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精霊のシジル  作者: 染料
四章
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第三十一話 一夜明けて



 三百二十一名と言う多数の死者を出した事件から一晩明けた今日。俗に平民居住区と呼ばれる南区画は普段通りの日常が再開している。規制によって広場に訪れることができなかった彼らにとって、昨晩は拡声器越しの少し刺激的な出来事でしかなかった。

 事件が起こった場所も心情も遠くにある住民にとっては雑談にスパイスを加える程度の話題という認識しかない。

 朝市中で持ち上がる話ながら、その中にあるのは好奇心が多分を占め、誰もが己と関係がない全く別世界の話として噂話に興じていた。

 ――シャムハットという名が出るまでの話である。


「昨晩放たれたのは、あの研究狂い共の残党が作った魔物よ」


 亜麻色の髪と瞳を持つ地味な装いの女は熱のこもる声で言い放った。

 野菜の代金を受け取ろうとしていた男は雰囲気に圧倒されて息を飲む。声の届く範囲もまた沈黙した。耳に、そして身に覚えのある名称だっただけに、真実ならば昨晩は繰り返されることになる。災厄が直截身に迫ってくるかもしれないという恐怖。

 いやまさか、しかし、でも。

 女が言うのは極小さな可能性に過ぎず、根も葉もない噂の域を出ない。一笑に付すのが正しい反応なのに、それを許さない記憶がシャムハットという名前にはある。


「だって、アレはもうねえ筈だろうよ」


 沈黙していた内の一人がぼやく。他の誰かが「そうだ」と同意の声を上げるが、女の声が断ち切った。


「おめでたいわね貴方たち。それとももう忘れてしまった? そんなんじゃ、王様も呆れてしまって守ってもらえないわよ」


 女は呆れたように言い、購入した品物をひったくるように受け取って人ごみに消えていった。胸に燻ぶる不安の種火を残された人々は目を見交わし合う。

 シャムハット――魔導開発機構という民間の設立した組織は百年前の遺物であり、十年前突如その残り香を現した。国民の三割強を巻き込む、魔物を媒介とした特殊な病の感染流行エピデミック

 先王によって断罪され完全に消失したのに――今になって名前が出るのはどういうわけなのか。


「また頭のおかしな魔術師が、妙なもん作ったのか?」

「まさか。おかしいのはあの女の頭だろうさ。作り話だ」

「けどよう、言われてみれば最近妙なことが続いていないか? 用心しておくに越したことはねえからよ、今の話は仲間や家族にしておいた方がいいと思うぜ」


 怯えの色が強い女は首を振る。


「言ってどうなるというのよ。私たちのような、魔力を持たない人間に対抗する術などありはしないのよ。不安にさせるだけ」

「ああ? 知らねぇよりましだろうが」

「知らないまま生きていたほうが幸せなこともあるわ」

「耳と目を塞いでか? さぞいい夢が見られるだろうな。俺は役所に行って本当かどうか聞いてくる。それに、昨日国王があれだけ言ったんだ。事が起こったとしても、見捨てるってことはねえだろうさ」


 一人が役場に向かって駆け出すとその後ろに数人が従った。

 他のものは誰ともなく己の仕事に戻っていったが、彼らの大部分が今の話を知人や家族に伝えて、シャムハットの存在は広がっていく。



亡霊シャムハットねえ。酷なことを考える」


 亜麻色の髪と目の女、ユルドは朝市を遥か下にする時計台の天辺に佇む。

 砂粒の大きさとなって動く人々のつむじを眺め、その中に数人の部下を見つけて少し同情した。

 シャムハットは魔術師、魔力保持者が疎まれる原因となった組織である。部下は全員魔力持ちなので、彼らは自らを再び貶めるかもしれない嘘の情報を流しているのだ。致し方ないことではある。分かり易い悪者が昨晩の理由付けには必要だ。

 また十年前のようになるのだろうか。ユルドは考える。

 恐怖を駆り立てられた一部の国民が魔術師、魔力保持者を打ち殺す事件が相次いだ。その結果として戦えない魔術師は国に保護を求め、国は見返りとして技術を求めた。そうやって多くの魔術師が王都に集った結果、今のティアマトがある。


