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精霊のシジル  作者: 染料
二章
15/135

第十四話 厄災の日


 デネブの政治には議会制が採用されている。


 領主を議長とし貴族民間を問わずに構成された議員によって十万人が暮らす大都市を治めているのだ。このやり方は貴族や聖職者の権力が大きいティアマトでは異例の統治方法だったが、そのお蔭で貴族と市民の間に軋轢は少ない。昔はそれに意を唱える貴族もいたが何時の間にか消えていた。すなわち、それなりに裏のある都市でもある。


 光と影を巧みに使い分け都市の発展に貢献してきた議会だが、今回に限っては各人の有能さと発言の平等性が裏目に出た。時勢が悪かったともいえる。

 ガルドの助言に従い王都に救援要請を出すべきという意見。

 救援を頼めば派閥闘争に組み込まれる、もしくは開戦間近と見られるグリトニルとの戦争に協力を強制されるので、デネブだけで解決しようと言う意見。


 ガルドが怪我を負って帰還したその日、に二つの意見が真っ向から対立し議会が機能を停止した。


 にもかかわらず、翌日に王都から返信のワタリてがみが届く。それは救援を了解するという内容のものだった。

 領主が使うワタリは一般のものとは異なり速さも安全面も段違いだ。厳密な管理の元に飼育されており議員と飼育員しか籠の鍵を使えないようになっている。


 必然的に救援を求めるべきと強く言っていた議員が疑われ、憤ったその議員は混乱を避ける為に市民には伏せていた現状を知人に話してしまった。その結果枯れ木に燃え移る火のように議会の醜態が広まり、道端で現議長や議員に対する愚痴をこぼす人が多くみられるようになったのだった。



 そんな光景を見続けて一週間は経っただろうか。



 リリは道に屯する集団を避けながら市場に向かっていた。

 ポケットに入ったメモには保存食の名前がびっしりと書かれていて、紙切れを握るだけで嫌な気分になる。デネブは食料の供給を商人に頼り切っている。討伐が長引くと予想したマリは街道封鎖による食料不足を見越し、食料を買い込んで来いと言ったのだ。

 自分が良ければ他人はどうでもいい。そんな母の考え方は嫌いだ。

 しかし、ある意味では正しいとも思っている。他人が良ければ自分はどうでもいいとは思えないからだ。極端な話ではあったが。


 リストにある食品を無造作に買い込んでいく。アルを雇ってからマリの気前は格段に良くなったので、随分儲かっているのだろう。リリはあまり喜べない。友人の危険と引き換えに得た金銭は汚く感じ、さっさと使ってしまおうと高い方を選ぶがさほどの変わりはなかった。

 

 大量の荷物を腕に食い込ませながら運んでいると雨の匂いがした。空を仰ぐ。真っ白な雲に混じり込む灰色の欠片は西に行くほどに多くなる。にわか雨でも来るのかもしれない。魔除けの障壁は魔物も人も通さないが、無機物は透過する。

 そうとなれば急いで店に帰りこき使われているアルに教えなければ。


 リリは足を速めたがすぐに立ち止まる。頭の上から薄氷を割るような音を聞いたのだ。空を仰ぐと蒼天が震えていた。

 振動が地面と伝って体内に響く。地震か。いや、違う。

 空が一際大きく揺れると共に白雲が二つにずれた・・・


「雲が……割れた……何だ、それ」


 亀裂は広がり空をも侵食する。

 青白く濁った罅は空が揺れるたびにジワジワと深さを増していく。小さな破片が降ってきて足元に転がった。薄青のそれを拾い上げると手の平の中で燻って消えていく。


 ――障壁が砕けようとしている。


 頭を過るのはデネブを脅かす大蛇の存在だ。

 初めに騒ぎ立てたのは自分なのだが今一現実味を感じていなかった。直接見たことがないというのが大きいのだと思われる。

 王都からの助勢が決定しているのもリリの気を緩ませていた。王都は嫌いだが援軍は心強い。だから五年前のようにして天災レベルの魔物は討伐されるのだろう、と。


(そう思っていたのに)


