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精霊のシジル  作者: 染料
二章
16/135

第十五話 英雄


 意識は断続的に浮上する。

 瞳を開くその都度に、焦点が合わない水を通したような風景を見続けた。体に籠る熱のせいでまるで湯に沈められている心地だ。その不快感に重ねて口に何か苦い物を流し込まれ、朧げながらに抵抗したことを覚えている。

 回を重ねるごとに段々と快復していった体は、あるとき不意に思考を取り戻して覚醒した。


 高い天井と見知らぬ匂いが目覚めたアルクゥアトルを出迎える。


 端々まで重く感じる体を起こし辺りを見回す。広くて清潔な部屋だ。内装はベッドに戸棚、椅子が数個と簡素だが、置かれている調度品は高価なものだろう。窓は三つあって、内一つが大きく開け放たれている。留め具タッセルが外れたカーテンが春特有の温い風に激しくはためいていた。

 腹に力を入れベッドを支えに立ち上がる。壁伝いに窓へ行って覗き込むと、眼下は人の賑わう広場だった。


「おー、起きたか。具合はどうだ?」


 明るい声に振り返る。開いた扉の前で似合わない花束を手に提げたヴァルフが人懐こい笑みを浮かべていた。


「お、はようございます。体調は思わしくありません」

「だろうな。大人しく寝てろよ」

「ここは……病院でしょうか」

「ああ。デネブで一番でかい病院だ。個室は貴族と富裕層御用達だな。医者の腕も良い」


 何気なく付け足された言葉が頭に伝達するまで数秒。鈍い思考が緩く打ち返した結果に体がギシリと強張る。


「払えません。逃げてもよろしいですね?」

「よろしくねぇよ逃げんなバカ。無料だから心配するな」


 花束を無造作に花瓶に突っ込みながらヴァルフは言う。アルクゥは額に手を当てて何とか頭を覆う混乱を拭おうと努力した。


「……なぜ払わなくても良いのですか?」

「アンタのお蔭で何人助かったか知っているか?」

「知りません。助けた覚えもない。私が成したのは、ただ……」


 脳裏をよぎる巨大な炎の塊。口を噤んで思い出す。

 クエレブレは殺し切れたのか。リリは今どうしているのか。次々と気になることが頭に浮かんでは漂う。騒乱めいた思考で頭に血が集まったせいか膝の力が抜ける。


「おいバカ! だから寝てろって言ったろうが!」


 ヴァルフはその場に座り込んだアルクゥを抱え上げベッドに降ろした。ぐらぐら揺れる視界の中で凶悪な面相が青筋を立てているが口調は気遣わしげだった。


「あのな、少しは自分を大切にしろよ。死にかけたんだぞアンタ」

「状況が知りたいのです。魔物はどうなりました? リリさんは!?」

「落ち着け。アンタは一体仕留めて、もう一体は逃げた。薬種屋の娘っこは無事だ。何回か見舞いに来てたぞ。そのほかの状況は……あ」


 そう声を上げてから口を閉ざす。このような反応の後に続くのは概ね悪報だ。そう知りながらもアルクゥは問わねばならない。続きを急かすとヴァルフは渇いた笑いと一緒に視線を逸らしながら言う。


「アンタは竜殺しの英雄様、だそうだ」


 息が詰まる。

 英雄。武勇に優れ才知に富み、常人とは一線を画する存在の呼称だ。


「――誰が?」

「アンタが」

「なぜ?」

「竜を殺してデネブを救ったからだ」

「……何の冗談ですか。面白くもない」


 額に手を当てる。


「現在アンタは議会と騎士団の庇護下にある」


 逸らされていた視線がかち合う。真剣な眼差しは、これが嘘や冗談の類ではないのだと痛いほどに伝えていた。


「この部屋の外には騎士の護衛が付いてる」

「どうして……」


 肩を落とす。それがあまりにも哀れに見えたのだろう。ヴァルフは同情する顔で「そんなもんだ」と慰めにもならない言葉をくれた。


「ほとんどの住民は感謝している。だが極少数、利用しようとする輩や嫉妬する馬鹿もいるもんだ。最初は俺が討ったんだと誤解されてたんだが、目撃者がいたんで隠し通すのは無理だった。悪いな。それに良い点もある」

