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精霊のシジル  作者: 染料
六章
130/135

第百二十九話 透明な利己

 光の異界は霧を受け付けない。


 アルクゥはすっかり見通しが良くなった道をまろぶように走り抜ける。距離があると思い込んでいた目的地は背後に残してきた戦場からでも目視できる位置にあった。その近さに驚くと同時に石畳を蹴る足がいっそう逸る。足の裏がじんじんと熱を持ち、脇腹が差し込むように痛んだが、止まれそうにない。途中拾った持ち主不明の長剣の重さも気にならなかった。

 霧による変容を拒んだ幽世ではあったが、しかし不変というわけでもないようだ。

 いつも目に眩い世界の装いはどうしたことか、打って変わってすすき野を照らす淑やかな黄昏のようだ。万物が優しい金色の輝きを帯びている。吸い込めば喉につかえる幽世の空気もどこか甘い。不思議に思ったが、幽世に暮れがあってもおかしくはあるまいと深くは考えない。それが決定的な瑕となり得うる可能性があっても今は考察する時がなかった。

 然したる苦もなくアルクゥは広場に辿り着き、名残を惜しみながら霧の蔓延る現世に抜け出る。肩を上下させ短く息を弾ませて辺りの様子を窺った。

 円状に展開する広い空間に、その縁を飾るように無人の露店が立ち並ぶ。

 少し先は霧に覆い隠されているが、進めば干乾びた竜がいて、その近くに肉塊の怪物が鎮座しているのだろう。

 呼吸を落ち着けたアルクゥは、咳をして息苦しさの残る喉を整える。引っかかった違和感は消えない。

 何だここは。

 魔物の不在を除けばサタナの目を通して見たときと変わらず、取り立てて異常は見当たらない。しかし風景の要素となって実際にこの場に佇んでみると異常がないこと自体がおかしいことに気付く。

 惨劇が起きた広場には一切痕跡が残っていない。

 死体がない。血の跡もない。

 露店に並べられた食物も無傷で、今にも人が現れて商売を再開しそうな雰囲気すらある。

 沢山死んだに違いない。なのに平然として何事もなかったかのように日常の風景を描き続けている。

 一方で、呼吸を躊躇うほどに汚れた空気が殺戮を隠し切れていない。

 つい先ほどまでここにいた魔物たちの腹から立ち昇った死臭と、一滴残らず舐め削られた血糊が残す鉄臭さが味さえ分かりそうなほどに充満している。肌がべたつかないのが不思議なくらいだ。

 向かい風に押されるように一歩下がったアルクゥの爪先に、吹き寄せられた何かが絡み付いた。ぺたりと靴に張り付いて駄々を捏ねるように離れようとしないそれを仕方なく手で剥がす。持ち上げてみると、萎びた肌色の、何かの皮だった。

 小さく息を呑んで投げ捨てると、どこからともなく薄茶色の影が現れて皮に群がる。アルクゥは更に一歩下がる。それはこぶし大ほどもある奇形の虫だった。異質だが魔物ではない。霧は生態にすら支配の手を伸ばし始めている。

 食事を終えた虫共がきしきしと鳴りながら足下に集まり衝動的に踏み潰す。その卵を割るような音と、ぱりぱりと皮を貪る音が、洗っても落ちない汚れのように耳の中にいつまでもこびりついた。

 ――こんなことなら、ラジエルの方がまだましだった。

 此処は彼方とは根本からして異なる。

 ラジエルの目的ある人間が悪意の下に強いてそうしようと考えて作った地獄は、ベルティオという老獪な親がいて、子である怪物が意思の受け皿となることで成立した。

 この場所は、一匹の生き物がただ生まれようとして悪気なく作り上げた産屋だ。

 環境を変化させ、人を閉じ込め、魔物を引き寄せ争わせて肥やし、最後には命を丸ごと平らげる。そこには善も悪もなく、空腹の獣が子羊を食べるのと同じ理屈で、幾万もの命を食い漁る。際限なく奪うのに生み出すものは何もない。

