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精霊のシジル  作者: 染料
四章
36/135

第三十五話 狐と狸の化かし合い



 山吹色の陽光は、雲一つ見当たらない空から鳥の囀りと共に降り注ぐ。


 古びた民家の白壁に挟まれた、なだらかな坂の小路は暖かな光に満ちていた。太陽の香りの中には郷愁を誘う夕方の匂いが混じっている。

 その平穏の中を、しかしアルクゥは薄いガラスの床を渡る心地で進んでいた。

 一つ踏み出す度に宙を舞い光り輝く土埃が目の端にチラチラと過ぎって邪魔だ。埃っぽい臭いも鬱陶しい。ピイピイ鳴く鳥も五月蝿く聞こえる。

 もっと五感の強化に慣れておけばと後悔する。大量に入り込む情報の取捨は難しい。余分なものを取り必要なものを捨てているかもしれない、という自覚が心細い。

 緊張で動きの悪い関節をぎこちなく動かしながら王宮への帰路を進む。やがて小路の出口が遠くに見え、アルクゥは一層気を引き締めた。数日前、同じような道のこの辺りで襲撃を受けたのだ。

 相手は五人、当然のように魔力保持者と魔術師の一行だった。

 足を斬られながらも初撃を凌ぎ幽世に入ればそこからは単調な作業だった。相手が慣れていないようであったのも大きい。幽世を出入りしながら順繰りに倒し、最後の一人は炎で燃やした。どこかにいるであろう監視に、真実自分が竜殺しなのだと知らしめるためだ。


(きっと次は……捕らえにくる。そうしてくれないと、困る)


 一度目の襲撃は想定内だ。いくら相手が愚かでも、不自然に装飾された捜査の後任を警戒する。だがアルクゥは自分の価値を示した。そこで相手の次を見極めなければならない。


 サタナは敵の殺意を見定める手段として、強力な幻惑を使う魔術師の存在を挙げた。


 ユルドが捕らわれた際の目撃者と思われる人間は記憶に混乱を来たし、現在も専門の医療機関に入院中だという。強い魔術師は虎の子だ。一度目が全滅した上でも出してくるなら、リスクよりも“英雄”を捕らえる利益に食いついたと見て良い。

 判断する材料は五感、特に視覚の異常。

 幻惑や撹乱の魔術は、その半数以上が目を切っ掛けとして感覚を侵す。「有り得ない光景」

が見えたらそれは術中に陥る第一歩と思っていい。

 アルクゥはそこでふと苦い記憶がこみ上げ、ギリリと歯噛みした。感覚が狂う行程を知っておいた方がいい、とサタナが善意に見せかけた悪意で行使した幻惑魔術は、忘れようにも忘れ難い屈辱だ。


 思い出した悔しさに恐怖が薄らぐ。

 足裏で地面を叩くような歩調で進み始めるアルクゥの行く先に、何かけばけばしい色の丸い塊が落ちてきた。目算で建物三つの距離がある。何らかの罠ではないかと目を凝らす。

 それは蠢いているようだった。魔物か、と身構え更に視線を釘付けにする。

 赤緑の体が目に沁みる――そう思ったときだった。天地が逆転して周囲の建物が溶解する。

 空に落ちるという矛盾に咄嗟にしゃがみ込む。身動きがままならないアルクゥの足元に溶けた地面が絡みついた。

 喉を引き攣らせ叫びだしそうになったとき、ピイィ……と澄んだ鳥声が理性を呼び戻す。

 聴覚だけは自由らしい。集中すると近くに複数の足音も聞こえた。

 アルクゥの側に佇んだ数人の襲撃者は一言も会話を交わさない。

 殺すのか、連れて行くのか。

 地面に倒れ込むと肩に手が掛かり乱暴に担ぎ上げられた。


(釣れた)


 かすかに口角が上がった。無事に目的の敵に捕まることができたようだ。

 懐に入るまではせいぜい行儀の良い魚を演じなければならない。アルクゥは目を閉じ、今は混濁に身を任せる。



◆◆◆



 酷い吐き気を感じながら目を覚ましたあと、ヤクシは自分が片頬を床につけてうつ伏せに倒れていると把握するまで十秒程度を要した。腹部の痛みに顔を顰めながら身を起こす。そして軽々しく動いたことを後悔した。

