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精霊のシジル  作者: 染料
六章
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第百二十六話 代行者


 灰色の空に太陽を探す気力も失くして俯くばかりだった人々が疲れも忘れて空を見上げる。

 そこは依然として霧に覆われ何一つ見通せない壁でしかない。しかし瞳の奥には炎を纏った龍の姿がしっかりと焼き付いていた。ほんの数秒間の出来事が、石畳に傷を付け終わらない悪夢を数えていた眼差しを眩ませ、血の温かみを忘れたかのようだった頬に赤を呼び戻す。

 無気力に座り込んでいた人々は次々に立ち上がり空にその残り火を探す。

 グリトニルという国自体が信仰から離れて久しくとも、誰の記憶にもその姿には覚えがある。幼い頃に読んだ絵本や、あるいは学舎で慣習的に教えられる世界の始まりの話として、その龍を知っている。明けの夜空に細く漂う角の生えた蛇のような挿絵はお世辞にも見目の良いものとは言い難く、国旗に輝く雀霊の何倍も貧相な姿として描かれてはいるが。

 それでも皆が、あれが何で、どういうものなのかを知っている。

 飛び去ってしまった一筋の輝を求めて彼らの視線が行き着いた先は空ではなく、先程まで混戦の最中にあった忌むべき方向だった。

 そちらを見てはいけないと騒動から最も遠ざけられていた子供たちは、両目を覆い隠す大人の手が退いたことを不思議に思いながらも、咎められないままにそちらを見詰める。遠くてよくは見えないし、周りで囁きを交わす親たちが何を言っているのかもよく分からなかったが、その方向に空に消えたものと同じ色の灯りを見つけてなぜだかとても嬉しくなった。見て、と母の服の裾を引っ張る。それはただ綺麗なものを教えてあげようという無邪気で日常的な笑みだったが、母親にとってはもう二度と見ることができないかもしれないと諦めていたものだった。

 女は子の顔を見詰め、家族を餓え死にさせるくらいならと懐に隠していた刃物を地面に捨てる。

 そして光に向かって膝を突く。

 傍で見ていた子供は幼いなりに真似をした。それを目にした男が静かに膝を折り、人々は次々と最初の祈りを倣っていく。

 衣擦れの音は時折兵士の装備が立てる金具の音を交え折り重なるように広がり――龍が飛び去った空を仰ぐアルクゥの耳にまで届いた。




 目にいつまでも残り続けるように思えた龍の形をした光はやがて明滅を止め、眼前には灰色の空だけが呆気なく広がっている。

 傷と冷えてしくしくと痛んでいた体がいつの間にか温かい。手足が眠たげな熱を持ち、もっと見続けていたかった夢から醒めたような物悲しさが胸に滲んでいた。

 アルクゥは半ば呆然とした心地で母から受け取った火の一片に目を伏せる。

 朝と夜の境目に浮かぶような火は見慣れた色をしているが、ただ刹那の時だけ燃え上がりことごとくを灰に還すアルクゥの炎とは明らかにその性質を異にする。柔らかな光は霧を退け、恐らくはアルクゥが望むだけひとりでに辺りを照らす清い灯火であり続けるだろう。

 人には到達できない力だ。それならば、これは奇跡と呼んでも構わないものだろう。それでも、そのような力をもってしても精霊はこの人の理に踏み込めない。

 人の側にある歪みは人が正す。尤もな話だ。しかし精霊が自らの領分に入るまで一切手出しをしないというのであれば、アルクゥやマニのような存在がいること自体がおかしいではないか。聖人と言う仕組みは人に災厄を鎮める可能性を与えている。人でありながら精霊の権能を代行する彼らの小さな像シジル。別れ際に母が教えてくれたことが正しいと証明しているように思えた。

 知ったところでだからどうしたと、反駁する一方が騒ぎ立てる。

 情け深い精霊に選ばれたからと言って自分まで優しくなってやる必要はない。

 裏切られ、罵倒され、排斥を受けてまで貫き通さなければならない義などなく、不条理を強いたのはあちらが先で、自分にはやり返す資格すらある。

 助けてなどやるものか。

 ――けれど、そうやって情を切り落として得る充足は虚しいばかりだ。


 海から渡ってきた冷たい風が肌から温度を奪っていく。

 残酷なまでの寒気は夜の予感が多分に含まれている。人々は今夜を越えることはできないだろう。指揮官は裏切り、精神的支柱となっていた指導者も失われた。活発になった魔物が夜半再び門に群がる。それらの立てる爪音に眠りの安らぎを得ることも叶わず、ふと目を向けた夜陰に現れる幻想の怪物に怯え、ようやく迎えた朝には秩序の崩壊が待ち受けている。たった一晩で沢山のものが歪んでいく様が簡単に想像できた。海風が通り抜ける夜の森には同じ暗闇が落ちていた。

