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精霊のシジル  作者: 染料
六章
131/135

第百三十話 死生の餞


 掴んだものはアルクゥの手には少し余る大きさだった。

 つるりと丸く、鉱石を思わせる硬さと冷たさで、生き物を真似て鼓動のようなものを繰り返している。外敵の侵入を許し卵としての役を失った肉の殻に遠慮なく足をかけ、それを渾身の力で引き寄せた。すると今まで容易く侵入を許していた柔らかな感触が強張る。急ごしらえの骨や筋を作り核を盗人の手から庇おうとするが、遅い。未成熟な部分を巻き込み核をぶちぶちと引き千切る感覚を手の平で快く受け止めながら、体表付近まで引き摺り出した。

 怪物のほの白い体表と相反した真っ黒な珠が半分姿を現す。

 粘ついた白い糸が何本も菌糸のように複雑に絡み核を元の位置に戻そうと蠢く。その抵抗を鼻で笑ったアルクゥが一層指に力を込めた瞬間、手の平が熱くなり力が抜けた。

 取り落としそうになって掴み直しても濡れたように滑る。


「逃げるな!」


 指から逃げる核を追うと今度は肩が、次は太腿がじくりと熱を持ち、その箇所を圧迫する何かに押し負けてじりじりと後退していく。抗って一歩一歩前進し、再び核に爪が届きそうだった時、目の端で肉塊の表面が泡立った。沸騰間際の湯のように沸き立ち、見る者に明らかな危機を煽る状態だ。

 それでも無視を決め込み前しか見ていなかったアルクゥの背中を熱波が襲った。

 赤く包まれた視界と肌を炙る熱は思考に猶予を与えず、体が先立って退避を押し切る。

 がむしゃらに真横に転がり外聞もなく両手でパタパタと髪を払う。不自然なことに火傷はなかった。


 体勢を立て直したアルクゥは霧に霞む小山のような影を睨み付ける。


 頭を上げてこちらを向くシルエットは薄く口を開き、鋭い歯列の隙間から灰色の煙が棚引いている。僅かに戻った力でアルクゥごと肉塊を焼き尽くそうとしたのか。微かに苦いものを感じたが仇敵に目を向け直せばそれも掻き消える。

 肉塊の奥に沈んでいこうとする怪物の命に再度狙いを定めたとき、今度は視界が震えるほどの咆哮がアルクゥの足を縫い留めた。


「お前、何が」


 したいんだ、と怒鳴ったアルクゥの目の前を赤黒い線が甲高くしなった。鼻梁の薄皮が音を立てて切れる。瞑る間もなく見開いたままの両目は、あと一歩の所で眼球を二つとも切り取っていたそれが肉塊から伸びた鋭利な棘であることを捉えていた。

 ――助けられた。

 敵に真っ向勝負を挑むしか能のない聖人の衝動が強い動揺で薄まる。その隙間になけなしの理性をねじ込み体の状態を確認した。

 手足に無数の赤黒い穴が開いている。

 血の気が引いた。これは寧ろ見ない方が良い類の怪我だ。心が視覚に引き摺られてしまう。

 衣服は重たく濡れ、吸いきれなかった赤黒い水が大粒の雨のように足下を打っている。興奮状態の頭は寒気を催す傷口の痛みを遮断しているが、身体の動きは損失に正直だ。深まる倦怠感に止む無く優先した止血の間に、怪物は心臓を安全な場所へと完全に仕舞い込み、肉の殻を急激に変化させ始めた。

 千変万化というに相応しい光景だった。

 棘から盾に、そして剣に。無機物から生き物に。断末魔を叫ぶ人の顔に。

 伸び、撓みを繰り返し、やがて表面は凝固して連なる鱗に変じた。肉塊としか呼べなかった不気味な物体は、今や球体の蛇のような見た目だ。それまで息もつかせずと姿を変えていた肉塊は見せつけるように鱗を纏ったまま、一部を変化させて嘲笑を浮かべる口を作り上げた。

