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精霊のシジル  作者: 染料
六章
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第百二十七話 再契約

 庭園は大きな緑色の生き物のように屋敷の片隅に蹲っている。


 四方を囲む隙のない生垣は鬱蒼とした森を思わせる色をして正体を悟られまいと頑なだが、一たび中に入ってしまえば豊かな色彩で来訪者を歓迎した。

 誘われるように奥へ奥へと進んだアルクゥは行き止まりに程近い場所で歩みを止める。

 特に用事があったわけではない。

 残り少ない時間で体を休める場所を求め、自然と足が向いたのがここだっただけの話だと、母親が座っていた小さなベンチを前にするまでアルクゥ自身はそう思っていた。

 誰も居ないベンチに辿り着き目が離せなくなった。

 道中で調達した硝子の小瓶に灯る龍の火がアルクゥを励ますよりも早く、体が剥落していくような虚脱感が次の動作へと移る気力を奪っていく。忌み場だったかと噛み潰そうとした苦虫は溜息に乗って口から脱し、新しく鼻から吸い込んだ空気はつんと辛かった。一呼吸の間に思考は裏返り、無人のベンチがいつまでも熱心に見詰め続けたい聖域のようにも思えてくる。

 本当に何も残っていないのかという縋る様な疑問の下そっとベンチに腰掛ける。馬鹿みたいに立ち尽くしていた足が待ち望んだ休息にどっぷりと浸かり疲労がじわりと溶けていく。しかし心地良さを素直に享受するには座る位置が悪すぎた。

 母を真似ての右寄りの着座位置は、そこに座った者にしか分からない心許なさがある。左側に確保された一人分の空白には埋める者を待ち続けた永年の寂しさが取り残されている。同行者を立たせたままにするわけにはいかないが、ずっと冷えていたそこを勧めるには躊躇いがあった。

 庭園には各所に休憩所が設けられている。何もここで休むことはない。移動する言い訳を考えながら腰を浮かせたアルクゥだが、大きな手に軽く肩を押されてころんと反動を付けてベンチに逆戻りした。非難がましい目で左側の空白を埋めるサタナを追い掛けても白々とした態度は崩れない。


「時間までここで休みましょう。あちらは少々とは言わず騒がしい」


 文句を飲み込み頷いたアルクゥを満足げに見届けそれきりサタナは口を閉じた。

 横目に盗み見ると既に体半分まで思索に浸かっている様子で正面に向けられた琥珀色の視線が遠い。どこを捉えているのか、捉われているのか。外套を払って座り直すと少しこちらを見たので思考に潜水し切っているわけではなさそうだ。

 出会った頃の正体不明の笑みと比べると今のサタナの表情さえ鮮やかに映る。

 血が通っていないと思っていた頃が、恐ろしいと感じていた自分が随分と昔のようで懐かしく、今となっては不可解だ。そう思えるまでに真摯な助力を与えてくれた。もう良いと言っても止めなかった。一途か粘着質か。どちらでも意味合いは変わらないが。もしかすると一つ決めると脇道に逸れることを知らない不器用な人間なのかもしれないとも時々思う。


 考え事の最中では視線も五月蠅かろうとアルクゥは観察を止めて景観に意識を向けた。

 母が見詰め続けたのはささやかで長閑な風景だ。澄んだ水をたたえる小さな池とほとりに咲く薄紫色の花が綺麗な、ありふれているがゆえに郷愁を抱かせる時の流れが停滞した暖かい景象。先程進んできた小路は背丈のある草花に隠れ、外界から完全に切り離されたような錯覚に陥る。

 この緑の洞が母の鱗を育んだ。龍は長い雌伏の末にとうとう大空へ飛び去ってしまった。

 ――私もいずれそうなるのか。

 角も爪も牙も生えて人を捨てて龍になる。その考えは漠然とした恐怖であり僅かな高揚でもある。アルクゥはつるりとした右腕の鱗を撫でた。母が異形に変わる場面が何度も頭で繰り返される。遠ざけようとしていた結末を間近で直視し、存外その時は近いように思えた。

