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精霊のシジル  作者: 染料
二章
18/135

第十七話 真実の一端

 溶けて固まり原型を留めていない北門。

 周囲は中央区に比べてあまりにも閑散としており、苔むした廃墟に佇むような人のいない穏やかさが漂う。人と血に酔い始めていたアルクゥアトルは鎮まっていく気分に安堵した。


「飛ぶぞ。しっかり捕まってろ」


 ヴァルフはそう言ってアルクゥの肩に手を置き目を閉じる。やがて足元に陣が現われ一瞬で身体に文字を刻み、二人の姿は掻き消えた。

 引き込まれる感覚と弾き出される感覚がほぼ同時に起こった。足裏に感じる地面の硬さが変化する。反射的に閉じていた目をゆっくり開けると、蔦に覆われた建物が数軒虚ろな様子で佇んでいる。


「移動魔術……?」

「そうだ。ここは北門から出て東にある森林地帯の端だな」


 ヴァルフは歩き出す。慌てて追いかけるまでもなく、歩調を合わせてくれた。


「物好きな魔術師たちが研究のために作ったらしい。が、今は見ての通りだな。一人減り、二人減り、やがて全員が死ぬかデネブに移り住むかで管理する者は消えた。見てくれは苔や蔦で酷いもんだが、中は魔術が生きているから綺麗なもんだぞ。住もうと思えば住める」


 緑色をした空間をしばらく歩くと唐突に開けた場所に出た。デネブの中央広場よりも大きく、背の低い雑草が思い思いに生えている。アルクゥは立ち止まり驚嘆の息を吐いた。視線の先は中央、天衝く巨木に向けられている。

 ヴァルフは慣れているのか無感動に進み、ふと振り返って立ち止まるアルクゥの腕を引いた。


「はぐれるぞ」


 見晴らしのいい場所だ。一体どう逆立ちすればはぐれるのか首を傾げていると、前を行くヴァルフが消えた。手だけがアルクゥの腕に残っている。生首ならぬ生手首に驚いて振り払うとその手すら消えた。


「はぐれた……」

「バカかアンタは」


 一人ぽつんとしてある種の感動を覚えているとヴァルフが姿を見せてアルクゥを引き寄せる。透明な布が肌を撫でた違和感の後、今まで何もなかった巨木の根元に一軒の建物が現れた。先程見たものと同じ様式の建築物だが状態は雲泥の差だ。


「治癒に移動魔術、盗み聞きに隠蔽。魔術師とは何でもありなのですね」

「隠蔽じゃなくて結界。外から見えないし、誰かが入ってきたら分かる。あの建物が俺と師匠の拠点だ」


 アルクゥは笑みを引っ込めた。間近で魔術を見て浮ついていた気分を引き締める。

 ヴァルフの後に続いて両開きの扉から建物内に入る。外見は武骨な四角形の集合体という風だったが、中はそこらにある建物と変わらない。壁には所々に絵が飾られ、窓辺には花瓶に花が活けてある。魔術師の建物というより商会の使う会議場に似ていると思った。時折、妙な形の魔方陣が書かれいることを覗けば取り立てて妙なところはなかった。


 長い廊下を抜けた先に両開きの扉があった。ヴァルフは「工房だ」と短く説明し、ノックをして返事を待たずに扉を開いた。

 雑然とした空間だった。

 随所にうず高く積まれた書物の塔があり、広い台の上には薬草らしき残骸が散らばり、壁際には見たこともない道具がかけられている。見た目は埃臭さを連想させるが空気は澱んでいない。室内に三つある窓から森の清涼な風が流れ込んでいる。

 その風に乗って新鮮な果実の匂いがした。

 ネリウスはアルクゥたちに背を向け紅茶を入れているようだ。

 慎重だがどこか不器用な手付きで「よく来たな」と迎える声も気がそぞろだ。ようやく淹れ終ってこちらを向いた顔は一仕事終えた表情だったが、アルクゥの上着を汚す渇いた血痕を見て瞬時に険しい顔をする。


