第二十六話 追
そこに確かに在るのに気配も何も感じない。
華奢な手が手の平からするりと抜け出たことで、ヴァルフはアルクゥが行ったことを悟る。この場から建物まで駆け抜けるなら数秒。その間、息を詰めて動向を睨みつけたが敵に反応はない。抜けたか、と息を吐き出して安堵し、しかしすぐ気を引き締める。
張り巡らされた魔術探査の網は三人分。恐らく扉を塞ぐ二人と、兵の隊長格のものだろう。
探査範囲は大別して二種類。糸を伸ばし広く張り巡らせるか、自分の周囲に狭く綿密な網を敷くか。
漂う魔力から察するに二人は網で兵は糸だ。
なのに二人の索敵範囲は分隊長格の兵よりも広い。実力は歴然としている。
――注意すべきはあの二人組か。
ヴァルフは兵士たちを一瞥して顎に手を当てる。装備は一般兵。身のこなしからして練度も低い。数で劣るとはいえあの二人なら一分掛からず片付けられる相手だ。
にもかかわらず威嚇に留めている。
察するに、あの二人も兵と同じく公的な場所に属する人間ではないだろうか。衝突すると後が面倒なのでああやって威圧しているだけだとヴァルフは予測した。眉間に刻んだ皺が深くなる。だとすれば状況はいつまで経っても変わらない。となれば自分で変えに行くしかないということになる。
索敵を逃れる術がないわけではない――が、そんな器用な真似は苦手だ。
ヴァルフは首を鳴らしてゆっくり伸びをする。初めから失敗がわかっているのなら、初めから得意な方法を採るほうが賢い。
護身用ゆえの心許ない細身の剣を引き抜き茂みから出る。
獣のように気配を忍ばせ、横合いから索敵範囲のギリギリまで近づいていく。これ以上は無理と悟ったラインで大きく地を蹴った。
最初に気付いたのは黒い服装の男だった。次に魔物を使役する女で、最後に分隊長、そして兵士たちだ。察知に大きく遅れを取った兵の分隊は、差し迫る獣に抵抗する術をもたない。ことごとく柄や鞘で殴り倒され昏倒する。
血糊を浴びていない刀身を癖で払いながら、常に目の端で警戒していた二人を視界中央に収める。男は不機嫌そうな顔付きで片刃の武器――刀を構え、女は愛想笑いのようなものを浮かべてから魔物の後ろにこそこそと隠れていく。その魔物と視線を合わせると大きな唸り声を上げた。
流線型の体に深緑の鱗、前脚はなく、強靭な後ろ足の蹴爪は猛禽のようだ。
背中に背負う翼の皮膜は赤茶で、額を飾る二本の角も同じ色をしている。
ワイバーンだろう。
竜を小型化したような外見で体内の構造や習性も竜に酷似している。竜種の遠戚だが、扱いとしては魔獣の一つ格上という程度だ。力は竜より格段に見劣りする。それゆえに竜もどきと言われているが、その辺の魔物とは一線を画す。
ヴァルフはワイバーンの背中に付けられた鞍に目を留め、そこに騎兵の隊章を見つけ二人の、少なくとも女の身分は確信できた。
「国軍の人間か。こんな辺鄙なところまでご苦労なことで」
「去れ」
切れ長の目は冷たく、深い藍色は夜の海のようだ。後ろで高く括った長い髪が揺れている。取り付く島もない男に肩を竦めた。
「あのな、去れって言われてもアンタらが塞いでるそこの建物は俺のねぐらだ」
「貴様の?」
「ああ、そうだ。だから通してくれ」
「ここはネリウス様がお住まいだと聞いているが」
「俺は弟子だ」
そう言うと男は更に機嫌を悪くしたようだった。苛立だしげな舌打ちが凪いだ風の中によく通る。
「様、ね」とヴァルフは軽く笑い推測する。ネリウスは賢者とも言われた元近衛だ。数々の功は尾ひれをつけて記録と記憶に残っており、自分が軍属だったときも一定数その名を信望する輩はいた。