 変容は死ではない。ゆえに消失とは異なる覚悟が求められる。

 形が今の種からかけ離れるということは、今までの生き方からも離れるということだ。友人も家族もそこにいるのに決して寄り添うことはできなくなる。恐らく、意識すらも人のそれではなくなるので些細なことかもしれない。

 空の俯瞰から置いて行った者たちを眺めるのはどんな気分だろうか。

 悔いて奥歯が砕けそうな程軋る者、枯れる程に泣く者。親しかった彼らに悲しみを与えたことを申し訳なく思いながらも、自分を惜しんでくれる人間がいたことに慰められる。生を十全にやり遂げた自分の葬儀に出席する幽霊がいるとすればきっとそんな気分なのだろう。案外悪くないと思えるのは、港に来てから無残な死を見過ぎたせいで物事を量る天秤が壊れたせいか。

 眉間を指で摘んで再び顔を上げたとき、視界一杯は艶やかな灰黒で塞がれていた。

 今まで気配を消していたケルピーはアルクゥが視線を上げる前にぬっと頭を下げ、それは良くないと嘶く。仕方ないだろうと眉を下げて使い魔の首筋を撫でる。

 どれだけ事が上手く進んでもアルクゥはあちら側に近付かなければならない。それが五十歩か百歩かは分からないが、肉塊の怪物と対面するということはそういうことだ。

 主従の楔から伝わった主人の思考にケルピーは酷く憤ったが、しばらく撫で回すと恍惚に瞼が下がり湖面のような目に睫毛の影がかかる。

 誰でもこうやって宥めることが出来れば簡単なのに。

 下らないことを考えるのは、左隣の長い沈黙がどうやらあまり歓迎すべき事態ではないと遅まきながら勘付いたからだった。


「あの魔術師は形にのみ執着しました」


 熟考を終えての第一声は不穏だ。ケルピーを離して話を聞く体勢を作る。

 ベルティオが体に張り付いていた時の記憶を掘り返してまで言いたいことは何だと膝の上に拳を握った。


「自由を奪う鎖を打ち込み、誰のものとも知れない情報を大量に注ぎ込んで人格が壊れても、外形が保たれるのであれば問題はなかった。しかしそんな蹂躙は参考にならない。尊重されるべきは約束であり、相手の意思であり、願望ではない。だが所詮は理想だ。押し通すには余地と猶予が必要であって、魔女の結界を消費してしまった今ではあちら側の迷子を見つけることさえ困難になりました。

 ですから……ある程度の横暴ならば許されるような気がするのですが、貴女はどうお考えになりますか」

「さあ……誰に許されるかによるのでは」

「状況に」


 なるほど、とアルクゥは先程は逃げた苦虫を今度こそ奥歯で噛み潰した。状況がサタナに何かしらの寛容を示したようだが、これは察知できなかった自分に非があるのか。

 アルクゥは視界の左端で大きく動いたサタナを捉える。

 立ち上がる際のベンチの小軋みや衣擦れの音が妙に大きく聞こえて耳を刺した。重たい緊張が腹の中に落ち、アルクゥは険しい金眼で動作を追う。

 サタナは立ちはだかるように正面に立ちアルクゥを見おろす。

 浅く撓んだ眉間に硬く結ばれた口元は申告通り余裕を欠き、性急な感情をどうにか抑え込もうとしているように見える。

 そして唐突にサタナは跪いた。

 そこに視線の高さを均す意図はない。アルクゥはぎょっとして体を引き、ベンチの背凭れに阻まれる感触に動揺を重ねる。

 その隙に左手を攫い大きな手で包み込んだサタナは早口に宣告した。


「私が従僕で貴女が主だ。

 ――常世に神留まり坐す、偉大なる世を創りし御霊に誓い奉る」

「……は? 待っ……」


 何を言われたのか把握できず咄嗟にそのまま流暢に続いていこうとする呪句を制止しようとしたアルクゥは、サタナの目がじっとこちらを睨め上げてから自身の佩く剣に移動したのを目撃して固まる。