 純粋な利己の生き物だ。欲深なのは人も同じ、しかし人間は限度が来ればちゃんと破滅するように出来ている。

 永遠に奪い続けるという冒涜はああ確かに歪んでいて――アルクゥはすっと嫌悪の表情を消す。動揺を聖人の本領が押し潰したのだ。

 揺れていた瞳が凪いで尖る。


 淡々と霧を掻き分けるアルクゥの行く手を小山のような影が遮ったのはそれから幾らも経たない内だった。

 それが何かを知りつつも、半ば駆け気味だった歩調を緩める。

 霧の紗を何枚かくぐると俯せに斃れた無翼竜の全貌が見て取れる。

 餓死に似た奇妙な死に方だ。あばらが浮き褪せた赤鱗は辛うじて皮に張り付いている。何もかも吸い取られた残り滓のような様相は、霧に惑わされず倒すべき敵を誤らなかったがゆえの敗北だろう。

 広場の中央方向に顔を向ければ既にその影が確認できた。待ち望んだ瞬間が秒刻みに迫ってくるような、もどかしくて肌を掻き毟りたくなる衝動が心臓を掴む。

 一段と強まった急き立てる臭気に意識が赤く染まろうとした矢先、目の端で何かが動いた。

 視界の中央から敵影を引き剥がしそちらを見ると、何てことはない。竜の丸太のような前脚で奇形の虫が何匹か蠢いているだけのことだった。鱗の剥げた部分の肉を毟っている。時間を掛ければそのまま体内を食い荒らし、おぞましい掃除屋は竜を跡形もなく処理するのだろう。

 僅かな横槍の可能性も嫌ったアルクゥは指先を弾く。魔力の刃で入念に虫を殺した。これでいい。

 ふと見られている気がして少し視線を持ち上げると、頭蓋の形に落ち窪んだ竜の瞼が薄く開いていた。

 驚きのあまり飛びずさったアルクゥを赤金の大きな眼球が追い掛ける。

 この有様で生きているのか。

 息を詰めて出方を窺うが竜は静かな視線を寄越すだけだった。大したことはない、まだ生きていただけだ。動けはしないし放っておけば死ぬ。


「……」


 アルクゥは竜に見切りをつけた視線を、はっきりと敵の影には向けられずに強張らせる。動きを決めかねた硬直は疫病のように全身に広がった。

 一噛みでアルクゥを食べてしまえる巨体の呼吸が、枯葉すら吹き飛ばせない細さで辛うじて続いている音が耳に届く。灼熱を宿すはずの竜の吐息が北風のように冷たい。生態の頂点が、最強の種が。虫にすら貪られ死を享受している。

 いつでも竜は敵だった。だからこその竜殺しだ。この獣の恐ろしさは他の者よりもより多く知っている。

 アルクゥは歯を食い縛る。聖人の本分に圧されて自分が何をしたいのかもよく分からない。

 挙動不審に陥った思考に導を求めた先は自身の左手に刻まれた印だった。何も呼び掛けはしない。ゆえに何かが返ってくるでもない。ただ、意思の在り処を教えてくれた。

 そしてアルクゥはアルクゥとしての欲を優先した。

 何か意味がある行為ではない。敵を打ち倒し霧を晴らす以上の優先目的であるはずもない。けれどもどうしても人間じみた偽善をしたくなった。竜に情けをかけることで、瞳孔が尖っていても鱗が肌に張り付いていても、それでも自分は異形ではなく、またこれからもそうだという表明をしたかったのかもしれない。

 アルクゥは竜の眼前に立つ。武器を持った人間にもこれと言った反応を示さない竜に剣を掲げ、左手の平を薄く切った。

 刃物が皮膚を裂く感覚は何度経験しても慣れない。痛みに背筋を震わせ、唇を噛んで傷を握り込む。

 竜の鼻先に落ちた血は罅割れた鱗の隙間を伝い口元に流れていく。竜は僅かに顎を上げ、喉を上下させて一口にもならない血を嚥下した。

 少しでも長らえればいい。

 せめてアルクゥが怪物を殺すまでは。

 溜息のような吐息が前髪を吹き上げ、昏睡するように赤金の目が閉じる。深い呼吸の起伏は生気が僅かにでも戻ったことを告げている。


 故郷に帰ってきて、初めて何かを救えた気がした。


 アルクゥはずっと剣の柄に食い込ませていた爪を緩め、前以上の力で握り直す。刹那の間胸を満たした充足が渇望に変わった瞬間、アルクゥは委細構わず地を蹴り飛び出していた。

