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精霊のシジル  作者: 染料
二章
19/135

第十八話 亡郷

 馬車の中を海風が通り抜けていく。

 アルクゥアトルは海の匂いを胸一杯に吸い込み、外を眺めていた。


 長距離の移動魔術は潮が流れる様とも風が吹く様とも似ていた。地脈に乗り、光の奔流に身を任せて目的地まで運ばれていくのだ。ほんの数秒の旅路だったが、方向の舵取りは力のいる作業だったのかネリウスは馬車の揺れに抵抗せず瞑目している。

 声を掛けようとしたアルクゥは思い留まり、再び窓から風景を眺める。故国だと言うのに全く見たことのない景観だ。思えば地理の知識は知っていても実際に「知っている」と胸を張れるのはエルザの街と時折避暑に訪れた北方の別邸ぐらいだ。逃げ回ったティアマトの方が余程知っている。それが空しい。


 ――私は何も知らない守られた子供だった。


 逃走を経て帰還にいたり、今更ながら深くそう感じる。驚くほど無知だった。今となっては少し考えるだけで、特定の知識から遠ざけられていたのだと容易く分かる。


 馬車が一際大きく揺れて停止した。

 エルザの門前に到着したようだ。何時の間にか目を開いていたネリウスと視線が合う。何も言わない静かな眼差しを寄越して先に降りてしまった。アルクゥはフードを落ち着きなく被り直し、その後ろに続いて故郷の地を踏んだ。


 エルザは美しかった。


 デネブもキュールも、ティアマトの大都市は整備されていて綺麗だったがこのエルザには及ばない。大門をくぐると赤茶色と白の街並みが出迎える。古くから続く煉瓦と漆喰の景観はエルザの歴史の長さを感じさせる。一般住居区を抜けると広場があり、鳥雀の戯れる様を表した噴水がある。


 ネリウスは人が流れていく方向に足を進めて行った。

 緩やかな足取りはアルクゥに合わせているのだろうが、急に心細くなって逡巡し、服の裾を軽く握る。一人は心細い。老魔術師は振り返ることなく頼ることを受け容れてくれたようだった。


 本来なら逆であるべきだ。

 唇を噛む。

 本来ならアルクゥが先に立って屋敷に案内し、助力を感謝して謝礼する。それこそが正しい行動だろう。しかし、自信が持てない。

 行きかう人々の中には多く黒色が見受けられる。不吉を現す災禍の色だ。一つの予感が心臓を波打たせ血と共に体の端々まで緊張を運んでいく。


 ネリウスは淀みなく先導していき、港から東の丘陵まで一直線に伸びる大通りまで来た。そこで不意に足を止める。ネリウスがさり気無く見た先には古風な建物の中では比較的新しい建築物だ。

 既存の建築様式に則ったこの大きな建物は、公爵家の出資で立てられた商館だ。

 何気なく上を見たアルクゥは立ち枯れた木のように息を止める。

 建物の天辺には公爵の所有物だと言う証であり、国の認可がある公式な会場だという証に領旗が掲げられている。常ならば天高くはためいている高貴な旗は、今は旗棒の中間という半端な位置に掲げられていた。


 ――半旗。


 弾かれるように往来を見遣る。黒を纏い自主的に喪に服す人々。次いで、東の丘陵に位置する公爵邸を振り仰ぎ、数歩先で悲痛な表情をするネリウスを見る。無意識の内に服の裾から離していた手を眺めて、力の限り握った。まだそう・・だと決まったわけでは。


「ネリウス様。あちらです」


 上ずった不自然な声が出た。ネリウスを追い越して進む。

 ついてきているのか確認もせず足は速度を増す。遂には小走りになり、揺れ動く風景の中をひたすら進んだ。そこからは結構な距離があったものの、気が付けば屋敷を守る大門の眼前まで迫っていた。息を切らしながら上を見る。ここから更に緩やかな坂を上ると正門に至り、その先が生家に続く。


 大門の番をしている衛士は五人いたが、誰もが不審そうな眼差しでアルクゥを見る。目配せをし合い慎重に近付いて来る一人は見知った顔だった。


「あの……」

「何をしている。ここは公爵様の屋敷だ。お前のような者の来るところではない。即刻立ち去れ」

「も、申し訳ありません。ですが、お尋ねしたいことが」


 当然相手にはフードで半分顔を隠したアルクゥが分からない。屋敷の者から掛けられるぞんざいな言葉と振る舞いに萎縮し、威厳も矜持もない無力な震え声しか出せない。強固な態度を崩さない衛士に消え入るような質問を投げかけた。