「それって嬉しい誤算・・よねぇ……っと、サタナ様に似たのかな。ちょっと嫌だな……」


 皮肉を言って口を歪めてから、己が上司の口振りに似ていたと少し落ち込む。

 キュル、と慰める声が一つあり、ユルドは空を見上げた。青空の中に僅かに景色がぼやけた場所がある。


「帰って報告しようか、ブリゼペ」


 手を伸ばすとぼやけた青空が下りてくる。ワイバーンに限らず飛行する竜は空に擬態が可能なのだ。ユルドはその背に跨り一直線に王宮を目指す。



***



「背信者がいます」



 時を同じくして、アルクゥは魔力の疲労熱を持った体を押して執務室に訪れていた。

 開口一番そう言ったサタナに頷くのも億劫だった。


「そうですか」

「動じませんか」

「弱小勢力に離反はつきものでしょう」

「おや、これは手厳しい。建物内に魔物が出た件は?」


 これもまた頷く。

 昨晩、議事堂内部にも魔物が出たとヴァルフから聞いていた。そちらはこちらは厄ではなくテンタクルという植物の魔物だ。犠牲者は二名。広場の騒乱とは比べるべくもない小さな損害だが、絶対不可侵を前提にした防壁の内部に出たことが問題となる。外の魔物はともかく、中の魔物は手引きもしくは召喚した人間がいる。


「それで、私は何をすればよいのでしょうか」


 共に執務室まで来たヤクシは扉の外にいる。

 側近を入れずアルクゥだけに話をするということは、再び秘密裏に暗殺を行って欲しいにちがいない。

 最悪だ、と頭痛込みの気分を内心ではき捨てると、サタナは笑って首を振った。


「貴女は深読みし過ぎるきらいがあるようだ。ただ警戒しろというだけですよ。昨日の鎮圧は嵐の英雄の勲功とされましたが、あの炎は竜殺しの英雄譚そのものでした。気付く人間も多かったでしょう。敵方が命を狙うに足る価値が貴女にはあります」


 そこで一旦言葉を切り、ややあってこうも付け加える。


「ああそれと、官僚たちの恨みも買っていますよ。本当に骨も残さなかったせいで犠牲者の身元確認や補償が非常に難しい有様に」

「嵐の英雄とは誰ですか?」


 サタナの軽口に付き合うことは即ち自ら泥沼に入っていく愚行なので、無視して興味がある名称だけ抜き出す。サタナは会話の片手間に行っていた書類整理の手を止めた。


「王都の守護者、退魔の聖騎士……色々呼び名がつくようなお人です。私が名を贈るとするなら、そうですね、軍の傀儡とでも。――ガルム子爵ハティフロウズ。聖人だという公然の秘密を持つ、王国軍の大佐。性格はともかく、武人としては逸材です。実力は昨晩見た通り」

「聖人……」

「はい。貴女の母君と同じく」


 水がすうっと土に沁みるような納得のいく事実だった。脳裏に子爵の姿を思い浮かべるとその感覚は強くなる。

 しかし逆に一つ解せない部分が姿を現した。

 王の対抗勢力である軍は聖人、ガルム子爵を頂に押し上げ、その聖なるを敬えと言いつつ政治介入権を要求している。なのに派閥抗争に必要不可欠なその“建前”は、昨晩王に――正しくは王の口を操ったサタナではあるが――臣下であると民衆の前で宣言された。

 軍は王のものなので事実ではあるのだが、叛意を持つ軍の人間たちには面白くないだろう。

 そう指摘するとサタナは肯定する。


「その通りです。既に数件、私の方に苦情が寄せられています」

「だったらなぜ」

「あの方自体は敵ではないのですよ。彼はただ軍に在って職務を実行するだけで、恐らく全てにおいて興味が薄い。祭り上げられたのはそのせいで、昨夜の協力は、まあ気まぐれかと」

「彼、ですか?」

「便宜上です。ガルム子爵についてわかっているのは真名だけで他はひた隠しにされています。性別くらいなら訊けば答えてくれそうな気もしますが、まあ分かったところでさして意味はありません」