 幾重にも下り重なり行かせまいと纏わりつく霧を腕で振り払い、ひた隠しにされていた天敵と邂逅する。

 円く放射状に敷き詰められた石畳が収束する広場の中央、そこに座す赤黒く歪な肉塊はラジエルの時より数段小さい。丈は精々アルクゥの二倍程度、厚みも余裕を持って長剣が突き通る。

 理性でものを考えたのはそれで最後、アルクゥは助走の勢いを殺さず、切っ先を脈動する肉塊に突き刺した。


 根元まで通った手応えがあった――直後、剣を介して急速に魔力が吸い上げられていく。不要な排水を容赦なく捨てるような有無を言わせない速度で力は流れ出て、柄を握る指の力が抜けて滑った。離れまいと両手の指を組み柄に縋るようにしがみ付く。

 アルクゥの魔力が尽きれば怪物の勝ち。

 その前に肉を切り開き怪物の心臓を抉ればアルクゥの勝ちだ。

 魔力の過剰放出で視界が白黒に明滅する。鼻血でしとどに濡れたシャツが胸元に張り付いた。組んだ両手に自分の爪が食い込む。血が腕を伝い右腕の鱗を濡らす。

 怪物は突如として飛び込んできた上質な餌に歓喜し打ち震えているようだった。漂う霧に含まれた魔力が薄くなったのは、怪物の意識がアルクゥに集中したせいか。己を守る殻に剣を突き刺されても、アルクゥが無条件で与えられた無害な栄養であると疑いもしていない。

 アルクゥは頼りない意識で左手甲の赤い印を睨みながらその時を待った。

 そして、白い肌に朱色の混じりの翡翠が咲く。

 半透明の鱗が手指を覆っていく。硝子細工を思わせる光沢は二の腕の半ばで止まったが、不正に盗まれていた魔力を止めるには充分な鎧となる。

 怪物の動揺が手を通して伝わり、アルクゥの唇に笑みが乗った。力が戻ってきた両手で剣を引き下ろす。切断は滑らかにとはいかない。硬い骨を断つ要領で押し引きを繰り返し、そして刃はついに地面を噛んだ。

 赤黒い肉塊を両断するように大きく縦の切れ目が走る。隙間からは怪物の体が放つほの白い光が漏れ出している。

 アルクゥは用済みとなった剣を捨て切り口に両手を掛けた。ぶちぶちと嫌な音を聞きながら思い切り左右に引き開けた。


 ぽかりと呆けた口の形の大穴から、まだ形も出来ていないほの白い怪物がアルクゥを覗いた。


 アルクゥも淵から覗き返す。どこにも目はないが確実に目が合ったことを確信していた。

 肉の殻も生命食いの権能も通用しない簒奪者に、赤子未満の怪物には抵抗する術はなかった。

 アルクゥは鋭い鉤爪の生えた右手を振り上げ、怪物の体に難なく突き刺した。

 未完成の怪物は生暖かい泥のような体をしている。骨もなく皮もなく脳みそも内臓もない。指に触れる障害物がないのをいいことに、掻き混ぜるように容赦なく中身を探った。

 先程とは意味を真逆にして怪物は震えている。だが今更気付いたところでどうにもなりはせず、手心を加えることは火が水に変わるほどに有り得ない。

 アルクゥは捜索の手を伸ばし、肩口まで怪物の体に沈み込んだ。二の腕までだった鱗が怪物に触れた部位にまで広がりアルクゥを守る。

 頬に異形の守護が必要になるまで手を伸ばしたとき、かつん、と人差し指の爪が硬いものを引っ掻いた。怪物がより大きく身を震わせる。

 見付けた。

 アルクゥは目一杯に右手を開き、其処にある心臓を掴みとろうと体を乗り出した。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 遮蔽物がなく、かと言って充分に広いわけでもない大通りは、戦端が開かれてからと言うもの刻々と戦場としての適性を失っていった。

 その原因の大半はぬらりと血に濡れた滑りやすい石畳にある。表面がざらついた白の石材はまだ踏ん張りが利いたが、模様を描く為に使われている滑らかな黒い石材は兵の足を容易に絡め取った。雨の日の歩行を補助する石材の切れ込みも激しい上滑りを経た転倒を引き止めることはできない。