目の前の男もその内の一人だとすれば、弟子であるヴァルフが気に食わないのもわかる。
「あの方の門弟にしては浅慮だな。貴様が転がしたのは正規の兵だ。罪に問われるのはわかってるだろうな」
「だったらどうした。そいつらは明らかにデネブの兵ではない。そしてここはデネブ騎士団の管轄だ。何をしに来たか知らんが、国軍でもない地方領兵ごときが他領に入るには相応の理由と許可が必要だろう。そいつらは正式な任務でここに訪れたのか?」
男は鼻で笑う。
「知ったことか。我々はそいつらの目的に関与していない」
「そうか。じゃあとにかく、どいてくれ。頼むから」
「それは出来ないな。入りたいのならそこで待っていろ」
出来るだけ下手に出たが男はいっかな態度を軟化させる気配がない。
平和的には通行不可能だという結論に達し、ならば戦っても仕方がないとヴァルフは思考する。結局こうなるなら奇襲をかけておくべきだった。
分は悪いが真っ向からやるしかない。
そうして諦めてみると、理不尽な状況への怒りがじわりと染み出して闘争心を後押しする。ヴァルフは元々短気な性質だ。答えが出れば迷わない。
「お前らもそこらに転がっとけよ」
「何だと?」
「そこを退けと言っている。警告だぜ、これは」
力任せに剣を地面に突き刺す。鋼と石がぶつかり心地の悪い音を立てる。口に笑みを浮かべ、しかし目には鋭い殺意を湛えたヴァルフは最初で最後の忠告を発した。
「俺らにとってお前らはただの侵略者だ。いくら御託を述べようとそれは変わらん。容赦する謂れはない。――殺されても文句は言うなよ」
ヴァルフの威圧に男は無言で右足を引き、右後ろに剣先を下げる。
臨戦態勢を認めた、脚力に物をいわせて一気に距離を詰める。実力が知れないので肉薄は避けた。相手の直前、間合いのギリギリ外で踏み止まり、停止するために踏み込んだ利き足の勢いに乗せて剣を振る。
剣先は地面を抉り、土塊と小石が男の顔面に飛び散る。男は目を見開き――怯まず鋭く刀を下段から上段に振り抜く。当たらないと見切っていたヴァルフの胸元を切り裂き、空に向かって幾許かの血滴が散った。
袈裟懸けの二撃目は見誤らず剣で受け、流して弾く。小石で顔に傷を作った男は嫌そうな顔でヴァルフから距離を取った。刀は殺傷を追求した性質上打ち合いを嫌う。となればそれを使用する者の戦術は明らかであり、ヴァルフはそれを考慮した上で充分に注意していたはずだったのだが。
思いがけず負った傷に触れる。魔力の活性によって既に閉じかけているが、流れた血が手の平にべたりと付着した。
――強いな。思った以上に面倒だ。
男だけなら勝てるという自信はあるが、未だ動きを見せないワイバーンはいつ戦いに参加してもおかしくない。隠れてはいるものの女も軍属の魔術師だろう。二人と一匹に連携されると面倒以上、女の実力如何では返り討ちもあり得る。
現状、一対一の間に早期決着が望ましい。
ヴァルフは込められる限りの魔力を剣に宿す。すると軋みと共に刀身は鋭さを増した。元がそう質の良い剣ではない。これで寿命を終えてしまうだろうが、この場で勝ちを得られるなら剣の一本くらい安いものだ。
「ユルド。そこから動くな」
男は背後に向けて厳しく言い渡す。
女を気遣ったのか、それとも扉の中の主を気遣ったのか。どちらにせよヴァルフにとって好都合でしかない。
予備動作を最小限に、速やかに間合いを詰めて斬り掛かる。タイミングを合わせられる危険性を無視しての接近だったが、男は虚を突かれた様子で切り結ぶことを避け後ろに跳んだ。