 荷物を振り落とし無我夢中で走り出す。店に帰る道のりを行くにつれて足元の揺れが強く大きくなっていく。引き返しそうになる足を叱咤して走り、走り――リリは大通りの果てにある北門に巨大な影を二つ見た。


 遂に足は止まった。仕方のないことだった。


 灰褐色の身体。腹板は白。

 三角形の頭部には小ぶりな角が二本ある。長大な身体は軽く頭を持ち上げただけで門の高さを上回り、五十メートル近く離れた距離にもかかわらず鱗が描く斑紋が詳細に見て取れる。


「あれが、大蛇……?」


 こんな馬鹿な話があるものか。そんな感想しか出てこない。人が抗するには余りに巨大なその姿は身動ぎ一つで暴風をも巻き起こそうかと言わんばかりの威容だった。


 その大蛇が二体、障壁部分に巨体をぶつけている。

 しかし壁は崩れる端から再生する。そういう作りになっている。やがて無駄なことだと気付いたようで、今度は北門に攻撃を始める。


 五年前、デネブの周囲を囲う障壁は強固に作り直された。

 地下深い場所に術式を書き、それに沿って地上に鋼色の柱が並んでいる。一本一本の力を横に繋ぎ合わせる役割を東西南北の門が担っていた。言わば門は要だ。


 破壊されると北の区画を覆う障壁が一斉に解除される。


 リリは息を呑む。

 体の中から錆びた歯車のような音が聞こえる。恐怖で凝り固まった体を何とか動かし辺りを見回した。多くの人々がリリと大差ない反応を見せている。竦んで動けない。

 動けないと逃げられない。

 逃げられないと――喰われてしまう。


「逃げて……逃げるんだ! みんなデネブの中心に走って! ぼうっとしてないで、速く! 門が壊れてしまう前に!」


 力の限り叫ぶと一人、二人と踵を返し、やがて全員が逃走を開始した。

 一人残ったリリは意思に反してクエレブレの方角に進路を取る。店に帰らなければという使命感が恐怖より少しばかり強かった。


「――母さん! アル!」


 何回も足を縺れさせながら到着した。店のカウンターにはどちらの姿もない。作業場の裏手にある倉庫に走ると、マリが必死の形相で皮袋に薬草つめ込んでいた。命より商品が大事か。リリは苛立ちにまかせて母親を怒鳴りつける。


「なにっしてんだよ馬鹿っ! 逃げないと死んじゃうだろ!」

「商売道具がないと生活できないでしょう!?」

「命とどっちが大事なんだアンタは! さっさと逃げるよ、母さん!」


 腕を掴んで思い切り引っ張る。思った以上に軽い体だ。母親を失う恐怖が増して絶対離さないように爪を食い込ませた。


「母さん、アルは!?」

「ごくつぶしの場所なんて知らないよっ! それより商品が」

「うっさい! アル、アルどこ!? アル!」


 いつもなら作業場の掃除か店番をしている時間なのにどこにもいない。部屋で休んでいるのかもしれない。寝ていて外の危機に気付かないのかもしれない。

 呼びに行かなければとリリは思った。

 だが足は動かない。二階に駆け上がり部屋の戸を叩く。そんな僅かな猶予もないかもしれない。


「だ……大丈夫、大丈夫だ。アルは逃げてる。だから、逃げても大丈夫……」


 嘘だと叫ぶ心を打ち据え黙らせ、母を連れて外に飛び出す。

 道には薄青の欠片が降り注いでいた。霧雨のように幽く、地面に落ちると同時に消えてゆく。現実離れした美しい消滅の光景に一瞬だけ見蕩れたリリは、その後の振動に耐え切れず強かに転んだ。


 轟音と土煙が辺りを支配し何も分からない。


 マリと抱き合って恐怖を凌ぐ。煙が風に散らされて状況を目の当たりにしたとき、リリは一切を諦めて脱力した。


 薬種屋の隣にあった建物が灰褐色の体に潰されている。

 空を見上げると薄青の障壁が途切れている箇所があった。門ではなく、柱の一本が壊されたか外れるかしたのだろう。そこから一体のクエレブレが侵入している。

 腹の一番太い部分が引っかかり完全には入れていないがリリたちの位置には充分届く。


 大蛇は石畳に突っ込んでいた頭を持ち上げる。鼻先が赤く染まり、赤い液体が糸を引いて滴る。砕かれた石畳には赤い華が咲いていた。何があったのか考えたくもない。次にそうなるのは自分たちに他ならないのだ。