 室内の空気は痛いほどに張り詰めている。


「それで、敵にわざと狙われるようにしたのか」

「本人たっての希望でしたから」


 静かに激怒する獣の唸りに似た声が詰問し、どこか人を小馬鹿にする口調が答える。

 少しは愁傷にしてくれ、とヤクシは後者に対して思う。サタナは武官としても優秀だがヴァルフを余裕でいなせるわけではない。あの獣染みた印象を持たせる新人近衛は強すぎる。


「アイツはどこにいる?」

「さあ、どこでしょうか」


 ピリ、と空気が更に殺気立った。

 机を挟んではいるがサタナとヴァルフの距離は互いの間合い内だ。護衛としては間に入らなければならない。だがそうしても再び落とされるのが目に見えている。

 ヤクシは瞼を閉じて護衛の役目を放棄することに決めた。今はもう一方の仕事が大事だ。状況的にも、心情的にも。

 市街に放っている二十匹余りの眼に感覚を繋ぎ直す。

 脳裏に二十数通りの風景が浮かび上がり、ヤクシはその中からアルクゥを探した。上空を飛ぶ猛禽の視界に私服の兵を連れたアルクゥを見つけたので、不自然にならないように監視を開始した。

 それから数分して一行は散開し、アルクゥは細い路地に一人入っていった。歩調はぎこちないが、躊躇いはない。

 ――度胸は認める。

 ヤクシは心中ひとりごちて酷く悔しい思いになった。

 化け物とはいえまだ成人もしていない娘が囮になっているというのに、自分はただ観ているだけだ。狙われるような地位に興味はないがこういう場合は歯痒くて仕方がない。

 ――俺ならば数日前の襲撃でも怪我などしなかった。

 一度アルクゥに負け、先程もあっさりとヴァルフにやられはしたが戦闘に関しては幾許かの自負がある。しかし、だからと言って囮に適しているというわけではないことも腹が立つのだ。捕らえられた後を考えると、魔術の一切を拒絶する幽世とやらに行けるアルクゥの方が適任だ。

 そこまで分かっていても感情は割り切れない。

 もしアルクゥが失敗しユルドが殺されるようなことがあったら、ヤクシは確実にアルクゥを憎悪するだろう。他の誰でもそうだ。自分であれば上手くやったと思ってしまうだろう。


 アルクゥは長閑な路地を順調に進んでいる。


 鳥を通したヤクシの眼も今のところは異変を映さないが、気は抜けない。襲撃から数日、猶予として充分な時間が空いている。仕掛けてくる可能性は高い。

 時折、剣呑な怒声が室内に響く中でジッと息を詰めて集中していると、ついにそのときが訪れた。

 真を視る魔眼は変化を見逃さない。

 建物の間を縫う不穏な影は五つ。内の一つから濃密な、だが巧みに隠された魔力が辺りに放出されていく。鳥を鳴かせて警告したがアルクゥは不快げな表情で見上げるだけだった。


