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精霊のシジル  作者: 染料
三章
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第十九話 初夏

 澄んだ風が草花を撫で、森へと抜けていく。

 数日前、空を覆っていたぶ厚い雨雲は、ティアマトに短い夏を残して去っていき、空に広がるのは澄み切った青だけだ。

 晴天の下、伸び切った草木を食べるケルピーの隣で、アルクゥは延々と精霊文字を書き込む。

 魔術を学ぶ者は常に精霊文字の想起を続ける。

 誰もが生まれながらに体が知る神の文字を記憶の奥底から掘り起こすのだ。

 アルクゥが思い出した文字は三十五。人によっては百を越える。数によって優劣は発生しないと言われているが、少なすぎると大味な魔術師になるらしい。

 数に差が出る原因ははっきりとは解明されていない。同じ文字を持っていても読み方は人によって異なるので、本能的な解釈の違いではないかと言われている。アルクゥは精霊文字を雨、咆哮、さざめく草木などの音で認識し、言葉として体をなさないので、定められた魔術以外で詠唱することはなかった。

 手が文字に慣れるまで書き続けて一息つく。


 ネリウスに師事して四ヶ月。


 四六時中後をついて回って、簡単な魔術はあらかた使えるほどに成長した。最初の頃はよく暴発させて草原を一部消失させたものだが、今ではそんなこともない。付きっ切りでいてくれたネリウスも安全だと判断したのか、一日にいくつか課題を与えて自学を促すことが多くなった。一人で過ごす時間がぐっと増えたアルクゥは、一抹の寂しさを覚えながら、ケルピーに寄り添って課題に取り組んでいる。

 今日の課題は、魔術の基礎図表の模写と、転移魔術で岩を移動させることの二つだが、思ったよりも早く終えてしまって暇だ。

 ミミズがのたくったような精霊文字をグリグリと書き、やがて飽きて放り出す。

 ケルピーがそんなアルクゥを見詰めて体を伏せるが、留守を任されたので拠点から離れるわけにはいかない。


 暇だな、と草の上に転がる。目を瞑る。風と太陽の匂いが優しくて心地よい。

 ネリウスに拾われてからというもの、誰かを傷付けることもなければ逃げ回る必要もない。庇護の陽だまりは時折泣きたくなるほど穏やかだ。

 反面、これでいいのかと自問することがある。

 魔術を教わり、衣食住も頼っている。いつだったか薬草を売ってお金を渡そうとすると、ネリウスは溜息を吐いてアルクゥにこう言った。魔術師にとって弟子は何にも勝る宝だ。一人前になるまで守り助力することが師の役目なので余計な気は回すな、と。表情に出さないながらも盛大に拗ねたアルクゥは、その日近くの木を数本炭化させた。

 これでは何も返せないかもしれない。

 不安だった。アルクゥが役に立っているのは今のところ食事の用意くらいだ。

 魔力を持たない人間の平均寿命は六十五程度。魔力保持者は通常陪以上の長命を誇るが、稀に普通の人間と変わらない者もいる。ネリウスがそうだ。五十六を数えたその日にヴァルフが「あと九年か」とからかうのを笑っていたが、アルクゥは気が気ではないのだ。


 鬱々と考え込んでいたアルクゥは、ふと起き上がって草も払い落とさないまま振り返る。

 建物の右側、遠くの茂みが大きく波打っている。目を凝らしていると、深緑色の巨大な猪が顔を覗かせた。デネブの騎士団が最近注意喚起をしている魔物だ。トロイントとかいう背に苔が生えた大猪だ。クエレブレの討伐と共に現れた新顔の一匹。悪食で凶暴、そして銀貨十枚。


「ケルピー、魔物だ」


 ケルピーはすまし顔で「それで?」と言わんばかりだ。賢い幻獣は建物の周囲に内部の存在を隠す防護結界が張られていると知っている。

 アルクゥは起き上がり葉っぱを払いながら大猪を観察する。

 口角から泡を垂らし、何をするでもなく辺りを彷徨っている。

 しばらくしても離れようとしない銀貨十枚に、豪勢な夕飯代を夢想したアルクゥは勇んで建物の裏手から訓練用の剣を持ってきた。

 アルクゥは魔術以外にも学んでいることがある。護身と剣術だ。

 切願して二ヶ月前に折れたヴァルフは、護身術は定石の動き方を、剣術に関しては「向いてない」と宣言した上で初撃で敵の戦闘力を奪うような立ち回りを教えてくれている。魔力による身体強化を使えば、後の筋肉痛を代償にして訓練についていくことが出来た。


