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精霊のシジル  作者: 染料
三章
26/135

第二十五話 従


 結界は壊され、外から不可視だった拠点はその古びた体を露わにしていた。

 正面の扉前には小型の竜のような魔物が立ち塞がっている。その隣にはおそらく使役者であろう亜麻色の髪をした女性がいて、更にその数歩前には黒い服装をした剣士が隙のない佇まいで周囲を睥睨していた。

 その二人が相対するのはアルクゥアトルとヴァルフ――ではない。

 彼らが前にするのは、青銀の鎧を着た兵士一個分隊だった。数の差さえあれども睨み合いは拮抗しており、一触即発の空気は隠れ見るアルクゥたちの場所にも伝わってくる。


 アルクゥは肩越しに向こうを眺めてから動きがないことを確認し、横のヴァルフを窺う。

 顰め面は突破方法を思案している様子だ。いくつかの索敵魔術が張り巡らされており迂闊には近付けず、状況が動かない限り穏便に通り抜けられそうにない。

 とすれば強行突破という案もあるが、拠点内がどういった状況かわからないのでそれは悪手だ。二人の目的はネリウスの無事を確認することにある。下手な真似はできなかった。


 この場合は静観が正解だろう。

 ――時間が許すならば、という但し書きがあれば、だが。

 今は違う。


 アルクゥはヴァルフをこの場に置き去ることを決意し、現実と隔たった光の層に潜り込んだ。しかしその瞬間に阻まれた。魔術や視覚を逃れることはできるこの世界だが、実体が消えてなくなるわけではないのだ。


「アルクゥ、お前」


 恐ろしい反射神経でアルクゥを捕まえたヴァルフは、彼の視覚に何もない中空に険しい顔を向けた。しばしの間、獰猛な魔物に似た鋭い眼光がアルクゥを竦ませたが、ヴァルフは思い直すように首を振って低く喉を擦るように呟く。


「悪いが、先に行け。俺はあいつらをどうにかしてから行く。けど、もしも師匠が」


 その先は言わせまいと強く手を握り返すと、ヴァルフは逡巡して「危なかったら逃げろ」とだけ言って手を離した。

 アルクゥはまごつきながらも勢い良く走り出す。

 睨み合う者たちの真横を通り、建物の裏側に回る。少し高い場所にある窓を割って窓枠に手をかけよじ登った。枠に残っていた破片が手のひらに食い込み、咄嗟に力の重心をずらして建物内に転げ落ちる。

 すぐさま立ち上がり、額に浮いた汗を拭いながら足早に工房の大部屋を目指す。急がなければこの世界に体力を奪われ続ける。万が一の敵に備えて戦う力は残しておきたい。


 廊下は人の気配がまるで感じられなかった。

 置き捨てられた建物のように荒廃の気配を漂わせている。


 難なく辿り着いた目的地の扉はピッタリと閉ざされていた。まるで行く先を阻むような重い扉を静かに押し開ける。

 雑然とした室内には静寂が満ちており、カーテンが閉ざされていて夕闇のように薄暗い。

 床に落ちている細々とした実験器具を避けながら注意深く歩く。ネリウスがいつも使っている手前側の一角には誰もいない。

 ならば奥か、それとも別の部屋か。

 生唾を飲み込み、乱れ始めた息を抑えながら歩く。そんなに広くない部屋だが、物が作り出す死角が多いせいで見て回る箇所も比例する。角や陰を覗くたびに覚悟が必要だった。ヴァルフの「もしも」が頭を過ぎり言いようもない恐怖が湧き上がる。


 そして本の塔が何本も屹立した大机の向こう側を覗き込んだときだった。

 アルクゥは金色の目を見開く。


「――師匠」


 糸が切れた人形のようだった。

 うつ伏せに倒れ、前に投げ出された片手は血の気がなく、もう一方は胸をかばうように体の下にある。息をしているのか、目を繋ぎ止めていなければ確認できないほど呼吸の間が長い。

 アルクゥは動揺に流されるまま姿を現そうとした。だがかろうじて残っていた判断力がそれを留める。ネリウスの傍に膝を突いた人影がいるからだ。


(光が……)