 サタナは頬杖を突き、手持ち無沙汰な左手で書類を弄っている。口には笑みがあるが、行動はいかにもつまらなさそうだ。子爵があまり好きではないのかもしれない。


「彼にはいずれどんな形であっても退場して頂かねばなりません。王にかしずくというのであれば話は別ですが……ところで、その口ぶりからして彼に会ったことが?」

「二度お会いしました。精霊祭の二日目に王宮敷地内で、それと昨晩、厄憑きを排除するときに」

「運が良い人だ。彼は滅多に人前に姿を現さないので。……さて、雑談はこれくらいにして本題に移りましょう」


 雑談ならする必要はなかったのでは、と空しくなったアルクゥにサタナは今後の仕事を言い渡す。


「当面、私の護衛兼補佐という形で働いていただきます。合間に最初のような仕事も入るかもしれませんが、問題があれば言ってください」


 白々しい言葉に眉を顰める。


「あってもなくても、命じれば良いでしょう。聞く必要性が全く感じられません」

「そういった種類の無理強いは好きではないのですよ。まあ、暗殺が必要か否かは私の腕次第なので、極力危ない橋を渡るはめにならないよう努力はします」

「そうしてください」


 サタナを睨みながら言ったとき、扉を軽やかに叩く音がした。「どうぞ」と促されて入ってきたのはユルドで、室内にいるアルクゥを見て微笑み背筋を伸ばす。


「ユルドミーシャ、ただいま戻りました」

「ご苦労様です。報告を」

「はい。反応は概ね良好かと。商人にも流しましたので、物流に乗って噂が広まるのも早いでしょう。我らと同じく、これを機と見て違う情報を流す輩もいたようですが、シャムハットの知名度は強い。国民は断罪を望むでしょうから、それに合わせて敵の排除が可能です」


 聞いた事がない名称には首を傾げるも、アルクゥはユルドの報告内容が情報戦プロパガンダであることくらいわかる。報告を受けたサタナはしばし口を閉じて、考えを纏めたのか下弦の笑みを浮かべた。


「当面、犯人探しと睨み合いか。ユルド、貴女はラジエル魔導院の研究部辺りを洗ってください。研究者、その支援者、辿れるならば昨晩を命じた者も。一任して構いませんか?」

「了解しました」


 昨晩を命じた者、とアルクゥは床に向けていた視線を上げる。

 自作自演ではなかったのか。

 では対抗勢力のどちらかが犯人なのだろうと考えるが、子爵の言葉が頭に引っ掛かる。「得をしたのは誰か」アルクゥにはわからない。意味なく窓の外を見る。


「確かに、あの騒ぎを利用しましたが、私が犯人なわけないでしょう。やるとするならもっと処理し易い魔物を放ちます。下手をすれば王都の人口が半分以下になるような愚策を取るほど、馬鹿なつもりはありませんからね」


 いきなり何を言い出したのかとサタナを見ると、なぜだかアルクゥを見ている。ユルドも同様だ。しばし考えて、アルクゥは目を泳がせた。


「その……失礼いたしました」

「迂闊ですねえ。何回目ですか」


 呆れが混じる指摘にぐうの音も出ない。

 恐らく意味が分かっていないながらも同情的なユルドが口を挟まなければ後二、三言の嫌味だか皮肉だかが続いたことだろう。


「サタナ様。恐らく調査の途中でお力を借りることになると思います。高位の聖職者や軍人が関わっていれば、私の力では介入できない部分が出てきますので」

「ああ、その必要はありません」

「……と、言うと?」

「陛下にお伺いを立てたところ、必要ならばどんな特権も付与して良いとのことで。なけなしの権を預けるから国とついでに俺を救えとのご命令です」


 ユルドは数回瞬いて、好戦的に笑った。


「なるほど。豪華な任務になりそうですね。見つけた後はどうしますか」

「調査報告を私に上げた後、監視任務に切り替えてもらいます。せっかく降って湧いた好機だ、存分に利用しなければ損でしょう」

「承知いたしました。では、失礼を――っと一つ気になることが」


 颯爽と踵を返した数拍後、ユルドは唐突に思い出したのか声を上げる。その亜麻色の視線はアルクゥに向けられており、アルクゥは嫌な予感を覚えて身構える。ユルドは慌てたように手を振って不安を治めようとしてくれたが、その挙動はむしろ逆効果だった。


