第二話 連れ去られた娘
屋敷を出たアルクゥは、大広場にある水の精霊ヴェシ・マイアを讃える噴水を通り過ぎ、ふと反射光に気付いて数歩戻る。
絶えず揺れる水面を覗き込む。目を凝らすと水底に銀色の光が揺蕩っていた。昨日にはなかったものだ。腕捲りをして拾い上げて繁々と眺める。見慣れない絵柄の硬貨だ。母のアルクゥリーネの故郷、東国アマツの貨幣だろう。
ということはこの辺りにいるのではないか。
目を皿にして周囲を探すが、生憎母の影すら見当たらない。
庭園まで行きたくなかったアルクゥは溜息を吐き、広場を出て白い石畳の道に立つ。長い長い道の合間には衛士がいたるところに見え隠れして憂鬱だ。昔から馴染んだ兵は気安いが、新しく増えた者達はいかにも「戦いが大好きです」と顔に書いてあって近寄り難いのだ。
彼らの目に留まりたくない一心で並木の影を歩き、視界の両端がぼやけるほど集中して足音を殺す。息もひそめる。
「異常は」
「ありません」
衛士は間近を通り過ぎてもアルクゥを見咎めはしない。意識すればアルクゥはいつでもかくれんぼの天才になれる。
だがアルクゥ以上に天才的な隠れ方をするのが母親のアルクゥリーネだ。
リーネが一旦消えると屋敷の者を総動員しても探し出すことは叶わない。ある種の魔術を使っていると噂されているが、本人は無意識なので性質が悪い。そんな時はアルクゥの出番となる。母から魔力を受け継いでいるせいか、アルクゥは母を見つける鬼の役目を見事に果たせるのだ。
庭園に辿り着くと、時刻のせいで明暗を二つに割ったような様相だった。オレンジ色の太陽は色鮮やかな花々を郷愁漂う色へと変え、それらが落とす影は向こう側が見えないほどの闇だ。アルクゥは手を翳す。
「基本は想像……想像は力……火が欲しい。明るい火、松明のような炎」
自らに言い聞かせると体の魔力が浮上する感覚があり、小さな火が手の平の先に現れる。
制限される中で魔術についての本を読み漁り、隠れて訓練すること一年余り。成果はたったこれだけの炎だが、今はこれだけで充分だ。
そうして意気揚々とするアルクゥは、葉陰を覗き込み、自身と瓜二つの相貌を探しにいく。
コツは隅々まで見ることだ。そうすると何となく燦爛としている箇所があるので、そこに触れると遊戯は終わる。
今日は最奥にある池でそれを見つけた。
「お母様。帰りますよ」
指先が触れた瞬間、存在を隔絶していた金の靄のようなものが霧散する。ゆっくりと振り返ったリーネは、アルクゥを見て同じ金色の瞳を丸くした。
「あらまあ、アトルじゃないの。こんなところで会うなんて奇遇ね。お酒でも飲みましょうか」
「冗談で誤魔化されたりはしませんよ。もう夕刻です。お父様が心配なさっていました」
「なんだか久しぶりだわ」
「朝に会ったでしょう!」
「冗談よ」
アルクゥはムッと口を引き結ぶ。
「まったく、庭園がお好きなのは結構ですけど、皆が心配する前にちゃんと帰ってきてください」
「だってアトルが迎えに来てくれるってわかっているもの」
「私だって忙しいのです!」
「例えば?」
微笑んで首を傾げるリーネにぐっと言葉が詰まる。実際のところは暇に殺される毎日だ。
誤魔化すように恭しく手を差し出してみると、リーネは軽く噴き出して「騎士様ね」と手を重ね、もう一方の手を暗闇を掬うように差し出した。夜明け色の炎が手の中に綻ぶ。炎の周囲には星が弾けるように透明な結晶が生成されては消えていく。アルクゥの火など及びも付かない明るさで闇に包まれた道を照らし出した。
