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精霊のシジル  作者: 染料
六章
126/135

第百二十五話 去りし日

 耳の奥でごうごうと低い音が響いている。

 それは吹き荒ぶ風のようにも、幼い頃から聞き慣れた海鳴りのようにも思えた。

 嵐が来るのかもしれない。

 波止場に佇んだケリュードランは曇天を仰ぎ、視線を下げて辺りを見渡す。

 空と同じ灰色に煤けた船は係留索にしっかりと繋がれ、細かな軋みを漏らしながらうら淋しげに揺れている。人の姿はない。避難を終えた後なのだろう。空の表情一つで港は廃れたかのように装いを変えていた。

 このまま息を吹き返すことなく朽ち錆びて寿命を終えてしまうのではなかろうか。

 怖ろしい想像にケリュードランは腕を擦って寒気を宥める。

 ただの杞憂だ。この静寂は皆が嵐に備えているだけであろうに。

 自分が幼かった頃の港ならこの胸に渦巻く憂慮は現実味を帯びたものだったが、エルザ港は頼りない若木のような時期は脱した。大樹へと成長を遂げている。

 嵐一つでは揺るがない。

 だが、夜に雨風に震える窓の心細さも、真っ暗な室内を不気味に照らす雷の恐ろしさもケリュードランは覚えている。それらをやり過ごした後に広がる夜明けの空の美しさも。

 夜と朝が混じった宝石のような空の美しさを、嵐の後始末に追われる人々は見上げることはせず、ケリュードランもそれを口にしはしなかったが、昔と比べるべくもなく堅牢な港となった今ならば皆も共に空を仰ぎ見てくれるに違いない。

 幼い夢を思い出して笑い、灰色の港を改めて見回したケリュードランの口元から笑みが消える。

 大波を防ぎ、風を防ぐ港に安堵し、人々は暖かい家の中でゆっくりと眠りにつくだろう。少しばかりの不安はあるだろうが、命を脅かすほどのものではない。そして明の空を見て笑う。

 夢は叶った。

 人の為に生きた、満ち足りた人生だ。

 なのになぜ――こんなにも心臓が灰色に老いているのだろうか。



 不自然に大きく跳ねた鼓動がほんの拳一つ分だけ退廃を遠ざけ、ケリュードランはその衝撃で瞼を跳ね上げる。

 灰の悪夢から一転し、眼前には黄金の景色が広がっていた。

 夢のような現のような、立ち位置が曖昧な意識にしばらく呆然としたケリュードランは、この黄金もまた性質の悪い夢なのかと考えあぐねる。思考の靄が晴れていくにつれ、強くなる現実感に、だからこそ間違った光景を目にしているようで混乱に拍車がかかる。


「誰か」


 一人では現実が覚束ない。他人の存在を確認したくて呼び掛けたとき、肺が痙攣して舌に鉄臭い味がせり上がる。体が自分のものでないように二三回跳ね、口から血が飛び散った。

 口内の熱さに唖然とし、口の端を汚しているであろう液体を拭おうとするも手が動かなかった。それどころか首さえも持ち上がらない。

 どこか怪我をしているのだ。この身は体の自由と痛覚がなくなる程の傷を負っている。

 刃先が背中に現れる程の深い刺傷を――思い出した。

 ケリュードランはふっと息を吐き出して目を瞑る。

 じきに自分は死ぬのだ。

 そう悟ったとき視界の端で人影が動いた。恐らくは治癒術師だろうが、どんな名医であってもこれ以上死を遠ざけることはできはしまい。胸を深々と突き刺されたことを覚えている。大層な肩書はあれど、自分は魔力を持たないごく普通の人間でしかないのだ。

 彼女たちとは違う生き物だ。

 いつまでも美しくあり続ける妻や、単身で魔物と相対し勝利する強い娘とは別種の、虚弱な人間だ。

 妻とは生きる時の長さが違う。

 魔力保持者と非保持者が寄り添えば当然に抱く疎外感と焦燥を遅まきながら抱いたのはいつの頃だっただろうか。

 強い想いがあれば何事も乗り越えられると信じていた青い若さが過去となり、歳を重ねて自覚し蓄積されていったそれは、待望の我が子が生まれたことで僅かに薄らいだように思えた。しかし娘が成長するにつれ前よりもより深く、そして猜疑という薄暗い感情を引き連れてケリュードランの心に住まうようになっていた。

