第百三十三話 拒絶の法理
吹き渡る風は強くなりつつあった。
木立が揺れ物寂しげに空は鳴く。それは郷愁を強く駆り立てて胸の隙間を吹き抜けて、風を拒む庭園の高い生垣も誘う呼び声には用を成さない。
耳が無意識に拾い上げるその風音に急き立てられアルクゥは空費した三日を考える。失跡していたことはもはや然したる問題ではない。その時間で何が出来ていたか、それだけが後悔だ。
何にせよ故郷に留まる暇はもう無いに等しい。
「驚かないのですね。織り込み済みでしたか」
差し込まれた声に帰還の算段立てを中断する。
シャツを掴んだままの自分の手を睨んでいた視線を上げると、サタナは背凭れに預けていた体を起こす。鼻を押さえていたハンカチをまじまじと眺めて笑う。
「本当に血を見ましたねえ。まったく可愛らしいものですが」
先の一件が企みであったと暗に認め、真っ直ぐとアルクゥを見詰めて自嘲した。
「まるで道化だ」
何の圧もない。なのにアルクゥの呼吸の邪魔をして酷い息苦しさを覚える。肺に残った空気も言い訳と共に吐き出すと、自分の少し早い鼓動が妙に頭に響いて風の音は遠ざかった。
「誰に告げたところでどうしようもない類のものです。何より貴方に知られるべきではないと」
「なぜ」
「貴方が私を助けようとするからです」
サタナは気難しそうに眉を寄せる。
「何を当然のことを」
アルクゥもまた眉間に深い皺を刻む。
何も言えない理由が正にそれだとサタナは理解していない。改善の見込めない問題を、自分を削り取るような献身を良しとする人間に話せるはずがないのだ。
反対にサタナが仕方ないと諦める性格ならばいくらでも話していたことだろう。
アルクゥが望むとするならばそれは徒労に犠牲を差し出す者ではない。胸の内をただ聞いてくれる人間だった。
「部屋に戻りましょう。お互いそうした方がいい」
勧告は気遣いである反面護身の意味合いも強く含む。
静寂はうるさく耳を刺し、それに耐えられずに口を開けば出てくるのは相手の尊重を無視した言葉ばかりだ。恐らくは片方の正論がもう一方にとっての曲論なのだろう。
妥協点を見出すことも諦めてアルクゥは立ち上がる。
「帰すとお思いですか」
耳元に低く囁いた声を聞いた。跳ねるように三歩、体はもう一歩遠くに逃せても手が捕まっては意味がない。
固く握られた手首の痛みにアルクゥは顔をしかめる。
加減がないのは余裕のなさと同義か。何にしても対応を間違ったことは確かだろう。
過ちは最初からだ。屋敷に一時でも留まるべきではなかった。感傷に流されて中途半端なことをするから妙な綻びに煩わされる羽目になる。
拠点に帰っていれば少なくともサタナにこの状態を知られることはなく――もしかすると幽世に引かれることも無かったのかもしれない。
アルクゥは金眼に苛立ちを隠さない。
サタナは平素と変わりない琥珀色の眼差しで視線を受けているが、どうせ考えているのは同じようなことだろう。いかにして相手の正論を折るか。折れなければどうするか。実力行使に出ている分だけ後者に足が掛かっているのは疑いようがない。
いつもこうだ。
ああ、そうだったとアルクゥは思い出した。
出会ったときから不協和こそが自分たちの有り様だった。敵であったときも味方であったときも、記憶を遡るほど腑に落ちてくるものがある。
虚しい諦観に心が凪ぐ。苛立ちさえ意味のないものに感じられた。その急な態度を軟化を訝しむサタナに口の端を軽く上げる。
「そんなに怖い顔をしなくても逃げません。こうなってしまっては今更です。それより屋敷はどうなっていますか。臨時の主人でも三日も不在では不審がる者もいたでしょう」
「……体調が優れず伏せっている、ということになっています」
呆気ない降参を不可解に思ってかサタナは一瞬押し黙るも返答には卒がない。生じるであろう次なる疑問をも先取りしてその経緯を簡単に付け足した。
「貴女の本当の意味での不在に気付いたのは護衛の報告を受けた乳母殿です。扉がひとりでに開いて、中を覗いたときにはすでに貴女は消えていた、と。誘拐の可能性すら念頭に浮かばないほど公爵夫人――貴女の母君が消えたときと状況は酷似していたとのことです。それから乳母殿は護衛に口止めをし、信頼の置ける少数の使用人に告げてから、私にも教えてくださいました。藁にも縋る思いだったのでしょうね。ですが私に貴女を探す能力はなかった」