「綺麗……ねえお母様。どうやっているのですか?」
リーネは微笑む。
「学ぶものではないのよ、アルクゥ。いつか貴女も自然と出来るようになるわ。――愛しい、私の子供だもの」
庭園を出るころにはすっかり夜の帳が下りていた。
時節は春に差し掛かっているが、まだまだ日の入りは早い。紺色の空には薄く三日月が笑っている。
屋敷に戻ると多くの使用人と、安堵した表情のアンジェが二人を出迎えた。
「リーネ様、アルクゥ様。お帰りなさいませ。夕食の用意が整っております。今日はケリー様もご一緒されるそうです」
遅くなった事を謝ろうとしていたアルクゥは、後半の言葉に表情を曇らせた。
それなら――同席するわけにはいかないだろう。
「ああ、ごめんなさい。私ったら、庭園に忘れ物をしたみたい」
「明日でも良いでしょう? 久しぶりに家族揃っての夕食なのだから」
何も知らない母が首を傾げる。アルクゥは気取られまいと硬い笑みを返した。
「ごめんなさいお母様。置き忘れた私が悪いのだから、自分で取りに行きます。それに、実はお菓子を食べ過ぎてまだお腹が空いていないの。お父様にごめんなさいと伝えておいてくださいね」
呼び止める使用人とアンジェを振り切り、小走りに外に出る。冷気が混じった夜の風が肌を撫でた。
「アルクゥ様! 私はそのようなつもりで言ったのでは」
追いかけてきたアンジェは小声で叫ぶ。蒼白の顔は今にも自死しかねない悔恨に滲んでいるようだった。
「アンジェのせいではないわ。お父様とお母様には仲良くしてほしいもの。私がいたらお父様は……その、お料理の味が落ちてしまうと思うの」
「ケリー様は何か勘違いをなさっておいでなのです!」
アルクゥはアンジェの視線を見返す。
恐らくこの乳母はその「何か」を知っている。多々そういう素振りを見せるのだ。知っていてアルクゥに教えない。ひとえにアルクゥ大事が故だ。だから何も聞かない。だが時々、空しくなる気持ちは止められない。
「アンジェ。私は少し散歩して帰るわ。夕食はお部屋で取るから、悪いけれど持ってきてくれないかしら」
「了承できません。一人では危のうございます」
「あら、屋敷の敷地内なのに? こんなに高い塀ですもの。誰も入ってはこられないわ」
「万が一という言葉をご存知でしょうか?」
「万の中に一つしかない、ということよ」
それでも引かないアンジェにアルクゥはわずかに困った顔を向け、すっと顔を引き締めた。
「アンジェリカ」
愛称ではなく、真名を呼ぶ。
肩を震わせたアンジェは渋々といったふうに背筋を正して言葉を待った。
真名を呼ぶという行為には深い意味がある。信頼を示す、求愛する、決闘を申し込む――そして主と従なら絶対の命令だ。
「私を一人にして。お願いだから」
「わかりました、アルクゥアトル様」
アンジェは完璧な一礼をして踵を返す。命令通り真っ直ぐ屋敷に向かい、一度扉を開ける手に逡巡が見えたが、振り返らず屋敷の中に消えて行った。
残ったのは奇妙な解放感と孤独だ。アルクゥは乾いた笑みをこぼして、とりあえず庭園に戻った。入り口付近のベンチに腰掛ける。
父が自分を疎み始めたのはいつだったか。
たしか母が初めて姿を消したときだった。捜索隊まで結成されても見つからなかったあのとき、アルクゥは屋敷の隅に母を見つけた。急いで父に知らせると、褒められるどころか奇異な物を見る眼をしたのだ。
少しだけ理不尽に思うこともある。
迷惑をかけるのは母でアルクゥは見つけてくるだけなのに、父は変わらず母を愛しアルクゥを疎む。
