第三話 自覚する刃
夢と現を彷徨う最中、薄く紗が掛かったようなぼやけた音がアルクゥの耳に入ってきた。
それが何の音なのか分からないが、早く起きろと本能が急かす。だが夢の中で上手く走れないように、瞼を開けようとしても意識は手応えを返さない。寧ろ再び微睡みにはまり込もうとしていた。
あわや意識が落ちるという寸前、軽い衝撃と浮遊感が強制的に現実を手繰り寄せる。
目を大きく開いて深く息をした。
やけに背中が痛い。固くて寝心地が悪い。その上、揺れている。
寝起きのせいか手足が重く体が熱を持っていた。それも不快な気分を助長させる。
自分のベッドはこんな風だっただろうか。軽く呻りながら仰向けに体勢を変え、アルクゥは目を瞠った。
見上げた先は天井ではなく、木々の隙間から溢れる満天の空だった。月を受けて淡く光る葉影のシルエットが星空を縁取ってこの世とは思えないほど美しい。
部屋ではない。外だ。
自覚した途端に凄惨な光景を思い出し、魔物はと飛び起きて空に目を凝らす。何者の影も見当たらない。
「お目覚めになりましたか」
ホッと息を吐くと艶のある声がかかった。
驚いて真横を見ると、碧眼の女と目が合い、アルクゥはその容姿にしばし呆然とした。
高く結った赤銅色の髪は闇夜にも良く映えて、白い肌は滑らかだ。顔のパーツは一つ一つが完璧で、まさに傾国と言っても過言ではない。身震いするほど美しい。
女は薄く笑った。
凝視していたアルクゥは我に返り頬を赤らめる。
謝罪しようと口を開くと声が出ないことに気が付いて狼狽した。喉に手をやると固い違和感に触れる。両手首にも細い鎖が巻かれていた。
「声と力を封じております。私どもは故あって貴女を誘拐いたしました。無礼をお許しください。」
――そういうことか。
ぐっと唇を噛んで動揺しそうになる心と体の震えを抑える。
「落ち着いていらっしゃるのですね。いえ、意外と言いますか……怯えるか、抵抗なさると思っていたものですから。流石に、聡明なお方だ。お察しの通り、我らは貴女様に危害を加えるつもりはございません。移動を再開いたしますので、多少揺れは辛抱してくださいませ」
女が歩き出すと、アルクゥを乗せた何かも動き出す。
木陰と夜の闇に同化するような黒い色で、触るとやすりのようにざらざらしていた。奇妙な板だと思いながら周囲を見回すも、担ぐ人間が誰もいない。独りでに浮いているような状態だ。
しつこく探すと後方に複数の人影を見つける。あの人たちは、と指差すと女は軽やかに笑う。
「アレは私の仲間共です。野盗などではございませんよ。臆病ですから、近付いて来ないだけ。全く威勢だけが取り柄の雑兵共が、貴女様に対しての怯えは仕方がないとしても、こんな魔物ごときに怯えるとは」
言葉の指す距離に嫌な予感がした。自分を運ぶ何かに意識を集中させると、微かに呼吸の起伏がある。
弾かれたように手を引きバランスを崩して傾く寸前、女がアルクゥの肩を乱暴に掴んで魔物の上に押し留めた。
「害はありません。私が操っておりますので。さぞ不快かと存じますが、街道、ここからすぐの場所に馬車が待機しております。そこまでご容赦くださいませ」
恐怖の中、森の茂みを抜けていった。
半刻も待たずに拓けた場所に出ると明かりが見えた。ウル石を取り付けた軍用の馬車が二台待機している。
明かりの範囲に入る前に女はアルクゥを魔物から降ろし、何かの言語か呪文だかを呟く。魔物はさっと反応して飛び去っていくが、魔物使いの女がいる限りアルクゥの恐怖は続く。
馬車に到着すると兵士二人が揃って敬礼をした。
服からして少なくともフルクトゥア領の兵ではない。グリトニル国内において軍を所持する領主を頭の中で上げていくが、その鎧の形まで覚えてはいなかった。
他に何か情報になるものを探していると険しい顔をしている兵の一人と目が合う。
怯んで身を縮めると、兵は自分の胸に手を当て膝を折った。主に仕える騎士のような所作だった。
「お会いできて光栄です。これから貴女様を王都まで護送させていただきます。しばらく悪路が続きますがご容赦ください」
呆気にとられたアルクゥは他に頼る辺もないので女を見て意味を問う。
女は小さく溜息を吐いて首を振り、チラリと後ろを見遣った。振り返ると後ろからついてきていた数人の兵士も同じように頭を下げている。
何かがおかしい。
重大な不安が胸を過るが、何も尋ねることも出来ず馬車に乗り込む。
同乗するのはやはり魔物使いの女で、リラックスした様子で対面に深く腰かけた。
「ここから王都まで二週間程かかります。転移を使用すれば一瞬なのですが、意識がある貴女様に行使すると何が起こるか……有体に言えば逃げられる、という懸念が兵達にはあります。彼らは精霊の寵愛を受けた貴女様が余程尊く、恐ろしいのでしょう」
