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精霊のシジル  作者: 染料
四章
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第三十二話 遠き安寧



 目前の聖人から幽世に引き摺り込まれた――事態を飲み込んだアルクゥは子爵の手を振り払おうとしたが、固く握られた指先はどうやっても剥がれない。


「何のつもりですか!」

「やっと見つけた」


 怒気に対して、子爵は潤んだ瞳に高潮した頬で笑みを浮かべた。まるで恋慕を募らせる女性だ。気を削がれたアルクゥは「何の御用でしょうか」と言葉を変える。


「探していたんだ、キミを」

「そうですか。それならば、私に何か用件がおありなのでしょう?」

「思った通りだった。予感はしていたんだ。でも、初めは偶然だと……これまでに一度もなかったことだから」


 噛み合わない会話に辟易して再度子爵の手から放れようと試みるが、優美な外見にそぐわず掴む力は強い。


「用事が何にしても、一先ずここから出ましょう……子爵様」


 体力が落ちている。いつもより制限時間は少ない。限界を超えてここに居続けたことはないが、自分の生存に関わる事態に陥ることは想像に難くない。

 既に息を切らせながら提案すると子爵は首を傾げた。


「なぜ?」

「なぜって……」


 そこで気付く。子爵は苦痛など欠片も感じていないのだ。

 完全に幽世に適応している――それを知ると同時にどうしようもない不安に駆られた。この人は自分とは別種の生き物だ。

 深海に住まう奇妙な魚を目にしたときの感覚が思い出される。体の芯が凍えるような受け入れがたい存在。

 ――何を弱気な。

 相手は聖人だが人間だ。話せば分かってくれるとアルクゥは自分を叱咤する。


「申し訳ありませんが、私は貴方とは違ってここにいることが苦痛なのです。もし内密の話であるなら、ご足労おかけしますが、幽世を出てどこかの個室に」

「ではまだ慣れていないのかな」

「……放してください」

「わたしはキミに触れていたいんだ」


 求愛じみた言葉に閉口して、重くなり始めている空気を吸い込み渋面になる。恥らうには状況が悪すぎだ。風向きは不穏で耳鳴りが聴覚を遮断しようとしている。

 幽世に舞う光子と、それ以上に光を秘めた子爵だけが五感に眩い。

 脱出しようとしてあちら側への壁に触れるが通り抜けることができない。どう考えても子爵のせいだろう。


(私にも、できないものか)


 子爵は他人を幽世に引き込み、留めている。人を出入りさせることができる。

 となれば自分にも同じことはできないのだろうか。それとも混じり気のない純然とした、精霊にこの世界を許可されている者のみの特権か。

 自分が引き込まれた感覚を思い出しながらやってみるが子爵は微動打にしない。

 ギリ、と歯を食いしばり、両手で子爵を掴んで一層強く引く。


(……ああ、うるさい聖職者! こんなときに!)


 先程から楔を通して司祭が呼んでいる。しかし幽世にいるせいか聞こえ辛く、無意識に聞き取ろうとする従僕の性が気を散じさせる。

 その頭にチラつく呼び声に口汚い言葉を返したときだった。

 引き寄せられる感覚があり、今までの抵抗が嘘のように壁が崩壊した。戻った瞬間体を締め付けていたものが一気に外れて大量の澄んだ空気が肺に流れ込む。


「……おや、お帰りなさい」


 床に手をついてどうしようもなく咳き込むアルクゥの目端に、鞘の半ばまで抜いた剣を何事もなかったように戻すサタナが映る。咄嗟に斬りかけたらしい。正面には思わずといったふうにアルクゥを放した子爵が立ち竦んでいて、驚愕の表情を浮かべている。「キミは」と再度アルクゥに触れたがって伸びてきた指先だったが、サタナがアルクゥの首根を掴んで自身との場所を入れ替えたので叶わなかった。


「これは御機嫌よう、ガルム子爵。驚きました。神出鬼没であらせられる。――ああ、後ろのこれは私の部下です。もしかして見つけてくださったとか? お礼を申し上げます。どうやら突然消失する癖があるらしくて」


