第二十七話 幽世
ティアマト王国、王都エリド。
午後を中ごろまで過ぎた太陽に照らされる人口六十万人を超える正方形の都市は、見る者を厳粛な心持ちにさせる。それは白で統一された建造物だったり、随所に見られる碑だったりが与えてくる神聖な印象から来るものなのだろう。
獅子霊ティアマトが降り立った最初の地であるこの聖跡の都は、建国以来政治と信仰の中心であり続けてきた。都市の端々から立ち薫る荘厳な空気は重厚な歴史の積み重ねにより形成されていったものであった。
薄い都市だ。
小高い丘の上で王都を見たアルクゥはそう感じた。
市街に下りればまた違った感想を抱くのだろう。しかし祭りの喧騒すら聞こえない遠くから俯瞰しているため人々の息吹は感じられない。
色が薄い。人の住処として活気が薄い。彫刻のような美しさのせいで現実味が薄い。
アルクゥは一つ息を吐き軽く目を細めた。
北に見える建造物が王宮で、その真下、都市の中央にある塔が大聖堂。アルクゥが殺害する人間は北東の富裕地区にいる。
敵は精霊祭の二日目に王宮を占拠するつもりだ、と先程から一言も発さない背後の主は教えてくれた。つまるところクーデターなのだが、なぜ直前まで放っておいたのか理解に苦しむ。肩越しに視線を遣ると、薄い琥珀色の瞳が視線に気付いたようにこちらを向いた。
「――ああ、首魁はそれなりに位のある方で賛同する者もそこそこ力を持っています。決行させて引き摺り出すしか手がなかったのですよ。動いた時点でこちら側は防御を固めて篭城、潜んだ別働隊が首謀者を捕縛という手筈でした」
まるで思考を読んでの説明に目を瞠るとサタナは軽く口の端を上げた。
「主従の楔とはこういうものです。気を抜けば表層の思考は行き来してしまう。気をつけた方が良いでしょう」
「ご忠告感謝いたします」
敵に塩を送られたような苦い気分だった。
いや――もう敵ではないのだ。ネリウスの治療の便宜を図ってもらう代わりにアルクゥはサタナの部下となったのだから態度に棘を生やすべきではない。ない、のだが。
アルクゥは左腕を握り絞めてじっと込み上げるものに耐える。従属への嫌悪。それが全てだ。
「聖典の一節にある幽世でしょうか」
唐突に聞こえた宗教用語に説教でも始めるつもりかと振り返る。白皙の聖職者は薄っすらと笑みを浮かべて続ける。
「貴女が言う“あちら側”のことです。幽世は全てが光を帯びた美しい幽玄の世であり、人が最後に行き着く場所、有体に言えばあの世だと言われています。私は実際死んだことがないので真偽の程は不明ですが、幽世に召された魂は、そこに住まう神々によって選り分けられるそうです。善なる者は原初の大精霊に還る許可を与えられ、再び生まれ変わる。悪人は幽世に留まり苦痛を以って贖罪する。さて、この説明だと貴女は神か死人ということになりますが……」
二者択一を問う瞳に、侮蔑の一瞥を返す。
一向に気にした風のないサタナは、ふと少し首を傾け、揶揄の色を消した。
「そろそろ時間です。何か質問は?」
アルクゥは眉間に深い皺を刻み、フードの端を引いて被り直して向かい合う。
「ヴァルフをどのように使うつもりでしょうか」
「おや、他人の心配をする余裕がおありとは頼もしい」
「質問があるかと訊いたのは貴方ですが」
「これから行う仕事についてという意味だったのですがねえ。まあいいでしょう。彼には近衛に入っていただきます」
「……王の側に上げて危険ではないと言い切れますか」
暗に放逐を示唆したがサタナは動じない。
「そうでなくとも陛下の状況はすこぶる危うい。気勢は軍部と教会にあり、頼みの神意と民意はない。護衛を強化しなければ近日確実に首を取られるでしょう。それならば、腸を食い破られる可能性を承知で名の通った魔術師に護らせてみるのも悪くはない。それに――貴女が私の手の内にある限り、彼は剣を振るう先を誤ることはないでしょうから」