アルクゥはその言葉に思わず首を傾げた。精霊の寵愛とは一体なんの話だろうか。女は少しうんざりしたように溜息を吐く。
「声を出せないのはお互い不便にございますね。雑兵共がどうしてもと言ったもので……確かに聖人のお力には未知な部分が多い。でも姿を借りたり、自在に気脈に溶け込んだり、一声で魔物を操るなど……できないでしょう?」
何を言っているのかわからない。とりあえず頷くと、女は短剣を取り出した。古びているが細かな装飾が施され、祭祀に用いるような見掛けだ。刀身は黒く濁った色をしている。いかにも切れ味が悪そうだったが、女がふと力を込めると黒く光を弾いて鋭利な刃を現した。
この女性は魔術師だ。
首元でガラスが割れたような音がし、女の手元には壊れた鎖が残る。
「声を」
「……あ」
恐る恐る空気を喉に通してみると酷く掠れた音が漏れた。咳をすると完全に声が戻る。
「貴女は……どこかにお仕えしている魔術師様とお見受けします。私を攫う目的は何なのですか?」
女は興味深げに片眉を上げる。
「魔物を使って大掛かりな混乱を起こしたのも貴女でしょう。ですが、ならばなぜ私などを? フルクトゥアをよく思わない領主様の差し金でしょうか? ですが私など人質に取ったところで我が家の名に傷一つ付けられないでしょう。それに貴女の言うその……寵愛? とは何のことでしょうか。見当違いです」
「え? ……その、ええと」
女は見るからに動揺した顔を隠すように額に手を当てた。
「あー、真名を呼ぶ不敬をお許しください。貴女の名は、アルクゥリーネ様で相違ないでしょうか?」
「え?」
今度はアルクゥが動揺する番だった。誘拐犯の目的は母親だったのだ。だが間違って瓜二つのアルクゥを攫った。
女も気付いたようで「娘の方か?」と呟き――にわかに笑い出した。
「くっ……あっはははは! 道理で話が通じないわけだ! 娘って、娘ってなんだよ! ああ、愉快だ、本当。任務は失敗かあ。二度目は危険すぎる」
完璧に崩れた言葉の端からどす黒い人間性が垣間見える。気圧されながらアルクゥは尋ねる。
「な……なぜ、母を誘拐しようなどと」
「キミの母親が聖人だから。政治的かつ宗教的な理由だ」
「そんな……聖人なんておとぎ話の存在でしょう」
「おとぎ話が子供を作るかよ。キミは災難としか言いようがないけど、母親の身代わりになった良い子供として称えられるだろうよ。さぞ豪勢な墓が建てられるんだろうねぇ。まあ中身は空だろうけどさ」
無力と判じたのだろう、女はアルクゥの手の鎖も切り、優雅に足を組んで頬杖を突いた。
「私の依頼主は利用価値のない人間を簡単に切り捨てる奴だ。キミは逃げようにも兵に見張られているし、逃げてもここは敵国で味方なんていない」
「敵国? まさか……」
海を越えてティアマトにいるというのか。それが真実ならば、誘拐を指示した人間はあまりにも愚かだ。
「公爵家の人間を攫うなんて……戦争でも起こすつもりですか!」
「両方のお上次第さ。ところで、この先に小さな街があるんだ。もうすぐ到着する。その手前で伝令役と落ち合い、状況を伝える手筈になっている」
時間のリミットを告げられたアルクゥは血の気が下がる。
「脅して、いるのですか」
「違うよ。考えて欲しいだけだ。今、キミにできる最善をね。……時間はない。だけどキミの目の前には腕の良い魔術師がいる」
「何が望みですか」
「取引をしよう。私はキミをグリトニルへ連れて帰る。キミは公爵に、どうかこの命の恩人に褒賞と土地、そして戸籍を与えてくださいと言ってくれるだけでいい。あ、勿論応じてくれたら誠心誠意、領地に貢献するつもりだよ」
魔物を操り、衛士を食わせた女の言葉は嘘にしか聞こえない。
黙っていると、女は肩を竦める。
「疑うのは当然か。じゃあ、こうしよう。キミは私と魔術で契約を結ぶ。契約ってわかるかな。簡単に説明すると、互いに誓いを立てて破れないようにするものだ。これで二人とも損をしない。ほら、手を出して」
魔術契約は聞いた事があった。契約する片方が僅かにでも魔力があれば使えるので、商人達がよく交わす契約だ。
半信半疑ながら、手を差し出す。女の手が上に重なる。
「常世に神留まり坐す 偉大なる世を創りし御霊に 誓い奉る」
女が呪いを唱え始めると、手が急激に熱くなった。
手を通して何かが体に流れ込んでくるのを感じる。
身の毛がよだつ。悪寒が全身を這うような不快感に襲われた。やがて苦痛に変わり、アルクゥは眉をきつく寄せ、女の表情を窺う。
歓喜の顔をしていた。
「我が名はベルティオ 征服し支配する者 汝を呪い、寿ぎ、あらゆる役目、喜び、悲しみ、そしてあるべき場所を奪い与える事を果たす者 我、汝の主たるを此処に誓う」