 歯列の隙間は黒い弓なりの月を模り、奥は井戸のように真っ黒だ。

 今にも呪いを吐き散らしそうな口は、ひゅう、と息を吸い込むか細い音を立て、その隙間風が吹き抜けたかのようにアルクゥの背骨が軋み凍り付く。

 強張った背中を風が押す。

 進むことを恐れた足が一歩下がる。それでもしつこく風は押す。

 靡いた髪が一向に落ち着かず、不審に思い周囲を見回した時には、重く滞留を続けていた霧が激しい勢いで逆巻き、笑みを浮かべる肉塊の口に向かって地面を滑り始めていた。

 霧の天地が目まぐるしく入れ替わりアルクゥの平衡感覚を狂わせる。

 泣き喚く風の音に、みちみちと何かが張り裂ける不穏な音が混じる。

 喉が乾いて空気を嚥下する。額にはじっとりと脂汗が滲んでいた。気付けば、無視できていたはずの穴だらけの手足が激痛を訴えている。

 アルクゥは恐る恐る空気の匂いを嗅いだ。潮の匂い。血の臭い。嗅ぎ取れたのはたったの二つで、アルクゥの敵意を極限にまで煽っていた悪臭は消えている。

 明確な線引きだった。

 ここからはもう聖人の領分ではない。

 広場に満ちた白海は瞬きの間に彼方へと引き、足を掬われないように屈んでいたアルクゥは風が収まるのを待って体勢を整える。波間に漂う感覚に負けないように地面を踏み締め、霧の干潟に立ち現れた風景に見入る。


 眩むほどに鮮やかだ。


 瞼を半分落とし、肌に感じる熱に空を見上げる。羊の群れに似た高積雲を散らす青空に昼間から落ちかかった太陽が輝いている。胸がすくような秋晴れが天に広がり、その下には鮮やかな煉瓦色の石畳、象牙色の建物は柔らかく陽光を返して、穏やかな港町の一風景が夢のようにそこに存在していた。

 同じ空を見たのだろう。遠くでは歓声が木霊している。

 広場の真ん中に陣取る色彩を欠いた白い怪物が、それに応えるように濁声を上げると、霧晴れを喜ぶ声は面白いように沈黙に溶けた。




 アルクゥは一歩一歩、ほとんど魔力で体を操り音を立てず後退する。

 白くぼやけた怪物は両手を地面に付き、ゆっくりと逃げるアルクゥに目線を合わせて頭を傾いでいた。

 どれだけ下がっても遠ざかった気がしない。端が肉の殻に入ったままで全体は測れないが、それでもとにかく巨大だ。ラジエルの怪物は縦に圧迫するように大きかったが、こちらの怪物は蛇のような長い体と鱗を持っている。そこにポツンと乗っかる人間の頭が巨体にそぐわず不安定で得体の知れない不気味さを漂わせていた。

 あまり考えたくはないが――龍になり損ねた人間のようにも見える。気味が悪い。

 怪物は一枚の悪趣味な絵画のように静止してひたとこちらを凝視している。

 アルクゥは思わず目線を断ち切り空を探す。

 長閑に流れる雲間のどこにも、小さく期待していたものの姿はない。

 落胆しかける心を叱咤して無意識に怪我を避けていた左手を握る。対峙している怪物の姿を楔の先に送り、こちらに来るなと警告した。


 決して刺激しないように慎重に退避を続ける。物音一つが致命傷になりかねない。緩やかな動きは時に機敏な動作よりも難しく、傷がしくしくどころか号泣しているが、急に動いて怪物が動き出すことを考えれば痛みに耐える方が幾らもましだ。

 そんな事を考えて気を紛らわせていると、後ろに擦っていた踵が何かにぶつかる。

 不慮の事態に喉を擦りそうになった悲鳴を飲み込む間にも体は後ろに傾いていく。しかし倒れるまでに至らない。肩甲骨辺りをそっと支える硬い感触に安堵すると同時に、どっと冷や汗が噴き出した。

 後ろ手に転倒を防いでくれたものを探る。岩のように硬くて、その感触の下は命を感じさせる熱を発している。呼吸には火の匂いが混じっていた。


「逃げられますか」


 ほとんど吐息だけの擦過音で問う。竜から返答と思われる反応はない。

 アルクゥは鼻に皺を寄せ、怪物に向ける目を注視から睥睨に変える。微動だにせず彫像の振りをしているが、転倒しそうになって目を離したほんの一瞬で少しばかり近付いた。

 アルクゥの視線を恐れて間隙を突いたのではない。

 遊ばれているのだと知り、消えかけていた戦意が僅かに火を取り戻す。

 怪物は気まぐれに身を乗り出すだけでアルクゥの稼いだ逃げ道を潰せる。いつでも引っ繰り返せる盤だ。児戯は勝敗が決する前に一方的に打ち切られる。

 どの時点でか一度は迎撃して怪物を退けねばならない。

 アルクゥは後ろに右手を向けて大きく息を吸い、止めながら唇を噛み締める。竜が逃げる為に必要な量の血が落ちるまで握り込んで、痛みに零れた涙を指先で払い両足を踏み締める。