「ではなぜここが?」
「貴女の使い魔ならばと厩舎に詰めていました。竜は置物でしたが流石にケルピーは貴女との絆が深い。三日目の夜、即ち先ほどのことですが騒ぎ始めました。場所までは分からなかったようで、馬首は定まっていませんでしたが」
範囲を屋敷に限り探す場所を絞ったとしても敷地は広大だ。またいつ消えるとも限らない人間を各所を追い立てられるように探したのだろう。だからあんなにも息が上がっていた。
アルクゥは言葉につまり目を伏せる。
堪らなく胸が苦しいのは負い目のせいだけではないと気付いて苦虫を噛む。他者に縋る内面の弱さが許せず「少し失礼します」と吐き捨てるように断りを入れ瞑目した。
暗闇の中でケルピーに呼び掛ける。
予想以上に繋がりは薄い。喜びの嘶きは聞こえるが随分と遠く感じられ、竜に至っては応答すらない有様だ。心配はいらないと宥めるとケルピーは素直に了承し、眠りに入っていく感覚がある。使い魔はよく主人の異変を察する。可哀想なことに不在の間は寝ていなかったのだろう。
これで良いと一息吐いたアルクゥはごく自然に意識を妨げようとした眠気を拒絶した。
サタナは形容しがたい面持ちでアルクゥを見下ろしておりもう悪びれすらしない。
「眠る貴女を見付けたときの私の気持ちをお教えしましょうか」
優しく噛んで含める声音だった。急変が薄ら寒い。
サタナはその時を回想するように一度ゆっくりと瞬き、握るアルクゥの手首に目を落とす。力加減を思い出したのか拘束が緩むが、振り払えるほどではない。
「触れて確かめずにはいられなかった。そうして触れてしまうと声を聞きたいと欲が出た。言葉を交わせた。慮外の幸運もあった。だからでしょうか」
言葉を切って浮かされたように目元を歪めた。
「私はもう貴女以外の何もかもが、どうでも良くなってしまいました」
狂気が滲んでいる。
適当な言葉であしらうつもりが喉が引き攣り、なりそこないの声が胸郭を擦った。
そうして固まるアルクゥにサタナは下げていたもう一方の手を伸ばす。
動きを先に辿れば行き着く先は明らかなのにアルクゥは動けない。
指先が喉をなぞった。肩が大きく震える。拒絶の反応が意に介されることはなく、首を覆うように大きな手の平が押し当てられた。
生唾を飲み込む動きもつぶさに伝わったのだろう。サタナは獣を宥めるように親指の腹で喉を撫でる。
「何も心配することはありません。貴女は眠っているだけでいい」
「貴方が少し力を込めるだけで永遠に心配とは無縁でいられそうですね」
「そのようなことにはなりませんよ」
「私の気持ちは酌む気はないと」
「結果が最善のものであるならば、ひと時の不自由は見逃していただきたく」
それは誰にとっての結果なのだと、言い切る前に首に圧迫感が沈み込んだ。
息は出来るのに視界がちらつく。自由な方の手を首にやると、指が二本喉を挟んで肌に食い込んでいた。血がせき止められる。逃げようにも手首を引かれ、爪を立ててもびくともしない。
咄嗟にケルピーの名を叫ぼうと息を吸うとガチリと音を立てた硬質な衝撃で目の前が揺れた。
生暖かい鉄の味がじわりと口内に広がる。
音が飲み込まれて自分のくぐもった声が頭に響く。顔を背けようとするが喉に食い込む指で思うようにいかない。噛み付いても血の味が毒のように濃くなるだけだった。
世界は刻々と黒く縁取られていく。段々と狭くなる視野に吐息を重ねるサタナだけが居残り続ける。
至近にあってぼやけた双眸はアルクゥを見ていなかった。
好き勝手言ったくせに、見届けられるほど行動に確信を持っていないのか。
鋭い犬歯で擽るように唇を食む。僅かに離れた隙間に小さな声を滑り込ませる。
「――うそつきは嫌いだ」
或いは捨て台詞にもなりえた言葉は、現実で吐き出した音であるかも不確かだったが、夢も見ない空白を抜けてアルクゥが焦点を結んだとき、首の枷としていた手を脱力したアルクゥの支えに変えたサタナが変わらず眼前にいた。
まどろみから覚めたような感覚が正常に戻る間も、アルクゥに何をするわけでもなく立ち竦んでいる。表情は見えない。しかし窺うには分が悪い。