「――くだんの魔術師が」


 短く伝える。サタナは何の話だと荒く問うヴァルフを制して「状況を」と求めた。


「危害を加える素振りは見せません」


 膝を突き、更には倒れたアルクゥを五つの人影が取り囲む。意識を確かめるように足先で揺り動かし、反応がないと見るや大柄の影が抱え上げた。

 囮は役目を果たし、敵は見事に釣り上げられた。ヤクシは口の端を歪める。


「掛かりました。気取られないように追います」


 仮に追跡がばれたとしても、ヤクシは五人の姿形を覚えた。今後、顔を隠そうが魔術で姿を変えようが、奴らが自分の眼を逃れることはない。

 上司にこれからを窺おうと目を開く。すると険しい表情のヴァルフが思わぬ近さにいて、命の危険を感じさせる声音で言った。


「それはアルクゥに関係がある話か?」

「近衛を借ります。貴方を含め、暇そうな人間を十人ほど集めてください」


 威圧の視線がサタナに逸れヤクシは安堵の息を吐く。

 ヴァルフはサタナを一瞥し、素直に命令に従う様子を見せる。


「アルクゥに何かあったら殺すぞ」


 が、執務室を出て行く前に脅しでない捨て台詞を吐き、殺意の余韻を残して消えた。


「なぜあのような危険な男を連れてきたんですか」

「彼女とネリウス様がこちらの手にある以上、彼は有能な働き手に徹するからですよ。……さて、これから忙しくなりそうだ」


 だから少しは愁傷に、と言いかけたヤクシは口を噤み、意識の大部分を追跡に注ぐ。

 サタナの死亡事由になりそうな人間が今更一人増えたくらいどうということはない。今はユルドを助けることが先決だ。



◆◆◆



 アルクゥが存外悪くない気分で目を覚ましたのは、周囲に酷く落ち着く匂いが立ち込めていたからだ。紅茶の匂いだった。

 眼球をぐるりと巡らせるとここが質の良い部屋で、自分は柔らかいベッドに寝かされているのだとわかった。体に痛みはない。怪我はしていないようだ。不自然に腹に乗った両手を動かすと微かに鎖の擦れる音がした。魔力を動かせない、封魔の縛めだろう。

 起き上がって状況を確認したい気持ちが強かったが、目覚めた時から室内に人の気配がある。迂闊に動けない。狸寝入りでもしていようかと瞼を閉じる。


「お目覚めかしら」


 成熟した深みのある女の声がした。

 仕方なく起きると、部屋の中央に置かれたティーテーブルの側に初老の女が座っていた。歳を重ねた証が薄っすらと口元や目じりに刻まれてはいるが、綺麗な人だ。何より目を引くのはその瞳だ。虹彩は赤、瞳孔は雪よりも白い。

 盲いているのかとも思ったが、ベッドから降りて立ち上がると動きに合わせて視線は動く。


「もう動いて大丈夫なの? 無理はしないでちょうだいね」

「貴女は?」


 女は柔らかく微笑む。服装は金糸の刺繍が美しい黒衣で見るからに高位の聖職者、穏やかに見えても敵方の人間には違いない。向かいの椅子を勧められるが首を振り、腰に手をやる目をがそこにアルクゥの武器はない。


「探しているのはこれ?」


 女は徐に短剣を取り出す。

 そして何を思ったのか放り投げた。アルクゥは慌てて受け取り、女を睨みつける。


「信用は行動で示すのがわたくしの流儀なの。わたくしは、貴女に敵意はないわ」

「それならこの手錠を外してください」

「わたくしは鍵を持っていない。ですがじきに縛めは解かれるでしょう。――そう、わたくしは貴女方に陳謝せねばなりません」


 妙に確信があるように言った女は、紅茶のカップを置いて唐突に頭を下げた。無防備な首が晒されている。

 アルクゥは女のことごとく不意を突く行動に寧ろ警戒を高めた。


「貴女が一連の犯人なのですか」


 女は顔を上げて「いいえ」と吐息混じりに首を振った。


「ですが暴虐を働いた者を統治すべき立場にある者よ。わたくしが至らなかったばかりに、沢山の尊い命が奪われました。貴女方にもとてつもない労と辛苦をかけてしまった……本当に何とお詫びしてよいのか」


 しおらしい態度にアルクゥは眉を寄せ、訝しげに確認をする。


「貴女は犯人の上の立場だ、と」

「はい」

「そして責任を認める?」

「はい」


 一片の迷いなく毅然と答えた女はすっと背筋を正した。


「この一件は司教ニコラ……大司教カタリナの補佐官であり第十三教区の監督者である彼の悪心から始まりました」


 役名を言われても全くピンとこないアルクゥは、真摯に語る女の言葉にただ耳を傾ける。


「彼はシャムハットに加担した祖父を処断した先代の王を憎み、そのお子であらせられるギルタブリル国王陛下に復讐を企んだ。ニコラはいくらでも献金を横領できる立場にあり、大半を忌まわしき邪教の残党に渡していたのです」


 女は窓の外に顔を向ける。


「精霊祭の夜に現れた実体のない妖魔は、彼の怨嗟の塊と言ってもいいかもしれません。そのときの状況を聞いてわたくしは慄きました。恐ろしいほどの侵食速度、強力な耐性……貴女と嵐の英雄がいなければ、この聖なる王都が厄憑きの巣窟になっていたかも」