「どうしたのだその血は」

「お久しぶりですネリウス様。この汚れは……」

「後で俺が話す。あれ、俺の分は?」

「お前は客分ではない。自分で淹れろ。さて、アル。座りなさい」


 姿勢を正して勧められた椅子に腰を下ろす。ネリウスは「そんなに緊張しなくてもいい」と苦笑した。


「大変な時に足労をかけてすまないな。伝えておきたいことがあったのだ。証拠もなく予想の範疇は出ないのだが、聞いてくれるか?」

「……お聞かせ願います」


 自分に伝えたいこととは。逆に自分が問いを発する側のつもりで来たので予想がつかない。アルクゥは首を傾げながらも慎重に頷いた。

 老魔術師は決心をつけるように息を吐く。


「お前の母君を狙い、お前を攫った者の名はバルトロマ。この国の大司教、教会のトップだ」


 理解するまで数秒を要した。この場で加害者を知ることになると誰が思うだろうか。頭の中に犯人の名が染み渡って記憶した後、腰のバッグに入れた短剣が意思を持つように疼いた気がする。


「どうしてご存じなのですか?」

「国仕えだった伝手でな。情報の端切れは昔馴染みから流れてくる。市井の噂も馬鹿にできん。それらの嘘と思われる部分を取り除いて総合した結果だ」

「それにしては随分確信がおありのようですが」

「奴は昔から危ういところがあった」

「知り合いなのですか?」

「互いに顔は知っているが、言葉を交わしたことはない」


 ネリウスは膝の上で指を組み、一点を見詰めながら語り始める。大嵐の心情を察してかあえてアルクゥを見ない。


 始まりは現国王ギルタブリルの即位後、彼が先代の諸々を丸写しした政治方針を示したことだ。

 富国を第一とし自らは他国を侵さず有事にのみ先制的自衛に徹する。よって軍の予算を削り、教会権力の力を削いだ。

 先代は特に金臭い聖職者を疎んじていたようだ。

 国を乱す癌として殊更に教会の動きを戒めた。元々大司教らには政治に携わる権利はない。それは百年前の神権政治廃止により定められている。彼らが干渉できていたのはひとえに“精霊に仕える者”を蔑ろに出来ない周囲の気後れだ。聖職者の政治介入を許す不文律。先代はそれを排した。


「教会は跡継ぎ争いにおいて新王の後ろ盾を果たした。王が即位すれば即ち、教会もまた強力な後ろ盾を得ることになる筈だった。だが蓋を開けてみれば前王と変わらん。時勢を読めぬ対外姿勢の甘さを批判する軍部に便乗して教会も王を見限った。王は見限られる程度の能力しか持っていなかった」


 即位から一月待たず、権力は分散した。


「グリトニルの王が好戦的だったのなら、ティアマトはとうに滅びていたかもしれん。軍部は擁している聖人を祭り上げて王に反抗的だ。大司教らの教会は信仰狂いの地方領主に抗議させ聖職者の地位を引き上げおる」

「グリトニルが攻め込まなくとも瓦解しそうな図ですね」

「王の血脈に対する畏怖と前王からの優秀な家臣は一応残っておる。しかしバランスが崩れるのは時間の問題だ」


 ネリウスの黒い目がようやくアルクゥに向く。


「この国の聖職者は怖ろしく矜持が高い。理由はわかるだろうか?」


 アルクゥは教師が投げかけるような質問の仕方に少し笑った。笑えた自分に驚く。案外余裕はあるらしい。


「信仰が深く根付いているこの国で、精霊に仕えていると言う特権意識は軽いものではないでしょう」

「そうだ。そしてティアマトの聖職者は魔術師であることが第一条件にある。魔力を持つ人間の特性から総じて寿命が長い者が多い。大司教及び司教らの教会指導者は、己らが最も重んじられていた百年前を知っている」

「それは……それは権力への妄執だ。愚かとしか言いようがない」

「奴らは自分たちこそが精霊に代わり人民を導くと信じておる。よって今の状態は不健全・・・なのだ。よって改革を望み、そのシンボルとして精霊に愛されし印を持つ人間を欲した」