 マリを強く抱き締める。抱き締め返してくれる感触は幼い頃と同じで柔らかく暖かかった。優しい匂いもそのままだ。リリは幾らか恐怖がほぐれ、鎌首をもたげてたクエレブレに虚勢の笑みを浮かべる。

 お前らなんて怖くない。残念だったな――そこでリリの記憶は数秒間真っ白な空白で埋め尽くされた。


 クエレブレの威嚇音が遠くで聞こえ、固く閉じた瞳を薄く開ける。綺麗な金色が真摯な眼差しでリリを見下ろしていた。。何度か目を瞬かせるとアルクゥは微かに笑った。安堵の笑みだった。


「走れますか、リリさん。マリさんも」

「生き、てる?」

「私もリリさんも生きております。ついでにマリさんも生きてます。とにかく逃げましょう」

「あ……アル。アル……わ、わたし……アルがいなくて、お、置いて、時間ないから、逃げようと思って……!」


 言い切る前に頭を押さえ付けられた。頭上から石の破片が降る。マリが絶叫したので薬種屋が破壊されたらしいと分かった。


「ほんとに災害のような魔物ですね。……リリさん。マリさんも、しっかりしてください」

「む……無理……足が動かない……無理だよ!」

「いいから、落ち着いて。怪我はしていません。動きます」

「無理だ!」


 速い呼吸を制御できない。死ぬと思った瞬間生きていた感情の落差で命が惜しくて堪らない。アルは幼子に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「狙われてます。せめて、牙の届く範囲の外に行きましょう」

「怖いんだ。足が震えて動かないんだよ! ねえ、アル」

「はい。なんでしょうか」


 助けて、と情けなく零れた言葉にアルは目を瞠った。

 何かに縋りたかった。例えそれが同じ年の友人でも、精霊や神という遠い存在より身近に祈りを寄せる先が欲しかった。無茶な願いを頼まれた祈りの先にいる友人はリリを見返し――頷く。


「分かりました」


 気休めだと分かっている。だがその返事だけで救われた気分だった。

 それなのに――自ら的になるように立ち上がったアルはクエレブレに向き直っている。思わず手を取ると穏やかにリリを見返した。

 金色の中にある瞳孔が剣のように鋭く研ぎ澄まされていく。


「アル、目が、なんか変だよ」

「ここから……」


 視線が合ったのは一秒にも満たず、その瞳は正面に向けられる。強く手を握ると答えるように握り返してくれる。嫋やかな話し方をする友人は、普段からは信じられない強い声で叫んだ。


「出て――いけっ!!」


 クエレブレの周囲に嵐のような力の奔流が見えた。

 そこから紋様が刻まれた刃が虚空を裂くように現れ、障壁内のクエレブレに次々と襲い掛かる。その勢いは大蛇の体を宙に浮かせ押し戻した。

 咆哮を上げながらクエレブレは魔除けの外に退場していった。



◇◇◇


 刃は一本も刺さらなかった。

 人を綺麗に両断する刃は大蛇に通じない。

 アルクゥアトルは目を細める。作った刃の数だけ傷はある。しかし鱗の表面を浅く抉っただけのようだ。実質ダメージは無いに等しい。

 二体は警戒して互いに互いを守るように縺れ合いアルクゥを警戒している。じきに攻勢に移るだろう。どうにかして逃げないといけないが、リリとマリは自失に近い状態でしばらく動けそうにない。