 向き直った表情は苦悩の色が濃い。


「酌量の余地はありません。手心を加える気もありません。わたくしの全権を以って司教ニコラ、いえ関わったもの全てを洗い出して白日の下に晒すことを誓います」


 決然と言い放った美しい女に、しかしアルクゥは「はあ」と気の抜けた返事をする。

 拍子抜けというか、不完全燃焼というか、呆気に取られたというか。

 こういった場合にはどう反応していいのか知らない。どうしても手が届かない場所に望む物あって、何とかして取ろうと目一杯の努力をしていたのに、突然それが手の中に飛び込んで来たような感覚だ。作為的にすら思える大団円。


「ユルドさん……いや、ユルド大尉はどこに? 捕らえられている筈ですが」


 あまりに気が抜けた声だったのか、女は小さく微笑んで手の平を下に向ける。


「この下、五階に監禁されているわ。先程様子を見てきたけれど、手荒な真似はされていないそうよ」

「ここは、そのニコラ司教という方の」

「そう。彼が三つ持つ屋敷の一つよ。南の、いわゆる一般居住区の近くに建っている」

「ご本人は?」

「自室で謹慎中です」


 女の言うことが全て真実なら物事の大半には決着がついている。

 しかし安堵ともつかない脱力に身を任せるには早い。


「その、邪教とやらの残党は」

「目星はついています」


 となれば捕縛するだけで、いよいよこちら側にするべきことは――いや待て、とアルクゥは思い直して女を真っ直ぐ見返す。

 “シャムハット”は民衆に向けたわかりやすい敵の表現だ。過去の亡霊の名をサタナが借りて流したに過ぎない、実体は滅び去った存在のはず。知識は密かに受け継がれているかもしれないが、当時の魔術師たちは確実に死んでいる。


(嘘が本当だった?)


 というよりも、寧ろこれは。


(嘘に沿わせて事実を作ったような……)


 そうすれば目前の女は大嘘吐きということになる。

 アルクゥは赤い瞳を見て、目を逸らした。奇妙な威圧を感じた。息苦しい。


「事後処理はわたくしたちに任せていただけるかしら?」

「……私が判断していい問題ではありません」

「そう……」


 ふっと圧が途絶える。女は冷や汗を浮かべるアルクゥに優しく微笑む。


「サタナは素晴らしい部下を沢山持っているのね。嫉妬してしまうわ。こんなことなら、側から離すべきではなかったのかも」


 意味を問う前に女は立ち上がった。


「そろそろ行かなくては。最後に二つだけ質問してもいいかしら」

「答えられることであれば」

「貴女は精霊に愛された人間?」


 目を瞠ったアルクゥは、眉を寄せて瞳を閉じる。馬鹿らしい。


「精霊など姿を見たことも声を聞いたこともありません」

「それでも貴女の炎は精霊……龍の息吹そのものよ」

「では貴女はその精霊を見たことがあると?」


 言葉尻を捉えたアルクゥに、女は見るからに落胆した風を見せた。


「そう、そうね。今まで精霊と名のつく存在を目にしたことはないわ。ううん、きっとこれからもそうなのでしょう。わたくしはその資格を持っていない……ではもう一つ。貴女は信仰をどう考えているのかしら?」