 捻じ曲げられた性質は必ずしも悪とは思えない。

 嘘を吐き、他者の命を奪う罪悪は真っ直ぐな心根では不可能だ。それはきっと強さと呼んでも差し支えないものだが、過去と今を比べる余裕が出来た頃にようやく含まれた毒にも気付く。アルクゥの毒はネリウスが抜いてくれた。あの人は与えるばかりで見返りを求めなかった。人から奪うばかりだったアルクゥには真似できない。

 ならば、今回も同じように生きればいいだけのことだろう。

 まだ他人の首に短剣を突き刺すことを覚えていない彼らの手から武器を奪い、ただ走ってその切っ先を霧の真ん中に突き立てる。

 深く考えるから足が止まる。敵は誰で、どこにいるか。手に武器はあるか。それを振るう力はあるか。それだけ分かれば充分だ。今までそれが正答であったように形振り構わず戦えばいい。

 顔を上げたアルクゥは、真摯な祈りを捧げる人々を一望する。

 喪失に泣く暇は今はまだない。


 父親の亡骸があった場所を一瞥する。公爵の死を示すのは血痕しかない。宣言通りではあるが、母は魂だけでなく体まで一緒に連れて行ってしまった。その飛び去った空をもう一度だけ見上げアルクゥは踵を返した。

 そうして歩き出そうとした矢先、透明な壁に鼻をぶつけた気分で立ち止まる。

 聖職者は一人だけ低くない視線でアルクゥを待っている。四大精霊の一角にも、周囲の圧力にも文字通り膝を屈しないのは素晴らしい度胸で――意味のない抗拒を好まない人間が何の為にそうしているのかをアルクゥは知っている。ただそれだけで、大勢の視線が自らの動きを追う中踏み出した足は、その次に続いていく歩にも澱むことはない。

 近付くと、サタナは残りの数歩を自ら埋めながらアルクゥを出迎えた。気遣う色の浮かぶ表情にアルクゥは大丈夫だと首を横に振って意思を告げる。


「今日中に終わらせます」

「では急がなければなりませんね」


 サタナは強行に理解を示す。ほっとして眉を開くのも束の間、サタナの後ろで腰を曲げていた魔術師のモーセスは「とんでもない!」と異論の声を上げた。


「せめて明日に延ばすべきだ……あーいや、延期すべきではないでしょうか」


 奇妙な体勢はどこかを負傷したわけではなく、小娘相手に膝を突くべきか突かざるべきかと言った風情か。特に偉くなったわけではないアルクゥにモーセスがうっかり礼節を思い出す必要はなく、付け加えればモーセスの助けがなければ私刑の最中にアルクゥは死んでいたかもしれない。そう言うとあっさり腰を伸ばし威圧的に胸を張った。


「余裕を持って準備をし直すべきじゃないのか。キミだって殴る蹴るをされた後で、それに……その、色々あっただろう。閣下を失ったのは非常に残念だし、夫人については……自分の目が信じられないでいる。なぜ龍になった? キミは選ばれたのか? 私でさえこうなのだ。キミだって混乱しているのではないかね? 急ぐあまりに仕損じればそれで全てが終わりだ。私は他人の失策では死にたくないんだがね」


 態度ほど内心に余裕はないのだろう。早口で捲し立てる。

 唾を飛ばす勢いに一歩下がったアルクゥに代わって返答したのはモーセスの更に後ろで跪く体格の良い男だった。


「動くのであれば、そちらの神父らしきお人が言った通り早くしなければ」

「……怪我人は診療所で寝ているべきだろう」

「問題ありません。軽いものです」


 男は表情が見えないほど深く頭を下げても声を籠らせることなく話している。言う通り、傷は浅いのだろうと男の言を信じかけたアルクゥは「重傷ですね」とサタナの指摘でようやく黒い服装に同化しかけた血染みに気付いた。


「立ってください。跪いても何の意味もありません。ただ傷に障るだけです」

「私などにそのような気遣いは不要です。命をもっても贖うことのできない過ちを犯しました。貴女にはどれだけ詫びても足りない。私は……閣下のお傍から離れるべきではなかった……」


 アルクゥは目を見開き、左手に持っていた火をモーセスに押し付けて男の正面に片膝を突いた。覗き込んだ顔には見覚えがある。護衛のウルススだ。ヘングストか敵にか殺されたものと思っていたが。


「よく……ご無事で」


 同時にモーセスがどういう経路でアルクゥの素性を知ったのかも合点がいった。傷を負いながらも伝えてくれたのだ。感謝すれども非難する謂れはない。しかし言葉を重ねてもウルススは苦痛を罰とするように体勢を崩そうとはせず、困り果てたアルクゥが相手を説得する口舌を期待してサタナを見上げた。了解したと一つ頷いたサタナは、


「悔いるだけならあの指揮官にも出来たでしょう。つまり猿ですら可能というわけですが」

「……ヘングストは」

「お悔やみ申し上げます」


 傷に塩を塗るような言い様にひやりとしたが、ウルススは静かに立ち上がった。シャツの襟から覗く包帯はぽつぽつと滲み出た血からして上半身のほとんど覆っているようだった。体格に恵まれていなければ、傷は致命的だったろう。