平然と言い切ったサタナを尖った瞳孔で睨み付ける。殺気にどこ吹く風のサタナは恭しくアルクゥに手を差し出した。
「使い魔から連絡がありました。伯爵がお戻りです。行きましょう」
忌々しく思いながらその手に触れると、デネブから移動した時と同じように瞬く間に視界が切り替わった。
土の匂いが濃い林の中で、木々の隙間から遠くに大きな屋敷が見える。
「肝要なのは人知れず速やかに殺すことだ。これが今回貴女に求める全てでもあります」
背後で囁く低い声はアルクゥの脳髄にじっくり言葉を沁み込ませるよう更に声を落とす。
「死体がいくら暗殺めいていようと、犯人の姿も見えず捕らえることが出来なければ相手は単なる事故として処理します。いくら王権が揺らいでいるからと言ってもクーデターは大罪、爵位は没収、関係者は死罪です。反対に見つかり、捕らえられ、私との繋がりが知られた場合。敵は表立って私を、ひいては王を糾弾する材料を得る」
そうなれば他の勢力も鬼の首を取ったが如く、王を引き摺りおろしにかかる訳だ。
「よって保険をかけます。アルクゥアトル」
真名に反応して振り返ると、サタナは笑みのままアルクゥに命じた。
「捕縛された場合、一切の情報を漏らさず死んでください」
主従契約における真名での命令は一種の呪である。いくら意識の上では拒んでも、持てる限りの力を尽くして実行をするよう強制するのだ。抵抗は不可能で、アルクゥは生きる為に暗殺をやり遂げるしかなくなった。
自分でも驚くほど冷静に頷いたアルクゥは屋敷へ足を向ける。
「無事を祈ります」
嘘のような見送りに反吐が出る気分になりながら、アルクゥは答えず幽世へと姿を晦ました。
柵を登るという如何にも原始的な方法で屋敷の敷地内に侵入したアルクゥは、両脇に私兵の立つ開いた大扉から内部に踏み入る。
伯爵の自室は三階、左から五番目。魔具で撮られた対象の外見は白髪、豊かな白ヒゲ。背は低く、しかし背筋をピンと伸ばして貴族然としている。いかにも溌剌とした老人だった。
情報を脳内で反芻しながら階段を駆け上がる。今ほど幽世の滞在制限時間が煩わしいと思ったことはない。
三階に上がるまでに擦れ違った兵は十を越え、その誰もが明らかに正規の軍人ではなかった。彼らの雰囲気が優美な貴族の屋敷を物々しい場所へと変えている。目的の部屋の前にも当然のように強面の護衛が詰めており、事情を知らぬ者が見れば伯爵が凶賊に監禁されていると勘違いする絵面であろう。
さてここからどう動くか。
あの蟻一匹入り込む隙もない扉の先に暗殺対象がいるのは確実だろう。両隣の護衛を殺して中に入ることも出来るが――アルクゥは横に連なる部屋に視線を移す。まず左隣の扉にそっと触れると、突然内側に開いて後ずさった。
「誰だ!」
現れた魔術師風の男の神経質な声が体を射抜く。
見えているのか。アルクゥは左右を見回し、声に反応して集まってくる私兵を見つけて慌てふためく。短剣を抜き払い、兵に相対すると、その表情が妙にうんざりしていることに気付く。警戒もなく歩み寄ってきた兵は、アルクゥ越しに部屋の主に話しかけた。
「それで、今度はどうなすったんで?」
「ドアノブを回したのは貴様か? 紛らわしい真似をするな!」
「は? いや、俺じゃ……」
男はヒステリックに喚き、心底面倒臭げな兵の反応が気に喰わないのか、部屋から出て指を突きつけがなり立てる。アルクゥは扉の隙間から中に滑り込んだ。
背後で繰り広げられる一方的な叱責を聞きながら窓を静かに開け放つ。身を乗り出して右を覗くと伯爵の自室で開いている窓はない。薄い窓なので割るのは簡単だが、それなら正面から行くのと大差ない。
さてどうするか、と考えたとき後ろの騒動が収束した。「さっさと失せろ!」という怒鳴り声と共に扉が派手な音を立てて閉まる。
「んん? 窓が開いていたか?」