 アルクゥはネリウスの異変を察し、口を押さえきつく眉根を寄せた。

 ありとあらゆる生き物は光の粒子を纏っている。恐らく生きていく上で必要な要素なのだろうと、漠然と考察していた。

 ――その光がネリウスの胸辺りから薄く揺蕩たゆたって消えていく。

 ああこの人は遠からず死ぬのだなと思った。

 無色で冷たい終焉が脳裏を過ぎる。縋るように光が流れ出る部位を押さえるが僅かにも止めることはできない。

 唇を噛み締める。

 鉄の味が涙の塩辛さと一緒に喉を伝う。


(まだ……まだ泣くな。何も終わっていない)


 目の端から落ちかけた滴を乱暴に拭ったアルクゥは、膝を突いて扉の方を警戒する人影に視線を移した。

 腰に挿した短剣を引き抜き背後に回る。

 相手が膝を突いているのは都合が良かった。一番力の入れやすい場所に急所がさらけ出されている。この点は初めて人を屠ったときと被る。悪夢の日々が終わりを告げてから人に死を与えることはなくなったが。

 ――大丈夫だ。殺せる。

 何度か大きく呼吸を繰り返し、首の肌に触れるギリギリの所に刃を突きつけた。姿を現すと同時に短剣に魔力を込め、いつでも殺せるように備える。


 唐突に現れた気配を察してか相手は微かに身じろいだ。

 しかし見せた動揺はそれだけだ。それどころか喉を震わせて笑っている。もしかしたら首元にあてがわれた物が何なのか理解していないのかもしれない。そう思って軽く皮膚に刃を沈ませるも、やはり態度は変わらない。

 ――こいつは、おかしい。

 得体の知れない恐怖を感じる。それでも精一杯強がって「何がおかしい」と低く唸る。

 努めて優位を示そうとしたが手元は正直で、短剣は何度もぶれる。そのつど血が通っているか怪しい首肌に傷が増え、垂れた血が白に近い銀色の襟足に移り鮮やかな赤を滲ませた。


「いや、これは失礼。少し嬉しかった・・・・・ものでして。実に優秀な隠密能力だ。一体どんな芸当で索敵の網を掻い潜ったのか、是非ともご教授願いたい」


 存外真剣な調子での種明かしを求める声だったが、アルクゥにはもちろん答える気はない。


「質問するのは私です。いくつか答えてもらいます。その人は治せるのか。治せるとしても、それと引き換えに何をさせるつもりだったのか」

「おや、貴女は……そうか、そうでしたか」


 顎に手をあて一人納得し、背後で苦い顔をしているアルクゥを見透かすかのようにまた笑った。


「再びお目にかかれて光栄です」

「……私の質問が聞こえなかったのですか」

いる・・とは魔女から聞いていましたが、お会いできるとまでは思っていませんでした」


 人影は――司祭サタナは刃の下で恭しく頭を下げた。

 前に見たときと変わりなく、人間が持っている筈の色彩が欠けているようで、人を小馬鹿にする口調も耳に覚えがあるままだ。


「ガルドさんとは以前から?」

「知り合った時期という意味なら、あの竜討伐の日、貴女が私の部下を殺しかけた日です。丁度良く、互いに協力者が欲しかった。……まあ今はどうでもよいことだね」


 アルクゥは目を細め、とりあえずガルドについては保留にする。


「その通りです。ご自身の状況を理解しているなら、先ほどの質問に答えてください」

「これはまた随分と豪胆におなりのようで。以前の貴女からは想像もつかなかったことでしょう」

「死にたいならば止めはしません」

「師を救う機会に棒を振りたいのならそれもいいかもしれませんね」


 舌打ちを堪える。万事相手のペースで進んでいる。互いの人質はどちらも命なのにこの差だ。役者の違いが如実に現れているようだった。

 「さて」と切り出し会話の主導を握った司祭は、慎重な手つきでネリウスの肩に手をかけた。すかさず声を上げようとしたアルクゥを先んじて制する。


「この体勢は良くないでしょう。心配しなくても何もしませんよ。私はネリウス様に危害を加えに来たわけではないのですから」

「信用しろと?」

「そこまでの贅沢は言いませんが……そもそも、私は穏便・・に交渉をしに来ただけで、本音を言えば刃物を突きつけられる筋合いなどないのですけどねぇ」


 愚痴染みた言葉を黙殺すると、小さな溜息の後に再び話し始める。

 