「終わったか? それで、なぜ今日中でなければならないのか聞いていない」


 会話に割り込みつつ、震える手付きでアルクゥに火を返したモーセスは、余計な緊張を強いられ溢れた冷や汗を苛々と拭いながら気炎を吐く。数の不利に怯みもせず断固として阻止する姿勢だ。眉をひそめて口を開いたウルススを制し、今度はサタナが説明を引き受けた。


「機の問題です」

「き? 何だそれは」

「兵の士気は明日まで持たない。彼らは奇跡を目撃したことでつい先刻の暴動行為をすっかり都合良く忘れたらしく、離散を免れ強い団結を得ました。が、一晩を越せるほどの高揚であるかと言えば難しいところです。眠れば興奮の熱は冷めてしまう。そうすると疲労は今以上に深くなる。魔物の足止めと言う役割が果たせなくなる」

「疲労はともかく、士気とやらはそちらの娘がいれば何とかなるのではないか?」

「ティアマトならば軽くひと月は持ちますが、グリトニルで聖人は少々変わった魔術師程度の認識でしょう」

「そうかもしれないが……」

「これは龍が人心を纏めたからこそ生まれた、ただ一度の機会です。本来なら略奪や殺戮が始まっていたとしてもおかしくない最悪の状況でした。幸いながらも底は脱しましたが、時間が経てば結束が劣化するのは道理で、暇に飽かせて邪な考えを持つ者も現れるでしょう。そうなれば私は逃げます。当然一人でそうするのではなく、嫌だと言われようが腕ずくでも」


 サタナが軽く流して寄越した視線にアルクゥは思わず口を曲げる。言い返すことができないモーセスも同じ顔をし、反論が費えたと見たウルススがすかさず新しい指揮官の選別について俎上に乗せた。


「アルクゥ様、私に指揮を任せていただきませんか」


 唐突な申し出に目を白黒させたアルクゥは思わずウルススを見詰め直す。


「私にそのような権限は」

「あります。否が応でも、それを行使しなければならない立場です。貴女が何者であろうが、例え幼い子供であったとしても、一連の出来事は貴女に権威を与え、人々は貴女に与えられたものを受け入れた。今なら貴女が指さす方向を皆が一斉に向きます」


 恐ろしい想像に困惑するアルクゥに一時的なものなので気負わなくていいとサタナが助け船を出す。アルクゥは曖昧に頷き、そうだとしても怪我人に重たい役目を任せるのはと眉を下げるがウルススに退く様子はない。


「まだ充分に戦えます。それにヘングストほどではありませんが私にも魔力があります。モーセス殿の結界が破壊されても」

「破壊される類のものではない。壁を作るものじゃないからな。これだから魔術師でないものは」

「失礼。万が一不具合が起きても魔力酔いで倒れることはありません。兵たちとの交流もある。足手纏いになった瞬間、魔物の口に飛び込みますので、どうか」


 アルクゥはしばしの逡巡を挟み、直前まで治癒術師と行動するならばと条件を付けて了承した。ここでウルススを否としても何も知らないアルクゥが指揮官に適した兵を選び出すのは至難だろう。


「準備が整うまでどれくらい掛かりますか」

「些か強引ではありますが、半時間あれば」


 そう言いながらウルススは視線を外に逸らす。追い掛けた先には、疎らに立ち上がり始めた兵士が所在無げにこちらを見詰めていた。声を掛けてやってほしいとウルススに言われ、アルクゥはしかめた顔を消しつつ前に歩み出る。

 一点に寄り集まった視線はずっしりと肩に重い。静かに大きく息を吸い込むと、その動きが伝わったように僅かなざわめきがピタリと止む。一際の静寂を湛えた兵士たちは一言一句を聞き洩らすことのないよう息を詰めて耳を傾けている。

 仰々しいものでなくていい。ウルススが言ったようにアルクゥが指した方を見てくれるのであれば。


「災厄を終わらせます。共に戦ってください」


 兵士のぼやけていた顔に精彩が宿る。どよめきのようなものが上がり、それはやがて歓声に、そして互いを鼓舞し合う雄叫びに成長し、地面が振動していると錯覚するほどの鬨が霧の彼方にまで轟くほどに束ねられた。

 これでいいかと振り返るとウルススは「お見事でした」とアルクゥを労う。


「臆さずに声を通せる者はあまり居ません。後はお任せください。時間はあまりありませんが、アルクゥ様もその間にご準備を」

「……ここを離れても?」

「構いません」


 アルクゥはその快諾に甘えて体を翻し、ふとサタナに顔を向ける。恐らく付いてくるだろうから待たなければという心理が無意識に働いたのだが、サタナは不意を突かれたように一瞬固まる。何か堪えるように一度下を向いたがやはり付いてくるようで、アルクゥは兵士の喧騒を背にサタナと共にその場を離れた。



 

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