「私が、何か関係しているのですか?」

「その、ね。たぶん……サタナ様、軍部で聖人様の目撃が多発しているのですけど、それがどうも人探しをしているようです。それがどうも……」


 一旦サタナに視線を移したユルドは、再びアルクゥを見遣る。

 それだけで誰が探し人なのか察せられ、アルクゥはフードの下で渋面を極めた顔をし、サタナは意味不明の笑みを浮かべる。


「私は仕事に戻ります。アルクゥちゃん、気をつけてね」


 面倒ごとを察知したのか、ユルドは心持ちの気遣いを投げてから速やかに退室した。


「心当たりは?」

「ありません」

「そうですか」


 サタナは数枚の書類に裁可の印章を――角と長い尾を持つ獅子はどう見ても国王しか柄ってはならないものだが――捺して処理を終え、薄い色の瞳に好奇心を灯す。


「陛下の補佐という地位を頂いている私でさえも、聖人との面会は至難の業なのですよ。公的な面会は軍の妨害で不可能、私的な面会を望むにしても、そもそも居場所すら分からない」

「ならば昨夜はどうやって協力を願ったのですか」

「一般兵の人海戦術です。彼らは喉を痛めていなければ良いのですが」


 何とも原始的な方法で召喚したものだ。

 頭痛が増した気がして熱い額に手を当てる。


「……本当に子爵が私を探しているというのならば、軍部近くを歩けば会えるかもしれませんね。大声を出さなくても」

「察しが良くて助かります。彼とは一度話さなければと思っていたのです。軍官僚にも用があったので丁度いい」

「ですが、貴方が行けば何かしらの反発があるでしょう」


 暗に止めておけという忠告にサタナは耳を貸すつもりはないらしい。アルクゥは諦めず椅子を立って扉に向かう背中に続ける。


「クロさんと貴方のせいで私には妙な風聞が立っています。それに昨日のこともある。これ以上、衆目を集めてしまえば貴方が私に望む仕事がやり辛くなるかと思います。……それとも、反対に私を目晦ましとして使いたいのですか?」

「能力上、目立っても潜めるのが貴女の利点でしょう」

「幽世は貴方が思っているほど万能な場所ではありません」


 苛立ちを隠せず言うと、扉の外に立つヤクシが険しく睨んでくる気配がしたが、目を合わせようとすると逸らされる。ヤクシは「怪物でも見ましたか?」というサタナに黙然し、待機を命じられると眉間に救いがたい皺が寄るもやはり無言だった。



 王宮は建国時から伝わる聖域を最奥に置き、その手前に巨大な聖堂じみた宮殿があって王の住居と政治の場を兼ねている。サタナの執務室もそこにあった。

 東には墓所――霊廟があり歴代の王が祀られ、西には併設された建物が並んでいる。西には魔術師たちの設備が多く、アルクゥの住む兵舎も含まれている。

 正門に程近い南東には王国軍総司令部の建物があり、兵舎があり、訓練場がある。ここを総称として軍部と呼ぶ。

 これらは説明の上ではわからないが、各所の距離は恐ろしく遠い。

 そのため移動装置が設置されているが、そこまで行くのにも長く歩かねばならない。移動魔術の目印をつけることも違法とされている。その利点と言えば、研究一辺倒の魔術師に運動を強要することと、暗殺防止くらいだろうか。


 宮殿の長い回廊を真っ黒な聖職衣の背中を眺めながら、些か弱っているアルクゥは進む。

 サタナが自分に歩調を合わせている様子が気に喰わないでいると、執務室を出てから不自然に動きのなかった口を開いた。


「そうですね。扱いに困っています」


 考え事に口を噤むのは誰でもそうなのだが、普段口数の多いサタナがそうすればとても顕著に見える。先の答えを考えていたのかとアルクゥは溜息を吐く。にしても本人を目の前にして言ってのける所が悪い意味で常人ではない。


