第三十話 襲撃の裏側とは
「中央後方、大通り側に五、いや六。感染型の魔物だ。収拾がつかなくなる前に魔力保持者は急行して感染を遮断。他は近付かずに待機、民衆が気付いた際の混乱と敵に備えろ。――これは敵襲と思え。気を抜くな」
ヤクシは指示を下す間も深海の魔眼を間断なく厄憑きたちを捉え、着実に広がる災いを映しているようだった。厄災の始まりはただの一、それが今では二十を越え尚増え続けている。宿主が増えるごとに厄は侵食の速度を上げていく。
静かに死は拡大していた。
だが集まった民衆は未だ後背から迫る死神の冷たい手に気付かない。
このままでは厄は一歩も動かず、感染という手段のみでこの建物の目前まで辿り着くだろう。
(でも、それから?)
厄は取り憑いた者の身体の機能を存分に使えるが、ただそれだけだ。魔術師に憑いたとしても魔術が使えるようになるわけではない。人間の素の能力で防壁をどうこうできはしない。王の殺害を目的とするなら意味のない襲撃だ。
だけど、とアルクゥは目を細め侵入不可能、内からも無理に脱出することすら難しい無色の壁を睨んだ。
――別の目的ならあまりにも効果的だ。
聖祭の夜に魔物に侵入されたとして王の神性を貶め、国民を助けなければ信用すら貶め、しかし魔具の防壁を解除すれば相手の思う壺かもしれないというジレンマ。それに避難させようにも混乱が起きてしまえば被害は拡大する。この広場以外にも厄が広がれば甚大な被害は免れない。
だからこそヤクシやユルドはここで二の足を踏むような指示しか下せないのだ、とアルクゥはヤクシに睨まれてからようやく考え至った。
だが、対応にもたつけばもたつく程に犠牲者は増えていく。
(本当なら感染が広がる前に、一気に燃やし尽くして魔物を殺すべきだ)
周囲の非感染者を巻き込んででも、だ。
しかしそうすれば非難は国王に集中する。王の器量によってはそれを免れるだろうが、凡庸なギルタブリル王にそれができるとは思えない。現状、聴衆の安全を無視して焼き払えばただでさえ脆弱な王権に決定的な傷がつくに違いない。
厄憑きの周囲に結界が張られては消えるを繰り返している。完全に隔離しきれない。取りこぼしが感染を広めていく。魔力が見える聴衆もいるのか、不審げな顔で結界を見上げていた。
『外の人員だけでは抑えられそうにありません。どうしますか』
状況を知らないわけではないだろうに、全く反応がないサタナにお伺いを立てる。
階下、バルコニーの設置してある部屋にいるサタナは一寸置いて返答をアルクゥの脳裏に響かせた。
『ああ、丁度良かった。こちらも連絡をしようと思っていたところでした。増援は呼びましたが、役に立つかは不明です。どう転ぶにしても聴衆の混乱は覚悟しておいたほうが良い。それは別として、聞きたいことが一つ。貴女はどれくらいの範囲を焼き払うことができますか?』
アルクゥは眉をひそめた。サタナは何人焼き殺せるか、と聞いているのだ。
「竜一体分」と投げ遣りに答えると、サタナは笑い軽い調子で言う。
『貴女は防壁の外で待機してください。決して近寄らず手を出さないように。どうしようもなくなったら合図しますので、一気に燃やしてください』
その命令にアルクゥは更に眉間の皺を深くした。あの群集の中で厄憑きだけを正確に燃やすなどできない。少数の犠牲を覚悟しても魔術を使うべきだと理屈では分かっているが、感情の方は違う。
嫌だ――そう思ったとき、心中を読んだサタナは皮肉げに言う。
