第二十二話 精霊鳥
集中できない日が続いていた。
ネリウスの授業もヴァルフの訓練も身に入らず二人に心配をかける始末だ。
落ち込んだ気分すら長く続かず、仕方なく早目に床につく。浅い眠りと不明瞭な覚醒を繰り返す熟睡には遠い睡眠は、深夜になって途切れた。
前髪を掻き上げる。
悪夢を見て軽く汗ばんだ肌に夜気が冷たい。秋が近付くごとに夜は冷え込みを増していく。
衣擦れの音が鋭く耳を刺す静寂に、妙に胸がざわついた。異様に明るい窓辺に誘われ、窓を開けて夜空を見上げる。濃紺を穿つ真円の月。
「今日は、満月か……」
呟きに応えるように風が頬を撫で、頭上の大樹がざわめいた。
何かを囁き交わしている。
――何かが来る。
アルクゥは室内に顔を引っ込め、上着を羽織り、靴を履いて部屋から飛び出した。焦りと期待を感じながら三階端にある鉄製の梯子まで急ぐ。梯子を登り、頭上の古びてた戸を押し開け、屋上に登る。
――何かが来る。
頭上から落ちてくる薄い葉陰を踏み、アルクゥは大樹の半透明な葉の向こうにある月を仰いだ。
大樹は、月陽樹という。
日夜成長を続けるこの木は、昼間は濃い緑の葉を、夜に進むにつれて半透明にする。そうすることで陽光月光の両方を蓄えるのだ。眠らない大樹は驚くべき速度で成長していき、一定の高さに達するとピタリと止まる。
そうすると天辺に精霊鳥が訪れ住み着くのだ。
かつてここに住んでいた魔術師は、精霊鳥が鳴く日を待っていたという。もしその魔術師が悲願叶って精霊と出会えてたのならば、今の自分と同じ気分だったのだろうか。
アルクゥは自分の体に爪を立てた。震える体には一つの確信が下っている。
――何か来る。大きなものが。
じっと息をひそめて待ち続けた。何分か、それとも何時間か。
月が夜空を巡り傾き始めたときだった。
最初は一つ。澄んだ水に鈴を取り落したような、幽かな鈴音だった。それを皮切りにして種々の音色が控えめに鳴り出す。一つ一つは儚い。しかし互いに絡まり合い、音を強くしていく。
やがては美しくも身の毛がよだつ不協和音となった。
「何だ? 何事だ?」
扉を開く音がして、ヴァルフの声がした。振り返らず手だけで静かにするよう示すと、隣に立った気配がある。現状を問いかける視線にも応えずにアルクゥは待った。
そして不意に、世界の終末を告げるような音が止む。
世の中の全てが停止したかのように静寂が訪れ、しかしほんの一秒で崩壊した。
建物と大樹を取り囲む森が震えて吼え声をあげる。太い腕がアルクゥを庇い込んだとき、それが風の音だと気付いた。
向こう側に何かいる。
風に嬲られて辛うじて確保できた視界に、その大きな存在は一瞬だけ写った。
相手はアルクゥたちの存在など歯牙にもかけずに駆け抜けていく。
「ヴァルフ、風止んだよ。ありがとう。……師匠は?」
「あの騒ぎで起きてこねぇのか。図太い神経してやがる」
「見てくる」
心配になって師の部屋に行くと、扉の隙間から光が漏れ出ている。起きていると判じてノックをすると、すぐにネリウスが顔を出した。逆光で見えづらいながらも、アルクゥは師の顔色が優れないと気付いた。
「どうなさったのですか……?」
「ああ、アルクゥ。先程はえらく騒々しかったな」
「お加減が……」
「いいや、少し……驚いただけだ」
そうは言うものの、顔色は明らかに病的だ。手を取ると外気で冷えたアルクゥよりも冷たい。目を細めると、アルクゥの弱い魔力視覚でも魔力が流れ出しているのが見える。
「精霊鳥が鳴いたが、何か……来たか?」
その一言でアルクゥはハッと顔を上げ、肯定を飲み込んで微笑む。
「暖かい飲み物をもってきます。寝ていてください」
「まったく、頑固なヤツだ」
「師匠に似たのです。さあベッドにどうぞ」