 話は繋がった。しかし腑に落ちない。


「ですが、何もお母様を攫う必要など……」

「現在確認されている印を持つ者はお前の母君を含めてたったの五人。所在が知れておるのは母君と軍部の将軍の二人だ」

「ですが、だとしても大司教……様は、戦争をお望みなのですか? 母が攫われていたら開戦していた」


 母が攫われたら父は激怒しただろう。そして取り返すために王に助力を願った筈だ。

 ――父の中で私と母の価値は天と地との差がある。

 そう考えると胸が深く痛む。


「儂もそこが分からぬ。大司教がいくら愚かでも、全面戦争になって易々勝てると思う程馬鹿ではないだろう。グリトニルとは小競り合いで済ますつもりだったのか、それとも何か切り札があったのか……そこまでは推測では知れない範囲だ。すまんな」

「いえ……理由が分かっただけで充分です。胸の内にあった疑問が消えました」


 その疑問があった部分には憎しみが生まれ出でた。アルクゥは目を伏せ両手を膝の上で握りしめる。大司教――聖職者。頭には自然とサタナの端正だが非常に腹の立つ顔が浮かぶ。気分を鎮める為に紅茶を一口飲んで闘争心を抑えた。


「あー、それで?」


 会話に区切くのを待っていたのかヴァルフが口を開いた。自分で注いだ紅茶を不味そうに飲み込み渋い顔をする。


「まっず……それで、重要なのはアルクゥがどうするかってことだ。師匠もデネブを頼った方が良いと思うよな?」


 ネリウスは小首を傾げて腕を組む。


「保護を願えば確実に、安全に家に帰れる。その際には極秘にデネブとエルザに友好関係が築かれる。常時ならば互いに利をもたらす良い関係となるだろうが……今は国同士が敵だ。繋がりが露見すれば何かしらに利用される可能性がある。それを念頭に置いて考えねばばなるまい」

「万が一のことだろうが。王都嫌いの議会が情報を洩らすわけがないだろ」

「ヴァルフ。議会がデネブの者だけで構成されていると思うのか?」

「あのババアが密偵なんぞ許すわけが……」


 ヴァルフはネリウスの顔を見て顔を眉間に皺を刻んだ。


「いるのか。どういうことだよ」

「ガルドは抜け目のない女だ。お前が思っているより狡猾で残忍な面を持っている。利用できるものは何でも利用するぞ」


 それを聞いてアルクゥの答えは固まった。元よりあてにはしていない。


「でしたら、デネブを頼ることはしません」

「けどなアルクゥ。アンタ一人じゃいつ帰れるか分からないだろ」

「危険の一滴でも持ち帰りたくはありません。私の平穏は一瞬で崩れました。父と母に同じ思いはさせたくない」

「親だぞ。立場上おおっぴらに動けなくても、どんな形でもアンタに帰ってきてほしいと願ってるはずだ」

「本当にそうでしょうか?」


 思わず漏れ出た言葉は父親に対して抱いていた長年の疑念が発露したものだった。ヴァルフはさっと目を鋭くする。


「……何がだ?」

「いえ、何も」


 アルクゥは真っ向から視線を返す。睨み合う。


「良いのかよ。帰るチャンスだぞ」

「今までと同じです。見付かれば逃げて、必要があれば退ける。何も変わりません」

「バカだろアンタ」

「バカと言う方がバカだとリリさんが言ってました」

「子供かよ」


 視界の端でネリウスは立ち上がる。ヴァルフとのやり取りを呆れられたのかと身を縮めるが、表情を見上げる限りそのような様子はない。話を切り上げるのかとアルクゥも腰を上げ礼を述べる。すると大きな手が頭に乗った。暖かな手の平だった。


