第二十一話 厄
「聖なる白」と呼ばれる花がある。セティという名で親しまれ、根、茎、葉、花弁は総身純白、ただ中心部の鈴なりになった実の部分だけが宝玉のように青い。風に揺れると小さいながらも聖堂の鐘のような堂々たる音を鳴らす。魔物がその音を嫌うため、縁者が花輪を作り旅立つ者に送って安全を願う風習があった。
デネブの周辺にも見られるセティは、特に西門から出た街道沿いにある山に多い。白丘陵と名が付く低山は大昔に霊峰だった名残と言われ、頂上付近は他の植物が育たないほどセティで埋め尽くされている。よって魔物がひしめく山々が近くにありながら、騎士団が太鼓判を押す程に安全な山とされていた。
その山のセティが根こそぎ枯れたとなれば、有象無象の魔術師よりネリウスの力を借りたくなるのは当然だ。
アルクゥはネリウスの過去を元軍属ということしか知らない。だが訪ねてくる客の種類と態度から、ネリウスが過去少なからぬ功績を残しており、多くの尊敬の念を集める人物であることは察せられる。自身が何かを教わるごとに、底知れぬ知識を秘めているのだと感じる。
ネリウスが事にあたれば解決は容易いだろう――そう思うのに、何故落ち着かない?
ネリウスが行ってから胸が騒ぐ。
自室に戻って本を読む。魔術の練習をする。剣を振ってみる。果てにはベッドに寝転んで天井の汚れを数える。立ち上がって外を覗いてみる。何をしていても落ち着かない。
下で見上げるケルピーの横に飛び降りる。ケルピーもアルクゥに感化されて気がそぞろだ。
一人と一匹で浮き足立っていると、月陽樹を囲む草原の向こう側、デネブに通じる道から一人の老爺が歩いてきた。身軽そうな身なりで一見若者にも見えるが、髪は白く顔には皺がある。老爺は何かを探すように左右を見回しながら、段々とこちらへと近付いてくる。客人が隠れた拠点を探してよくああいった行動をするので、アルクゥは迷わず外に出て声をかけた。
「こんにちは。ネリウス師匠かヴァルフのお客様ですか?」
「こんにちは。お客様です」
好々爺めいた顔はニコニコと笑い、子供のような鸚鵡返しで答えた。
「申し訳ないのですが、二人とも出かけています。どちらもいつ帰ってくるか分からないので、日を改めて……」
帰りを促そうとして思いとどまる。
道は森林を突っ切る。生息するのは概ね小物の魔物だが、時折トロイントのような大猪が出る。もし出くわせば老爺の足腰では逃げ切れないだろう。足が悪いのか、一歩が狭い。
「お一人で来られたのですか?」
「お一人です」
「お住まいはデネブですか?」
「デネブです」
よく此処まで来れたな、と呆れながら手を貸すつもりで差し伸べる。老爺が笑顔で手を取ろうとし、厭な音と共に目の前から消えた。つと視線を先に遣ると、胸を凹ませて仰向けに引っ繰り返った老爺がいた。血の気が引く。
「ケルピー!」
フーフーと鼻息荒く尚も攻撃しようといきり立つケルピーの首に抱きつく。抑えられるとは思わなかったが、アルクゥを傷付けることを厭って大きく暴れようとはしない。
「ケルピー止めろ! この、止まらないと……!」
アルクゥを中心に周囲の気温が上がる。ポツポツと拳大の火種が中空に現れ始め、ケルピーはようやく止まった。念の為抱きついたまま「大丈夫ですか!」と叫ぶ。老爺は倒れたまま動かない。口内に苦いものが広がる。死んでしまったか――。
その矢先、「がふっ」と血を吐いて老爺の体が跳ねた。
蘇生したのか。とにかく生きている。良かった。
自分で体を起こした老爺を見て、それほど酷い怪我ではないと安堵したアルクゥは、次の瞬間戦慄した。
老爺は血を垂れ流して笑っている。
「わ、だじは、お客様でず、デネブに住んでいま、す。いま、せん」
鼻がひしゃげて歯も数本ない口で濁った言葉を発しながら、先の衝撃で折れた足にも構わず、一歩一歩踏みしめながら近付いてくる。
狂っている。
老爺はぐちゃりと大口を開けた。損傷の激しい口内から黒い吐息が溢れてくる。空気に混じらない息は吐き出されるごとに小蝿の大群が流動するように蠢き、濃淡を変化させる。
魔物だ。それも憑く種類。恐らくは大猪を動かしていたのと同種。
だが正体がわかったとしてどうする。憑いた魔物の剥がし方などしらない。聖水などの道具もない。老爺ごと焼き払うのか。でも、もし本人が生きていたら。
