第三十八話 影からの言伝
王都に神が還った。
その報は疾風の速度で国を駆け巡り、国外にも届く勢いだった。
なぜそれほどの爆発的な伝聞が起こったのか。それはデネブの現象とは違い、目に見える変化があったからである。
瑞々しい花々が咲き誇り、新緑が凍えた土を暖める――王都の周辺はまるで春が訪れたような様相を呈した。現在は元の寒々しい秋景色に戻っているが、魔具で写された風景が広報紙に載って全国民が知るところとなった。
魔獣の出現や隣国との関係悪化という暗い話題が続く中で、その“特別”は国中を大きく湧かせた。
王宮では当然のように祝賀の予定が立てられ、招待状が方々に送られている。
その内の何通かは密かに海と国境を越えた。それが露見したのは祝宴の前日で、軍部と教会は色めき立ったが後の祭りだ。
諸外国の使節が招かれる。
同時に、王の側にいる司祭が何か企んでいるという噂が広まった。間違いではない。いや、企みというほどの計略でもないだろう。少し頭を回せば各国の使節を招く理由など知れている。
ただ、予想は出来ても阻むことは不可能だ。直前まで機密を守りきった成果であった。
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見上げるほど高く、目に庇を作って見渡すほど広い大広間には多くの人間がひしめいている。
王の式辞が祝宴の開始を告げると、各々が食事や歓談に花を咲かせ始める。
その中で、アルクゥは早々と壁に青い花を咲かせて、軽く片足を上げたりドレスの裾を摘んだりして可動域を確かめていた。
深海色のイブニングドレス。見目は良いが機能性は最悪だ。露出が多くて刃物に弱いだろうし、有事の際には裾を大きく裂いてハイヒールを脱ぎ捨てないと動けない。一式全てユルドに借りた物なので粗末な扱いはしたくないが状況次第だろう。
「お嬢様、お飲み物はいかがでしょうか」
目敏く寄って来た給仕がグラスを差し出す。軽く睨みながら受け取ると、給仕姿のトゥーテは蕩けたような笑みで「とても綺麗です」と囁いて離れていった。奴の自分に対する想いは敬意から信仰の域に足をかけているらしい。
アルクゥは黒く染めた髪に触れる振りをして周囲に視線を走らせる。
令嬢や子息は暢気なものだ。
高位の軍官僚や聖職者は遠目にもピリピリしているのがわかる。笑みを浮かべているが絶えず周りを警戒し、中央奥にいる国王と来賓の動向を注視している。
王と諸外国の使節は何の蟠りも無いといった風に穏やかに接していた。
招待に応じたのは国境を接する小国三つ、大国ムーサ、そして最も緊張が高まっているグリトニルの五カ国だ。
(ムーサ以外と密約か。司祭の口振りでは前から擦り合わせをしていたようだけど)
今回の祝賀は大手を振って使節を招くことができる良い機会だと言っていたが、アルクゥの耳には計画を前倒ししたように聞こえた。
(苦い)
グラスに波打つ甘い酒を舐めても後悔が口に苦い。
自分が仕出かした浅慮が状況を早めるきっかけとなってしまった。
いつの間にか空になったグラスを玩んでいると、すかさずトゥーテが新しいものと交換する。そこでようやくトゥーテが常に傍から離れないことに気付いて追い払う。すると今度は宴に浮かれた男性に何度も声を掛けられる破目になった。
苦しげながらも愛想笑いで追い払い、警備に集中しようとする。
「美しいな。普段の貴公は白花のように凛としているが、今は青い薔薇だ」
肌が粟立つ台詞にあえなく専心は霧散した。
礼装の軍服を着るハティの副官ギルベルトは、臆面もなく爽やかな笑顔を浮かべている。
どこかの司祭とは違い他意のない笑みに毒気を抜かれる。
「こんばんは、ティルジット上級大尉」
「ギルでいいさ。貴公と俺の仲だろう。さて、少しばかり話し相手になってくれないか」
「お一人ですか? ……私などよりあちらのお嬢様方のお相手をされた方がよろしいのでは」
ギルに熱烈な視線を送っている女性が何人か確認できる。つまらない警備員より可愛らしい令嬢達と浮名を流すほうが余程楽しいだろうに。
「途中までは妻がいたのだが、さっさと友人の所へ行ってしまったんだ。仮面夫婦も考え物だな」
笑って真横の壁に背をつけたギルは、事も無げに家庭事情を暴露して、給仕と呼び付けグラスを受け取った。透き通った赤い液体を揺らし、口元に近づけるが飲もうとはしない。
「――貴公には感謝している」
「何の話でしょうか」
「ハティのことだ。最近のアイツは、どこかに置き忘れた中身が戻ってきたようだ」
目を瞬かせて首を振る。
「私は何もしていません。本人の気の持ちようです」
「それでも感謝をしたい」