「どのような点でしょうか」

「例えこの国の誰がアンタの引き渡しを求めたとしても、デネブはアンタを差し出したりはしないだろう。身の上を知ってもな。だから安全だ。まあ、今のところアンタはどこにも属さない魔術師ってことになっているが」

「――貴方は、なぜ」


 疑問しか言えず情けなく思ったが、いくら考えても自分の内で答えは出ない。

 なぜ自分の身上を知っているのか。

 その上でなぜ安全だと言い切るのか。

 ヴァルフはそれらの意味が込められた一言を正しく汲み取った。


「あの後気になって調べたんだ。今の情勢からして敵国のお嬢様らしいってことは分かってたからな。望んで来たわけじゃないって言うからには誘拐辺りだろうと踏んだ。それで、不自然な形で魔物に襲撃された公爵邸に辿り着いたってわけだ」

「……本当は母が狙われていたのです」

「アルクゥリーネ様か。偉く有名だからな。にしても聖人に手を出すとなれば……」


 気安く呼ばれた母親の真名に眉を顰める。何か考え込む風だったヴァルフはそんなアルクゥに気付いて慌てた。


「いや、悪い。どうも実在の人という感じがしなくて」

「私は娘ですが」

「悪かったって。ああ、ほら。安全な理由はだな、火除けだ。デネブは反戦派だ。引き渡せば開戦する可能性がある。万が一、内地侵攻があれば保護の事実は自衛の切り札になる」

「……後者になれば、寧ろ歓迎されるでしょうね」

「そうだな。だがその場合アンタは利用されることになるが……どうする? 保護を願い出るか?」


 選択肢を示されてアルクゥは目を伏せる。手の平が視界に入った。随分と荒れている。反すと左手の甲には傷がくっきりと残っている。お世辞にも綺麗とは言い難い手を握り込んで力なく首を振る。


「攫われて色々な人たちを見てきました。一部救いようのない方々もいらっしゃいますが、多くはグリトニルの民と変わらず善良で優しい。ですが私が公爵の娘である限り・・・・・・・・ティアマトは敵国だ」

「……そうか」

「反戦派と言えど、デネブという国を成す一部である限り中枢との繋がりを断ち切ることは出来ないでしょう。誘拐犯の言い様からして、指示を出した方は高い地位にいるように予想しております」

「端的に言ってくれ。回りくどいのは苦手だ」

「信用できません」

「俺は申し出た方が良いと思う」

「どうしてですか。それに信じてもらえるかも分かりません」


 視線は合わない。しばらくの沈黙の後、ヴァルフは返答をこの場にいない人物へ受け渡した。


「俺の師に会って話を聞いてくれ」

「貴方の口から言えないことなのですか?」

「説明し難い。俺から聞くより、師から聞いた方が誤解も過不足もなく伝えられる。師はネリウスっていう爺様だ」

「ネリウス様が……ヴァルフさんのお師匠様だったのですか。……分かりました」


 すんなりと頷けたのは一重にネリウスとヴァルフの人柄による。ヴァルフは安堵したように表情を緩めて、不意に扉を見遣って声を上げた。


「もう一つ知らせておきたいことがある。――おい、サリュ。聞き耳立ててないで入って来い」


 勢いよく扉が開く。

 その先には背筋をぴんと伸ばした騎士が直立不動の態勢で佇んでいる。高く一つに括った髪に切れ長の目が印象的な女性の騎士だ。凛とした空気を纏う彼女は鷹の目付きでヴァルフを睨んでいる。


「私は聞き耳など立てていない!」

「冗談だったんだが……その焦り方からして本当に聞いてたのか」

「黙れ! 女性の寝間に入った不届き者を監視しないわけにはいかないだろう!」

「失礼な奴だな。妹弟子予定の見舞いに来ただけだろうが」

「……何の予定ですかそれは」


 二人の様子から一目で気安い関係だと分かる。

 呆れて掛け合いを眺めていると、女騎士はハッとしてアルクゥに向き直り優雅に一礼した。


「お見苦しいところ申し訳ありません。私は騎士団第二警邏隊に所属しているサリュと申します。現在、アル様の警護の任を承っております。此度の悪竜討伐、まことに見事なものでした。本来なら我ら騎士団が成さねばならなかったことです。力の及ばない我らに代わりデネブを守ってくださったこと、騎士として、またデネブの住人として心よりお礼申し上げます」