 結界から出ると大猪は即座に反応した。白く濁った目でアルクゥを見て地面を強く掻く。突進の兆候に、強化の魔術を施し、手に馴染む軽さとなった剣を中段に構えた。

 構えは随分様になったとは思うが、実戦経験はない。

 ヴァルフに危ない真似はするなと釘を刺されていたが、成果を試してみたくなるのは人の性だ。


 一度、二度、そして三度。大猪は溜めた力を放出するかのごとく突進してくる。巻き上げられた土が高く舞い上がって雨のように落ちる前には目前に迫っていた。横に跳びざまに脚を薙ぐ。

 倒れ――ない。硬い感触に痺れた手を振って次に備える。

 再度の突進は脚への攻撃が効いているのか先程より遅い。余裕を持って避けると、大猪は土を抉りながら後方まで滑っていった。その後ろを追いかけて体勢を立て直している隙に背に飛び乗り、全体重をかけて後頭部に剣を突き通した。


「やった……わっ!」


 勝利を確信して気を緩めた刹那、千切るように振り落とされた。

 滂沱の涎を撒き散らしながら、大猪は死神の鎌を逃れるように暴れ始める。動きには予測がつかず、焦って魔術を使おうとして動きを止めた一刹那、鞭のような尾が横腹に直撃して息が詰まった。

 横合いから助太刀に入ったケルピーが巨体を後ろ足で蹴り上げてくれなければ、アルクゥは地面と一体になっていただろう。


「ケルピー助かった。ありがと、う?」


 茂みの奥にまで転がっていく大猪を見送って盛大な安堵の息を吐いた直後。

 大猪の巨体が打ち返されるように茂みから飛び出し、目の前を転がっていった。

 唖然としたアルクゥの視線には、茂みの先から足音を荒く出てくる兄弟子がいる。


「アルクゥちょっと来い。怒らねぇから、ほら」


 額にくっきりと青筋を立てた兄弟子は拳骨を落とす気満々で拳を握っている。アルクゥはぎこちない笑みを返して自室へと逃げ込んだ。



◇◇◇◇◇


 ヴァルフは逃げた妹弟子を追いかけず嘆息する。

 大人しく見えてあれだ。傷つく事への恐怖より敵に向かっていく気概の方が強い。訓練で初めて打ち合ったときも、刃先が頬を掠るにも無頓着で全力で間合いを詰めてきたので呆気にとられ、危うく柄で顎を砕かれるところだった。


「おいジジイ。甘やかすな。笑ってねぇで叱って来い」


 後ろの木陰に毒づくと、口元に笑みを湛えたネリウスが現れる。互いに用事の帰り、偶然道で鉢合わせてここまで帰ってきたとき、盛大な音に仲良く顔色を変えた仲だが今では機嫌が良い。

 ネリウスは万が一に備えて一帯に掛けていた魔術を解きながら、アルクゥが逃げた方向に大甘な意見を呈した。


「元気なのは良いことだろう。それに何事も経験だ。儂は剣を使えぬのでわからんが、あれは中々いい筋をしているのではないか?」

「アンタの魔術がなくて、ケルピーもいなかったらアイツ死んでたぞ」

「護りを持たせておる」

「ああ? ……抜け目ないな。心配損かよ」

「だがお前の言うことは尤もだ。後で釘を刺しておこう」

「綿で出来た釘だろうが」


 ゆっくり諭すように言う様が容易に思い浮かび、生真面目な顔で頷くアルクゥも簡単に想像できる。茶番だ。

 肩を落としたヴァルフは不毛な想像を振り払って死骸に近寄る。横たわった大猪は最近傭兵仲間の間で人気の小遣い稼ぎだ。牙を一対持って行けば換金してもらえる。咎めるべき行動とは言え手柄は手柄だ。後でアルクゥに渡しておこうと剣を抜き近づくと嫌な臭いが香ってきた。

 微かだが、腐敗臭だ。

 ヴァルフは軽く顔を顰めて近くの木から枝を拝借する。先で肉を押しても弾力がない。斬りつけられた脚の傷口に見える血は流れず固まっている。死後硬直が起こっている上に腐敗も始まっている。

 死後一日程度。死骸だけを見ていればヴァルフはそう所見する。しかしついさっきまでこの魔物は動いていたのだ。

 どういうことだとヴァルフは首を傾げる。起き上がりリビングデッドは地域によっては珍しくないが夜に限る。


「どうした?」

「見てくれ。俺じゃ分からん」


 異変を察したネリウスに場所を渡す。すっと目を細めたネリウスは数秒で魔術による精査を終え頷いた。


「初めから死んでいたのか。奇妙だな」

「なぜ動いた?」

「寄生ではないな。痕がない。死霊術師の痕跡もない。憑く魔物の仕業だろう。すでに抜けたか消えたか……だが妙だな。何かに操られた死体の動きではなかった。念の為全て焼こうか」