 ここが死線だ。

 そう定めた直後、竜が這いずって逃げる音を聞くよりも早く、無秩序な足音の群れがぎくりと心臓を強張らせる。怪物の注意がアルクゥから離れ、ゆっくりと上がり、後方に絞られていく様が手に取るように感じられた。

 アルクゥは大きく振り返り、直後襟足を乱暴に巻き上げた風に咄嗟に頭を庇う。

 頭上を通過していくほの白く光る体は鱗の形が霞む速度で幾重にも曲げていた体躯を伸ばし、広場から大通りに繋がる位置で呆然とする兵士たちに向かっていく。その中に居る黒衣の聖職者が自分を含めて兵士たちを怪物の注意を引く囮としたことに気付き、今度こそ盛大に舌打ちして長剣に飛びついた。

 激痛の悲鳴を飲み込み、剣を大きく振りかぶる。

 良くて弾かれる、悪くて半端に刃が噛み引き摺られる。両方を想定して切っ先を突き入れたが、千年の大樹よりも太い胴回りはほぼ抵抗なく刃を受け入れた。

 アルクゥは勢い余って剣を振り抜き、重さに振り回されてたたらを踏む。怪物の進撃に合わせて遠ざかる傷口を目で追う。一拍置いて剣筋をなぞるように塞がっていく。

 肉の重みがないのはラジエルの怪物と同じ、再生速度は圧倒している。一時的にでも切り落とさねば駄目かと歯噛みした視線の先で、退くことを躊躇った兵士が五人命を喰われた。

 怪物は触れた途端に絶命した兵士を高く持ち上げ矯めつ眇めつしている。

 それを助けようと動く兵が半分、後退した兵が少数、他は動き方を迷っている。アルクゥは再度退避を叫ぶが、それを聞かずに仲間の助命に動いた者たちが再び容易く毟取られる。

 兵士が混乱の坩堝に落ちる寸でのところ、指揮官が後退を叫んだ。接敵から数秒、足並みが乱れ切った兵士はその迅速な判断を頼りに動く。殿を務める構えを見せるのは指揮官のウルススとサタナの二人で、どちらとも失うわけにはいかない。


「お前の、相手は、私だ!」


 昂るままに振り翳した手に応じ無数の刃が怪物を取り囲むが突き刺さる瞬間に溶けて吸収される。生命食いは意識の外側で勝手に行われるようだが、力が流れ込む感覚はあるのだろう。怪物はようやくアルクゥを思い出したようで両手に死体を握り締めたまま振り返った。たったそれだけの動きなのに威圧感で潰されそうだ。

 来る。ぶわりと冷や汗が全身から吹き出る。

 身構えるアルクゥに体ごと向きを直した怪物は、ふと風の匂いを嗅ぐように顔を上げる。タイミングを同じくしてほの白い顔の額辺りを銀の軌道が通過した。それが位置をずらして立て続けに四度。

 暈けて表情が判然としない顔面が縦にずれ、白い糸を僅かに引きながら石畳に落ちる。

 落下した顔面を不思議そうに見る切り口も、轟音の一拍後に飛んできた石塊に四散した。

 一応戦いの心積もりはしてきたらしい。だが、と既に始まっている再生にアルクゥは眉根をきつく寄せる。根本的には解決しない。


「アルクゥ!」


 切羽詰まった声に引き寄せられるように視線を返す。

 冷やりとする位置で怪物の傍を走り抜けこちらに来るサタナを目にし、少しでも距離を縮めようと踏み出したところで膝が崩れた。これ以上は耐えられないと閉じていた傷口が開き赤い涙を流している。

 それでもどうにか立ち上がったアルクゥのうなじに生臭い風が吹き付けた。

 肩を揺らして振り返る。真後ろに赤黒い洞窟のような穴があった。

 虚を突かれて固まっていると、穴は僅かに傾いでずいとアルクゥを招き入れ、閉じた。生暖かい。間髪入れずに視界が回り、斜線を引く風景が目前を流れていく。アルクゥは竜に投げられていた。