 サタナは唐突に現れた聖人に対して動揺もしない。胆の据わり様は流石だろう。

 子爵の方は一片の興味もないふうにサタナを見遣る。石像にでもなってしまったのかと思うほどの豹変振りだった。


「ところで、少しお時間いただいても?」

「知っている疑問には答えてあげるけど、わたしは多くを知らされていないよサタナ司祭」


 速やかな返答にサタナは一寸言葉を止めて、喉で笑う。


「これは話が早い。昨晩は軍の?」

「そうであればわたしは軟禁されていただろうね」

「それもそうですね。最近、軍の一部と教会の仲が睦まじいようですが」

「元帥は聖職者が嫌いだ。大司教は勿論のこと、特にキミに関しては蛇蝎の如くだよ」

「実に光栄です。ああ、それともう一つ。王の側につく気は」


 淀みなく答えていた子爵はそこで初めて間を置いた。

 迷っているのか。まだ軽く咳き込みながら様子を窺っていると、子爵は疲れた表情で小首を傾げる。


「興味が持てない」


 サタナが皮肉気に笑う気配がある。背中を眺めるアルクゥにはどんな顔をしていたのか見えなかったが、子爵に対する侮蔑は明らかだ。


「名誉と地位あるお方には、しかるべき責任というものがおありでしょうに。貴方が無気力のまま軍部についているせいでどれほどの混乱が起こっているのやら」

「混乱が嫌なら王を教会の傀儡のままにしておくべきだったね。そうすれば今のような軍の反発もなかった。王を唆したのはキミだろう。わたしを罪だと言うのなら、キミもそうなる」

「私が? 陛下を? ご冗談を。それに神権政治が復活していれば、国政の混乱は今の比ではなかった」

「それを妨げた結果、戦火を呼び寄せている。内乱に国境線の紛争、グリトニルとの不和。権力争いの余波を国民にまで広めてしまったね」

「戦争に関しては教会と頭の悪い軍の責任でしょうに。肩代わりは致しますが」

「抑えられなかった王が悪い。国主とはそういうもので、それこそしかるべき責任だ。そうだね、確かにキミなら防げるだろう。クレルモン伯もどういう病気か、急死なさったようだから。だけど確実に無関係な血は流れる」


 アルクゥはギクリとして肩を狭くする。

 険悪な空気が漂い始めたとき、子爵は軽く溜息をついた。


「別にキミの側についてもいいけれど、軍の力を削げるとは思わないことだ。軍部はわたしを象徴として力を集めた。始めに集ったのは、わたしの聖なるを信じた者たち。次に訪れたのは、その数を見て勝てると確信したハイエナだ。後者は上層の者たちで、彼らを脱落させなければ軍の力は落ちない。今わたしが抜けてもついて来るのは前者と少しの民意だけだ」


 それらが不要なほどに軍部は強く大きくなった、とぼんやり言う。


「軍への余計な刺激と引き換えに、多少の頭数を増やしたいのかな」

「勘違いしておられるようですが、私はこちら側に来いと言う意味でいったのではないのですよ。ですが、貴方はどこにあってもまるで動く気がない、と」

「そうだね。興味が持てない。……前に話したときは、キミもわたしと同じかと思っていたのだけれど」


 サタナは虚を突かれたのか次の言葉まで少しの間があった。


「……まあ、貴方が完全な置物状態というだけ吉報としておきましょう。丁度貴方の迎えが来たようです」


 サタナが子爵の後ろを指差す。そこには早足で回廊を歩いてくるギルの姿があるが、子爵は振り返りもしない。


「ギルはいつもわたしを探しているね。見つけてくれたことはあまりないけど」

「貴方が歩き回るからでしょう。名実共に置物として徹してみては?」

「散策ついでに探し物をしていたんだ」

「おや、何かお探しで」

「もう見つけた」


 子爵の視線がアルクゥへとずれる。

 反射的に肩をビクつかせると、少し哀れんだように眉を下げた。石像から一気に人間味を帯びる。


「さっきは悪いことをしたね。体調が良くないみたいだから、しばらく休んだ方がいい」

「…………お気遣いありがとうございます」

「また来るよ」


 お前のせいで悪化したしもう来なくていい、とは地位的に言えずに頭を下げると、子爵は踵を返してギルを迎えた。

 ギルは心底報われた様子で子爵の前に立ち、ややあって思い出したように眉を顰める。


「ようやく見つけた。一体何をしているんだ、お前は。いつもは滅多に出てこないくせに、何でまた軍部なんかに。人探しだって? 誰を探しているのか知らないが、兵が浮ついているぞ。一目見ようと文官共まで野次馬に来る始末だ」 