 止めるのであれば相応の覚悟を。

 斬られはしないだろう。が、それ以上の心的な損失を強いられる。

 背筋を震わせる低い声が駆け足で呪を紡いでいくのを呆然と聞くことしかできない。半ばまで差し掛かった頃、誓約に同意が必要なことをようやく思い出すが、拒絶の意思は制止と同じリスクを負うことにも気付く。霧が自然に晴れるまでアルクゥの自由はないだろう。

 反対にこの強迫を受け入れた場合は――アルクゥは何も損をしないのだ。

 脅される側としては酷く不可思議な状態が発生する。言い間違えかと訝ってみるも、サタナが唱える呪は最初の宣言通り自らを従とする契約文言だ。成立すれば命令権も解除権もアルクゥの手に、そしてサタナは自由を明け渡す代わりに無価値の底すら突き抜けた従者の楔を得る。

 頭が冷静になるにつれ、喉に飲み込めない異物を抱えるような感覚が大きくなる。

 何の為に――など分からない振りをして逃げるのは鈍感ではなく愚鈍だ。しかしその方が生き易いのが世の常で、アルクゥはそこから逆に走ろうと足掻いたのでこのような霧煙る港に戻ってきている。

 そんな方向に疎い人間が幽世で道を見失ったとき探し出せるように。

 あるいは、線引きを僅かでも濃くしてこちら側からはみ出さないようにする為の契約。

 どれほどの効果を発揮するのか、幽世を知るアルクゥは懐疑的だ。無意味に近いと思ってすらいる。

 よってこの行為が提案によるものであれば一考もなく拒否を返した。サタナはそれを理解し、それでもあえて行う勝手を横暴と称したのだろう。


「我サタナキア、汝に傅き、服い、あらゆる災禍を排することを此処に誓約す。尽きることなき忠義を捧げし僕、主の御名をこの身に乞い願わん」


 口を噤んでいると真名を寄越せと睨まれる。白い前髪の隙間から覗く琥珀色の目は柔らかい暖色なのに受け取る印象は苛烈だ。

 アルクゥはしばらく睨み返し、顔を背けた。

 命を握られる感覚を味わいたいのであれば勝手にすればいい。

 台本を読み上げるように主となる誓いを立てると、同意の一節をもって契約は完成する。

 和らいだ空気と渦巻く魔力を苦々しく感じながら、契約が手の甲に印を刻む際の小さな痛みを身構えて待つ。


「此の名は死を越えて尚、汝の許に」


 呟くように添えられた文言に背けた顔を戻した瞬間、実体のない紋様の剣が重なったアルクゥたちの手を貫いた。言い様のない痛みに息を詰める。薄く張った生理的な涙の向こう側で手の甲に花開くように赤い紋様が描かれる様子と、それを目を細めて見届けた男の顔が見えた。

 アルクゥは酷く腹が立っているのだと乱暴に左手を奪い返すことで訴え、右手で甲を包んで痛みを冷ます。

 しばらく沈黙が続いた。

 サタナは跪いたままで、アルクゥは目を合わせないように俯いて契約印を睨む。左手甲の印は前回と同じ場所、意味は対極に位置する。

 喜べ、お前は優秀すぎる従僕を得た。

 ――反吐が出る。個の意思と命を操り握り潰せる立場など。


「これで私もベルティオと同じですか」

「違います」

「違いません。……最後の言葉は誰かさんの入れ知恵でしょう。ですがあれは主従契約に使うものではありません。意味はなく、成立もしない」


 お節介焼きの隠者の笑みが頭に過ぎって内心舌打ちする。一体何を吹き込んだ。

 ともあれ、どこまでも続く恋情を誓う言葉だという話をそのまま受け取るのであれば、その強すぎる結びつきはアルクゥを人の側に留め置く力を有しているだろうが、そんな都合で成就しては神話は俗本の品格と大差ない。

