも出来るだけ殺しておきたい。
幽世に留まれる時間を気にしながら一先ず最奥を目指す。
静寂が空寒い。
何となく額を拭うとびっしょりと汗を掻いていた。気分は平静だが体は緊張している。
奥の扉は分厚く重たげで何重にも魔術が掛けられている。そっと触れると思いがけない軽さで勢いをつけて前に開いていく。慌てて取っ手を引っ掴み、溜息を吐き出しながら中を覗き込んだ。
アルクゥは目を瞠り、息を飲んで内部に踏み入る。
様々な魔物たちが檻に、或いは巨大なガラスの中で静かに眠っている。渇いた唇を舐め、本能的な忌避を無視して奥へ行くと、特別頑強そうな容器の中に肉の塊が複数あった。周囲には蝿のような黒い靄が漂っている。
当たりだ。
アルクゥは薄く笑い、周囲で独楽鼠のように動く研究員を一通り眺める。この場にいるのは十人程。リストに載った者が八人いる。二人は不運だが――まあこの場にいること自体が罪の証左だ。
アルクゥは一旦この場を保留にし残りの確認に向かう。
六つある部屋を間遠から順に覗き込む。奥に人が集中しているせいか各部屋には多くても二人しかいない。速やかに処理を実行し、六つ目の部屋で幽世に戻ろうとしたときだった。扉が開く。
「あなた、何をしているの?」
赤銅色の短髪と碧眼をした愛らしい顔の少女がアルクゥを見て目を丸くし、ふと視線を外して死体を見た。大きく息が吸い込まれる音を聞きながら素早く踏み込み、柄の底で腹を殴りつける。
嘔吐く細い声に罪悪感を覚えたからだろうか。それとも彼女が子供と呼べる容姿をしていたからだろうか。
殺害という選択肢が頭から抜け落ち、引き倒して床に叩きつけ後ろ手に拘束した。扉の外に派手な音が響き渡る。
まずいと思ったときにはもう遅く、気絶した風の少女を放して幽世に逃げ込む。
廊下に飛び出すと向こうから警備兵二人が走ってくる。舌打ちして奥の大部屋に駆け込むと、騒ぎに気付いた研究員が三人、怪訝な顔をして外に出ようとするところだった。
三人。幽世の外に出て、全員に気付かれない間に殺せる数ではない。
アルクゥは歯を食い縛る。
血塗れの短剣を強く握り、幽世の中から刃を振るう。
一人の首を裂き、姿なき殺戮者に呆然とする二人を仕留める。途端に死体から溢れた光が脳を刃物で掻き回すような苦痛をアルクゥに与える。錯乱しかける精神と気絶しようとする意識を抑え込み、幽世を出て扉を閉め閂をかけた。
そしてすかさず部屋の内側に仄暗く光る人外の瞳を向けて吼える。
燃えろ、と。
龍の炎が全てを無差別に焼き尽くしていく。奥で誰かが防壁を張り、また水の魔術を使ったようだったが、全ての抵抗は徒労に終わり灰燼に去り行くばかりであった。
「う、あ……が……」
大量の魔力放出で痛む体に呻いたとき、背後の扉が破られた。幽世に入るのが一秒遅れていたら、警備兵の手に握られた剣で心臓を穿たれていた。
消し炭しか残らない部屋の惨状に絶句する警備兵の横を頭を抱えながら通り過ぎる。一歩が鉛のように重い。息を吸うのも億劫で、意識しないと呼吸を止めてしまいそうだ。このまま倒れてしまえばどれだけ幸福だろうか。
――とりあえずは必ず帰ってきてください。
膝を突いたアルクゥは、よろよろと立ち上がる。
「くそ……」
命令の発動に悪態を吐き、しかし助けられながら、来たときの倍以上の時をかけて門にまで帰った。門柱を背にずるずると座り込む。騒然とする魔導院を薄く眺めレイスが来るのを待つ。
それから幾許かの後にレイスは来た。ヒキガエルの制止を振り切るようにずんずんと進み、有無を言わさず門を開く。
「ちょっと待ちたまえレイス君! 犯人が捕まるまで誰も外に出す訳にはいかんのだよ!」
「私には関係ないことですな先生。それに私を狙った暗殺者の陽動でないとは限らないでしょう。命が惜しいので即刻帰らせていただきます」
レイスは呼び止めるヒキガエルに対し、門の境で淡々と言い返す。アルクゥは立ち上がり、その背を三度叩いて門の隙間を抜け、最後の気力を振り絞って少し先の林道脇に転がり込んだ。幽世を出たというのに息は楽にならない。けほ、と空咳にも血の味が混じっている。もう一歩も動けそうになかった。
「――竜殺し殿?」
やがて追いついてきたレイスが呼ばう声に安堵して「ここです」と返す。近付く足音に視線を上げると、レイスは立ち上がって手を伸ばせば届く近さにいた。
変人と名高い魔導師長は徹夜二日目の隈を歪めて呟いた。
「いないのか? 竜殺し殿……アルクゥ殿?」
「何を言ってるんですか?」
「まさか、まだ院内にいるのか? いやでも合図はあった」
「レイスさん?」
ブツブツと言いながら彼は踵を返す。
しばらくの間、アルクゥを探す声を響かせ、やがて消えた。
動揺がゆっくりと体中を巡り小刻みに震える手を宙に翳す。幽世と現世には明確な境目がある。光の有無、肌に感じる空気、全てが違う。違う――筈なのに。
「ここは、どこ?」
問いに答える者はいない。アルクゥは境界を見失った。