 ――何で戻ってきたのだろう。


 山に影を見た数分後には逃げる準備を完了させた。後はクエレブレの目を逃れながらケルピーに乗ってデネブを離れるだけだったのに、自分の馬鹿さ加減が腹立たしい。

 後悔はこの場において命取りなので、対策を立てるべく瓦礫の中に目を走らせる。鋼色の柱が目に留まった。


「リリさん。障壁はどうにか元に戻せませんか?」

「わ……分からないよ」

「戻るわ。外された柱を元の位置に戻せば抜けた部分の障壁は復活するでしょうよ。分かったら、さっさと戻してきたらどうなの!?」

「マリさんはもう走れそうですね。……では、お二人とも物陰に隠れるか逃げてください」


 マリには日頃の恨みを込めて、リリには少し悪いと思いながら勢いよく突き飛ばす。敵の死角に転がった二人を確認して大きく息を吸い込み瓦礫に向かって走り出した。


 頭は妙に冴えている。大蛇に近付いていく足取りは軽い。恐怖が振り切れておかしくなったか。それにしては良い気分だった。


 クエレブレたちの血色の眼が張り付くように追ってくる。

 二体は鼻面をくっつけ合って何か話し合うような挙動を見せた後、傷跡がない片方が障壁の隙間をくぐり抜けてアルクゥの真上に濃い影を落とした。

 冷たい膜に手を伸ばし光の中に身を隠す。捕食者は首を上下左右させて突如消え失せた獲物を探している。


 何もかもが光を発しながら息衝く世界で蛇は一際の輝きを放っていた。

 それは美しくもある。

 あの光は生命力なのかもしれないと思ったが詳しく考察する余裕はない。息を吐き切った状態で水に顔を突っ込んでいる心地の中、息も絶え絶えに柱を拾い上げる。ずっしりと手に重い鋼色の棒を抉れた石畳の場所に深く突き刺した。

 同時に隠れることを止めて空を仰ぐ。


 障壁が機能を取り戻していく。


 首を突っ込んでいたクエレブレは壁に押し負けて弾き飛ばされていった。拮抗しないところをみると障壁の方が強いようだ。これは朗報だろう。壁さえ保てば凌げるということだ。


 あとは騎士なり魔術師なりに任せて逃げる。これでいい。

 見えてきた展望にホッとするのも束の間、薄青の障壁の向こう側でぞろりと巨体が動いた。

 息を呑んで身構える。クエレブレは視線を合わせるように頭を下げていた。視線が正面からかち合い存在の格の差に鳥肌が立つ。


「……申し訳ありませんが、食べられるつもりはありません」


 小さく呟く。聞こえたかのように大蛇は口を哄笑の形に開けて咆えた。

 耳を塞ぎ息を詰まらせながらリリの所に逃げ戻る。地震じみた振動がまた始まった。今度は門を徹底的に破壊するつもりなのか二体が交互に北門を攻撃している。

 それを眺めるリリは途方に暮れているようだった。


「門は要だ……あれを倒されたら、北区の障壁は全部消える」

「時間がある内に逃げましょう。もう動けますか?」

「でも、中に入れたら結局は」

「確かに同じことかもしれませんが、生き残る時間は長くなります。近々、王都からの助勢が到着するでしょう。それは今日かもしれない。そうすれば状況は良くなる。……ほら、騎士団が来ました。パシーさんもいます。任せましょう」


 そう言いながら雪崩れ込むように到着した騎士団とギルドの傭兵たちに目を細める。

 無力な者の希望となるべき武人たちはあまり役に立ちそうにない。彼らの半分は顔に畏怖を浮かべている。半分は毅然と剣を抜いたが策はなさそうな様子だった。

 闇雲に突っ込んでいき死ぬ場面を予想していると、その中にパシーの姿を見付けて思わずリリを見る。身を乗り出したリリは食い入るようにパシーを見詰めている。


「無理です、逃げてください!」


 怒鳴って勇んでいた騎士たちの出鼻を挫く。アルクゥを見て困惑したパシーたちは一段と増した揺れに視線を戻すが、覚悟の二度目は難しい。予想通り剣先は下がった。

 無駄死にはさせずに済んだ――が、それからを考えなかったのがアルクゥの落ち度だった。


 傾いていく門。やがて自重にも耐えれなくなる。

 それなのに誰も動かない。もっとも、動いても何も出来ないのだが。


 アルクゥがリリの手を取って逃げ出そうとしたとき、無力な集団から走り出る者があった。

 反射的に目で追いかける。その影は全力で疾走しながらもバランスを崩すことなく剣の鞘を払い、瞬く間にクエレブレまで到達する。

 丸呑みにしようとする一体を躱し、その頭を蹴って踏み台にする。構えていたもう一体の毒牙を身を捩って回避し、中空で反転した状態で、大蛇の大顎に剣を深々と突き刺した。鮮やかな軽業だった。