「もちろん良い意味で、ですよ。貴女は想像以上に優秀で聡明だ。絶えず疑い真実を測ろうとしている。その上私のことがお嫌いなようですし、部下にするには非常に面倒なタイプです」

「どう好意的に受け取っても悪い意味だとしか解釈できません。外れを引いたようで、お気の毒に」

「いいえ充分正答ですよ。目晦ましは私で間に合っています。特定の仕事以外で潜む必要はない」


 どうですか、と言わんばかりに振り向かれ、渋々だが頷き、満足げに前を向いた銀髪の後頭部付近に疑問を投げた。


「王の補佐が目立っては拙いでしょう」

「そうでもありませんよ。陛下が王位を継いだ当初は寧ろ不可欠でした。私が矢面に立っておかないとすぐ死にそうな塩梅でしたから。お蔭様で、私は色事から陰謀まで幅広い分野で罵倒を受ける存在になりましたが」

「火のないところに煙は立ちません」


 皮肉のつもりだったが、サタナは肯定する。


「もちろん火種くらいは作りました」


 アルクゥは呆れ果てる。

 こいつはいつか刺されて死ぬだろうと思い、そうすれば自分は開放されるのだと思い至って今後への希望が見えた気がする。願わくば、師が回復してから刺されて死んで欲しい。

 ――そういえば。

 アルクゥは少し迷って口に出す。


「あの仰々しい演説は貴方の仕業だと聞きました」

「おや、知っていたのですか。ですがあれは正しく陛下の本心ですよ。私は言葉にする手助けをしたのみです」


 サタナは事も無げだ。

 ――そうは言ったが、聴衆の心を掌握したのはサタナの功績だ。

 あれほどに言える者が諾々と凡夫の王に仕えるのはなぜか。王を擁護するのはいずれ傀儡とし己が国を動かすためではないのか。

 この疑問は純粋な興味でしかないので尋ねることはしない。楔から伝わらないよう注意深く、辻褄が合うように推測する。


(権力が欲しいのか、真実王に忠誠を誓っているのか)


 権力欲も忠誠心も理解が及ばない類のものだ。

 ヴァルフは物を知っているので訊けばいくらか謎は解けるかもしれない。兄弟子の姿を思い浮かべると途端に寂しくなって思案は途切れた。王都に来てから碌に話す時間もない。巻き込んだことを謝ってもいない。


(師匠は目を覚ましているだろうか……)


 思考は連想を足掛かりに移り変わる。

 病棟があるという方向を見遣ったとき、強い風が回廊を吹き抜けた。おや、と思うと同時にフードが攫われ背中に落ちる。正面に目を向けると風の人――ガルム子爵がいた。本当に自分のことを探しに来たのだろうか。

 何にせよ、とサタナを見上げる。


「目論見通り、会えて良かったですね」


 するとサタナは足を止めて、軽く目を細めた。


「何の話ですか?」


 そう返されてアルクゥも止まった。

 またからかっているのだろうか。それにしては諧謔味がない。

 回廊の先から近付いてくる人間は間違いなく子爵に見える。既に表情も見て取れる距離にいて、アルクゥから目を離さない。

 ――それが僅かに不気味に感じる。


「……子爵にご兄弟は?」

「先程も言いましたが、彼の情報は閉ざされています」

「でしたら、本人でしょう」


 ほら、と正面を指差す。サタナは指の動きに従って前を見るも、不可解な表情でアルクゥに視線を返した。


「貴女には何が見えているのですか?」

「は?」


 意味を尋ね返したとき、すぐ側まで来た子爵はアルクゥの肩に手を置いた。

 そこからは何を言う間もなかった。

 唐突に子爵の手は力を帯びて肩に食い込み、思い切りアルクゥを寄せる。騎士服の固い胸当てに鼻を打ちつけ、子爵を押し返した涙目の視界は、光の粒子が舞う世界を映していたのだった。



 

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