『貴女の誤差が殺す人間より、助かる人間の方が多いのですよ』
ではご武運を、と会話は打ち切られた。
アルクゥが舌打ちして厄憑きの群れを見ると、もう正確な人数を測ることもできない数になっている。恐らく、五十は越えている。それらの歪んだ魔力は通信魔具にノイズを及ぼしており、ヤクシは涼やかな切れ長の目を歪めて苛立っている。
「くそっこれだから満月は嫌いなんだ! ……おい貴様どこに行く!」
屋上の端に足を向けると、数歩も歩かない内にヤクシが怒鳴る。
王都の遥か上空を旋回するワイバーンから報告を受け取っていたユルドも、怪訝そうに「アルクゥちゃん?」と首を傾げた。
「どこに行くの?」
「司祭の命令で、私は外で待機だそうです」
「サタナ様が? でも、あのね。一応言っておくけど、防壁は壊しちゃ駄目なのよ。どうやって出るつもり?」
アルクゥは無言で議事堂の隣にある建物を見据える。幅は道一本分、手前に防壁一枚分――充分飛び越えられる。慌てる声を後ろに聞きながら走り出し、思い切り屋上の縁を蹴る。同時に幽世に入ると、壁は通過できたが身体強化に使った魔力は光の中に溶けてしまった。
しかし飛び出した勢いは変わらない。
着地の前に幽世を出て強化をかけ直し、ギリギリのところで四足の獣のように降り立つ。熱を持って痛む手の平を握り締め、聴衆に見つからないよう注意しながら建物伝いに感染源へと近付いていった。
(腐った臭いがする)
一帯の空気が淀み、死臭を発している。
厄憑きは風下にいるので国王側に香ることはないが、バルコニーの真向かいに立ったアルクゥには地獄だ。鼻腔が粘つき肺腑が痙攣するような不快感。
袖で鼻を覆い視線を上げる。バルコニーにはどことなく精彩を欠いた演説を続ける国王とそれを守る銀と鉄黒の近衛が――。
(ヴァルフは?)
つい半時間ほど前にはバルコニーの端に立っていたのに。近衛の一人一人を注視するが兄弟子の姿はどこにも見当たらない。
不安に思っていると、足元で小さな喧騒が生まれた。見ると、増援らしき兵士の集団が厄憑き側、つまり南側の通りに走っていく。よく見えなかったが何かを抱えていた。道を封鎖するつもりだろうか。
他にも増援はちらほらと見受けられたが、同じく通りに走っていったり、バルコニーの近くにいる身なりのいい者に声をかけて避難させたりと、誰も魔物に向かって行こうとはしなかった。恐らく彼らは魔力を持たない者たちで、だからそうするしかないのだろう。
アルクゥは上からそれらを眺めながら、王の力の小ささを実感する。
王都エリドは国の中枢、大国の要。
軍隊は強く多くの精鋭が揃っている。なのに、王の危機に際してたったこれだけしか動かない。
アルクゥは唇を噛む。
(司祭についたことに後悔はない。けれど、あまりにも国王は弱すぎる……)
吹けば飛びそうな王権と無数の敵。
いっそ一番力を持った派閥に政権を渡してしまったほうが良いとも思える脆弱さだ。噂に拠れば小さな政策を一つ決めるにも議会が紛糾するらしい。
アルクゥは胸が悪くなる状況と臭いに顔を歪め、前に靡く髪が鬱陶しくて手で払いハッとした。
――追い風だ。
風下が風上に変わったと思い慌てて聴衆を見渡す。だが誰も気付く様子はなかった。落胆と安堵が綯い交ぜになった気分だ。ともあれ、風のお陰で臭いは散らされ随分楽になった。
動いたせいかその風は冷たく感じず、どことなく昨日の風の主を想起させる。
まさかあんな階級の高そうな人間がいるわけないと思いながらも、アルクゥは眼下の広場に目を凝らす。