葛藤の末に選択したのは足止めだった。アルクゥは老爺の周りに陣を展開して簡単な封じ込めの結界を作り出す。老爺の動きが止まったことを確認してケルピーに飛び乗り腹を軽く蹴る。
「さっきはごめん。守ってくれてありがとう。――師匠の所に」
ケルピーは猛然と駆け出す。
◇◇◇
西門付近の目印に転移魔術で移動したネリウスは、待機していた騎士四人と共に白丘陵を登っていた。木々は秋に備えて色をつけ始め、野鳥は熟す前の青い果実を突いて実りの季節を待っている。
「麓の花は枯れておらぬようだな」
「はい。この付近はまだ」
パシーと名乗った若い騎士が第一発見者として同行している。頂上は酷いものですと呟く顔は痛ましい。
「十の月には精霊祭があるってのに、あれじゃ魔除けの花冠も作れない。悪戯にしちゃ度がすぎる。知ってますか、獅子の魔獣がこの近くでも目撃されたって。隊商が全滅したとか」
「聞いておる」
「セティがなくなったせいだって皆言ってます」
「否定はできんな」
魔獣は能力が高く感覚も過敏だ。セティごときの魔除けは効かないが、不愉快ではあるため群生地には寄り付かない。国中に頻出している魔獣もデネブは避けて通ると言われていたが。
「ガルドはこのことを知っておるのか?」
「この件はさる議員よりの依頼です。報酬は弾むと」
これには別の騎士が濁すように答えた。つまりガルドには話が通っているわけだ。そしてこの場の全員が、魔女が議会を動かしていることを知っているというわけではないのだろう。
しかし魔女が知る所ならなぜ出張ってこないのか。こういった調査は独壇場なだけに気にかかる。異変を優先できないほどの別件があるというなら、巻き込まれないよう注意しなければならない。あの魔女はデネブの母だ。子の為なら何の犠牲も厭わない。
麓にはちらほら見受けられたセティは、中腹を過ぎると影すらも見当たらなくなった。
騎士たちの口数は自然と減り、ついには無言となって張り詰めた空気が一行に漂う。
唐突に茂みが揺れる。パシーが剣を抜き払った。同調して肩を揺らす騎士たちをネリウスは横目に観察する。
「何だ、ウサギじゃないか」
パシーが照れながら剣を収めた瞬間、顔を覗かせていた野兎を背後から現れたブラックドッグが噛み千切った。騎士の間に動揺が走る。退治するか否かを視線でやり取りしているが、疎通がなっていない。結局ブラックドッグは兎を咥えサッと茂みの奥へと消えてしまった。
ネリウスは小さく苦笑し索敵範囲を拡大した。彼らは小さい方の愛弟子よりも戦い慣れていないようだ。守るのが年長者としての義務だ。
鈍りがちな彼らの足を急かして先を急ぐ。
やがて到った頂上はパシーの言う通り酷い状況だった。一面にあるはずの純白は無残に茶枯れ、残骸を拾い上げるとその振動にも耐え切れずポロポロと崩れ落ちる。
ネリウスは屈み、土を掬って臭いを嗅いだ。薬品臭はない。次にセティの残骸を掻き分けて手の平を地面に当てる。魔術の触手を伸ばして一通り精査を行ったが、魔術の痕跡も見つからない。
「分かりますか?」
「薬品でも魔術でもないな。これは……足跡か。随分大人数がこの辺りを歩き回ったようだが」
微かな凹凸に目を留める。パシーが勢い込んで拳を握った。
「ってことはこの足跡が犯人ですか?」
「そうとは限らぬ。妙だな。獣……魔物の足跡もある。セティが枯れたのはいつだ?」
「昨日俺が来たときにはこの状態でした」
ネリウスは首を捻り、最有力の手がかりである足跡を辿る。奇怪なことに夥しい足跡は一様に同じ方向に進み、向こう側の斜面へと続いていた。茂みを掻き分け山を下りながら追いかけるも、少し行った所にある岩肌で途切れる。だが落胆の間もなく新たな道標が現れた。
ネリウスは袖で鼻を覆い、雛のように後ろから付いて来る騎士にここで待つよう指示した。
「どういうことですか?」
「何があるか分からない。そこで待っていなさい」
「だったら尚更俺らも」
「足手纏いだ」
言葉に些少の魔力を込めて威圧すると異論は消える。これに竦むなら尚のこと、この先にある物は見ない方が幸せだろう。
なだらかに下る岩肌はある程度進むと凹み始め、大きく窪み奥に深い穴を形作っていた。洞窟のように見えるが奥は抜けているのだろう。強烈な腐臭を伴った風が吹き抜けている。
ネリウスは限界までそこに近付き指を弾いて無数の光球を作る。照らされた岩の空洞の内部には心臓に虫が這うような壮絶な不快感を催す光景が広がっていた。
「――むごいことをする」