「打ち合うのは嫌いか?」
分かり切ったことを皮肉気に聞く。思い切り顔をしかめた男に笑い追撃を重ねる。男は距離を取りたそうに牽制じみた反撃しかしない。相手の得意な戦いをさせてやるほど甘くないはヴァルフは逃げる暇を許さない。
突く、払う、振り下ろす。
力任せの剣技だ。しかしながら技巧を戦いの柱とする者には有効だった。攻め続ける内にとうとう刀で斬撃を防ぐようになり始め、顔には焦りが浮かんでいる。
相手はやがて痺れを切らして打って出るだろう。
何気ない隙を織り交ぜて攻めを誘う。すると読み通りに男は後ろに下がるのを止めて大きく一歩踏み込んできた。
――終わりだ。
喉元を狙った突きを右手の剣で防ぎ、左手で素早く鞘を抜き左側頭部に叩き付けた。男は地面に傾いていく。気絶したのか、それとも踏み止まるか。だがヴァルフはそれを見届ける間もなく、真上から降りてきた強風にはっとして視線を上げた。
大きな黒々とした影。
姿を確認する時間もなく、それは重力の助けを充分に得ながらヴァルフに向かって落ちる。蹴爪が逃げ遅れた左腕の肉を裂き、苦痛の声を飲み込みその場を離脱する。
降り立った影は扉を塞ぐものより大きなワイバーンだった。二体目、と微かに冷や汗が浮く。
「周到だな。控えさせていたのか」
女は至極申し訳なさそうに魔物の影から視線を送っていた。
ヴァルフは苦笑しか出ない。
竜もどき二体を使役する女の力もさることながら、増援を失念していた自分に呆れ果てる。案外動揺しているらしいということにも気付いた。
コルネリウスと出会い弟子として共に暮らし始めて六年。日々の生活はそれなりに平和で、崩壊が訪れるとしたらそれは緩やかに朽ちていく種類のものだろうと思っていた。
今日。何かが変わる。
そんな胸を刺す予感がヴァルフの判断力を鈍らせている。
勿論、目の前の敵に勝つ気でいる。決意は揺るがない。それでも抗いがたい波のようなものを感じていた。
悪足掻きをしている気分だ。それを踏み砕くように一歩前に出ると、隠れていた女が良く通る声を上げた。
「私たちの主はあなたの師に危害を加えに来たわけではない。ただ、頼み事をしにきただけよ」
「一人倒されただけでえらく弱気だなおい」
幸い男はワイバーンの足元で昏倒している。しばらくは起きないだろう。
そう言うと女は首を振る。
「その腕でこの子たちに勝てるとは思えない。私も不要な争いは嫌いよ」
「どの腕だ?」
左腕を掲げ首を傾げてみせる。
傷はもう赤い線に変わり、女が息を飲む目の前で完全に治癒する。大量に巻き散らかした血液は元に戻るまで時間がかかるが、少しばかり貧血で倒れるような体ではない。
「素直に退いてくれるんなら何もしねぇよ。頼み事とやらの邪魔もしないし、アンタの上司に刃を向けることもしない。……言っても無駄か」
「ごめんなさい。でも決して貴方たちの生活を踏み荒らす気は」
「偽善者だろアンタ。それとも手加減を誘う演技か?」
辛辣な言に女は「そうかもね」と苦笑する。
それから大きく息を吐き、意を決したのか小さい方のワイバーンを扉の前に残し、ヴァルフに向かって歩き出す。ヴァルフはその行動に応じて剣を構えなおす。敵意の視線は交錯する。
嵐の前触れのような静寂が辺りを支配する。そこに忍び入った微かな音は驚くほど耳に響いた。
敵対する二人は視線を交わしたまま、しかし一点に注意を向けた。
扉が――内側から開く。