「……何してるんだ、あの人は」
そのまさかが的中してしまい、思わず呟く。
くすんだ銀色の癖毛を風に遊ばせているその人は、無防備にも空を仰ぎながら厄憑きの群れに歩いていこうとしている。薄ぼんやりとした喜色が月光に照らされて、半ば恍惚としているようにも見えた。
いつまでたっても立ち止まる気配がなく、アルクゥは仕方なく安全な建物から下りて声をかけた。
「そこの銀髪の人、止まってください!」
長身の背中は反応すら見せない。
一瞬、その奇行を自業自得と切って見捨てるか悩んだが結局走りよって肩に手をかけた。弾かれたように振り返った表情は驚きそのもので、アルクゥは怯みながらも安全な場所まで引っ張っていく。風の人はすんなりと誘導に従ったので密かに安堵の息をついた。
「あなたは警備でも護衛でもありませんよね? 今行こうとしていた先は魔物の巣窟です。危ないから近寄らないでください。もし聴衆を助けに来たのであれば、魔術が使えるようなので魔術師と連携して……あの、聞いていますか?」
アルクゥを見下ろすのは月を見上げていた茫洋とした顔ではない。驚愕と喜びの中間を取ったような微妙な表情で「ごめん聞いてなかったけど」と申告した。怒る気も起きないのは人柄のせいか。
「……とにかく! 後ろの通りから出て安全な場所に」
最後まで言い切る前、夜空を切り裂くような叫びがした。
ぞっとしてその方向を見遣るが人ごみと厄の群れで見えない。この上更に何が、と建物の上に上ると、何てことはない。赤ん坊が泣いているだけだ。幾度目かの安堵を感じたが、すぐひやりとした怖気が背筋を滑り落ちる。
火がついたように泣いている赤ん坊とあやす母親の、そのすぐ背後。厄が迫っている。
混乱が始まる。
周囲の未感染者は騒がしい母子に視線を向けているが、気まぐれにもっと後ろを見てしまえば、そうでなくても赤ん坊が厄に喰われて急に泣き止めば。異変に気付くものは必ず現れる。
――限界だ。
『その通り。頼みの綱も現れず、今宵は我らの負けだ。ですが大人しく引き下がる気はありません』
頭に聞こえた声の主は、バルコニーの端に現れていた。表情は見えない。そこにあるのはいつもの微笑か、それとも。
『燃やしてください。骨も残さず』
命令は下され、反射的に手を前に突き出し、頭は距離と範囲の目算を始める。
夕陽と青空を映した雲のような火の粉が現れた。竜を殺した炎となるべく厄憑きの周囲を漂い始める。
「い……やだ。せめて……」
赤ん坊はまだ泣いている。せめてあの子が厄に憑かれ、殺す大儀を得てしまってからでないと。
アルクゥは下げたほうの拳を強く握って炎の形成を遅らせる。真名を呼ばない命令には、意思の力があれば抵抗できる。
殺すのか殺されるのか。結果が同じでさして意味のない自己愛が、別の所から聴衆に異変を知らせた。広場を照らすウル石にも勝るきらきらしい火の粉に、男が声を上げたことが切欠だった。
「おい、火だぞ! どうなっている!」
「何だ、火事か?」
「いや違う。あれは……あいつら何か様子が変だぞ」
「――魔物だ! 逃げろ!」
聴衆が波打った。
混乱が波及する。あちこちで上がる怒声で赤ん坊の声は消えてしまい、どうなったかわからなくなった。泣きそうになりながら突き出した手を思い切り開くと、余分な人間を巻き込んで炎の枠が出来上がる。
吸い取られていく魔力を感じながら、今度は思い切り手を握ろうとしたとき、暴風が吹き荒れ咄嗟に顔を腕で庇う。
(狙いが……!)