数十の死体が、岩壁に背をもたれ、また折り重なり、転がって無造作に置き捨てられている。それらの中心には、まるで君臨するかのように巨大な肉塊があった。肉塊は脈動する心臓に似た動きをしている。血管が浮いた表皮には白い水泡がびっしりと並び、見ている間に一つがパンッと弾けた。すると血飛沫と一緒に中から黒い靄が中から飛び出し、比較的原型を留めた女の死体に吸い込まれていく。
その死体は起き上がりネリウスを見た。骨をむき出しにした足を引き摺ってゆっくりと近付こうとしている。
「なんですか、それ」
近くの岩を飛ばして死体を牽制する後ろで愕然と声を上げる者があった。パシーはネリウスの言葉に竦みはしたが、騎士の矜持を貫いてひっそりと付いて来ていたのだ。その強い意思を尊重して追い返さなかったが――仇となったか。
ネリウスは年若い騎士の心中を思い後悔する。この光景を見て心が折れない者は少ない。
「何なんだよ! 何で、こんなに人が……! 俺らがずっと探してた攫われた人たちじゃないか!」
岩に腹を貫かれた死体は何事もなかったように立ち上がり再びの接近を試みている。
ぽかりと驚いたように開いている口腔からは、黒い靄が絶えず流れ出ていた。
「アレは厄だ」
名もない悪霊や幽鬼、恨みの集合体。抵抗力のない人間や獣に張り付き生命力を吸って何とかこの世に留まる醜悪な存在。
パシーは嘔吐きながら声を絞り出す。
「厄って……あんな弱いもんが」
「確かに厄は弱い。己の体を持たぬがゆえに生き物に憑き、しかしセティを一つに負けるほど脆弱だ。しかし実体を持てば」
「そんな……どうして」
「人の仕業だ。愚かなことをする」
そう言いながらもネリウスの中には苦虫を噛んだ気分とは別に、素直に感嘆する魔術師の本質があった。
厄に肉塊という管理人を与え、吸い出した力を蓄え操作する機能を付与した。更にセティを根枯らしにして耐性も付けている。実体を付与することすら至難の業なのに、学習する高次の魔物へと作り変えた技術は驚嘆に値する。
ネリウスは努めて疼く魔術師の好奇心を押し殺し、手を払って風の術式を組む。幾つかの死体の腹を切るとパシーが悲鳴を上げた。
「な、何を!」
「儂とて本意ではない。だが確認せねばならなかった。駄目なようだな。厄が溜め込まれておる。遺族の元へと思ったが……ここで全て焼かねばならん」
裂かれた全ての腹から黒い靄が溢れている。転がった全ての死体に厄が巣食っていると考えるべきだろう。よって今から彼らは、その死を遺族に見届けられることもなく骨の髄まで焼き尽くされねばならない。
ネリウスはパシーを振り返って言い聞かせる。
「新たな被害者を生む前に、儂の独断で火葬にする。どこまで侵食しているか分からない。よって骨も残さぬつもりだ。申し訳ないが、身元の照合はできない」
パシーは視線を彷徨わせ蒼白な顔をしている。もとより返答を期待したわけではないので死体の群れに向き直る。すると掠れた声が耳に届いた。
「お願い、します。でもこの頼みは俺の、騎士団の判断です。後手に回って犠牲者を増やしてしまった。……責任は騎士団にあります。あなたが負うべきじゃない」
ネリウスは深く息を吐いて頷き、風を送るような動作で手を払う。
火が死の群れを弔い、肉塊を浄化する。全てが灰燼に帰すまで数分も掛からなかった。
延焼も焼き残しもない完璧な焼却を終えたネリウスは、不意に緩んでいた索敵を自覚して範囲を広げた。
残った騎士たちはあの場から動いていない。周囲に魔物は――。
「ああああああああ!」
断末魔が耳に届くのと、上空から悪意を携えて急降下した物体を感知したのは、ほぼ同時だった。ネリウスは己の不明を呪いながら身を翻す。あの速さでは感知していても意味はなかった。索敵云々ではない。騎士たちを側から離すべきではなかったのだ。近くにいさえすれば対処ができたものを。
目に飛び込んで来たのは巨大な赤の体躯だった。蝙蝠の翼を持つ人面の獅子。醜悪な顎に一人の騎士を挟み込んだ魔獣マンティコアは、蠍の尾を振りかざして動けない二人の騎士を刺し貫こうとしている。
間に合うか。
横合いから飛び込んできたケルピーを目に留めて咄嗟に魔術行使を止めた。
突進の衝撃でマンティコアは口から騎士を取り落とし、ケルピーに食らいつこうと大口を開けるが、そこに紫の刃が刺し込まれる。だが浅い。魔獣は血と涎を撒き散らしながら一旦空へと退避していく。