アルクゥは体の影に隠して指を動かし、動きが明瞭さを取り戻したのを確認してぐっと足に力を込めた。
片足を踏み込ませ思い切り払う。容易に体勢が崩れたところに抱きつくように全体重をかけ一緒に倒れ込んだ。呆気なく制圧が可能だった辺りあの苦し紛れの悪態一つが思いのほか深く刺さったのかもしれない。
サタナは呆然として腹部に陣取るアルクゥを見上げている。
見開かれた目が真っ直ぐ自分を見ていることに小さな勝利を覚え、アルクゥは首を擦りながら肩で息を吐いた。
「この体勢も存外悪いものではありませんね」
毒が抜けた軽口がぽつりと落ちる。
言葉と共に伸ばされた手を拒否する理由もなく動きに合わせて頬を寄せると、サタナは意外そうにしながらも親指の腹でアルクゥの唇に付いた血を拭う。
自分の傷は気に留めていない様子なので仕方なくお返しのように袖で擦ると痛そうに眉を寄せる。それに苦笑した。
「馬鹿なことをするからです。殴るなり蹴るなりと他にやり方はあったでしょう」
「時々とんでもないことを言いますねえ貴女は。無理ですよ。首の細さにさえ怯える馬鹿には」
「無理を通させてまで何かを望みはしません」
大きく欠けた月のように目を細め、両手で覆い隠して渇いた笑いを零す。
「知っています。……ああ一度もないな。たったの一度も。その寡欲が今は憎らしい。どうか言ってくださいませんか。私を助けろ、全てを懸けて」
「今までそうしてくださいました。これ以上懸けていただくわけにはいきません」
「貴女が失われない方法を知っています」
アルクゥは軽く目を瞠るも緩やかに頭を振る。
唐突な告白に胸が浮き立ったのは一瞬で、サタナの言動とこの瞬間まで秘してきた事実が悪いものだと教えている。
聞く気はないと示したアルクゥだが、サタナが訥々と話し始めても遮ることはしなかった。その息継ぎさえ聞き逃さなかったことが、本当の望みであることにも気付かず、黙って耳を傾ける。
「ただし私自身が得たものではなく盗み見たものです。魔女ヒルデガルドがそうであったように、ベルティオに取り憑かれた私もその思考を後ろから眺めることが出来ました。あの男の気質に感謝すべきか、シリューシュという女性に無様に立ち去られても執着は続いていた。それだけならば嫌悪を催すものでしかありませんが、どのように彼女を取り戻すかという思考の部分には有用なものがありました。
獅子となった彼女を捕まえ、再び今まで通りの処置を施せば戻ってくる。
無論、不可能です。捕まえるどころか探し当てることも。可能ならば紛い物など作って虚栄心を満たす必要などありませんから。
ですが奴は愚かにも出来るものと信じ込んだ。或いは思い込みたかっただけかもしれませんが」
発想は明快だと唾棄するように言う。
「人であることが薄れてしまうのなら別の人間一人で補えばいい。末期ならば過不足なく一人分、魔術師か学者が望ましい。酷使されていた彼女には片手では利かない数の命が積み重ねられましたが、貴女は違う」
ベルティオの病み患った思考を経由して話はアルクゥに大きく距離を詰める。
人としての生を全うするために必要なのは他人の命一つ分。強きが食するという摂理に見せかけた道理に反する結論で、サタナの企みの全容だった。
仇敵の研鑽が巡って自分の助けとなる。これほどの皮肉は無い。最大の意趣返しでもあるだろう。
しかしそれは手段が適法でなければならないのだ。
どれほど魅力的に思えたとしても、それしか方法がないとしてもだ。
海魔が空を覆った夜、アルクゥはベルティオに反し、それを拠って立つところとして抗い続けてきた。ベルティオを悪と謗り、そちらに僅かにでも寄らないように自分の矜持に言い聞かせてきた。
不帰の可能性のある故郷に戻ってきたのはその理があったからではないのか。
サタナの案を受け入れると始まりの道理は失われる。信念に沿ってこのようなことになったのに、いざ助かる道が現れたからといってその信念を捨てられるものか。
「私が眠っていたら、死体になっていたのは誰ですか」
「ここに」
拒絶を悟ってか口の端を自嘲気味に上げ、サタナは迷いなく自分の心臓付近を指差す。ベルティオと同じだと軽蔑するかと問われ、アルクゥは答えられなかった。