「儂がお前をグリトニル送ろう。それで良いか?」


 アルクゥは目を真円にし、唇を震わせて、閉じる。お願いしますと答えたかったが、都合の良い聞き間違いかと思い直したのだ。ただ瞬きを繰り返す機械のようになったアルクゥを横目にヴァルフが椅子を飛ばして立ち上がる。


「できるのか?」

「エルザから少し南下した所に小さな集落があってな。そこに移動魔術の目印アンカーが残っている筈だ。一両日準備に充てれば飛べる。アル、どうする?」


 ヴァルフに頭を軽く叩かれようやく我に返る。


「か……帰して、下さるのですか?」

「ああ」

「本当に?」

「約束しよう。無事に送り届けると」


 力強い言葉を聞いて――膝から力が抜け床に座り込む。

 降って湧いた幸運。僥倖。天から救いの手が差し伸べられた。やっと帰れると快哉を叫びたいのか、今までの労苦が報われたと涙したいのかよく分からない。令嬢が出すようなか細い声で「よろしくお願い致します」と呟くのが精一杯だった。


「準備の間は空き部屋に泊まると良い。ヴァルフ、案内してやりなさい」

「あー……担ぐか?」

「歩けます」


 ふらふらとよろめきながら、先導するヴァルフの背についていく。

 意味もなく笑いだしたくなるような、攫われてから感じていなかった幸せが胸の中に満ちていた。

 ――ようやくだ。ようやく帰れる。

 もう牙を剥く必要がなくなる。再び守られた幸福な生活が戻ってくる。

 目先に迫った帰路を追いかけるように急ぎ足でヴァルフを追いかけていると、ふと彼の足取りが鈍いことに気付いた。

 隣に並んでみると表情が硬い。理由を考えて思い至った時、心が萎んでいくような心地がした。


「もしかして、移動魔術とは負担が掛かるのですか?」

「……へ? 何が?」

「ネリウス様が送ってくださると提案してから、ヴァルフさんは沈んでいるように見えます」


 ヴァルフは目を左右に泳がせて頭に手をやり「いや」と再び前を向く。


「ちょっとした考え事だ。移動魔術に負担なんかねぇよ。ちゃんと準備もするからな。心配すんな」

「でも」

「良かったなアルクゥ」


 帰れるぞ、と笑う顔はぎこちなく見えたが、付き合いが浅いのでよく分からない。

 案内された部屋は広く、殺伐としていた。ベッドと本棚が二つさびしく置かれているだけの部屋だ。正に空き部屋と言う風情だったが本棚は重たく詰まっている。視線に気付いたヴァルフはベッドの脇に設置されたウル石の調子を確認しながら言う。


「好きに読んで良いぞ。ほとんどが魔術関連だから意味が分からない箇所もあるだろうけど……」


 自分の言葉を確認するように本棚を見て、自然な動きで一冊を抜き取った。


「それは何ですか?」

「探してた本だ。それより、疲れただろ。まだ病み上がりなんだから寝ておけ。あ、血塗れの上着は脱いどけよ。後で食事を持ってくる」


 心なしか早口に言ってヴァルフは退出していった。

 眠れと言われても、とアルクゥは室内を歩き回る。確かに疲れているが興奮で休むどころではない。十分ほど徘徊して流石にこれは拙いと思い本棚へ向かう。読書でもすれば頭も休まってくれるだろう。

 古びた背表紙の羅列を眺めるがどれも意味不明なタイトルばかりだ。腕を組んで呻って一番下の段に嵌っていた本を選んだ。ティアマトの歴史、という簡素だが要点を得た題名だ。

 書き出しにはこうある。


 ――地の精霊、偉大なる獅子霊ティアマトは名もなき人を愛し、その間に生まれ出でた子に大陸を統べる権を与えた。精霊と人の子。人を越えた初代の王エンキ。現在まで脈々と受け継がれる精霊の血筋は――。




◆◆◆



 工房に引き返すヴァルフの足取りは重かった。

 気持ちが沈んでいる。物悲しい。女々しい気分とはこのようなものなのだろう。気弱とは無縁の見た目と性格だと自負しているが、如何せん今回のような場合はどうしようもなく胸が痛くなる。