 舞台に立つ役者も真っ青な堂々たる謝辞だった。喋っているだけで凛々しい美しさが際立つ。男女問わず彼女に惹かれる者はさぞ多いことだろう。そのような人に護衛されているのが申し訳なく、せめて様付は止めるように言うと断固として首を振った。


「恩人を呼び捨てるなどできません。それより、お耳に入れておきたいことが」

「なんでしょうか?」

「現在、デネブには王都の援軍が逗留しております。悪竜撃退の直後に到着したのです」


 自分に何の関係があるのか分からず首を傾げて続きを待つ。


「その数は三十。残りの一体を討つだけなら過剰とも思える頼もしい助勢だと言えます。監督者の元によく纏まり優れた一団のように見える」

「違うのですか?」

「内部に複数派閥が存在するようなのです。それだけならばどんな集団にでもままあることでしょう。気にすることではない。しかしながら、違う顔が再三アル様との面会を希望してきている。これは問題です」

「……勧誘ですか。まがいなりにも竜を殺した人物を派閥に組み込もうと」


 サリュは首肯する。


「さすが、御明察です。特にアル様はどこにも属さない魔術師であらせられます。引き抜きに障害がない有能な人材を放っておきたくはないのでしょう」


 魔術師ではないと思ったが今更なので否定はしない。


「彼らの様子を見ていると中央権力が分散しているという噂が真実味を帯びるようですね。今はお体の不調を理由に退けておりますが、目を覚ましたと知られたら強引にでも会いたいという輩もいるでしょう。如何されますか?」

「好ましくありません。出来る限りは……」

「承知しました。そうであれば彼らに接触しないことが肝要です。窮屈かと思いますが、彼らが王都に帰還するまでこの部屋から出ませんようにお願いいたします」

「……分かりました。お世話になります」

「ありがとう存じます。では自分は職務に戻らせていただきますが、ご用があればお呼びください。護衛の任にはもう一人パシーという者が付いております。恐れ多くもアル様の友人だとか言っておりますが」

「はい。仲良くしていただいております」


 サリュは一瞬少し拗ねたような顔をして一礼し、部屋から出て行った。

  アルクゥは頭に手を当てる。

 護衛は以前日常的に存在するものだった。しかしそれは身分に因るものだ。今回は違う。アルクゥ自身が成し遂げたことに対して発生する危険からの護衛だ。


「護衛されるなど、落ち着きません。それに竜殺しと言うなら、ネリウス様もそうではありませんか」

「アンタの方は、劇的だ。民衆はそういうのに弱いんだよ。それに、護衛は慣れてるだろ?」

「こちらに来て私は変わりましたから。私を守るのは私自身でした。それ故に……敵を害すことに抵抗はなくなった。敵と言えども生きている人間です。……良くない変化でしょう」


 それを聞いてヴァルフは不思議そうに目を丸くする。


「そうか? 俺はキュールの港で見た今にでも自刃しそうな危ういお嬢様より今の方が好きだぞ」

「そういう問題ではありません。人としてどうあるかの問題です」

「哲学的なことは分からん。じゃあ、治った頃合いに師を連れてくる。お大事にな」


 にっと笑ってヴァルフも退室した。

 残されたアルクゥはベッドにもぐりこむ。考えを整理しようと目を閉じたが最後、睡魔に引き摺られ、起きたのは治癒術師が回診に訪れた翌日の朝だった。


 吐血や鼻血の原因は魔力の放出過多によるものだと、たっぷりと白髭を蓄えた老治癒術師は教えてくれた。吐き出せる息の量が決まっているように、魔力も出せる量が決まっている。限界を越えると魔力は熱を孕み体を蝕む。