 一つ目に続き奇妙な質問だった。政治の道具だろうと考えつつも、聖職者を目の前にしてそんな無遠慮な答えは紡げない。


「心の拠り所ではないでしょうか」

「模範的ね」

「私は信仰を持たないので、そのように答えるしかないのです」

「強い人間は皆そう言うわ。……答えてくれてありがとう」


 さようなら、と女は背を向ける。細い背中は冬の湖面のように頑なで、底冷えのする気配を放っている。間違った答えを引いたのかもしれない。



 名を聞きそびれた女聖職者が出て行ってすぐ、二人目の訪問者があった。

 金糸のストールを肩にかけた黒衣の男だ。また聖職者、と嫌いな人種に辟易して誰何しようとした時だった。

 猛然と詰め寄り、大きく振りかぶられた男の拳をアルクゥは避けることができなかった。床に倒れる。続けざまに腹部を数回蹴り上げられる。

 吐き気はどうにかこらえるが、鼻奥から零れたどろりとした生ぬるい血液が喉を伝い口から流れる。


「くそっ……くそお!」


 普段運動をしないのだろう。男はあれだけの動きで息を切らし、一旦暴力を停止した。アルクゥは痛む体を引き摺って距離を置く。


「俺はぁっ……俺は、今までっ……なんでだ! どうしてこんなことに! 俺は、何も……」


 口角から泡を飛ばしながら激昂する男は叫び続ける。そのせいで息が整うということがなく、再び手を上げる体力は残っていないようだった。

 アルクゥは女が返してくれた短剣を意識しつつ、男の怒声を何とか解読しようとするが、合間合間に挟まる不自然な空白のせいで要を得ない。

 しばらくすると少ない体力も尽きたのか、その場に座り込んでブツブツと恨み言を言うだけになってしまった。


「もうお終いだ……何もかも、命も名誉も……」


 ガシガシと頭を掻き毟る。

 袖から覗いた腕には見慣れた紋様があった。アルクゥの左腕にも似た紋が刻まれている。男の状態を併せると、主従の契約印は何よりも雄弁な説明に他ならない。命じられているのだ。何事かの沈黙を。


「……ニコラ司教?」


 思い当たる名を呟く。鼻水を垂らして泣く男はビクリと肩を揺らす。


「先程訪れた女性に、貴方が事件の首謀者だと窺いました」

「……許してくれ」

「ところで、貴方は誰と契約をしているのですか?」

「頼む。許してくれ。何も聞かないでくれ。殴って悪かった」


 小さくなってしまったニコラ司教は耳を塞いでブルブルと震えている。


「誰に、何を命令されたのですか」

「止めてくれ……」

「話せることだけでいい。教えてください。少しでも贖罪をしたいのであれば。貴方の主人は、先程この部屋に来た女性ですか? それとも別の誰か? 貴方は本当に犯人ですか?」

「お、俺は……俺では」


 ニコラ司教はピタリと体の震えを止めた。

 意に沿わないという風な、不自然な挙動で首を捻じりアルクゥに顔を向ける。その表情にあるのは絶望だった。


「だ、だ、誰か! 来い! こっ……この、この小、小娘をっ」


 喉をひくつかせて叫ぶ。アルクゥは驚いて後ずさる。

 司教の瞳は左右に揺れ、涙がとめどなく溢れていた。

 駆け込んできた兵士たちは主の様子に困惑するようにたたらを踏み、控え目に「危害を加えてはならないと命じられておりますが」と忠言するも、司教は子供のように頭を振る。


「おお、俺の命令が聞けないのか! そ、そいつを……こっ殺せ!」

「しかし、司教様、これ以上立場が悪くなれば」

「殺せ! 殺してくれぇ!」


 司教はもはや半狂乱であった。

 自分のせいだ。迂闊だった。アルクゥは壁に背をつけて後悔する。質問することで何者かがニコラ司教に命じた内容の発動部分を踏んでしまった。

 困り果てた兵が躊躇いがちに剣を抜いたとき、アルクゥは幽世へと逃げ込む。兵士たちは一気に緊張した面持ちになり、司教を守るように囲んで外に怒声を飛ばす。


「竜殺しが逃亡した! 奇怪な魔術で姿を隠しているぞ! ニコラ様の命令だ、見つけ次第殺せ!」


 アルクゥは開きっぱなしの扉から廊下に飛び出る。

 階段を下りてユルドが監禁されているという五階に行くと、部屋はすぐに見つかった。多くの兵が見張りに詰めている一室がそうだろう。アルクゥが来ると思い待ち伏せているつもりらしい。

 つまり今助けるのは得策ではないということだ。

 即座に判断し、外に出てサタナの協力を得ようと踵を返すと、その先から剣を携えたニコラ司教がフラフラと現れた。虚ろな目付きで、一心に前へと、ユルドの部屋の方向に歩みを進めている。


(待て……待て、待って。まさか)