アルクゥは流れ込む力から逃げ出そうと身動ぎをする。しかしそれを許さない女はすかさず掴む力を強くした。逃がさない。そう言っている。
「汝、支配されし者 我ベルティオに傅き、服従し、あらゆる災禍を遠ざけ、全てを捧げる忠誠を誓いし者 尽きることなき忠を寄せる僕、汝の名を我が手に委ねたまえ……さあ、真名を言って。従うことを誓うんだ。早く」
「従う? 私が?」
苦痛で何が何だかわからない。アルクゥは息も絶え絶えに、言う通りに言葉を紡ぐ。
「私の名は、アルクゥアトル。私は、貴女に従うことを……誓います」
「アルクゥアトル、我が僕。其の名は死を超えて尚、我の手に」
ベルティオという真名の女は、撤回の暇も与えないとすかさず言い切った。
それが最後の句だったのだろう。
重ねられた手の上に、発光する紫色の紋様が浮かび上がる。精霊を現す模様は時を追うごとに形を変え、やがて装飾された刀身の形へと落ち着いた。鍔も柄もない片刃のみの剣。矛先を下に向け、ゆっくりと下がっていく。
このままいけば突き刺さる――。
「い……嫌です」
苦痛の波がいくらか収まったアルクゥは、声を絞り出す。ベルティオは意に介さない。
「大丈夫」
「嫌だ……やめて……」
「大丈夫だって」
ひたすらにおぞましい。
悪寒が止まらない。
「少し痛いけど、傷がつくわけじゃないよ。血も出ない。危険じゃないから」
女の言葉は到底信じられるものではなかった。
これは既に本能的な嫌悪にまで達している。剣を凝視していると冷や汗が溢れた。
肌に切っ先が触れようとした瞬間、全身が激しく拒否を示す。
自分でも驚くほどの力でベルティオの手を振り払った。行き場を失った剣の紋様は火をかき消すように空気に溶け、同時に嫌な感覚も消え去る。
沈黙が馬車の中に漂う。
「……じきに約束の場所に着く。考えを改める時間はまだあるさ。着いたら全員に事実を話すから。その後キミが犯されようが拷問されようが殺されようが、知ったことではないからね」
苛立ち混じりに言って、以降ベルティオは口を開かなくなった。アルクゥも口を両手で押さえ、助けを求めそうになる自分を押さえ込んでいた。
◇◇◇
馬車が到着して、ベルティオは短剣を置いて出て行った。
せめてもの情けだろうか。
鎖を切った短剣を取り、迷いに迷って鞘を払ったとき、外でどよめきが起こる。時間は残り少ない。
絶望の最中、首に刃を向ける。そのとき馬車の扉が開いた。
見覚えのある顔だった。アルクゥを気絶させた男だ。悲痛な面持ちをしている。
「おい、何を」
男は短剣を見て思わずと言った風に手を伸ばす。
アルクゥは反射的に刃を喉に突き立てたが、ざらりとした小さな痛みだけで死には到底届かなかった。
「どうして……」
「それは、あの女の持ち物でしょう。魔剣だ。魔力を込めないと使えない」
「で、では……け、剣をお貸し下さい。辱められるくらいなら自分で……」
嗚咽が混じって言葉にならない。
涙に滲んだ視界の中で男がハッと息を呑むのがわかった。
「すまない……本当に申し訳ないことをした。そもそも、こんな計画などに加担すべきではなかったんだろう。貴女は公爵の娘だ。そう無下には扱われない。俺も出来る限りはする。どうか、早まらないでくれ」
アルクゥは首を振る。
命じられるまま、人一人簡単に攫ってくる兵士を誰が信用するというのだろう。
――貴方のせいで、私はこんな目に合っている。
腹の底に小さな怒りが燻ぶった。
「短剣はこちらに。使えないとはいえ、武器を持っていれば反意があると見做されてしまう」
「嫌です……」
「駄々をこねないでください。早くしないと、いつ伝令の者が来るか」
「近寄らないで」
男は真横に首を反らして外を確認し、「早く渡せ」と急かす。
首が夜目に白い。
身の内にある炎が一段と猛り狂ったようだった。柄を握り直すと短剣は差し込む月光を怪しく反射する。
男が何度も外を確認している。
白々とした肌は――黒い刃先を誘うように美しかった。
男はふいに目を丸くしてアルクゥを見た。
その視線は緩やかに下りていく。目の端に見えた物に触れようとしてか、片手を持ち上げるが、すぐに力なく垂れ下がった。
「あ……ああ……」
短剣が白い首に突き刺さっている。
柄を持っているのは確かにアルクゥの手だった。刃が蓋となってはいるが血は溢れ、手を濡らす。熱い液体に思わず手を離した。
男の目から光が消える。体が傾き、椅子にもたれ掛るように倒れた。
アルクゥは汚らわしい物体から離れるように後ずさり、赤くなった両手を見る。
硬直した意識の外で激しい馬の嘶きが聞こえた。アルクゥは転がり落ちるように馬車から降り、目前にある森の茂みに飛び込んで闇の中に消えた。