 工房では眉間に深く皺を刻んだネリウスが棚を漁っていた。術式を地面に書きこむ魔力を込めた石英を探しているのだろう。余計老けるぞと声をかけると余計なお世話だと不機嫌な言葉が返ってくる。

 ヴァルフはしばしその様子を眺め、椅子に腰を下ろして呟いた。


「気が進まないなら送るなんて言うなよ」


 返答は大きな溜息だった。老けたな、とヴァルフは思う。その分だけ丸くなったのかネリウスは他人を深く気に掛けるようになった。かく言う自分もお節介気質を受け継いでいるので文句は言えないが。

 ネリウスは石英を片手にヴァルフに向き直る。


「これ以上の労苦は不憫だ」


 同情が一言の元に表されている。

 ヴァルフは誰に対してか、湧き上がった苛立ちを本にぶつけた。乱暴に投げると漫ろな声が諌める。


「読みもしない本を持ってくるな。ただでさえ山積みなのだ。儂を圧死させる気か」

「題名は精霊の恩寵。精霊と人との関係について書かれている」


 ネリウスは本を横目で見遣ってそれ以上は何も言わなかった。

 しばらく二人の間に無言が続く。

 数分後、やや機嫌を回復させたヴァルフは移動魔術の準備を手伝おうと動いて、ふと顔を入口の方向に巡らせた。人間が一人、続いて魔物らしき気配が一体。結界の中に入ってきた。

 ネリウスと目配せを交わし二人そろって訪問者を出迎えにいく。互いの一歩先を行くように早足で進むのは誰が来たのか薄々分かっているからだ。

 天敵への敵意を迸らせながら扉を開けると、予想通りの人物がケルピーを連れ立って笑っていた。


「こんにちは。そう殺気立つでないよ。あの子はここにいるのだろう? 会わせてほしいのだけど」


 魔女ヒルデガルドの言い様にヴァルフは片眉を上げる。いつもなら用件を言う前に揶揄の一つでも飛ばしてくるのに今日はそれがない。急いでいるような――。

 向けられる疑念に気付いたのかガルドは言い足す。


「怪我をしたと聞いたから心配でね」

「怪我? ……そう言えばヴァルフ。あの血はどうしたのだ?」

「ああ、忘れてた」


 すっかり頭から抜けていた広場での騒乱を軽く説明し、傷はもう治っているから心配ないと付け足す。


「あわや乱闘寸前って感じだったな。まあ一般市民じゃ王都の騎士の相手にすらなんねぇだろうが。しかし、あの一件で王都とは更に拗れそうだな。今回の助勢でいくらかましになると踏んでたんだが、残念……」


 言い終えない内にネリウスの顔色が変わった。師の怒りを感じて口を噤んだ瞬間、息の詰まる威圧感が一帯を覆う。ガルドは殺気染みた圧力を真っ向から受け止めているのに動じない。ネリウスがその気になれば一瞬で消える命なのに、その度胸は大したものだろう。


「貴様、またあの娘を利用したのか」

「彼女は……そうだね。いい仕事をしてくれた」


 一瞬否定する口の形を取ったが、誤魔化せないと判断したのか素直に肯定する。思わず怒鳴りかけたヴァルフは自分よりも怒っている人間を見て冷静になり静観を決める。ふとケルピーを見ると、その水面に似た瞳はじっとガルドを観ている。耳が言葉を逃さないようにピンと立てられていた。


「王都と仲が良くなると困るんだ。彼らは悪者でなければいけない」

「わざと揉めさせたな」

「未必の故意というやつさ。積極的に何か起こさせようとはしていない。偶然が重なってくれた結果だし、あのような大騒ぎは予想外だ。それで、彼女を引き取りたいのだけれど」