「早く逃げろ! 動け!」
ケルピーから飛び降りたのは見間違えようもなくアルクゥだ。荒い言葉遣いで固まる騎士二人を突き飛ばし、間髪入れず空を振り仰ぐ。垣間見えた瞳は獣のように鋭く、薄く光を湛え、苛烈な闘争心に満ちていた。
それから一時の間、空は熾烈な攻防の場と化した。
中空を旋回するマンティコアを、呪いを模した刃が追いかける。間断ない攻撃は狙いこそ雑だが密度が高い。マンティコアは魔力を帯びた咆哮で刃を砕き、攻めに転じる機会を窺っている。
先に痺れを切らしたのはアルクゥだった。乱暴にフードをかなぐり落としてより大きく視界を確保したのがその証左だ。
別の魔術を使う気か、刃の生成が途切れる。
マンティコアはこの機を逃さず羽を畳み、落ちるように急降下してきた。
ネリウスは愛弟子に危険が迫るのを見ても動かなかった。辺りに漏れ出す圧倒的な魔力が足を縫い止め耳元で囁いている。
見ているだけ事は終わる、と。
そして薄暮は訪れる。
黄昏に似た炎はマンティコアを音もなく消し去った。
ネリウスは立ち竦み、瞳孔に焼き付いた炎を何度も反芻する。
あれが竜殺しの炎。精霊に類する力。
以前一度だけ触れ、手酷い傷を負うことになった存在とアルクゥが重なり、憧憬と後悔に胸を押さえる。
「あ……アルクゥ、助かったよ。相変わらず、すごいなお前」
膝が震えているパシーが横を抜けて行ったことでネリウスは我に返った。
パシーに目を向けたアルクゥは一緒にネリウスも視認したようで、元に戻った金の目を思い切り見開き「こちらにいらっしゃったのですか」と駆け寄ってくる。騎士の遺体を一切顧みない辺り、死に慣れ過ぎだ。心配になる。
「探していたのです。魔物に憑かれた老人が拠点に来て、どう対処していいかわからなくて……今は魔術で足を止めていますが、早く帰らないと動き出すかも」
「そうか。一先ず帰って監視をしていなさい。儂は彼らを全員デネブに送り届けて帰る」
「分かりました。お気をつけて。パシーさんも」
来た時と同様に慌しく去っていく。その背を見送り、師匠たる自分が呆けている場合ではないと気を入れ直す。ネリウスは仲間を失くして悲嘆に暮れる騎士を励ましながら山を下った。
パシーたちと遺体をデネブに送り届けた後、住処に取って返したネリウスは、結界に押さえつけられた老爺を一旦は手遅れと判じ、ふと感じた違和に発動間際の魔術を中断する。
老爺からは血が流れているのだ。死体は血を流さない。
もしやと思い、アルクゥに結界を解除させ、直接老爺の体に触れて魔力を流し込む。
「危険です! 離れてください!」
「防壁がある。大丈夫だ」
ある程度流したとき口から溢れていた黒い靄が溶けた。液状になって地面に滴った厄はもう何の力もない汚らわしい液体に変じている。老人の顔に張り付いていた笑みも消え、苦悶の表情が現れる。
胸の傷を治療しながらアルクゥに薬を持って来るよう頼むと、脱兎の如く走っていき一分掛からず薬を手に戻ってきた。密閉されたビンの中にあっても強烈な臭いを発する緑色の液体を老爺の口に流し込んだ。弱かった心音が、今すぐには止まらない程度に脈動を強める。
「罪のない人を、殺してしまうところでした」
アルクゥは呆然と言って、気が抜けたように座り込んだ。
「だが生きておる。良い判断だった。お前のお陰でこの老人は……いや、そんな歳ではないな」
「え?」
「まだ若い。なるほど、厄は生命力を喰うからこうなるか」
アルクゥは信じられないという顔で若い老爺を眺め、痛ましい物を見たかのように目を逸らした。
後に、この唯一の生存者がいたことにより、失踪事件の顛末が明らかとなる。
厄に取り憑かれた者は最初は家に帰され、周囲への感染を広めて肉塊の元へと訪れる。そこで殆どは栄養源となり、残りは感染を広めるために山野を歩き回る役目を負った。アルクゥが前に倒した大猪もその口だ。
肉塊はセティを枯らすほどに力を蓄え、更なる進化を望んだ。そこで以前手先の魔物がやられた場所を訪れ、より大きな力を持つ人間を取り込もうとした。
生存者が前に出て魔物被害を訴えたため、騎士団が責任を問われることはなく、そして「人心への配慮」という名目で、厄が人の手で作り出された事実は公表されなかった。魔女の采配だろう。
手配すらされなかった犯人は、未だどこかでこの世全ての澱を混ぜ込んだような魔物を作り続けているのだろう。