ギルは穏やかに微笑んで手元に視線を落としている。本当にハティを思い遣り、心配していたのだろう。強い感謝の念は最初の世辞よりも余程アルクゥをくすぐったくさせた。
「今日ハティ様は?」
「来ていない。五月蝿い嘴に突きまわされるのは目に見えているからな」
ギルは微かに眉をひそめ、グラスを傾け視線を促す。
「左には軍拡急進派の元帥二名に大将三名、その後方に聖職者の塊があって、反対側に北方大領主。珍しいことに教会の頭までお出ましだ」
「……どなたが教会の?」
「目隠しをしている女性だ」
示された先には今まで何故気付かなかったのか不思議なくらい奇妙な女がいた。
黒色の布で目を覆った姿もさることながら、その女性自身が強烈な圧を発しているようで、取り巻きの聖職者以外は誰も近寄らず、そこだけ不自然な空間が出来ている。
あれが――。
「バルトロマイ大司教?」
目を隠してはいるが、あれはニコラ司教の屋敷で会話した女性だ。
声低く尋ねるとギルは頷いて目を細めた。
「石の聖女と言われている。視界に入った物を任意で石に変える、最高位の魔眼保有者だ。貴公ほどの魔術師でも近寄らない方が良いだろうな。……どうした」
「何でも」
グラスに口をつけて歪んだ顔を誤魔化す。ギルは物言いたげにしていたが、不意に姿勢を正して一歩前に出てアルクゥの視界を遮る。そのとき強く肩を押された。戸惑うアルクゥを余所にギルは不自然に明るい声を上げる。
「ホルスト参謀長。出席なさっていたのですね」
「当たり前じゃないか。私は宴会が大好きなのだよ。ところで、そちらの」
「俺の友人です。貴方の毒牙にかけるわけにはいきませんよ」
「ほう。では名前だけでも」
「お忍びですので。さあ、せっかくの祝賀だ。楽しんでおいで」
庇われたのかもしれない。アルクゥはギルに深く一礼してその場を後にした。
「ああっ行ってしまったか。つれないな。しかしギル君に異性の友など、一体どうしたことか。機能不全にでもなったのかね? 任せたまえ、良い薬を知っているから」
「参謀長……」
後ろにそんな会話を聞きながら人に混じる。
それからは大まかに割り当てられた警備区域を、人の談笑に加わりつつ不自然でない装いで目を光らせることに専念した。
飲食物に毒は入っていないか、不審な動きをする者はいないか、微量の魔力で精査する。
気を張る仕事だが、レイス魔導師長が周辺一帯に召喚、転移魔術が使えない術式を書き込んでいるので魔物の心配だけはしなくてもよかった。
宵も深まった頃合、酒精に唆される者が現れ出すと、随所に配置されていた使用人や給仕が動き始める。アルクゥの近くでも軍人の男性が壁に背を預けて沈没しようとしている。
「ちょいと失礼します。……って嬢ちゃんかぁ? はぁ、こりゃ綺麗なもんだ。女ってのは怖ぇな」
「ありがとうございます。あの、それよりも貴方の体格でそれはちょっと……」
「あっ言うなよ! 仕方ねぇだろ、このサイズしかなかったんだからよぉ」
クロは窮屈な服に体を揺すって、酔いつぶれた男性を回収していく。休憩室に放り込むらしい。
手近な出口から出て行く背中を見送るアルクゥの視界に、こちらを見詰める目があったように思えた。
ひやりとして焦点を移すと、背を向けた男が会場から出ようとしている。軍人ではない。男性参加者は女性とは違い服装が似通っている。躊躇うと見失う。
アルクゥは我知らず追いかけていた。杞憂だとしても確認するに越したことはない。
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男が消えた出口は庭園に通じていた。
男は向かいの柱廊に行ったようだ。追いかけて庭園を横切っていると、途中葉陰に数組の仲睦まじい男女を見つける。顔を赤くして足早に抜け、一息ついた瞬間、真横に引き寄せられた。相手を確認する間もなく、柱に強く押し付けられ、人影が覆いかぶさってくる。抱き込まれて首に温い感触と鈍い痛みが走った。酒臭い呼吸が鼻を突く。
誰、酔っ払い、男、屑、抵抗、相手は貴族――そんな言葉の羅列が瞬時に頭を流れたときには盛った男を躊躇なく殴っていた。
しっかりと魔力を込めた一撃で相手は気絶したようだ。素早く離れて身なりを確認する。若い青年だ。どこぞの子息が酔った勢いで通りすがりの女性を手篭めにしようとした、という事だろう。恨みを込めて軽く蹴り、近衛を探して辺りを見回す。
「大丈夫ですか」
吐息が耳にかかる近さで声がした。
怖気立つ。振り返り様に距離を取ると、そこにいたのはどこにでもいる顔立ちをした平凡な容姿の男だった。影から生えたように突如として現れたせいか、陰気な印象を受ける。