 足場の悪さを警告する指揮官の声は全ての兵士に行き渡ってはいたが、足下ばかり注意を払ってはいられない。魔物を引き付けておくという戦いの目的上、兵士の多くは武器よりも盾やその代わりになる道具を構えて積極的な討伐の動きは取っていないが、それでも飛び込んできた魔物を受ければ後ろに滑るし、そこに運悪く血溜まりがあって転倒し無防備な腹を食い破られる兵もいた。

 暴れまわる魔物は時折同士討ちをしながらもじわじわと人間側の戦力を削っていく。

 戦況は芳しくない。

 指揮官と共に遊撃として動いていたサタナは運の無かった兵士に魔物が群がるのを一瞥し、自身に向かってきた一体を斬り捨てた。足場が悪くて犠牲者が増えようとも死体の量産による恩恵の方が重い。上手くいけば付近の魔物は食欲を優先して攻撃の手を止める。一口二口で死体が消える場合も多いが、その短い時間分だけでも兵士も自分も長く保つ。左手の印が消えでもしない限り倒れるつもりはない。

 僅かに残る乾いた足場に移る。追って来た一つ目の鳥を落とし、突進してくる角の生えた猪の脊椎を飛び越え様に刀身で砕く。

 孤立するなと叫ぶ指揮官に応え、回収した鳥の死体をそこらに投げながら集団に戻る。先程よりも兵士が何人か減っていた。


「奴ら、どれだけ食えば満足するんだ!」

「食欲による襲撃ではありませんからねえ」


 くそ、と指揮官は悪態を吐いて鞘で魔物を打ち据える。大剣はどうしたと聞くと魔物の骨を噛んで折れたとのことだった。足下に転がっていた武器を蹴り上げて渡すと、返り血塗れの顔が笑った。


「足癖が悪いぞ、聖職者」


 そう軽口を言って魔物に走って行った指揮官だが、赤い汚れの隙間から見えた顔色は青い。元が怪我人なのを考えればよく動いた方だ。指揮官が士気を負っている部分も大きく、サタナはその後を追って守勢に回るように勧告する。積極的に頭数を減らす戦闘員が自分一人になるのは痛いが現状に罅が入る方が何倍も拙い。

 後退の支援に回っても襲撃は間断ない。

 一旦、防御に徹そうとした判断の隙間、硬い外皮を持つ魔物に剣先が取られた。

 中途半端に刺さった剣は押すことも引くこともできず、サタナは柄を握る手と一緒に引き摺られることを嫌って剣を放棄する。

 そこに二尾の狼が牙を剥いた。

 咄嗟に右腕でその顎を受け、後ろに傾いた体を噛み付かれた腕ごと反転し、下敷きにする要領で狼の後頭部を石畳に叩き付ける。更に背後から迫る人面の蜥蜴を後ろ足に蹴り飛ばした。

 安否を問う声に肯定を返し、投げて寄越された剣を左手で受け取る。

 しばらくは使えない右手に眉をひそめ――ふいに、一方向に吹き始めた風に気付いた。

 聖職衣の裾がはためく。

 洞窟の入口に立つような風だ。どこまでも暗い所に吸い込まれていくような風の流れは広場に向かっている。そちらにはサタナが焦がれる人がいる。そのせいか酷く不吉だ。

 初めはサタナしか気に留めなかった予兆は段階を経ずに強さを増した。己に手一杯の兵士さえも風の行先を見詰めるまでの異常性を孕む。どうしたことか魔物も停戦に応じるように動きを止めた。

 訪れる嵐を皆で待つような心持の中、やがて停滞していた霧が動き始めた。

 風の流れに寄り添った霧は白い濁流に姿を変える。空から、地から支流は一点を目指して疾走し、それらが合流する道の一つであった大通りは束の間サタナたちの視界を真っ白に染め上げた。

 そして唐突に途切れる。

 サタナは頭を庇っていた手を除け、辺りを見回し、空を仰いだ。

 白雲が夕に傾きかけた青空に浮かんでいる。

 夢が醒めたように空気は透明で、一々呼吸に絡んでいた魔力も消えている。

 魔物が我を取り戻し至近距離にいる人間と異種族にぎょっとして方々に散っていった。それが決定的な証左だった。

 霧が、晴れた。

 兵士たちが歓声を上げる中、サタナは一人勝利に酔えず霧が奔り去った方角を見遣る。

 何か――おかしい。


 

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