 クエレブレは驟雨のような悲鳴を上げ激しく頭を振る。影はすぐ剣を手放して着地し、大きく飛びのいて門の内側に退避した。その男は歓声をもらそうとした騎士たちを険悪な目で振り返り罵声を浴びせる。三白眼には見覚えがあった。そういえばデネブを拠点にしていると言っていたか。


「動けアホ共! 魔具でも魔導攻器でも攻城兵器でも、ここには魔物に対する手がいくらでもあるだろうが! 何人かは現状の情報を議会や団長共に持って行け! 他は逃げ遅れた奴らを誘導しろ! 時間を稼いでやる、急げ!」


 その一声で騎士団は機能を取り戻す。年長の男が素早く支持を出し、団員を走らせていった。男は幾らか強制力を抑えた声で叫ぶ。


「散らばってる傭兵と魔術師は後方で支援だ! 逃げてもいいが、功を立てれば議会の覚えが良くなって暮らしが変わるぞ! あと、さっきアレを押し戻した魔術師はこっちに来い!」


 アルクゥが前に出ていくとリリとマリを覗いた全員の訝しげな視線が集まる。当の男は苛立つように「走れ」と眉を吊り上げている。新兵を指導する教官のようだと思った。


「お前か。名前……は、別にいいか。とにかく障壁を守らないと話にならない。手伝え」

「分かりました……ヴァルフさん」

「あ? 俺を知ってるのか?」


 フードを取ると、ヴァルフの灰色の目が丸くなった。


「アンタ……おい、あれほど宿屋で待ってろって……いや、説教は後だ」

「私は何をすれば良いのでしょうか」

「蛇を押し返したのはアンタで間違いないな?」

「魔力の使い方は前の通りで危ういものです。申し訳ありません」

「怒ってない。褒めてる。協力してくれ」

「出来る限りは」


 近づくぞ、と歩を進めるヴァルフの後ろについていく。


「とにかく門を補強する。その間、遠ざけてくれ」


 ヴァルフはそう言って手を翳す。攻撃の態勢を取っていた大蛇二体の鼻先に紫の雷光が迸った。


「……あれを、遠ざけろと仰いますか」

「さっきやっただろ。それに、逆は無理だろ。俺もアンタの役はできない。……今の攻撃で少し退いたが、怯ませる威力はないなっと」


 突進してくる一体を見て咄嗟に攻撃する。仰け反るがやはりダメージは与えられない。力のなさに歯噛みしていると「上出来だ」と声がした。


「え?」


 横を見ると既にヴァルフの姿はない。慌てて正面を見ると、竜種二体に接近する背中を見つけた。もうあんなに遠い。


「このっ……」


 合図もしないヴァルフに苛立ちながら、大口を開けた片方の大蛇に手を翳す。下顎を突き上げるように攻撃すると勢いよく口が閉じて赤い飛沫が飛んだ。自分の牙で口内を傷付けたのだろう。

 奇声を上げて退いた片方と入れ替わりにもう一方がヴァルフを襲う。それにも刃を撃ち入れたが今度は怯まない。ヴァルフは避けたが片腕を一瞬庇っていた。怪我をしたのか。


「あの人の、邪魔を、するなっ!」


 質がないなら量で勝負するしかない。作れる限りの刃を創造する。血を流す獲物に先を争って突っ込んだ大蛇二体の鼻面にカウンターの要領で攻撃を入れる。薄紫の刃先はガラスのように砕け散りながらも一体の片目を抉り取る快挙を成し遂げた。


 するとヴァルフは背を向けたまま剣を二回振った。

 良くやった、と言う動作の後にその剣を地面に突き刺す。そこに額を当てるようにして屈んだ。すると剣先から水が流れるように、青白く光る帯状の文字列が広がる。それは門を作る二柱に巻き付き、その後を追うように氷が門を覆っていった。