 アルクゥは未だに魔力が落ち着いていないらしい。それを鎮める薬を処方された。シグニ草を磨り潰した凶悪な味の薬だ。寝ている間に飲まされていたのはこれだろう。

 吐き気を催す飲み心地であったが抜群の効果を示し、三日目の夜には熱はすっかり下がっていた。


「魔術師っていうのは魔術においての戦闘が出来る出来ないがハッキリしていてね。ワタシなんかは戦えない典型例だよ。それでも戦いたいという魔術師は剣を手に取るけれど、ワタシは剣もからきしでねぇ……今回は本当にありがとう、アル。いや、アルクゥ?」

「アルでもアルクゥでも、どちらでも良いのです」

「じゃあ、馴染み深いアルにしておこう」


 この三日間で訪問者は十を越えたようだ。推論であるのはサリュが全て追い返してくれたので正確な数字は定かではないからだ。しかし黒尽くめの魔女は流石に顔パスらしい。すんなりと病室に入ってきたガルドは見舞いの果物を寄越して椅子に座った瞬間、戸板から水を流すように雑談を始めた。


「それより、お怪我はよろしいのですか?」


 アルクゥは体を伸ばすリハビリついでに相槌を打っていたが、正直ガルドを信用していないので気が休まらない。それとなく帰りを促そうとするが、ガルドは居座る気満々で林檎を剥いている。


「怪我? 何時の話だねそれは。あの日の内に塞いでもらったよ。大した傷ではなかったからね。ただ、魔力の消費が激しくて数日は惰眠を貪っていたけれど」

「そうですか。……会議には参加されないのですか?」


 護衛のサリュからこの時間に討伐作戦の会議があると聞いている。ガルドはあっさりと否定してニヤニヤと笑った。


「キミは何としてもワタシを追い払いたいようだね。フフン、そうはいかないよ。会議には出ないさ」


 座っている椅子を斜めに傾けている。子供のような仕草はとても三百歳越えには見えない。


「倒れてしまいますよ」

「大丈夫さ。――ふむ。実のところ会議には出られないと言った方が正しいかもしれない。何せワタシは未登録のはぐれ魔術師だからね。だから後で議長か騎士団長にこっそり・・・・と内容を教えてもらうだけだ」

「こっそり、ですか」

「こっそりだよ。だから今の時間は安心して英雄殿を弟子勧誘に勤しめるわけだね」

「お断りすると何度言えばよいのですか」


 両手を伸ばして握って開くを繰り返しながら横目を向ける。


「それに、まだ脅威は去ったわけではないでしょう。あと一体残っている」

「大丈夫さ。王都の騎士殿が体を張ってくれるからね。しかし、そうも頑なだと悪戯心が沸いてくるものだよ。例えば――バラされたくなければ、とか」

「その前にガルドさんがバラバラになりそうです」

「止めろ。冗談だ。恐ろしい娘っこめ」


 本気で顔を青くする様子にアルクゥはリハビリの手を止めた。


「私も冗談ですが……本当に戦えないのですか?」

「生まれてこの方、正面切っての戦いで勝ったことはない。逃げて罠を張って呪ってやっと辛勝する有様だよ」

「えげつないですね」

「ワタシの人生はデネブと魔術の研究に捧げているからね。強くある必要がないという環境も戦闘不能に拍車をかけているのだろうさ」


 強くある必要、とガルドの言葉を反復して呟く。彼女の言い様を真似れば、自分は強くある必要がある環境だからそういった方面に成長しているのだろうか。


「おや、誰か来たようだね」


 厚い扉の向こうで微かに声がした。

 また面会希望者かとアルクゥが複雑な気分でいると、ガルドは椅子から跳ねて立ち上がる。そして扉に耳を当て楽しそうに盗み聞きを始めた。


「はしたないですよ」

「根が野次馬でね。……むむむ。王都の騎士殿か? ワタシを差し置いてアルを引き抜こうなぞ厚かましいな! ほら、聞いてごらんよ。面白いから」

「聞けと言われましても」

「ほら」


 ガルドが扉に手の平をあてると、扉の外の声がアルクゥの座っているベッドまではっきりと聞こえてくるようになった。そんな魔術まであるのかと呆れたが、やがてアルクゥも耳を澄ますことに集中した。