「ぐっ……」

「新しいご友人ですか」


 硬い腕に抱きとめられ、衝撃が傷に響いて体を丸める。

 サタナは硬直するアルクゥに粗雑な扱いを謝罪し、肩に抱え直して低く地面を蹴る。一瞬の後、今し方居た場所を死体を握り締めた怪物の手が叩く。頭の再生は終わったようだ。

 追い掛けてくる巨大な手の平にサタナはチラリと後ろを見、空いている側の手の指先に噛み付いて黒い手袋を引き抜く。


「あれに魔術は効きません!」 

「大丈夫です。承知しています」


 サタナは石畳を撫でて指先を傷つける。

 滴る血液を触媒に石畳に術式が刻まれ魔術が発動した。ほとんど力任せに行使された術式はずんと突き上げるような振動を発して石畳に放射状の亀裂を入れる。加減無しの一撃に、亀裂は二人を遠く追い越して退避する兵士たちの所にまで及んだ。

 攪乱を、とサタナの囁く声をアルクゥは逃さず捉え、怪物の注意を引くことに尽力するが、煙での目隠しも刃での攻撃も砂が水を吸うように消えていく。


「これも駄目かっ……!」


 青と橙の火はその性質上竜をも問答無用で灰にするが、所詮は魔力で出来た熱だ。絶対の武器をも吸収され苦い顔をしたアルクゥは、ふとした思いつきでサタナの懐に手を突っ込む。露骨に肩が跳ねたサタナに謝罪しつつ、探り当てた小瓶を引っ張り出し怪物に投げ付けた。

 本物の龍霊の火だ。さてどうなると放物線を描く小瓶を見送るにつれアルクゥは口の端を上げる。

 怪物は火の灯りすら悍ましいと言うように、触れてもいないのにのたうって肉塊の傍まで体を縮ませた。やはり天敵の気配は恐ろしいか。

 怪物の後退を報せると、サタナもまた足を止めて体を反転させる。進行方向と反対向きに担がれていたアルクゥの視界も反転し、少し先にいる魔術師のモーセスと目が合う。毒喰らわばという顔で猛然と術式を組んでいる中年の魔術師からやや前方に目を逸らすと、剣を握り静かに魔力を練る指揮官のウルススが目に入った。足下には予備するように五本ほど抜身の剣が横たえられている。


「心を乱す妨害があったので上出来かまでは保証できませんが」


 傍で申し立てられた不服を聞き返す間を置かず、後ろの空気が震えた。

 陽に照らされ斜めに落ちたアルクゥとサタナの影が下から上に真っ黒に塗り潰される。ふいの暗闇の中でサタナの肩に手を突いて半身を捩ったアルクゥは、一秒前とまるで様相を変えた広場に目を丸くする。敷き詰められていた石畳の大半が消失していた。

 何をしたのか、と問う自分の声が轟音に麻痺した耳には遠い。同じく、答えたサタナの声も遠かった。


「石畳を砕いて上に吹き飛ばしただけです。瓦礫はただ重力に従って落ちる。魔力の籠らない無機物は正しく当たる。当たった部分は欠損する。それなら再生が追い付かないようにすればいい。楔から思考が漏れるほど貴女が熱烈に求めていた心臓部を探し出せます」