建物内は夕闇のように暗い。そこから現れた人影は、一瞬幽鬼と見紛うほどの禍々しさを宿していた。ゆっくりと歩き、光の下に止まる。そこでようやくそれが妹弟子だと気付き、心臓が凍りついた。顔に、体に、まだ乾ききっていない生々しい鮮血が飛散している。
「アルクゥ、お前、それは」
怪我をしたのか。それとも師に何かあったのか。
問おうにも声は掠れて届かない。敵でも見るような眼差しでヴァルフを見返したアルクゥは、不意に横にずれてその先を見遣る。
すると聖職衣に身を包んだ男――見覚えがある。数ヶ月前、アルクゥを捕まえようとしていた司祭だ――が進み出てきた。その肩に担がれているのは紛れもなくネリウスだ。
「師匠……?」
すっかり力を失った腕が歩みに合わせて揺れている。
師を担いだ司祭は、困惑する女に何かしらの指示を出したようだった。女は困った顔でヴァルフをチラリと見て、ワイバーンの体勢を低くさせる。そこにネリウスは乗せられた。
「……どういうことだ。説明しろ」
気絶している男の回収に来た司祭に斬りかからんばかりに訊くと、胡散臭い笑みで笑って答えた。
「見ての通り……とは流石にいきませんか。端的に説明すると、ネリウス様の治療と引き換えにご令嬢は私の部下になりましたので。……ああ、これは完全に伸びてますねぇ」
「は? 今なんて……」
司祭はヴァルフを一瞥して笑うだけだ。舌打ちして司祭の後ろに着いて来たアルクゥに直接問いかける。
「アルクゥ、どういうことだ」
「勝手なことしてごめん。私は」
私は、とアルクゥは視線を左右に彷徨わせ結局俯く。右手で左手の甲をしきりに撫でる仕草が気になり目を細めると、そこにあってはならない紋様を見つけてしまった。
気がついたときには剣を振り上げ、司祭に踏み込んでいた。
そして次に気がついたときには、金色の目が眼前にあった。
本人も刃を受け止めたことに驚いている様子だったが、すぐに何か悟ったように口を引き結ぶ。
「どいてくれ。頼む」
救う意思がなくとも体は動いて主を守るのだろう。
無理な注文だとわかっていながら懇願する。主従契約は一方が死ねば解除されるのだ。今ここで司祭を殺せばアルクゥは解放されるだろう。
「駄目だ。この人が死んだら師匠が救えない」
「お前が身を売るような真似を師匠が望むと思うのかよ」
「思わない。だけど私は望んだ。これでいい」
身勝手な言い分のはずなのにヴァルフの剣先は下がっていく。
――今日、何かが変わる。
予感が現実に転化していく様が、アルクゥを留めようとする意志を奪い去っていく。
「お前……こいつに何をさせるつもりだ」
成り行きを見守るように佇んでいた司祭は軽く笑った。
「国の病を取り除く手伝いを。有体に言えば王の反勢力の排除ですが」
何を言っているんだ、とヴァルフは思う。お前の上は大司教だろうと言いかけるが、それは今更何の糾弾にもならないと理解していたので口を噤む。
(お前、寂しくなるな)
半ば現実逃避的に建物を見上げる。師匠も妹弟子も去っていく。
――残るのは自分一人だ。
そう考えると幼い頃に迷子になった記憶がどうしてだか蘇る。
(餓鬼かよ、俺は)
ヴァルフは剣を投げ捨て、諸手を上げて無抵抗を示す。怪訝そうにするアルクゥとは目を合わせず、司祭に向けて言い放った。
「俺も連れて行け。戦力が欲しいんだろ? せいぜい役に立ってやるよ」
ヴァルフ、と愕然とする声は無視する。
司祭は少し考える素振りを見せたが、然して重要事項でもないような軽い調子で「ではお願いします」と頷いた。