 ネリウスが指を鳴らすと死骸が燃え上がる。どんな芸当か赤い炎は全く延焼しないまま大猪のみを焼き尽くし骨も残らない。ふとヴァルフが建物を見上げると、窓からこちらを覗いていたアルクゥが「!」と目を瞠っていた。


「――魔物に憑く魔物?」


 その夜、一階の居間として使っている部屋で師匠の飴と兄弟子の鞭による説教の後、ネリウスが大猪の事情を話すと、アルクゥはヴァルフを睨んでいた目を取って返し、柔らかいものに変えてネリウスに向き直る。「そう言われてみれば」と心当たりがあるようだ。


「行動が変だったようにも思えます。悪食と言うのに何も食べていませんでしたし、目も濁っていました」

「角膜が濁ってたんなら少しはおかしいって分かるだろ」


 アルクゥはふと過去を見返す目になる。


「死体は出来立てしか見たことが」

「実体を持たぬ魔物だと種類の判断は難しいな。とにかく騎士団に警告はしておこう。アルクゥ。手紙を明日にでも届けてくれないか?」

「はい。わかりました」


 ヴァルフはギョッとしてネリウスを見遣る。

 竜殺しの英雄譚は本人が名乗り出ないことをいいことに、物書きや吟遊詩人、演劇などで好き勝手に使われている。内容が嘘八百なら気にも留めないのだが、それらは暗黙の了解として英雄を紺青色の髪で金目の小柄な人間、そして神秘の炎を使うと表現されている。外見の特徴と力の特異性の両方が多くの人に知られているのだ。

 竜の始祖は太古の炎から生まれた。屍竜などでもない限り、人間ごときが作った火炎で死ぬなどまず有り得ない。

 あの炎は魔術なんて生易しいものではない。

 力の根源がどこにあるか。気付く者は容易く気付く。同業の魔術師にそれとなく問うと笑みと一緒に返ってきた。「英雄殿は神に愛されているのだろう」と。


 二つ返事で頼みを引き受けたアルクゥが部屋を出てから、ヴァルフはネリウスを睨み付ける。大抵の人間が怯む威圧はそよ風ほどの効果もないようだった。


「一人で行かせるのかよ」

「あの子は自覚している。だからこの中でさえもフードを取らぬし、友人に会いに行くことも滅多にせん。他出したのはいつ以来だ? いい加減息も詰まろうよ。心配ならついて行けばいい」


 無言で肩を竦めて踵を返す。


「お前も大概甘いな」


 内心で何の異論もなく明日の予定を決めたことを看破されて言葉に窮する。振り返らず舌打ちすると、投げられると思った揶揄は飛んでこない。ついに呆けたか、と後ろを見るとネリウスは手元の紙にペンを滑らせていた。

 覗き込むと見る見るうちに紙が細かい数字で埋まっていく。


「明日出す手紙か」

「ああ」

「誰が読むんだよ。公用文字を書け」

「これは魔女婆宛てだ。問題ない。騎士団にはもう一枚ちゃんとしたものを書く」

「はあ。ガルド婆にねぇ。で、何て書いてあるんだ?」

「今日の一件にしてもきな臭いからな。まあ互いに協力はしようではないかという勧告文だ」


 脅迫状か、と妙に納得した気分で部屋を出る。

 二階に上がるとアルクゥが廊下の真ん中にある窓に手をかけて外を仰いでいた。ヴァルフに気付くと、説教の際に小突かれたことも忘れた顔で笑う。何かに気を取られていた風だ。


「何見てたんだ?」

「――何も」


 そう言い置き、去り際にもう一度何かを見てから「おやすみなさい」と踵を返す。何となく細い背中を呼び止めた。


「どうしたの?」

「いや……早く寝ろよ。おやすみ」


 怪訝そうに頷いて今度こそ自室に戻っていった。ヴァルフは壁に肩をもたれてそれを見送り外を覗いた。月陽樹の枝葉が月を受けて半透明に輝いている。綺麗だが格別珍しい光景ではない。

 ヴァルフは顔を顰める。

 時折、アルクゥは常人とは異なる世界を見ている。

 厄介な出自の妹弟子を持つにあたり、守ることに繋がればと欠片も興味がなかった聖人について調べたことがあった。記録自体の宗教色が強く言い回しの解読に苦戦したが、曰く、聖人は全ての魔物を服従させ、精霊の尊い姿を下々に顕現して見せ、戦いとなれば神の眷属たる力を示し――いずれ彼の世界へと旅立つ。

 自分の目には何事もない風景を見遣り、ヴァルフは頭を振って思考を切り替える。

 明日は訓練の日だ。訓練用の剣が一本駄目になっていたので、新しい刃引きの剣を作っておこうと武器保管庫に足を向けるのだった。


 

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