 まさか、と行く先を目で追う。

 ニコラ司教は最悪の予想通りユルドがいる部屋の扉に手をかけた。止めようとした一人を切り捨て、血に塗れた震える手で鍵を取り出した。

 だが鍵は上手く鍵穴にささらない。ガチッガチッと金属がぶつかり合う音が不気味に響く。


 頭から血の気が引いていく。

 アルクゥは急ぎ左右を見回して音も気にせず手近な部屋に飛び込み、窓を開いて外に出る。

 風の冷たい夕刻だった。穏やかだが吹くたびに指先から温度を奪う。

 高いが横幅は狭い構造の屋敷なので窓の間隔は短いが、手錠をつけた腕では精一杯伸ばさないと届かない。

 落ちたら死ぬ。だが躊躇ったらユルドが死ぬ。

 蛮勇を奮って窓を伝い、無事落ちることなく到達したときは流石のアルクゥも神に感謝したくなった。中を覗くと、扉外を恐れてか隅の方に避難しているユルドが見える。

 魔術が何重にも施された窓を短剣の柄で叩き割り、内鍵を外して室内に転がり込むと、ユルドはウサギのように跳ねた。


「ユルドさん!」

「あ……え? あれ? アルクゥ?」


 幽世から出ると、ユルドは目を丸くして「なんて酷い顔に!」と少しずれた感想を叫ぶ。その腕を掴んで窓側に引き寄せる。


「早く逃げないと、司教が」

「司教? とにかく逃げるのは賛成よ。ちょっと待って、窓が割れたからもしかすると……よし、竜が呼べる」

「どのくらいで来ますか?」

「五分くらいかな」

「それだと間に合いません」

「ううん、それは困ったわね」

「何を暢気な……」


 扉の方からは未だに金属音が鳴っているが、いつまでもそうしていてくれはしないだろう。 サタナに連絡を取ると、既に隊の編成は終えて屋敷近くに待機させているということだったが、突入してここまで来るとしても数分はかかる。



「ねえ、アルクゥ。貴女だけなら逃げられるんじゃないの? 私なら何とかするから」


 カチャリ、と開錠の音がする。

 アルクゥはユルドをジッと見つめて頭を下げた。何とかならないのは明白で、ユルドはそれをわかっている。軍人としての覚悟というものだろうか。


「どうなっても恨まないでください」


 アルクゥは幽世に逃げ込み、凛として開いた扉を見遣ったユルドの腕を掴んで同じ場所に引き入れた。常人を入れてどうなるかわからない。賭けだった。

 ユルドはしばらく呆然としているようだった。

 それから光舞う世界をくるりと見回して夢見心地に「私死んだのかな」と呟く。


「ユルドさん?」


 上手くいったのだろうか。だがユルドを観察しているとすぐに兆候は現れた。ゆっくり振り返ったユルドは半眼で、虚ろだ。


「あれ、アルクゥも死んでる」

「生きてますユルドさん」

「そうかな」


 体に力が入らないのかユルドは床に座った。

 瞳は半分以上閉じている。息も上がっている。早く出さないと危ないと感じたが、室内に入ってきたニコラ司教が肩を怒らせて調度品を切りつけている最中だ。


「ユルドさん!」


 眠い、と一言残してユルドは完全に意識を手放した。

 早く出なければ。だが司教は室内を徘徊している。主従の紋様部分が強く発光しているのは命令に突き動かされているからか。

 祈る気分でユルドを抱きしめる。

 数分経過した頃だろうか、屋敷に喧騒が駆け抜け、続け様に大きな羽音が近付いてきた。外を見るとワイバーンが二体飛翔している。ユルドを探して濁った咆哮を上げ、一体がこの部屋の窓に突っ込んできた。

 瓦礫をもろに受けた司教は引っ繰り返り、頭を打ったのか動かなくなる。外で遠巻きにしていた兵士たちは散り散りになり逃げ出した。

 アルクゥはユルドを連れて幽世を出る。頬を叩いて呼びかけるが目を覚まさない。

 ――このまま、起きなかったら?

 寒気がした。ワイバーンは主人を見つけて嬉しげに鳴いてたが、ふいに頭を上げて扉の方に唸る。敵かと身構えたが、駆け込んできたのはヤクシだった。

 ヤクシは動かないユルドを見て、険しい顔でアルクゥに詰め寄る。


「どうなっている?」

「意識が……戻らないのです」

「なぜだ? どこかに怪我でもしているのか?」

「私が、あちら側に連れて行きました。きっとそのせいで」

「貴様……お前のような化け物が住む世界に、人間が入ってただで済むわけがないだろうが! このままユルドが起きなかったらどう責任を取るつもりだ!」


 捕まれた胸倉を振り払う気力はない。

 ヤクシの言うとおり自分のせいなのは明らかだ。どうしようもない失態だ。

 首を振ると、ヤクシは一瞬複雑な表情をし、だがすぐに怒りで塗り替え、アルクゥを突き飛ばした。駆け込んでくる足音の主を迎撃するつもりで構えたのだろうが、来たのがヴァルフだと分かると武器を下げる。