 だから怪物の性質を了解していたのかと納得しかけ、


「いえ待ってください、竜は」

「鱗の加護があります」


 適当なと絶句する暇もなく、段々近付いてくる落下音に備えて耳を塞ぐ。上空に蟠り太陽を遮っていた黒雲は、落ちるにつれ結束を失い、黒い雨として広場に降り注いだ。

 怪物の白い体が黒い雨に穿たれ削れていく。人の肉体よりも脆い体は重力を味方につけた砂礫を受け止めきれず、小石すらにも貫通を許し、やがて損壊が再生に勝った。

 一見しての勝利に兵士が湧くが、ここまでが徒労であることを理解しているアルクゥたち魔術師は息を詰めて核を探す。

 土煙は舞った端からモーセスが風で散らしている。視界は悪くない。あとは見逃しさえしなければ。

 怪物が半分ほど体を失ったとき核の黒い光沢が土くれの隙間に煌めいた。

 「指揮官!」とサタナが声を張って間髪入れずウルススが剣を投擲した。


 瓦礫の残雨を弾きながら胴体下腹部に現れた核に銀色の剣先が走る。モーセスが咄嗟に風を止めたが、流される危惧も感じられない真っ直ぐな一擲だ。


 しかし一分のずれもなく核を穿つと思われた一撃は的をすり抜け、それまで真っ直ぐだった剣先を回転させながら不自然な弧を描き近くの建物に突き刺さった。

 アルクゥの目では外れたのか逸らされたのかも判然としないが、サタナが未練なく踵を返したのが全てを物語る。これ以上の攻勢は無駄だと澱みない歩調が告げていた。

 途中、鼻に皺を寄せるウルススと、アルクゥと同じく何が起きたか分かっていないモーセスと合流して兵士が待機する安全域まで下がる。


「おい、おいキミ、お互いよく生きてたな。何が起きたか見えたか」


 モーセスは張り詰めた糸を弾くかように落ち着きがない。アルクゥはその浮足立った様子を宥めるつもりで口を開くが、自分の声もまた上擦っている。


「さあ……当たらなかったとしか。ケルピーは?」

「脚を怪我したので置いてきた。それならそっちの二人、どちらか説明したまえ」


 これには腕に刻んだ強化の血文字を拭っていたウルススが答えた。


「アルクゥ様の言った通りです。当たらなかった。私の目には本来衝突していた部分が接触した端から消えたように見えました。刃が欠損したのであのように不自然な曲がり方をしたのでしょうな」

「あー……つまり、何だ?」

「防がれたでも弾かれたでもなく、当たらなかった。考えてみれば、白い体への攻撃も一見有効のように見えて結果的には意味をなしていない。上手くは言えませんが……少しも干渉している気がしないのです。試行錯誤を繰り返せば見える勝機もあるやもしれませんが、回数を熟せるほどの頭数はこちらにはない」


 怪我をおして指揮官を務めた大男は数を半数以上減らした兵士を見渡して首を横に振る。


「あの巨躯には魔力を感じない。魔力がないのに、骨も筋もなく動く。魔物ではないのに動物とも思えない。その上、触れたら死は一瞬だ。人造の魔導生物とはあのように理屈を超越するものなんですか」

「そんなわけあるか。竜種を越える人造生命すら未だないのだぞ。だからあの化け物は、きっと何かの間違いだ。これだから魔術を修めていない人間は……」


 モーセスは己を整える強がりを途切れさせ「何の音だ」と呟く。アルクゥにも聞こえた。

 特に鋭く響くでもない鈍い音だった。

 音を辿ったモーセスの顔が凍り付いたのを見て、その視線を追おうとしたアルクゥの目は温かな影に隠される。両手で外そうとしても外れない。


「見ない方が良い。このまま退きましょう」


 視覚に代わって研ぎ澄まされた耳は鈍い音が段々と水気を帯びていく過程を余さず聞き取る。誰かが泥に足裏を叩きつけて遊んでいるような、そんな音だ。周囲の沈黙に一層引き立てられて耳に残る。サタナの声は出来得る限りアルクゥから残響を拭おうとしていた。


「怪物は尾の先に繋がった肉の殻を杭のようにして動いています。これからどうなるかは分かりませんが、今のところ行動範囲は制限されている。それに貴女が霧を晴らしたことで外からの援助も避難も可能になった。ここで手打ちにしませんか」


 しない、とアルクゥは答える代わりに握る力を強める。するりと目隠しが外れた。近くにあるサタナのほんの少し苦く歪んだ眉目を見返してから地面に降りた。モーセスが止めようとしていたが、せり上がってくるものがあったのだろう、声を出さずに嘔吐いて口を押えている。

 アルクゥが顔を向けた瞬間に異音は止む。

 感じた作意は真っ赤な光景に塗り潰された。音の出所だったであろう怪物の手元には土が吸いきれない程の血溜まりが広がり、その中には個の判別もつかないくらいぐずぐずになった肉と砕けた骨が死んだ兵士の人数分だけ浸かっている。

 玩ばれたと容易に理解できる惨状はあえて見せつけるように行われており、だからこそ潜む意図を察することも容易い。そして分かっていても湧き上がる嫌悪が足裏に粘り付く。

 人間が時に感情を上位に置いて動くことを知る所業だった。

 ものの見事に引っかかり、戦術的撤退すら念頭から吹き飛ばした阿呆がアルクゥ以外にも兵士の中に散見する。


 魔物の足止めは任せる、だから怪物は請け負うとアルクゥは言った。


 あの無残な姿となった彼らは役目を果たした。では今こうして残骸を眺める自分はどうだ。

 アルクゥは侮蔑の目で仰々しい鱗の生えた両手を見下ろす。

 鱗の内側は朱、薄く雲がかかったような翠を挟み、吹き抜けるような空の青を映す。艶のある表面はよく覗き込むと鏡写しの自分が見返す。

 感情に任せて蛮勇を奮うだけでは駄目だ。考えなければならない。届かなくなった手を届かせる一手を。切り口を探して記憶が駆け巡る。

 走馬灯のようだ。

 そう考えたアルクゥは、目を見開き一つ息を呑む。そして強く両手を握り締めた。


「――私がここで退くのは恥です」

「命よりも恥を重んじますか」

「貴方もそうだから怪我を負った身で指揮官に名乗りを上げたのではないのですか」


 咎めたウルススは逆に怯んだように顎を引き、視線を斜め下に避難させてそれからサタナに説得を望んで目配せする。しかし琥珀色の眼差しは一点以外を視界から排除しているようだった。