「半旗を掲げておられます。誰が……お亡くなりになったのですか?」


 すると不審顔が少し翳りを帯びた。


「公爵様のご令嬢だ。魔物に襲われてお亡くなりになられた。お優しい方だった。……おい、どうした?」


 よろめく様に一歩下がる。受けた衝撃を千切るように鋭く踵を返し、困惑した衛士を置き去りにして来た道を戻った。


(こんな筈はない。いや分かっていた。心配してくれているのだと。違う! 諦められているのは知っていた。私は――)


 額に浮いた汗を払い、気付けば走り出していた。息が続かなくなるまで走る。走る。目指すのは港近くに構えられた父の使う仕事用の別邸だ。その付近まで走り抜いた。道の中央で膝に手を突く。通行人の冷たい目線が氷のように肌を撫でて行った。


「私は……私は!」


 行き場のない怒りにも似た感情のままに叫び、ふと体の芯が抜けたような虚無が訪れる。


「とうの昔に、死んでしまっていたのですね」


 公爵家にとって、父と母にとって、エルザの街にとって、既に過去の者となっていたのだ。道理で何の音沙汰もない筈だ。あの日、攫われた時点で自分は死者となっていた。それが父の判断だ。施政者として第一に考えるべきは領であり国である。簡単な話だ。敵国に攫われた哀れな公女は戦争の発端になりかねない。回避すべく魔物に殺されたとしたのだろう。


「正しい判断であることに、疑いはないのです。だってお父様がなさったことですから」


 そうやって口に出さないと疑いが肺腑から汚濁のように漏れ出してきそうになる。唇を噛んで心身の慟哭が過ぎ去るのを待った。膝から手を離して背筋を正すと、後ろから威厳と年嵩を感じさせる声が聞こえた。


「アル。いや……アルクゥ。これからどうするのだ」


 追って来てくれたネリウスの言葉にアルクゥは振り返らず答える。


「お父様に会いに行きます。知ったことを話さなければなりません」


 一拍の明らかな間の後、ネリウスは静かに提案する。


「儂が面会を申し出よう。魔術師であることを示せば申請は通るだろう」


 そうすれば確実に会える、と。しかしアルクゥは首を横に振った。


「私は死んでいるのです。ですから誰にも悟られず、一人でお父様と話さねばなりません。貴方の付き人という体を取ることは許されない」

「ではどうするつもりだ」

「忍び込みます。見つかり、偽物とされればその場で切り捨てられることもあるでしょう。ですから今この場でお礼を。ここまで……ありがとうございました。全てに感謝いたします」


 深い溜息が落ちる。


「……無謀だ。アルクゥ、落ち着きなさい。そんなことでは話もままならないだろう」


 アルクゥは血の気のない冷たい手の平を胸に当てネリウスを振り返る。壮健な魔術師は痛ましさを滲ませた瞳で再度アルクゥを引き止める言葉を紡ぐも、心に届けども行動を制するには至らない。


「無謀ではありません。私の姿は誰の目にも映らない」


 いかにも死人に相応しい能力ではないかとネリウスに構わず一歩進み、己が不可視の者となる光の世界へ踏み込む。美しい重苦の世界はいつだってアルクゥを受け入れる。

 ネリウスは忽然と消え失せたアルクゥを探すように視線を彷徨わせる。見付からないと分かると「ここで待つ。必ず戻ってくるように」と宙に向けて大声を発する。

 アルクゥは唇を噛んで一礼し、走り出した。

 高い塀に囲まれた建物へ――自分を殺した父親の許へ。


 門番の間を抜け、堂々と屋内に入り、幼い頃一度だけ連れてきてもらった時の記憶を辿り、最上階中央にある書斎に急ぐ。重厚な扉の両隣には護衛が控えている。廊下の角にあった花瓶を派手に倒して注意を引き、素早くそして静かに書斎へ身を滑り込ませた。


 懐かしく、愛おしい父親の姿がそこにはあった。


 大きな机に山ほどの書類を詰み、集中して手を動かしている。精力的に仕事をこなす顔は凛々しく誰も彼もを惹きつける輝きを持っている。この世界において纏う光の粒子は少ないが、それでも力強い姿だった。