 門は巨大な氷塊に包まれる。


「怪我は?」

「治った。……だが、これだけやっても一時的な処置に過ぎないだろうな。本気で来られたら耐えられん」


 戻ってきたヴァルフは額に手を翳して目を細める。


「それでも騎士団の方々が戻れば……」

「無理だ。ここは突破されると見ていい」

「……勝機があると見て鼓舞したのでは?」

「ないな」


 あっさり言い切って苦笑を浮かべた。


「ああでも言わねぇと動かなかった。誰かさんが覚悟をへし折ったお蔭でな」

「それは……すみませんでした。知り合いが突撃して死ぬのは嫌だったので」

「その判断は正しい。……が、これからは全員腹を括るしかないか。一体ならまだ俺でも勝てそうな気がするんだが」


 大蛇たちは氷塊に狂ったように頭を打ち付けている。ヴァルフは飛んでくる氷の破片からアルクゥを守るように立って軽く息を吐く。命を散らす覚悟にしては偉く軽い口調に自分の眉が寄るのが分かった。


「私は嫌です」

「ああ、知ってる。アンタがこの国の何かの為に命を張る義理はない。逃げろ」


 何気なく言ったヴァルフは口を押えて横目でアルクゥを窺った。アルクゥは期待通りに険しい顔をする。


「何か――知っておられるようですが」

「……帰るところがあるんだろ」

「よく御存じで」

「嫌な目をするようになったな。そう噛み付くなよ。俺はアンタの敵じゃない」


 無言で佇むこと数分、重い音を立てて大通りの先から三台の魔具が運ばれてきた。

 銀色の環が重なり合い、中央に宝石のようなものが浮いている。その上に石弓の形をしたアーチがついていた。魔導攻器というものだろうか。操作する騎士を横目で眺めていると、光が収束して矢の形になる。

 号令と共に発射され、障壁を突き破って大蛇に飛んでいった。しかし。


「ほら、無理だろ」


 矢は浅く鱗に傷を入れただけだ。威力でいえばアルクゥの攻撃と同等しかない。


「自慢げに言うことではないでしょう。貴方は逃げないのですか」

「逆に訊くが、アンタは逃げるんじゃなかったのか?」

「勿論。逃げますが」


 そう言いながらも足を動かす気配のないアルクゥにヴァルフは小さな皮袋を投げて寄越した。


「時間があるうちに早く行け。そうだな。港にはまだ近付かない方が良いと思うぞ。北に行ってアマツに渡れ。ほら、路銀」

「……そうやって気軽にお金を渡さないでください。使いません。前の置いて行った分もきちんとそのまま取っております」

「餞別だ。魔物退治で潤って仕方ないんでなあ」

「同じように、気安く命も渡すのですか」

「重く考える性質じゃないんだ」

「馬鹿らしい」

「まったくだ」


 取り合う気のなさに腹が立つ。アルクゥは怒りを相手に知らせる大きな溜息を吐き出して地面を睨み付けた。


「どうした。逃げても誰も責めない」

「――そういえば、友達との約束があったのです」

「どんな約束か知らないが、高確率で生きて帰れなくなりそうだな。命を賭けるような大層な約束なのか?」

「さあ。どうでしょうか。破りたくはないのですが。……それに、死ぬと思う度に、結局は生き延びております」

「だから今回も死なねぇって言いたいのか。楽観的だな」

「まったくです」


 アルクゥは肩の力を抜く。

 誘拐犯の兵士、グリュプス、盗賊たち。死を覚悟し、それらを殺すたびに力を得た。それならば、死を想う先に力はあるのか。そうだとするならば今の瞬間に這い寄る死ですらも。


「あーあ……もうすぐ倒れるな。周りを逃がすか……何やってんだ、おい。アンタ」


 ヴァルフを無視して自分の内に呼びかける。

 刃が駄目なら火だ。アルクゥがたった二つ使える内の、魔術らしい魔術の一つ。魔獣を焼き殺した不思議な色の炎。大蛇の一体を標的に定めて包み込もうとした途端、砂に水が滲みるように魔力が吸い取られていく。対象が大きすぎるのだ。このまま放てば魔力が枯渇するかもしれない。