 口舌と腕付く、説得となれば両方共に一番の難物は、肝心な時にその心の内を暴露しようとしない。


「私に手伝えることはありますか」


 どうなると身構えていたアルクゥは目を丸くする。


「止められると思いました」

「僅かでも迷いがあるのなら、憎まれようが力付くでも。ですが本意ならば蔑ろには出来ません。例えそれが危うい決意であろうとも……どうにも強く出られない」


 困ったことに、とサタナは眉を下げて笑った。

 幼い子供の相手を持て余すようでいて、低く落ち着いた声音は相手を対等なものとする色で、それは内面の機微を表すように複雑だ。

 アルクゥは左手の甲を撫でる。


「それなら……後で私の名前を呼んでください」


 サタナのきょとんとした表情を見て気まずくなり目を伏せる。全く違う意図であるのに、これでは恋人に名を呼べとねだっているようではないか。

 サタナは仔細を問わずおもむろに口を開く。


「アルクゥアトル」

「いや今ではなくて」

「練習しておこうかと思いまして」

「お願いします」


 額に手を当てて溜息を吐いたアルクゥにサタナは深く頷いた。


「必ず」


 歯切れの良い返答に皺を寄せていた眉間を開き、瞬きをして研いだ眼差しを怪物に向ける。「借りますね」と近くの兵から剣を借り受け、長剣よりも小振りで扱い易そうな柄をしっかりと握った。

 息を吸い込み肺の隅々にまで空気を行き渡らせる。

 蒼穹を流れる風が時折地面に降りてきて、頬を撫ぜる感触が心地いい。その一時だけは辺りに充満する血生臭さが吹き払われ故郷の匂いが顔を出した。

 久しく忘れていた匂いだ。遠い幸せな昔を思い出す。


「……また後で」


 狂おしい郷愁に包まれて、アルクゥは剣を逆手に返し自分の胸を貫いた。

 熱い。

 周りの誰かが絶叫した声も、手足の感覚も、水中のあぶくのように遠ざかり、反対に胸の辺りは火が燻っている。自重を支えきれなくなった膝が地面に落ちるとその反動で更に深く剣が通る。呼吸に絡む血が舌を焼く。

 ――思い付いたのは前例の模倣だ。

 マニはいかにしてラジエルの怪物を殺しただろうか。

 これがその答えだった。


 肉の殻は邪魔だ。


 四肢の端から温度が抜けていく。

 薄い膜が張った頭は徐々に空白を広げていく。

 そこに強引に割り入った憎悪にも似た強い思慕にしばし意識は細く延長した。何の瑞兆もなく正しく死ぬと思われている。不帰と不屈を天秤にかけた賭けだったことは否めないが。

 自分たちは全うすべき事柄を前に簡単に絶えるほど潔くはないのだ。

 死すらも跨いで別のものに反転する。

 閉じていく瞼の隙間から瞳の中に夜明けが溢れ、次に訪れる穏やかな目覚めに睫毛を震わせた。頭を持ち上げて喉を反らし天を仰ぐ。近くなった青空はやはり懐かしい匂いが流れている。

 物は壊れる。生き物は死ぬ。朽ちぬものはない。精霊でさえも。


 それでも自らを呼ばう声があるのなら、我々は昏い夜の淵からすらも立ち返ることができるのだ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 額から伸びた白銀の枝角が、硝子を流し込んだかのように艶めく鱗が、陽光を滑らかに弾く。

 炎から生まれた龍は髭とたてがみをそよ風に波打たせながら宙に留まり、強い金色を輝かせてひたと白い怪物を見据えている。

 サタナは呆然と見上げ、空白となった腕の中を見下ろす。

 掻き抱いていた細い体はなく残っているのは血の痕ばかりだ。龍の顕現は腕に居た娘の存在を夢のように霞ませた。

 胸中に吹き荒れる感情は不安というには生温く、証を求めて振り仰いだ視線の先、怪物を睨んでいた龍が静かにこちらを見詰めている。間違いなく見知った色の瞳は、サタナが見入ってしまう前に翻り、物欲しそうに己を手招く怪物を射抜いた。