「聞いていた通り奇妙な症状で驚きましたよ。専門ではありませんので詳しくはわかりませんが、どうも力が……精気とでも言うべきか、そういうものが抜けているような感触だ」

「王の医師なら治せるのですか」

「さあ、どうでしょうね」


 司祭は憎たらしいほど平然と言ってのける。「ただし」と付け加えたのでアルクゥは憤然に任せた衝動を胸に留めた。


「ただし、何です?」

「衰弱を止めることは確実に可能でしょう。完全に魔毒を……いや、これは呪いかな。呪いを取り払えるかは診せてみないことには」

「保障はできない、ということですか。師匠にその話は」

「もちろんしましたよ」

「……彼の答えは?」

「私の側について王都に戻られることについては、迷っておられるようでした。ですがネリウス様は治療を望んで心を揺らしていたのではないようだ」


 どういう意味かわからず怪訝な顔を作ったアルクゥだったが、不意に聞こえてきた騒々しい足音に注意を逸らされる。金属音の混じった足音は少なくとも数人。あの二人組が突破されたのか、と苦い思いで、しかし司祭から警戒を外さずに訪問者を待つ。


「ふむ、今度はちゃんと探知に引っかかりましたね。私の調子が悪いということでもなさそうだ。……で、どうやったんですか?」

「黙っていてください」


 鋭く言うと「はいはい」と苛立つが妙に素直なのが気にかかった。予想が外れたか、と冷や汗が背中を伝う。扉前を守る二人組が司祭側かと考えていたが、確たる根拠もないのだ。今こちらに近づく足音たちが司祭の仲間ならばアルクゥは追い詰められた形になる。

 碌に対抗案も浮かばない内に向こう側で扉が開く。


「震えていらっしゃるのですか」

「……敵が増える前に減らしておこうか迷っているだけです」

「敵の敵は味方、という言葉もありますが」


 何? と問い返す前に大机に積んであった本の塔が吹き飛んだ。

 咄嗟に顔を空いている腕で庇うが、分厚い本は一つも当たらず床に落ちる。そこに魔力を感じてようやく今のは魔術の仕業なのだと気付く。

 拓けた視界には、昼間に立ち去ったはずの美しい青年聖職者が佇んでいた。

 その後ろに控えるようにして三人の兵士が構えている。武器こそ抜いていないが向けられる視線は剣呑そのものだ。

 アルクゥは一度彼らを見回して溜息を吐く。自嘲気味に笑んでの「茨、ね」という呟きを青年聖職者は拾い上げて答えを寄越した。


「だからあれほど忠告申し上げましたのに。あの時頷いて下さっていればこんな真似はしませんでした」

「私を捕まえてどうするおつもりですか」

「我が主が貴女をお望みなのです。更に言うなら、その精霊に属する尊いお力が」

「……何をおっしゃっているのか分かりかねます」

「そうですか。分からないならそれでいい。今からでも間に合います。どうか素直に我らと一緒においでください。でなければ……」


 青年の、兵士の厭な視線が下にずれる。

 彼らがネリウスに危害を加える気だと知って何か切れかけたが、司祭が絶妙のタイミングで口を挟んだので勢いを失う。


「私の部下二人が扉前で立ち塞がっている筈ですが……交戦した様子はないな。そういえば貴方は調査員だったとか。建物内のどこかに転移の目印でも?」

「悪名高きサタナ司祭もその状態では形無しでございますね」

「おや、光栄です。私を知っているのですね。まあ私は貴方が誰だか存じませんが」


 どちらも笑んでいるが冷たい敵意が間に漂っている。

 「敵の敵は味方」と言った本意が分かったが、アルクゥはもちろん司祭を味方と思う気はない。

 しかし見方を変えれば司祭と青年にもその文言は当てはまる。

 そしてアルクゥが危惧した通り、青年は手のひらを返したように笑みを緩くして提案する。


「わたくしはサタナ司祭、あなたと争う気はない。その方をお連れしたいだけです。邪魔をしないなら、わたくしも干渉は致しません」

「そうですね。それが互いにとって最善でしょう」


 一瞬の暇も考える様子を見せず司祭は頷いた。

 邪魔立てはしないイコール、敵でも味方でもない。最悪の事態は免れたようだが、アルクゥは四人を一人で相手取らなければならない。

 司祭の首に沿えていた短剣を今度は青年に向けて構える。


「無駄な抵抗です。貴女は竜を殺したかもしれませんが、人に対してその強さが発揮されることはないでしょう。あの男との訓練を拝見しておりましたが、実力は精々そこいらの一般兵程度だ。……この者たちは我が領でも有数の実力者で、加減をしらない。怪我はしたくないでしょう?」