男は目を眇め、神経質そうに窓とカーテンを閉めて扉近くの椅子に浅く腰掛ける。床には椅子を囲むように魔法陣が描かれていた。サタナの言っていた、常時結界を構築している魔術師とは彼のことだろう。
ともあれ進退が窮まってしまった。
扉をノックしてみるも魔術師は「やかましい」と一喝して動こうとしない。窓を開けようにもカーテンが不自然に動くので騒がれる。
ならば、とアルクゥはあっさり決を下した。
借り受けた切れ味の良い短剣を抜き払う。背後から魔術師に近付き一気に振り上げ、首筋に深く突き刺した。
その瞬間だった。本能が激しい警鐘を鳴らした。短剣を引き抜いて血を拭い、速やかに伯爵の方も殺さねばならない。なのに体は固まって動かない。
何だこの感覚は。
アルクゥは額に滲んだ冷や汗を拭うことも出来ずけたたましい脳内の警鐘に耳を済ませる。その間に絶命した魔術師の体が弛緩し、ずるりと椅子から滑り降り、刃は抜けた。
傷口から噴き出るのは血液――ではない。膨大な光の粒子が部屋を埋め尽くさんばかりに溢れてくる。
危険だ。
反射的に鼻と口を手で覆うが、光は肌から這入り、神経の隅々まで侵し、精神を壊すほどの苦痛をアルクゥに与えた。膨大な情報が幻覚となって視界を流れ行き、その目まぐるしさに脳が焼き切れる感覚を覚える。
このままでは、自我が、消える。
「……今のは?」
あまりにも唐突に痛苦は終わった。
無意識に幽世から出ていたようだ。明滅する視界にこめかみを叩き、ふとアルクゥは自分が座り込んでいることに気が付く。妙に薄暗い室内を見渡し、窓に目を向けるとカーテンが燃えるような色をしていた。奇妙に思って外を覗く。
空は夕日に焼けていた。
低く傾いた落陽は今にも夜にかき消されてしまいそうだ。日没、と呟いたアルクゥは室内を見返る。椅子の脇で死んでいる魔術師の血は黒く渇きかけている。
さっと血の気が引いた。
自覚がないまま一体どれほど自失していたのか。無防備な状態で見付からなかったのは幸運としか言い様がない。
幽世に入り身の安全を確保して扉に駆け寄る。耳をつけると微かに足音がした。出るのは得策ではない。窓に取って返して大きく開け放ち、躊躇なく登って外に出る。装飾の多い貴族邸の建築様式に助けられながら隣の窓辺に到達する。
中を覗くと柔和な表情の老人が一心に執務に励んでいる様子が窺えた。開いている窓はなく、もしかするとこれで良いのかもしれないという念が込み上げる。
アルクゥは目を細め、首を振ってから、窓を二度軽く叩いた。
老人は手元から顔を上げてきょとんと首を傾げ、窓に近付き、すんなりと開けてしまった。
豪胆か、魔術と魔具への信頼か、それとも狙われる者としての自覚がなかったのか。いずれにせよそれは仇となった。
老人は周囲を窺おうと窓から上体を乗り出す。
アルクゥは彼の頭を跨いで部屋に飛び込み、足元をすくい上げるように持ち上げる。小柄で軽い体は重心を前にしていたせいもあり、いとも容易く落ちていった。
数秒後に、物が潰れる厭な音が響く。
口を押さえて確認すると、石畳の上に不自然に折れ曲がった体があり、頭は割れ、首もあらぬ方向を向いている。夥しい量の血が四方に流れ出ていた。絶命は明らかだ。
ぐっと込み上げた吐き気を飲み込み、アルクゥは音を聞きつけて駆け込んできた私兵と擦れ違って屋敷を脱する。
先と同じ場所で無表情に屋敷方向を眺めるサタナの側まで来て、幽世を出て大きく息を吐いた。サタナは突然現れたアルクゥに驚くでもなく上から下まで眺めて「首尾は?」と確認する。
「殺しました。邪魔でしたので、魔術師も」
「そうですか。よくやってくださいました。怪我は」
「ありません」
差し出された代えの外套を受け取り、返り血に塗れた上着を脱ぐ。だが衣服を改めても老人の死に様と鉄錆びの臭い、そして幽世で浴びた暴力的な光の奔流の記憶は、頭にこびり付いて終ぞ離れそうになかった。