「――お父様」


 姿を現して数秒息を整え、声を掛ける。

 ケリュードランはピタリと手を止める。しかし顔は上げない。重ねて呼び声を掛ける。


「ケリーお父様」


 するとゆっくりと顔が上がった。鮮やかな髪と同じ黒い瞳がアルクゥを映す。その表情が一瞬喜色に満ちたと思えたのは、ただの希望だろうか。娘の存在を認めたケリーは前髪をぐしゃりと握り、信じられないと掠れた声で呟く。


「アルクゥか……?」

「ただいま帰りました、お父様」

「本物、か?」

「お母様と同じ方法で護衛の目を掻い潜りました。この言葉は証拠になるでしょうか」


 父はしばらく椅子から腰を浮かせたままだったが、やがて座り額に手を当てた。


「そうか……良く、帰ったな」


 そして、溜息のように言った。

 ――ああ、この人はやはり喜んではくれないのか。

 ものが詰まったように痛くなる喉元を片手で掻き毟り、アルクゥは涙を飲み込んで責務を果たす。


「お母様の誘拐を画策したのはティアマトの大司教だそうです。実行犯の一人はベルティオという赤銅色の髪と碧眼を持つ美しい女性の魔術師でした」


 ハッとした父はたちまち表情を引き締め領主の顔になった。


「教会への集権を企み、聖人というシンボルを欲したというのが理由だとか。情勢を見る限りティアマト内に戦争推進派がいるようですが、大司教がそうなのかは分かりません。ティアマトの住民に接した限りでは、開戦への気運が高まっているとは言い難い。世論は戦を忌避する方向に動いているかと思われます」


 そこで一区切り入れて顔色を窺う。情報を吟味するように一点を見詰めている。


「少なくともギルタブリル王は戦争を望んでいないようです。前王の路線に沿って国を動かすつもりだと言うことですから。以上が私の得た情報です。……お役に立てましたでしょうか」

「有用な情報だ。ご苦労だった」

「勿論、国からもエルザからも密偵が放たれているのでしょう。知っておられることもあったと思います」

「だが既知の情報も有り難い」


 その答えに嘆息する。即ちティアマトの国土に密偵はいるということだ。アルクゥは唇を震わせ、眉を下げて斜め下を向いた。


「これは……下らない恨み言と、聞き流してください。……密偵を彼の国に放っておられるのに、私の所在を探しては下さらなかったのですね」


 返事はなかった。横目で窺うと何の反応もない。指を組んで銅像のように固まっている父親をアルクゥは正面から睨み付ける。


「もし違うのであれば、これもまた聞き流してくださって構いません。たった一つだけ。質問があります」


 決定的な破綻をもたらす問いだと分かっていながらも。真実を知る選択肢を選ばなければならない。攫われる前のアルクゥアトルはとうに死んでいる。ここにいるのはその残滓であり亡霊だ。胡乱な存在だからこそ、聞いて明確にする必要があった。


「私は、貴方の子では、ない?」


 ケリュードランの手先が激しく痙攣した。是非の判別には充分な反応だった。だがアルクゥは一縷の望みに縋って続ける。


「もちろん、お母様の不貞ではないでしょう。何せ相手は……精霊だ。意思を持った力の塊。実体はなく性別もない。けれど時々人を愛す。体を交わすのではなく心を交わして子を成す。書物にはそう書かれてありました」


 慎重に、蜘蛛の糸を手繰るように話す。


「貴方はあの時、庭園から消えたお母様を探し出したことで、気づいてしまった。何者も感知できない世界は、気脈の世界とでも言いましょうか。今触れている空間と薄壁一枚隔てた向こう側にある、手を伸ばせば触れられるけれど、常人に入り込むことも見ることも叶わない世界。よって私には人ならざる者の命が混じっているのだと、貴方は考えた」


 返事はない。


「でも、母の力を受け継いだだけということは、ないのでしょうか? 精霊と人の子など神話に語られるようなお伽噺です。私がそうであるという根拠はどこにもない。お父様、私は貴方の娘です!」