「ここにおられると聞いてまいったのだが、いい加減お目通り願えないだろうか」


 堂々とした低い声にサリュが噛み付く。


「まだ臥せっておられると何度言えばわかる。王都の騎士は常識がないのか? 何とも粗野で厚かましい限りだ。お帰り願おう!」

「魔物の特徴や討伐方法について意見を窺いたいだけだ。準備を十全にする当然だろう?」

「貴様の目はただの穴か? 北門に転がる竜の死骸を見て来い。それでどのように倒されたか、余程の阿呆でなければ一目で分かる。アル様はまだ体調が思わしくない。煩わせるな!」

「ほう。アルと言うのか。良い名をしておられる。真名も窺いたいものだな」

「こんのッ……!」


 数回のやり取りで分かったことは、サリュがおちょくられているということだった。パシーに至っては空気だ。


「ガルドさん。私はもう動けますから、退院した方が……ここにいるとサリュさんとパシーさんの負担になります」

「パシーは存在感がないようだけど、確かにサリュの頭の血管が切れそうだね。でも、キミの容姿は割れている。今や根も葉もくっ付いた凄まじい噂が市民の間に流れているよ。うっかり上着のフードが外れでもしたら、民衆は砂糖に群がる蟻のごとく寄ってくるだろうね。それで王都の騎士殿たちにも補足される、と」


 奴らは面倒だぞう、とどこまでもガルドは楽しそうだ。他人の不幸は蜜の味と言わんばかりだ。


「当然のように全員魔術の心得があるぞ。魔術師はえげつない生き物だ。ここを出るのは狼の群れに羊を投げ込むに等しい」

「説得力がありますね」


 アルクゥはガルドを上から下まで眺めて納得する。確かに面倒だ。


「失礼な。……そうだね。気分転換は必要だろう。外に出たいのなら討伐日にリリを寄越そう。早朝に出発するから、夕刻までに帰れば鉢合わせることはまずない。リハビリを兼ねて動いておいで」

「会議に出ていないのに、知っているのですか」

「日取りはワタシが進言したから……っと危ないな」


 開いた扉が直撃しそうになったガルドは意外に良い反射神経でそれを避けた。落ちた黒い帽子を被り直し、扉の向こうに人差し指を突き付ける。


「まったく、顔が潰れたらどうしてくれる! ……アル、キミは心配するとかさ、そういうのはないのかね」


 アルクゥは素早く上着を羽織ってフードを被ることに腐心していたので心配どころではない。視界を狭める代わりに顔の半分を隠してようやく「大丈夫ですか」と声を掛け、扉を開けた人物を見た。


「これは失礼した。が、こちらの騎士殿との会話を聞かれているようだったのでね。相応の返礼をしたまでだ。……そちらの方が英雄殿か?」


 向けられた視線は蒼い。

 鈍い色の金髪を後ろで一つに括っている、がっしりとした背の高い男性だった。ヴァルフがしなやかな豹だとすれば、その男は逞しい虎という風だ。黒を基調とした騎士服が良く似合っている。このような人が俗に言う良い男性なのだろうと、アルクゥの思考を些かずれさせる程度に健全で生命力溢れる空気を纏っていた。

 何となく気圧されながら口を開く。


「私ごときが英雄などおこがましい限りですが、竜を殺したという意味ならそうです」


 一拍空けて「何かご用ですか」と小さく呟く。尋ねたくはなかったが、顔を合わせた以上聞くのが礼儀だった。だが対応が正しかったかすぐ悩むことになる。男はアルクゥを眺め回し、やがて何か納得したのか満面の笑みを浮かべた。

 早々に面倒を嗅ぎ取り始めたアルクゥに男は頭を下げる。


「俺は討伐隊の副隊長を務めるギルベルトだ。ギルとでもベルとでも好きなように呼んでくれ。以後お見知り置きを」


 何かを揶揄しているのか、騎士の礼ではなく貴族が行う礼だった。しかしアルクゥはその動作を碌に見ずガルドを振り返る。魔女は微動だにしない。それが逆に空恐ろしい。


 魔術師に真名を告げてはいけない。


 ヴァルフから教わった。後々調べてみたところ、魔術的に危険だということが分かった。最も分かりやすい例として、魔術の効果が強くなるという点がある。この老獪な魔女のことだ。王都の騎士など動く人形程度にしか思っていないかもしれない。心配するいわれはないが――アルクゥはギルに視線を戻した。