 龍は弓を引くように細く優美な体躯を逸らし、渦を巻いて飛び出していく。

 巻き上がる土埃の先で龍は怪物に食らいついた。

 奇襲で腕を噛み千切ってからは小馬鹿にするように宙を自在に泳ぎ、怪物は苛立ちも露わに片腕を振り回す。サタナたちの攻撃に対して容易く欠損し再生を繰り返したほの白い体は、龍の顎には確かな手応えを返すのか、腕は千切れたまま再生しない。

 龍はひとしきりの挑発の後、急に頭の向きを変えて真向いの大通りに疾走する。怪物は対応できず巨体をもたつかせ、バランスを崩し体をあちらこちら建物にぶつけながら光を引くたてがみを追う。


 二体は時折交差し縺れながら遠ざかり、みしりと何かが軋んだ音を皮切りに両者ぴたりと止まった。


 限界まで体を伸ばし切りそこから進めなくなった怪物は、首をぐるりと回転させて尾に張り付いた肉の殻を見る。球体を半分割ったように開く肉の卵殻は怪物の体躯に比べて余りにも小さいのに、怪物にとっては引き摺って歩くことも出来ないほど重いらしい。

 眼前に浮く龍まであと一息、どうにかならないものかと控え目に体を揺する度にみしみしと肉の殻が軋む。

 今にも千切れそうで千切れない。怪物自身が加減しているようにも見える。見ている側の不安を掻き立てる綱引きだ。

 鼻先で行われるそれを眺めていた龍はにわかに体を反して逃走空路を逆走する。

 風すら置き去りにして広場に翔け戻り、勢いを殺さずに怪物の尾に深々と噛み付いた。

 追い掛けようとして鈍重な方向転換を試みていた怪物は、その瞬間無声の悲鳴を上げた。

 脳天を刺す音にサタナたちは頭を抱えて蹲る。傍では糸が切れたように白目を剥いて兵士が倒れていく。

 龍は叫喚を意に介さず尾に食らいついた牙を更に深く食い込ませた。

 片腕を振り回し這いずりながら戻ってくる怪物を一瞥もせず、何度も何度も噛み直して怪物の尾を削っていく。わざわざ尾先に張り付く肉の枷から解き放つ行動をサタナは危惧したが、龍の牙に迷いはない。

 最後に龍は大きく頭を振り切る。

 ぶつん、と尾が千切れた鈍い音が、奇妙なまでに遠く伝播し長々と空気を震わせた。


 尾への執心から醒めたようにはっと顔を上げた龍は、視界の外から鞭のように撓った怪物の体に弾き飛ばされる。優美な体躯が石畳が剥がれた黒土の上を滑りサタナの前で止まった。

 龍は即座に上体を起こし鼻に皺を寄せて獰猛に唸りを上げる。

 真っ赤な夕焼け色を帯び始めた瞳の色はさながら警戒色のようでつい先ほどまで確かにあった人の理知が感じられない。

 怪物が叫ぶ。正気を削る声がサタナの鼓膜を裂く前に龍もまた大顎を開いて、天を崩しかねない咆哮で相殺する。

 焼け付く痛みに顔を顰め、サタナは左手を見て息を呑んだ。手の甲に描かれた契約印が赤熱し、端から徐々に灰色に燃え尽きつつある。

 龍はふら付く四足で立ち上がり、ふわりと宙に浮かび体勢を立て直す。


「アルクゥ」


 行かせてはならないと思った。だが彼女が自刃してまで望んだ結果はまだ得られていない。

 引き止めるか否かの狭間に佇み、口から零れた呼び声はあまりに頼りない。それでも龍は前のめりに動きを止めて煩わしげにサタナを見下ろす。

 ――後で私の名前を呼んでください。

 後とはいつのことだろうか。今この時か、それともこの先か。

 用がないのならばと龍は視線を怪物に戻した。鋭い歯列を剥き出しに唸り、隙間からは炎が零れている。「アルクゥ」ともう一度名を呼んでみても今度は振り向いてはくれなかった。