目を開けると炎は消え、そこには混乱する聴衆と――完全に隔離された厄憑きがいた。
アルクゥは呆気に取られる。見えない分厚い壁が出来たかのように、感染していない聴衆と厄憑きの間に隙間ができている。
「魔術……風?」
無色の風が厄を押し込んでいる。
風には心当たりがあった。建物の下を覗き込むと、先と同じ場所に銀髪の人が立っており、視線に気付いたかのように顔を上げて柔らかく微笑む。その瞳は微かに光り、瞳孔がぼやけている。
――人ではない。
だがアルクゥが呆けていられる時間はない。聴衆の混乱は拡大する一方だ。
『魔物は抑えられました、けれど』
これからどうするのか聞きたかったのだが、サタナは「来ていたのか」と呟くだけだった。何を悠長なことをと憤慨し、今にも周囲の人間を踏み倒して逃げ出しそうな聴衆にアルクゥも混乱へと流されそうになる。
「親愛なるティアマトの国民よ! 落ち着くのだ!」
その叫びは唐突だった。
拡声器を通じて振り絞られた国王の声には神から勇を下されたような覇気が宿っていた。盆百の演説が嘘だったかのような響きは、聴衆の動きを束の間止めるのには充分すぎた。その沈黙を受けて王は続ける。
「私は必ずや、神を貶める下賎な敵から愛する民を守ろう。その証拠に、既に魔物は結界の内に捕らえた。我が臣の聖なる力によって敵は阻まれている。忍び寄っていた敵の牙は折った。もはや敵は我々を脅かすことはできないのだ。ここで我を見失い惑うことは、勇猛なる精霊ティアマトが治める国の住人にはいないと私は信じている」
落ち着きなさい、と今度は父親が子に言い聞かせるように諭す。
「親愛なる国民よ。私はそなたたちに隠し事はしない。よって今の騒動の原因を詳らかに明かそうと思う。――我々は危機に瀕している」
王は民衆をゆっくりと見回し再び話し出した。
「ティアマトという国を食い荒らそうとしている輩がいる。そなたたちも聞き及んでいるだろう。異様な頻度で出没する魔獣、隣国グリトニルとの不穏な空気、国境線の緊張。それら全ては国に仇なす者の仕業だと私は知っている」
王はそこで頭を下げた。ザワリと聴衆がざわめく。神の代理人たる国王が頭を垂れる意味は大きい。
「私は不徳を詫びねばならない。そなたたち国民にいらぬ憂慮をさせていることを、深く詫びたいのだ。……我らの神が都から遠のいておられるのは、まさにこの王都に邪悪が蔓延っているからに他ならぬ」
また大きなざわめきが起こる。
敵を詰る声、王を罵る声もある。王はそれらに耳を傾けるよう目を閉じ、受け入れるように深く頷いた。
「そうだ、敵は打ち倒さねばならぬ。しかし私の力だけでは至らぬだろう。我々は今こそ一丸となって神の聖都を取り戻さねばならない。勇猛なるティアマトの民よ! 我がギルタブリルの名と祖たる精霊に誓って宣言しよう! 敵を討ち果たし、数々の惨劇を償わせると!」
勇猛を体現するかのごとき誓いに、地響きのような歓声が湧いた。
それに合わせて、演説に聞き入っていたアルクゥの頭に「燃やしてください」と二度目の命令が下される。
風に纏われた厄憑きを焼き尽くすのには何の造作もなく、アルクゥはただ聴衆の目に焼死体が入らないよう炎の規模に気を使えばそれで良かった。
不思議な色の火は聴衆のお気に召したのか、歓声は全てを灰に帰すまで続いていた。
「やるなあ、サタナのヤツ」
それから数分後。
魔力の放出過多による疲労困憊で座り込むアルクゥに今回の功労者が話し掛けてきた。名も知らぬその人に対する疑問は尽きなかったが、積極的に質問をしようとする気力は残っていない。
「……それは、どういった意味でしょうか」
なので言葉に対する返答に留める。その人は透き通った黄褐色の瞳を細め嬉しそうに笑った。
「今の演説だよ。王にあんな言葉は出せないよ。サタナが王の口と声を借りてやったんだろうね」
何も考える気が起きなくなる事実だった。「はあ」と返す。気のない返事でもやはり嬉しそうな風の主は、いつの間にか晴れた夜空に浮かぶ月を見上げてひとりごちる。
「これで民意は王のものだ。……今回の騒動で得をしたのは、果たして誰になるんだろうね」
一体誰が魔物を放ったのかな、と歌うように言ったその人は、突然全てに興味を失ったかのような顔でアルクゥに視線を下げ「送ってあげよう」と前のように手を差し出した。