 アルクゥは契約印に爪を立てる。

 契約は解除できる。霧が晴れたらそうすればいい。取り返しが付くのに笑って見過ごせない。

 飲み込もうとして喉につかえた恨み言は、投げやりな息差しと共に零れた。


「自惚れでなければ、貴方が何の為にこうしたのか理解しています。でも私は……誰かを支配などしたくなかった」


 殊更に、サタナの主になどなりたくなかった。

 助けられる側がこれを言うのはおこがましい。それでも対等であってほしかった。

 アルクゥはサタナを避けて立ち上がる。しばらくは顔を見ることができないだろうが、時間が経てば些細な瑕は元に戻るはずだ。


「申し訳ありません。恩のある方に言うべき言葉ではありませんでした。行きましょう。時間までまだありますが、今は騒がしい場所にいた方がいい」 

「私の思考の大半は」


 耳に心地良い声に足を止める。

 一人だけ平静を取り戻している様子にアルクゥは唇を噛み、振り返らずに耳を傾けた。


「一人の人間に独占されています。自覚的でない部分を含めれば随分な期間になるでしょう。些細な仕草や表情が一々記憶に焼き付いて離れない。気を取られまいとしても、見失えば求めずにはいられない。理性がふとした弾みで鈍くなる。自分を統制できない感覚は非常にもどかしく許しがたいが、一方ではその不自由を甘いものとして許容している」


 また馬鹿なことを言い始めた。

 そう軽んじることができた精々前半までだった。

 容易に引く素直さを持たない熱が耳に集まり、言い返す声が羞恥で震える。


「……どのような反応を……期待されているのか、分かりかねますが……」

「特に望むことはありません。ただ支配がどういうものかお知らせしておこうと考えたまでです。このような契約と私が望む状態を一緒にされては困ります」


 握り締める自分の拳から音が聞こえてこないのが不思議なくらいだった。

 言葉だけなら上辺のものと侮ることができた。楔から野放図に流れ込む感情が、聞いてもいないのに今の言葉全てに偽りがないと耳元で囁く。

 誰も予期していなかった事故に違いないと判断し、どうやって思考の漏洩を報せるべきか葛藤するアルクゥはふと苦々しく顔を歪めた。

 これは、寧ろ。


「……聞こえています。考えを閉じてください」

「ではそのように命じればよいでしょう」


 ――自分の思考を他人に読ませる神経がわからない!

 本当に何を考えているか分からない人間だったとアルクゥはサタナを理解することを完全に放棄し、唸るように頼む。


「閉じてください」

「それは命令ではありませんね。まず名前を呼ばなければ」

「……サタナキア」

「何でしょうか」


 絶句したのは命令をすることに対する忌避だけではなかった。

 アルクゥは根負けして勢いよく振り返る。

 佇んで穏やかにこちらを見詰めるサタナがいる。尋ね返す声音は起伏を持たず一定の温度を保っているように聞こえた。表情も同じだ。しかし内心は表面ほど冷静ではなく、名前を呼んだ瞬間、漣のように揺れて喜びに色付く。

 ――目。軽く見開かれる。金色の視線が広がってこちらを捉える。綺麗だ。ようやく目が合った。疼いた胸と一緒に呼吸が一瞬滞るが、いつものように留めた空気を静かに吐き出す。血色の悪かった彼女の顔が赤い。私の言葉がそうさせているのであれば嬉しいことだ。正気を疑うような眼差しに変わる。それすらも好ましいが。

 他にも次々と聞こえてくる思考の断片にアルクゥは頭を抱えた。ありえない。


「よくも、そんな……最悪だ……! 貴方は! 羞恥をどこに捨ててきたのですか!」

「……抵抗がないわけではありませんが」


 それなら今すぐ止めろと言葉に出さず叩き付ける。

 サタナは軽く目を丸くしてから苦笑し、離れていた距離を詰めてアルクゥの頬を両手で挟んで鼻が付きそうなほどの近くから覗き込む。


「愛しています」


 真っ白になった頭に蕩けた言葉が流れ込む。実体のある言葉かそれとも楔からの思考なのかさえ分からない。

 サタナは硬直したアルクゥを解放し、熱の余韻が感じられる声で続けた。


「ここに一人、置いて行かれることを恐れる人間がいると覚えていてください」


 低い懇願が透き通って胸に落ちてくる。



  

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