苦笑する師匠の背中を押し遣り、横になったところを確認して踵を返す。予想通り降りて来たヴァルフに暖かな飲み物を頼んで自身は外に向かう。
「どこ行くんだ」
「分からない。師匠の体調が悪いようだから、大人しくさせていて。私は探ってくる」
「は? 探るって……おい、待てアルクゥ!」
止めようとしたヴァルフの手は宙を掴み、灰色の目は狼狽したように辺りを彷徨う。
境を越えて姿を消したアルクゥは外に飛び出し、屋根の下にいるケルピーに近付く。ケルピーは顔を上げ、四肢を曲げた。主従の絆は境すら越えて互いを認識させるのだろう。
久々の光の潜行に息を切らしたアルクゥは、一旦元の空間に戻ってケルピーに命じる。
「ネロ、西へ」
悩みに悩んで水と名付けたケルピーは弾けるように走り出す。
月陽樹も拠点も瞬く間に遠ざかる。
途中の廃墟を越えて平淡な森林を駆け抜ける間、アルクゥは走り去ったものを感じようと神経を尖らせていた。
まだ近くにいるはずだ。
東から駆けて西へ去っていった。精霊鳥をかき鳴らす存在。
だが時を追うごとにあの感覚は薄くなり、ケルピーの脚をもってしても追いつけない気配がつい途絶えたのはデネブまであと少しという道だった。相手はずっと西の方に行ってしまった。
「ネロ、止まれ。……もういい。帰ろう」
アレは一体なんだったのか。師匠に何をしたのか。師匠は心当たりがあるようだったが。何もかも分からず、嫌になってケルピーに頭を預けると、暗い道の先から艶のある声がした。
「そこにいるのはアルクゥか?」
「……光を作ります。目を傷めないようにしてください」
聞き覚えがある声に断りを入れて光球を作る。手で目を覆ったガルドが光に照らされた。ガルドは目を細めながら隔たった時間を感じさせない気安さで近付いてくる。
「久しぶりだね。魔術も随分こなれたものだ。元気だったかい?」
「それなりには。……何をしているのですか、こんなところで。しかもお一人で」
「お互い様だろう」
歩こう、とガルドが足を向けた道は拠点に続く方向だ。騎乗を降り、ケルピーに背後を警戒させながら隣に並ぶ。
「ひどい睡眠妨害だったからね。近くに住むキミたちなら尚更だったろう」
「アレは何だったのですか」
「神様が訪れたということさ。滅多にあることではないから、見に行こうと思ったのだけど鳴き止んでしまったね。それで、キミは何をしに? こんな真夜中に娘っこが出歩くものではないよ」
アルクゥは少し考え、密やかな声で尋ねた。
「ガルドさんは博識でいらっしゃいますよね」
「……急におだてられると怖いんだけど。特にキミの場合」
「精霊鳥が鳴いて、体調が悪くなるような呪いはありますか。私の眼力では確かなことは言えないのですが、魔力が勝手に流れ出しているようなのです」
ガルドは黙り込み、やがて合わせたように密かな声で問う。
「誰の症状か聞いてもいいかな」
「師匠です」
「そうか」
ガルドは立ち止まる。
「症状としては魔障。だが確かなことは分からない。調べておこう」
「お願いします」
おもむろに体を向きをデネブの方に変えたガルドは、ふと思い出したように首を傾げる。
「そういえばアルクゥ。精霊祭の準備が始まったね。良ければ祭りの日に英雄殿を招待したい」
「私は師匠の側にいます」
「言うと思った。そうすればいい」
そこで別れて、しばらく歩いてから振り返る。ケルピーが鼻を鳴らした。まだガルドは道の先に留まっているようだ。彼女なりに思うところがあるのか、それとも何かまた悪だくみを考えているのか。それでもいい。不調の原因が明らかになるなら、再び利用されても構わない。
ネリウスはアルクゥに新しい世界をくれた。
アルクゥは手の平に爪を立てる。
失うわけにはいかないのだ。