「おい、何してる」

「結構っ……苦しいのですね。……魔力が、尽きれば、やはり死にますか?」

「当たり前だろ馬鹿か。だから、何してるんだ。魔力止めろ。死ぬぞ。自殺でもするつもりか!」

「いいえ殺します」

「その調子じゃ殺す前にアンタが死ぬんだよ!」


 肺が熱い。吐き出す息は白熱している。そして頭も闘争心で真っ赤だ。

 視界は白黒に点滅を始めていた。目は大半の機能を失い、クエレブレの存在の大きさを頼りに感覚で捉えている状態となる。口の中が鉄臭い。そう思っていると口の端から何か零れた。手で抑える。鼻からも鉄錆の液体が垂れてくる。


 もう止められない。


 苦痛の中には不思議な高揚感があった。頭の中では炎が渦を巻いている。それは段々と形を変えてついには龍の姿になる。

 母が見たという龍だろうか。

 それとも死に際の幻覚か。

 どちらでもいい。アルクゥは血を零しながら何だか楽しくなって笑う。あの脅威を殺せれば、何もかもどうでもいい気がした。


 クエレブレに向かって手を伸ばす。その姿を掴み取るように、拳を強く握った。

 そして魔術は発動する。

 大蛇の周囲に小さな無数の火種が現れる。

 橙色と空色が混在するそれらは繋がり、膨張し、分裂を繰り返して重なり合い、唐突に天を舐める勢いで燃え上がる。一体のクエレブレを舌の内に巻き込んで。


 骨が軋むような怒号が空高く響き渡った。

 大蛇は太陽よりも尚明るく、煌々とその身を焼いていく。 ふとアルクゥは氷が解ける音に気付いた。氷塊が解ければ門が倒れるだろうが、まあ、残り一体ならヴァルフが何とかしてくれるだろう。

 そんな他力本願なことを考えていると視界が反転した。


 どうやら限界だったようだ、と気付いたのは何事か叫ぶヴァルフの声が聞こえなかったからだ。段々と暗くなる視界は最後まで燃え盛る竜種を捉えており、おかしなことにアルクゥは凄く良い気分になって昏倒した。




◇◇◇



 外殻は黒く焦げている。ひび割れた隙間から赤熱した中身が窺える。

 空色のような橙のような、不思議な色をした炎はクエレブレを一定時間燃やした後忽然と鎮火した。もう一体の、目が潰れた方の姿は既にいなくなっていた。旗色が悪くなったので逃げたのか。


「倒した……倒したんだ! あの大蛇を!」


 誰かが歓声を上げる。次々に喜びが伝播して辺りが騒然とする。称賛は倒したと思われるヴァルフに向かうが、当人は毒を飲みほした直後のような苦い表情で足元に転がる小さな人影に呼びかけていた。リリは心臓が縮んだ気がした。氷が背中を滑り落ちたような寒気を感じながら、何度も躓きながら走る。


「アル!」


 返事も反応もない。息はしているが酷く浅い。


「薬種屋の嬢ちゃんか。術医のとこに案内してくれ」

「ねえ、どうして、アルは動かないんだよ。ねえ!」

「そりゃこいつが頑張ったからだ。――おいそこの勘違い共、医者呼べ医者! 恩人殺す気か!」


 数人が気付いて慌ててどこかに駆けていく。

 その他は遠くから聞こえた、助勢が来たという朗報に湧いていて気付かない。


「何が……何が嬉しいんだよ役立たず!」

「止めとけ」

「ヴァルフ! なんでそんな冷静に」


 アルを抱え上げたヴァルフの指先は白く、奇妙に力がこもっている。この魔術師もまた動揺しているのだと知って口を噤む。戻ってきた騎士の誘導に従い走り出す背を見送り、リリはその場に座り込んだ。

 大通りの向こう側に見慣れない集団を見つける。あれが援軍だろうか。行き場のない感情をぶつけるように叫んだ。


「遅いんだよ馬鹿! 無能!」


 喧騒に紛れて聞こえない筈なのに、集団の中の一人がリリを振り返った。

 ――笑ったようだった。

 小馬鹿にするような仕草が癇に障る。リリは涙を落とした地面を爪で掻く。そこには友人のものと思われる血液が点々と痕を残していた。



 

※えらく長い回でした。最後までお付き合いありがとうございます。一話に詰め込みすぎて読みにくい等ありましたらご遠慮なくお申し付けください。

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