「馬鹿なことを。貴様なんぞに渡せば何に使われるか」

「まさかグリトニルに帰るわけじゃないだろう?」

「何故、知っている」

「胡散臭い監督官殿から聞いたのさ。聖職者のくせに話せる奴だったな。まあ、それはいいとして、英雄殿は公爵の娘なのだろう? 保護して差し上げよう」

「儂が送ると約束した。貴様の出る幕ではない」


 ネリウスがにべもなく断ると、ガルドは老獪な本性が垣間見える笑みを作った。美しいのに何かが欠落している。


「政治的駒が攫われた。だが戦争は始まっていない。国家間の仲は悪化しているが、身柄を帰すような要求もない。捜索する気配もない」

「お前みたいなのと違って立場がある。仕方ないだろ」


 あげつらねられた否定の言葉たちに静観を決め込んだ矢先だが口を出した。


「おやおや、偉く肩入れしているのだねヴァルフ。アル……アルクゥよりもワタシの方が付き合いが長いというのに、つれない男だ」

「人間かどうかも怪しい奴に誰が味方するかよ」


 吐き捨てると暗に人外と言われた魔女は肩を竦める。


「アルクゥは人間だとでも言いたげだね?」


 時間が止まった。

 刹那の間を置いて「どういうことだ」と言い返すが動揺は見抜かれている。形を変える瞳。見たことのない色をした炎。少しだけ思い当たる節があっただけに隠しきれなかった。


「誘拐犯を一人殺し、街道に出たグリフォンを殺し、盗賊六人を皆殺し、あまつさえ竜殺しだ。攫われるまで箱に入って生きてきたような只人の娘が、果たして成し得ることなのか?」

「公爵と聖人の子なら、大層な能力を持っててもおかしくないだろうが」

「聖人の子という点には間違いないだろうね」

「……いい加減にしろよ」


 右手が剣の柄を撫でる。減らず口を叩けないよう気絶させようかと考える最中に、幻獣がゆっくりと動いた。獲物に近寄る音を立てない慎重な足取りでガルドに接近していく。


「ワタシはたまたま・・・・あの子が王都の騎士を下すところを見たぞ。躊躇いなどない、殺意のこもった一撃だった。容赦など欠片も感じさせない。立派な人殺……?」


 ガルドの顔に影が落ちる。ゆっくりと見上げて子供のような驚きの表情で息を呑んだ。三百年も生きて幼さが残っているのはある意味奇跡だろう。

 ケルピーはガルドを見下ろしながら何回も蹄で地面を叩く。


「なっ……なんの用だね、ケルピー。せっかく連れてきてあげたのだから、主人の元に行けばっ!?」


 鼻先を食い千切りかけられた。声を裏返らせて飛びのく。喉を鳴らす音に真横を見るとすっかり怒りを鎮めたネリウスが笑いを堪えていた。


「笑っていないで助けろクソジジイ!」

「良いケルピーだな。主人を貶す者に容赦はしないということだろう。さっさとデネブの元に帰ることだ。そして二度とアルクゥに関わるな」

「あの娘は帰るだけ無駄だ! お前も分かっているだろう……ってもう、覚えていたまえケルピー! 次に会ったら魔除けをぶつけてやる!」


 後ずさりながら叫んだガルドは移動魔術で逃げて行った。

 戻ってきた幻獣は鼻息を荒くして二人の前に立つ。


「アルクゥが主人なのか? アイツなら部屋で休んでるが……」


 そう伝えると中に入ろうと歩を進めた。慌てて立ち塞がる。


「後で連れてくるから。そこら辺の草でも食べてろ」


 すると大人しく建物の脇に生えている雑草を食み始めた。不味かったのかすぐに吐き出していたが。


「アイツ使い魔持っていたのか。慕ってるみたいだけど……まさか連れて帰れねぇだろ」

「それも仕方あるまい。……また妙な邪魔が入らない内に準備を始めよう。陣を書くぞ」


 思い思いに文字を書き込んでいくが、二人の手は全く進まない。

 全ての準備を終えるまで三日も要した。その間、アルクゥは情緒不安定の浮き沈みの激しい表情を見せていたが、当日になると感情が消えたような無表情でヴァルフをひやりとさせるのだった。




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