 アルクゥは生唾を飲み込む。

 ――大丈夫だ。殺せる。

 足に力を込める。視線に殺意を宿す。相手は正規の領兵と聖職者とはいえたったの四人だ。

 ――殺す。殺そう。殺せ。

 大きく息を吐き出して柄をゆっくり握り直し、強く握り込む。

 その動作を見て青年は肩を竦め、冷たい声で「捕まえろ」と兵に命じた。体躯の大きな三人は威圧するような歩みでアルクゥに迫る。

 アルクゥは傍に転がった薬瓶を手に取り、探知されないようなごく少量の魔力を込めて投げた。簡単に避けられるが、三人の頭上を横切るとき魔力劣化による破壊が起こる。瓶は破裂して破片が方々に飛んだ。

 一人が目を庇い瞼を閉じる。その脳天を薄紫の刃が貫通した。


(一人目……)


 他の二人に魔力の刃は避けられた。一瞬転がった屍を見る表情は信じられないという顔で、次の瞬間には己らと対等な敵を見るものに変わる。その警戒を厄介に思いながらアルクゥは二手目に全力の魔力を注いだ。

 大机を引っくり返し剣を抜き払った二人に向かって蹴り飛ばす。

 敵はそれぞれの反応を返した。一人は机を両断し、一人はくぐるように避けてアルクゥに踏み込んでくる。動きからして二人とも魔力保持者だ。素早く、まともな場所で対峙すればすぐにでも負けてしまうだろう。

 だがアルクゥは笑う。

 動きの制限される室内で、更にその動きを狭まらせる布石。彼らが取るべき動作は後ろへの回避だった。しかし二人とも前方へ踏み込んでしまっている。

 よって正面から伸びた、無数に連なる魔力の刃を避けることはできない。

 二人は踏み止まり回避しようとしたが、その体が血塗れになり崩れ落ちる未来は免れなかった。

 血の飛沫は一人残った青年聖職者の頭にさんざめく降り注ぐ。


「あ……あなたは……」


 何を言おうとしたのか分からない。知る前にアルクゥは床を蹴っていた。肌に乾いた痛みを感じて横に避けると、その場所に電光が走って消える。青年の魔術のようだがあまりにも脆弱なのは、彼が戦闘員ではないことを示していた。

 それでも容赦はしなかった。

 なぜなら彼は敵に他ならないからだ。

 アルクゥは最後の一歩を大きく踏み込み、短剣の切っ先を白い喉に食い込ませる。ごぽり、と青年の口から血の泡が溢れる。餌付けされる魚のように数回開閉した口元は、何の辞世も紡がずに呆気なく呼吸を止めていった。


「っはぁ……」


 アルクゥは詰めていた息を吐き出す。

 急速に冷え始めた頭で周囲を見渡す。惨状だ。


(師匠……)