「ん? どうかしたのか英雄殿?」

「いえ、その……あまり軽々しく名を教えるのは」

「いやはや、ワタシも礼を欠いていたね。すまなかった。ワタシは魔術師のヒルデガルドだ」


 アルクゥは口を開いたまま、視線を更に反す。ガルドは純粋そうな顔で笑みを浮かべていた。


「……は?」


 思わず漏れた間抜け声に、ガルドは片手を差し出した。さあキミも自己紹介をするがいい、という動作だ。相手が真名を告げたなら自分もそれに倣うのが礼儀だった。

 しばらくガルドの手を眺めたアルクゥは、これ見よがしな溜息を吐いた後に深々と一礼する。


「私はアルと申します。こちらこそよろしくお願いいたします。それで、ご用件を窺いたいのですが」


 何か期待するようだった共犯者二人の眼差しは名乗った途端に消沈する。

 ギルは明らかに落胆した顔をし、ガルドは頬を膨らませた。言葉を交わさずとも臨時同盟を組めるくらいなら、デネブと王都は案外仲良くできるのではないだろうかとアルクゥは思った。


「……夜分に無礼だとは思ったのだがいつまでもお目通りが叶わなくてね。こうやって強引に来てしまった。魔物の特徴や討伐についての助言をいただきたくて参った次第だ」


 気を取り直したように告げられた用件は、サリュが言った通りアルクゥから聞かずとも会議で出ているであろう内容だ。よって喋る必要はないと判断して未だに膨れっ面のガルドに投げた。


「私よりガルドさんの方がお詳しいでしょう。五年前の討伐も詳細に覚えていらっしゃるようですし、適任です」

「いいや、俺は貴公から窺いたい。なにせ討伐した本人だ。戦った者でなければ見えないこともあるだろう?」

「恐らく私の説明では不十分です。ですからガルドさん、お願いします」


 語気を強めるとガルドは頬に溜めた空気を抜いて肩を竦めた。一瞬悪戯めいた笑み口元に浮かべ、すぐ生真面目そうに居住まいを正す。


「ふむ。他ならぬ英雄殿の頼みだ。良いだろう。さあ騎士殿こちらに来るがいい。病人の寝間に居座って話すわけにもいかないからね」


 ガルドが腕を取るとギルは一瞬満更でもない顔をしたが、三歩歩いた後に我に返り立ち止まる。


「いやいや、俺はアル殿から」

「さあさあ、こちらへ。お茶の一つでも差し上げよう」


 騎士道に則っているのかラインはガルドを振り払うことができない。そのまま強引に、押し出されるようにして部屋から退出していった。去り際にガルドが「茶は毒入りかもしれんが」と付け足していたのでもう彼の姿を見ることはないかもしれない。


「申し訳ありませんでしたっ!」


 耳元の大声に肩が跳ねる。サリュは九十度以上体を曲げて不審者侵入を詫び、今にでも命を以って償うと言わんばかりだ。ギョッとしたアルクゥも合わせて頭を下げる。


「私のせいで面倒な方の相手をさせることになって、申し訳ありません」

「アル様は悪くありません! 機会がいただけるのなら、次こそは阻止してご覧にいれます! アル様は安心してお休みください!」


 アルクゥは火がついた様子のサリュに押し込められるようにして部屋に戻る。

 硬く握られた拳はギルとの再戦を誓っているのかもしれない。気概を挫くのも憚られたので、二度と来ないかもしれないという余計な情報は知らせなかった。


 アルクゥは削れた体力を回復するためベッドに倒れ込む。


「落ち着かない」


 わざと声にだして言うと、静かな部屋に良く響く。

 反応を受けてくれる人はいない。広々としたベッドに輪をかけて広い部屋。

 薬種屋で間借りしていた部屋の方が身の丈に合っているように思えてならない。家族を恋しく思って枕を抱きしめる。


「早く帰りたい、な」


 口に出した途端に己の内に隠れた黒い靄が顔を出す。

 変化を自覚するたびに成長していく不安の影は、ここ数日であの大蛇のように巨大になっていた。それは帰った後の幸せを想像するアルクゥをことごとく阻害するのだ。



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