「お助けしようと思いましたが、必要がなかったようで」
男の言葉が先程の痴態を指していることに気付き耳が熱くなる。
居た堪れない。見失ってしまった不審者を追いかける為にも、早々にこの場を辞そうとして会釈する。
「待ってください。あなたが探しているのは俺でしょう」
そう聞くや否や振り返り、陰気な男と再度対峙する。
「あわよくば、と見ていたんです。本当に気付いて、追ってきてくれるとは思っていませんでした」
「私に何かご用でしょうか」
「そうやって髪を染めていると母君よりも父君の面影があるように見えますね。お似合いですよ」
見当違いな答えだったが、一気に気分を警戒体勢に引き上げる威力を持っていた。
静かに魔力を巡らせて体の隅々に満たしていく。気付いた男はゆっくりと半歩下がって両手を上げた。
「敵ではありません。俺はグリトニルの間者です。一度お目にかかったことがあるのですが……覚えていないか。あなたは十歳でした。お亡くなりになった筈のあなたを見つけたときは仰天しましたよ。護衛官と知って更に驚きました。いつ武芸を嗜んだんですか?」
「名と、私への用件は」
「テネラエ。あなたの上官に取り次いでいただきたい」
「なぜ」
「渡したい物があるからです」
「今持っているなら見せてください」
テネラエが取り出したのは、上質な紙を丸めて紐で縛り封蝋を施した手紙だった。アルクゥは目を瞠る。封蝋の印璽は、水を纏う神の鳥だ。グリトニル王家の紋章に他ならない。そんな物を秘密裏に間者が運ぶとするならば。
「密書……そんなものは、使節の方に託せば済む話でしょう」
「察しが良くて助かります。やはりあなたを頼って正解だったな。俺を通すのは諸々の事情が」
テネラエは言葉を切り密書を懐に戻した。アルクゥも口を閉ざす。
誰かこちらに来る。
テネラエから目を離さず足音に集中すると、不思議と誰だかわかった。何でこんな場所に、と思いながらすぐさま念話で事情を説明する。
警戒もせずアルクゥの隣に立ったサタナは聖職衣ではなく正装で、髪を後ろに流している。似合っているが、胡散臭さが二割増した己の主はテネラエに手を差し出した。
「貰い受けましょう」
さっさと出せと言わんばかりの尊大さだ。テネラエも何の躊躇もなく密書を渡す。なぜ来たばかりのサタナが密書のことを知ったのかすら気に掛けない様子だった。
一人呆気にとられたアルクゥは、一連の行動を見終わった後に我に返り、テネラエの目も構わず幽世に入る。サタナの手から密書をもぎ取り、ブンブンと上下に振って微かに感じる術式を払い落とした。
「何か仕込んであったらどうするんですか……!」
幸い秘密漏洩を防ぐ術しかかかっていなかった。
幽世を出て、目を丸くするサタナに密書を押し付けながら言うと、「見た限りでは封印くらいでしたから」とうそぶく。
「だからと言って」
「じゃあ、俺は行きますので、返答の際には呼んでください。連絡先は……まあ、泳がせていた魚の位置くらいは知っているだろうから、必要ないでしょう」
役目を終えたテネエラはサタナに言ってから、「またお目にかかれる日を楽しみにしています」とアルクゥに深く頭を下げて影に消えていった。
「陰気な男ですねぇ。知り合いですか?」
「一度会ったことがあるそうですが覚えていません。それで、なぜ護衛も付けずこんな所にいるのですか」
「おや、貴女を心配して出て来たのにつれないですね」
「心配?」
さっさと戻れと言いかけたアルクゥはサタナの視線の先を見て口を噤む。
「頭に響く、耳障りの良い罵詈雑言でした」
「無視してください。自分で対処できます」
「派手に殴りましたね。……ああ、首に怪我をしている」
ぬっと伸びてきた手を避ける。
「自分で治します」
「そう遠慮せず。傷が見えないでしょう」
渋々頷くとやんわり首を握られた。
肌に当たる手の平が熱く感じられる。生殺与奪権を直接握られた気がして息を飲む。細いな、と呟きの後に治癒の光が目端に映り、手は離れていった。
「ありがとうございます」
「貴女には祝賀の後も働いて貰わなくてはなりませんからね。一先ず帰りましょうか。私がいないと陛下が蟻にたかられているかもしれない」
「祝宴が終わってすぐに使節と会談なさるのですか」
「ええ。引き続き警備をお願いすると思います」
頷いて、サタナの後に大広間へと戻る。
ふと見ると教会、軍部共に上層の人間は消えていた。早々と帰ったようだ。
何とはなしに不穏を嗅ぎ取ったアルクゥだったが、祝宴が終わった後に開かれた各国使節との会談は淀みなく開始され、その間、警備の人間が拍子抜けするほど何も起こりはしなかった。