 震えだす体を安心させるためにネリウスを振り返り、そこに自分の師しかいないことに気付いた――直後、首筋に小さな痛みが走る。


「死にかければ加勢しようかとも思っていたのですが、その必要はなかったですね。良い腕だ。何より躊躇いがない」


 視界の右端に鋭利な銀色が見える。

 先とは完全に逆転した形勢だ。「短剣を捨ててください」と言う声にぎこちなく従った。


「……それは何のつもりですか」

「まあ、交渉時の誠意と言ったところでしょうか」


 短剣を床に落とすと同時に首もとの凶器は引く。距離を取りながら振り返り、警戒を露にして唸った。


「交渉? 私と?」

「私から差し出す条件はネリウス様の治療。その代わり、貴女は私の部下になる」


 突飛な提言に間抜けにも口が開いた。

 混乱する頭で考えうる限りを思考し、目を細める。


「何か思い違いをしているようですね。もうすでに私は公爵家の人間ではありません。貴方が思うような利用の仕方は不可能だ」

「ご令嬢こそ思い違っておられる。私が利用したいのは貴女自身の能力です」

「たとえ……それが真実だとしても」


 祖国に仇なす人間に力を貸すことなどできない。

 グリトニル国民としてアルクゥは言い切るべきなのだが、ネリウスの存在が言葉を濁らせる。故国を取るか、師を取るか。胸を打ちのめすような葛藤の末でも答えはでない。


「……貴方の目的は?」

「私の上役のご意思に沿うことです」

「戦争を煽るくせに、教会が人民を導くとかいう下らない思想ですか?」


 思わず語気を荒くすると、司祭はきょとんとして首を傾げた。


「それは大司教の馬鹿のことですが、貴女は何を勘違いしていらっしゃるのです?」


 アルクゥもまた首を傾げる。

 司祭は聖職者だ。そしてその聖職者の頂に座するのが大司教ではないのだろうか。


「司祭の上は……」

「組織構造で見れば大司教ですね。……ああ、なるほど。貴女は根本的に間違っている」


 更に困惑する。司祭の口ぶりではまるで別に仕える人物がいるかのようだ。

 司祭はそんなアルクゥを教え諭すように言った。


「私のお仕えする方は国王です。あの方の思想は先代と寸分違わない。周辺属国への宥和、周辺国との平和路線。まあ今は失敗してますけど。教会とは真逆の立ち位置にあります」

「でも……それなら、私を追っていたのは」

「教会に捕らえられると少々不都合がありそうでしたから。あの夜、様子を見に行ったのもそうです。あの時は後手に回りました。……誘拐を阻めなかったことは貴女に詫びなければならないでしょうね」


 愁傷な言葉に流されないよう必死に考える。

 司祭は国王の派閥。対立するのが教会や他の勢力。自分が司祭に降れば自ずと教会と敵対することになり――。


「グリトニルに刃を向けることにはならないと?」

「そうなります。それどころかネリウス様、グリトニルの両方を助けることになる」

「そうやって都合の良い話をチラつかせた魔術師がいました。結局それは罠で、呪いのような主従契約を結ばせようとしていたのですが」

「……ああ、もしかしてベルティオ」


 手を打った司祭は初めて笑みを崩し、少し不快そうにした。


「そうか。あれに付き従っている者達は容姿に騙されたわけじゃなく、契約なのか。――それもいいかもしれませんね」


 そう言って司祭はアルクゥに手を差し出した。


「貴女は私が信用できない。それは私も同じことだ。いざ抱え込んで身の内から食い破られても困りますからね。ですから、契約を。私はネリウス様の治療とグリトニルを害さないことを誓いましょう。貴女は私に従うと誓ってください」

「私に……従僕になれと」

「矜持が許しませんか?」


 長い沈黙が続いた。

 しかしそれは思考する時間ではなく、残り少ない自由への猶予だった。答えは一つしかない。ネリウスを救う為だと言い聞かせる声があり、大司教への復讐の機会だと言い含む声がある。

 アルクゥは司祭に左手を差し出し、読み上げられる契約の言葉に耳を傾ける。


「――常世に神留まり坐す、偉大なる世を創りし御霊に誓い奉る。我が名はサタナキア、征服し支配する者。汝を呪い、寿ぎ、あらゆる役目、喜び、悲しみ、そしてあるべき場所を奪い与える事を果たす者。我、魔術師コルネリウスの助命に力を尽くし、グリトニル王国へ一切の害を成さず、約定が果たされた暁には従僕を解放することを此処に誓約する」

 

 司祭の手は冷たい。体温が奪われて冷たさが均されていく。


「汝、支配されし者。我サタナキアに傅き、服従し、あらゆる災禍を遠ざけ、全てを捧げる忠誠を誓いし者 尽きることなき忠を寄せる僕、汝の名を我が手に委ねよ」


 アルクゥは目を閉じて俯く。ここからは引き返せない。


「私の名はアルクゥアトル。誓いを破らない限り貴方に従います」


 魔力が渦を巻く。世界と自分に誓約が刻まれていく。現れた紋様の剣が二人の重ねた手に突き刺さった。

 痛みはない。

 目を開く。左手の甲から腕にかけて複雑な赤い紋様が広がっている。司祭も同様の紋を手に刻んでいた。


「……私に何をすることを望むのですか、司祭様・・・


 血を拭い、フードを深く被る。影の中から見上げた司祭は、薄い琥珀色の瞳でアルクゥを見返して嫌味のない微笑を浮かべた。


「――反逆者の殺害を。出来れば今日の内に」



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