 数十秒とも数十分とも感じられる奇妙な時間が過ぎた。

 その先でケリュードランは機械的に口を動かす。その返答は酷く的外れなものだった。


「お前の言う通り、わが娘アルクゥアトルは死んだ。他の街に屋敷と使用人を用意する。そこで暮らしてもらえないか」

「……私はっ」


 腹の中で煮えていたものが爆発した。礼を失することも顧みず怒鳴り散らす。


「私は! そんなことを聞きたいのではない! 貴方が私という者を殺して死者に仕立て上げたことについては何も責めてはいないのです! 領主として国に、民に殉ずる者として当然の対応だった! 私が知りたいのは、貴方が私を疎んじた理由だ! 答えてください、貴方にとって私の存在は是か否か!」


 慟哭の後に訪れた耳が痛くなるような沈黙。

 そこに激しいノック音が割って入る。護衛が怒声を聞きつけたのだ。公爵を護ろうと突入してこようとする音がする。それを当のケリュードランが止めた。


「誰も入って来るな! アルクゥ。お前は、あちらで何を知った」


 静かな問いに挑むように強く返す。


「私が無知だったことの全てです」

「それは知りたいと欲して知ったことなのか」

「私はお父様を愛しております」


 だから見捨てないでくれ、と。だから愛してくれ、と。言葉に混じった懇願は赤の他人には届かなかった。


「――俺も娘を愛していたかった」


 頭を抱える父親であった者にアルクゥは顔を歪め、そして一切の力を抜いた。


「……お母様はお元気ですか」

「変わらない」

「それを聞いて安心いたしました。きっと私が間違って攫われた意味はそこにあるのでしょう。ケリュードラン様」


 真名を呼ぶと数分の精神的疲労に落ちくぼんだ眼窩がこちらを見る。光を宿さない黒の瞳は見ていて痛々しくもあった。もう苦しまなくていいのだとアルクゥは笑って見せる。


「これより私は、貴方の姓を名乗ることはありません。以降、私の存在が貴方を煩わせることはないでしょう」

「アルクゥ」

「さようなら。お元気で。……お母様を、よろしくお願いします」


 深く一礼し、踵を返して姿を晦ます。決して振り返らずに一気に屋外に出た。

 ネリウスは宣言通り待っていた。険しい顔をしている。何も言わずに通り過ぎてしまおうと目の前を横切ると、眉間の皺を深くして不審げに手を彷徨わせた。


 ――見えて、いるのか。


 いや違う。ただの直感だろう。自分を探す指先は宛もなく宙を掻いている。

 なのにどうしようもなく泣きたくなった。

 立ち止まる手は引き寄せられるようにアルクゥの頭に触れた。感触を確かめるようにぐしゃぐしゃと髪を掻きまわす。


「アル? アルクゥ?」


 姿を現して大きく呼吸を繰り返す。

 ネリウスは苦しげなアルクゥの背中を擦り、心配そうに覗き込む。父性を感じさせる動作が今は胸に辛い。

 呼吸が落ち着いた後、ネリウスは幼子を安心させるように言った。


「今までよく頑張った」


 アルクゥは両手で目元を覆う。手の平を押し付けて滲み出る滴を遮断した。


「無理をしなくていい」

「……泣いて良いことがあるのは……周りに優しい人たちがいるときだけです。もう私は、ずっと一人でしょう。疲れるような真似はいたしません」

「よくよく考えたのだが、お前を弟子に迎えたい」


 突然の申し出に数度瞬き、笑みを作ろうとして泣き笑いの顔になる。


「もう充分な哀れみは頂きました。もう良いのです、ネリウス様」

「魔術師は知識を伝えることを喜びとしているのだ。ヴァルフに教えられることはもう教えきってしまった。研究しかすることもなく、手透きで困っておった。まあ、ヴァルフが兄弟子というのは心外だろうが、アレも中々できた人間だ」


 鳥の巣のようになったアルクゥの髪を更に撫でて酷い有様にしながら言う。


「恩人の頼みとして、聞き入れてはくれないだろうか?」

「……私では役者不足でございましょう」

「まあ、そう容易く儂を越えられても困るからな」


 おどけた言葉に微笑むことができた。同時に涙がこぼれる。


「……お師匠様と、お呼びしなければなりませんね。私は、アルクゥアトルと申します」


 ネリウスは困ったように首を傾げる。


「そう畏まらなくても良いのだが……儂はコルネリウスだ。これから、よろしく頼む」


 意地が決壊した。泣き崩れるアルクゥが落ち着くまで、ネリウスはあやすような慣れない不器用な手付きでずっと背中を擦ってくれていた。




 二章終了です。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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