 ヴァルフはアルクゥを見た途端顔を歪めて、ヤクシを振り返り手に持っていた剣を突きつけた。


「てめぇコイツに何しやがった! ああ?」

「それはこちらの台詞だ! そいつが訳のわからん場所に連れて行ったせいでユルドは目を覚まさない」

「そうした理由も聞かずに殴ったのか? とんだ屑だなアンタ」

「俺は何もしていない!」


 このままでは収拾がつかなくなる。

 二人を止めようと立ち上がり、ふらついたアルクゥを支える手があった。


「おや、酷い顔だ」


 平素と変わらないサタナは、倒れたユルドを見ても不変だった。


「ユルドはどうしました」

「わ、私が……」

「落ち着いて、状況だけ教えてください」


 理性的な言葉に罪悪感の霧が少しだけ晴れる。震える息を飲み込み説明した。


「敵から逃れるつもりで、ユルドさんをあちら側に連れて行きました。初めは意識があったのですが、すぐに呼びかけても応じなくなりました。今も昏睡を続けています。これが一過性のものなのか、それとも……」


 眠り続けて死んでいくのか。恐ろしくて口に出来ない。

 アルクゥはサタナからも叱責があると考えていたが、サタナは「わかりました」と答えて怒りの片鱗すら見せない。

 責めてくれた方が楽なのに。喉が熱くなって痛みすら感じる。


「数日で起きるから大丈夫だよ」


 ピタリとこの場にあった全ての音が止んだ。

 全員が唐突に出現した声の方に注目する。そこにはガルム子爵がさも当然のような顔をして佇んでいた。


「神出鬼没なのは構いませんが、なぜこんな所にまで出てくるんですか」

「酷い顔だ。かわいそうに。災難だったね」


 子爵はサタナを無視し、アルクゥの頬を両手で包む。これで良し、と放されたときには顔面の痛みは消えていた。


「子爵、ユルドさんは」

「ハティでいいよ。わたしは何回か実験したことがあるんだ。普通の人間をあっちに招いたらどうなるか」


 子爵は事も無げに言って惜しげもなくアルクゥに知識を披露した。


「勿論、敵で試したから誤解はしないでね。結果は、あちらに入った人間がほどけてしまうまでの時間は一昼夜。一時間程度なら大した害は出ない。それでもひと月は起きないけど」

「数分なら」

「短期休暇かな。だから泣かなくてもいいよ」


 頬を拭ってみると一雫の液体が手の甲に付着している。


「……これ、血だと思います」

「そうなんだ」

「どうしてここに?」

「どうしてだったかな。……ああ、キミが危ない仕事についてるって聞いたから、止めようと思ってずっと探していたんだ。けれど、中々見つからなくて。司祭に聞いても答えてくれないし、兵舎にも帰っていなかったろう? 困っていたら、さっき参謀長から大捕り物が始まるらしいって聞いたんだ。それで、こっそりついて来た。無事で良かったよ」


 ところで、と柔らかい笑みを浮かべる。


「こんな危険な職場より、わたしの隊で働いた方が」

「貴女はそこの物騒な近衛兵を連れてここから退避してください。ヤクシはユルドを」


 横槍を入れたサタナは、口を尖らせている子爵を無視して他にいくつか指示を出す。ヤクシが困惑げに「指揮権は俺にあるはずですが」と言うと、


「敵の数も把握せずさっさと先行して他の者を困らせた隊長がいたようなので、僭越ながら戦いに縁のない神に仕える聖職者の私が引き継いで指示を出すことに決めました。何か問題があれば遠慮なく」

「……申し訳ありません」

「まあ、結果が全てです。不問にしましょう。それにしても、なまぐさい。手に残ったのは尻尾だけ、か」


 釣り上げられたのはどちらだったのだろう。

 ヴァルフにつれられて、子爵を伴って退避する途中、アルクゥが振り返るとサタナと視線が合う。見えない場所で敵と化かし合っている聖職者は、珍しく彼の方から目を逸らし口の端を上げたまま眉を寄せていた。


 



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