 このまま送り出せばもう戻ってこないのではないか。

 悪夢のような考えが頭を過る。一度でも背筋に張り付いた寒気は鼓動を重ねるごとに不吉の影を深めていった。

 それでも決心がつかない。二度と意思を妨げるべきではないという後悔の呪いが脳裏には深々と刻まれている。

 だが、それでも――失われるくらいならば。

 サタナは口を薄く開いて喉仏を震わせる。


「アルクゥ」


 龍は弓なりに背を曲げる。

 もうその金眼に映っているものは倒すべき怨敵だけなのだろう。

 ――恨まれても蔑まれても構わない。

 その結果殺されることになろうとも、それこそ自分の本望だろう。

 吸い込んだ空気は喉のつかえを押し流し、よく透る音となって広場に響き渡った。


「アルクゥアトル!」


 龍は名前に縛られたようにぎしりと硬直する。

 瞳が葛藤に揺れた永遠にも思える数秒の後、残光を引いて地に落ちた龍は、風にまかれる砂金のように崩れ、倒れた娘の姿だけが残った。

 体を抱きかかえ胸の上下を確認し、サタナは心臓が溶けるような安堵を得る。

 「生きてたか!」と駆け寄ってきたモーセスが傷一つないアルクゥを興味深げに覗き込もうとするのを遮り、怪物はと醜悪な白い巨体を探す。


 枷から解放されて自由になった怪物は、狼狽するように空に視線を左右させている。


 襲ってくる気がないのなら好都合、このまま姿を眩ますだけだ。見切りを付けてアルクゥを抱え上げようとしたサタナは腕に置かれた細い指先に動きを止めた。爪先から腕を辿る。寝ぼけ眼の金色が自分の顔を映している。

 高揚か恐怖にか、強く跳ねた心臓は、導くように指差された青空に視線を持ち上げたときには意味合いを変えていた。

 雲が風音も立てず急速に流れている。

 目紛しく滑るように動く天球と同じく、気付けば潮騒や鳥の音、自分の呼吸すらもしじまと同化していた。

 全てが各々の存在を潜ませて、これから起こる何かに備えている。サタナにはそう感じられた。

 息絶えたと思われていた無翼竜も弱々しく瞼を持ち上げる。

 何か来る。

 港に在る者たちが漠然と感知した一瞬、棚引く白雲と青の隙間に影が横切った。

 息を殺すほどの注目を集めていた空の一点、そこに穴が空いたかのように無声の風が吹き下りてくる。

 身動ぎ一つが重たく感じる風の中、腕の中の温度がするりと抜け出て隣に足を下ろす。

 真っ直ぐな立ち姿は暴風にも不思議と揺らがない。アルクゥは土に這い蹲る怪物を見据え、このような状況に置いても物欲しげに手の平を向けてくる怪物を鼻で笑った。その人間じみた仕草がサタナの不安を殺してくれる。


 怪物の巨体に影が差したのはそれからすぐのことだった。


 姿は見えない。大きな影だけが怪物のほの白く光る肌に落ちている。土の上に転がった小瓶の炎が共鳴するように激しく燃えていた。

 長い優美な体躯の影だった。それが何であるかはこの場の誰もが知るところだ。つい先程まで目にしていた形だ。

 覗き込むように頤を寄せた影は、駄々を捏ねるように首を振り続ける怪物の胴体に深々と爪を立て――不意に風が途切れ、両者は忽然と姿を消した。

 太陽が陰り、薄闇の中で全員が一斉に空を振り仰ぐ。


 溶かした宝石のように広がっていく明けの夜空だった。


 見慣れた色にサタナは空一帯を覆うものが炎だと気付くが、感覚は夜を錯覚している。

 黎明はゆっくりと空を巡っていく。

 そしていつも必ずそうするように、惜しむように明けていく。


 雲一つない澄み渡った青が高く広がる。


 そこに小さな染みがぽつりと垂れて、かつんと広場に落ちてきた。

 寂しげに転がった無数のヒビを抱えた黒い珠に、物憂げに空を仰いでいたアルクゥが近付く。そしてしゃがんで指先で弾いた。

 可愛らしくもある止めに珠は空気より軽い破片になって崩れ、跡形もなく風に攫われる。

 立ち上がったアルクゥはしばらくの間両手を見詰めていた。やがて視線の的になっていることに気付くと眉をひそめ、思い出したように一言添える。


「私たちの勝ちです」


 静かな戦勝報告に快哉は上がらない。犠牲は大きく、皆が一様に口を噤んで胸中で痛みと終わりを感じ入る。

 からからと風に転がされて足先にぶつかった小瓶をサタナは拾い上げた。未だ炎を擁するそれを返そうとして顔を上げ、眉をきつく寄せて瞑目する持ち主に声を掛けそびれる。

 遠くさざめく潮騒が黙祷を縫って流れていく。

 かくしてエルザ港は災禍を退け、死して尚悪辣を極めた魔術師の怨嗟も完全に断ち切られたのだった。

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