それでも、いつか再び暖かな手を差し伸べてくれると信じればこそ、父親に向ける表情に笑みを絶やさずにいれるのだ。
「炎を。明るい炎を」
手の平に火を宿す。
アルクゥは現在十六。あと一年待てば王立の魔導学院に入学できる歳だ。
魔力が主要エネルギーとして君臨して久しいが、その力を宿す者は少ない。世界の中心に座す名もなき大精霊が魔力の源という神話がある。すなわち魔力保持者は精霊に近づくことを許された存在であり、ゆえに数が少ないのだと主張する者もいるような、希少な存在なのだ。
魔力保持者の価値は高い。魔力が高ければ魔術師になれるし、少なくても引く手数多だ。
家を出てしまえば父も安心するだろう。遠ざかれば見えてくるものがあるかもしれないとアルクゥは考えていた。
濃紺の空を見上げる。
瞬く星はウル石の光とは違って優しい。光の話は好きだが、アルクゥはウル石の苛烈とも言える光は苦手だ。心を鎮める星の煌めきは段々と悲しい気分を癒してくれる。
その星光を突如夜空に現れた影が遮る。
悪寒を感じた。咄嗟に火を消して木に身を寄せた。
肌をチリチリと焼くような感覚が全身を蝕む。空には無数の影が飛び交い、時には低空を掠めて旋回している。棚引く尾のような部分が鋭利な形をしている。
一体が煌々と明かりを灯す屋敷に接近したとき、全貌が見て取れた。
外見は魚のエイの形に似ている。
背には平たく黒い外殻があり、白い腹には大きな口がついている。その中に渦を巻くように牙が羅列していた。尾は細長く、先端に棘がついている。
「塀の魔除けはどうなっている! なぜ魔物がいるんだ!」
「うろたえるな。おい、警鐘を鳴らせ! 襲撃だ! 半数は屋敷の守りに徹しろ! 他は迎撃だ!」
衛士の叫びがあちこちから上がる。その怒号を皮切りに大きな喧騒が巻き起こった。戦闘が始まったのだ。
恐る恐る覗くと、一目でこちらが圧倒的に不利だと見て取れた。魔物の群れは一撃を入れて暗がりに消えるを繰り返している。知性のある魔物ではない、怯むな、と誰かが叫んでいるが、敵は統率のとれた動きで衛士を翻弄している。
そもそもこの屋敷にいる衛士は対人間を想定した訓練を受けており魔物は専門外だ。弓や槍は暗闇に阻まれて掠りもしていない。光を嫌うのか、屋敷を襲わないのが唯一の救いか。
「に、逃げないと……逃げるの」
ここは安全ではない。屋敷に逃げなければ。
震える足は進もうとしない。躓いて転んでしまった。その横を急降下してきた一体が通り過ぎ、直後絶叫が頭上から降ってきた。一拍置いて黒い飛沫が目の前に落ち、続いて重い金属音と液体を混ぜた不協和音が落ちてくる。
正面に落下した「それ」にアルクゥは目を瞠った。
衛士の着る制服――その下半身だけが。
金属の擦れる音にゆっくり視線を上げると、滞空した魔物の口に、衛士の上半身があった。体の要所を守る甲冑ごと咀嚼されていた。
叫ぶことができなかった。
ただ胸が引き攣って痙攣している。口を押えて体を丸めると、誰かが背に手を添えてくれた。暖かな手に顔を上げて涙目で振り返る。
「アンジェ? お母様? お父様?」
そこにいたのは見知らぬ衛士だった。どこか憐れむような眼差しが胸をざわつかせる。
「誰、なの? 新しい衛士の方?」
「申し訳ありません」
なに? と一歩下がるが口元に湿った何かを押し付けられる。訳も分からずもがくが、大きく吸い込んだ呼気に薬品の匂いが混じり、あっと思う間もなく意識が薄れていった。