「こら、副官。口の利き方がなっていないよ。罰として混乱の収拾を命じる」

「罰でなくとも俺に押し付ける気だろうが……ああ、悪いなサタナ司祭。碌に挨拶もせず……と、アルクゥ殿もいたのか」


 サタナがアルクゥにしたように、今度はギルがさり気なく子爵と場所を入れ替えサタナから遠ざけるようにした。


「ハティ。まさか司祭を探していたとかは」

「そんな物好きはいないよ。わたしは後ろの子を探していたんだ」

「アルクゥ殿を?」


 微かに驚いたギルは気を取り直すように「とにかく戻るぞ」と来た道へと子爵を促す。マイペースな足取りで従った子爵は、一度存在を確かめるようにアルクゥを振り返り小さく笑みを残して立ち去っていった。


「貴女の特技を知ってから予想はしていましたが……彼も幽世に?」

「はい。引き込まれました」


 サタナは二人の背中を見送り、額に手をあてる。


「子爵が無気力で助かりました。あなた方の能力は王の暗殺すら容易い」

「あちらで人を殺めることが簡単だと思ってもらっては困ります。見つかりはしませんが……」


 説明しようとして「何でもありません」と首を振る。

 幽世に行ったことがない者が理解できる感覚とは思えなかった。


「引き込まれた、と言いましたが、例えば私をあちらに入れることは可能ですか?」

「分かりません。もし引き入れることが出来たとしても、あちら側で平気かどうか。……試したいのなら止めはしませんが」

「遠慮しておきます」


 サタナはアルクゥが差し出した手の平を一瞥して笑う。


「まだ死にたいとは思いませんよ。それにしても、子爵は随分貴女に惚れ込んでいるようだ」

「出来ることなら二度とお会いしたくありません」


 子爵の態度に関しては謎の一言に尽きる。

 突然幽世に拉致して、結局探していた理由も言わなかった。まさか本当に恋情なわけでもないだろう。

 聖人――母と同じだというので知りたいとは考えていたが、もう関わりたくないという気分の方が強い。


「おや、嬉しくないのですか? 相手は聖人で、ついでに言い添えるならお金持ちですよ」

「私は合理主義です」

「無神論者ですか。精霊の証明を持つ貴女が、何とも皮肉ですねえ」


 軍の官僚に用があると言っていたのを忘れたのか、サタナは執務室へと引き返す。道中、いつも以上に饒舌なのは機嫌が良いのか悪いのか。深読みが過ぎていつも以上に平坦な応答を返しながら扉の前まで戻る。


「三日間、休暇です。療養してください」

「は?」

「部下を使い潰す趣味はありません」


 涼しげに言い置いたサタナは、ヤクシにアルクゥを送るように言い渡してさっさと執務室に消えていった。機嫌は悪い方に傾いているらしかった。


「珍しいな。感情を表す人ではないのだが。おい貴様何をした」

「せめてこちらを見て話しませんか」


 微妙に視点をずらしたヤクシは「見ている」と噛み付く。


「ガルム子爵がお嫌いなようです」

「ああ……会ったのか」


 前にも経験があるのか、合点したヤクシはアルクゥを極力視界に入れないように歩き出す。


「ヤクシさん。私は一人でも」

「気安く名前を呼ぶな化け物。……俺も不本意だが、命令では仕方あるまい。それに女の魔術師が一人王宮内でうろつくなど」


 そこまで言ってからヤクシは「強欲な商人の目前に珠玉を転がしておくようなものだ」と意味不明な比喩で続きを濁し、兵舎とは名ばかりの豪奢な外面をした建物、律儀にもその中に常駐する使用人にアルクゥを引き渡し、絶対に部屋に押し込むように言い含めて職務に戻っていく。


 疲れた。

 自室に戻ったアルクゥは苦い薬を口に含みながら、遠くなった安息という言葉を懐かしむ。拠点と呼んでいた建物で師と兄弟子と暮らした日を思い出し、切なくて苦しくなった。一人でやり過ごすことが難しい静寂に、アルクゥは近くの獣舎からケルピーを連れてくる。

 使用人は嫌そうな顔をしていたが幾分か慰められたアルクゥは、作り置いていた魔力を鎮める薬を飲み、それから三日間の殆どを泥のように眠ることに費やす。

 そうして何とか健康を取り戻し仕事へと戻ったアルクゥだったが、そこに待ち構えていた次の変事はユルドと連絡が取れなくなったという凶報だった。

 ――この世界では一瞬たりとも気が抜けないらしい。


 

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