 娘時代の華やぎを失わぬ妻、そして妻の血のみで出来たかのような瓜二つの娘。二人を見ていると己こそが異物であると突き付けられたかのような感覚に陥った。

 人は過つ生き物だ。心に芽生える感情を止められはしない。

 だとすればケリュードランの罪は、猜疑を妄想と切って捨てる勇気を持てなかったことであろう。持てないどころか、質すことすらしなかった。

 矜持が邪魔をしたのか。恐怖が邪魔をしたのか。酷く手前勝手な疑いであることも自覚していた。

 結果が、これだ。死出の旅を惜しむ者もいない孤独。

 灰色の人生だ。色彩を欠いた悪夢は自分の一生を濾し表している。

 地位ある者としては人々に貢献し慕われた。だがケリュードランという人間として顧みると何もない。

 何も残らなかった。

 誰かに何かを遺すこともなかった。

 誰が為の人生にもなれなかった。


「もう、良い。充分だ」


 治癒術師がこちらを覗き込む。

 見慣れない風貌の青年だった。若いのに色が抜けたように白い肌と髪が目につく。優れた魔術師は奇異な見た目を持つ者もいるので彼もその類だろうと思われる。白い頬の赤い汚れからケリュードランの治療に尽くしていることが窺える。血飛沫は額から伝う汗に溶けて精悍な顔に不似合いな赤黒い線を引いていた。

 血の混じった唾を飲み込み、今度ははっきりと言葉を区切りながら治療はもういいと伝える。すると青年は僅かに寄せていた眉根を開き微かに笑みを浮かべ、少し体を引いた。そこで初めて青年が真っ黒な聖職衣を着ていることに気付いたケリュードランは段々と自分の顔が強張っていくのが分かった。

 この青年がずっと娘の傍に控えていた聖職者か。

 改めて、まじまじと顔貌を見上げる。なぜすぐに気付かなかったのか。職業に対する思い込みと白い髪から老齢の男性だと思っていたせいでも、霧と娘への過度な意識で目が曇っていたせいでもあるだろう。


「お気づきになりましたか。どこか痛むところは」


 その反応を痛みから来るものと勘違いしたのか青年は尋ねるが、ケリュードランは口を噤む。

 賊が叫んでいた悪名が頭をよぎる。

 本当ならば――なぜこのような場所にいる。


「お前……お前は……」

「閣下?」


 再びせり上がってきた血を嚥下して睨み付けた。


「何が、目的だ。なぜ娘の傍にいる」


 一瞬、青年は目を逸らしたように見えた。ケリュードランはそれを後ろめたさからくるものとして糾弾しようと口を開いたが、青年の視線はすぐに戻る。


「自分が戻るまで貴方を死なせるなと頼まれました」

「何の話をしている……? 私が尋ねたのはそのようなことではない」


 青年の視線が再びずれ、再び合わさる。差し挟まる微妙な間に少し苛立ちながら続ける。


「私を助けろとでも言われたのか? だとしても、他人の傷を治す為にこの国に入ったわけではあるまい。何をしにここへ来た」

「頼まれ事をされる為にですよ」

「意味が分からないな。誤魔化しているのか」


 三度目、目線がずれて会話に余白が生まれる。

 ――唇の動きを読んでいるのだ。

 自身の体内には響いている声は、しかしながら他人に伝えるにはあまりにも細いものとなっているのかもしれない。とすれば、この口に青年に真実を語らせる力は皆無だ。

 顔を歪ませるように浮かべたケリュードランの自嘲は、次の青年の言葉で不自然に凍り付いた。


「アルクゥに頼まれました。彼女は私に貴方を任せ、庭園の方向に」

「……有り得ない。なぜそのような嘘を吐く」

「私は意味のない嘘をあまり好みません」


 娘が何をしに行ったのか、難しい謎かけではない。

 だからこそケリュードランは信じられない。

 ケリュードランに対して、今わの際に憐憫すら催すことのない恨みがアルクゥアトルにはあるはずだ。その娘が最期に母に会わせようとするなど。

 信じてはならない。信じれば赦された気分になる。そうして来世に引き継ぐべき後悔の一部を切り離して自分は死んでいくのだろう。

 それでは、道理が通らない。

 今までの仕打ちがまるで帳消しになったかのような最期だ。

 善にも悪にも相応の報いがあるべきだとケリュードランは考えている。

 罪には罰を、ならば良い行いには褒美があってしかるべきなのだ。妻と子を捨てたに等しい自分は打ち捨てられたように死に、見捨てて当然の港を助けようとした娘の先に待つものは幸福だ。そうでなければならない。


「終わらせてくれ。今すぐ」


 青年は僅かにだが目元に不快を呈した。しかし口は笑みを象ったままで、その器用な様が悪名の本人であると信憑性を高めるようである。同時に彼の国で虐殺と謀殺を尽くしたと言われる人間が汗を流して頼まれ事に尽くす様が不思議だった。

 理由を幾つか考える。それらはあまり愉快な想像ではない。しかし問わねばならなかった。返答次第では、最期の仕事がある。


「君は、私の娘の何だ」


 邪な目的を語ろうものなら、傷から血が噴きだそうが喉が破れようが叫ぶつもりでいた。近くにいる誰かが血の叫喚を耳にするだろう。もう皆が悪意の在り処がアルクゥアトルにはないと知り、ケリュードランの娘であることを知っている。それは娘にとっては屈辱的なことかもしれないが、必ず助ける者が現れる。

 青年はしばし考え、口の形を読んだときの視線のまま、こちらの目は見ずに答えた。


「赤の他人以上の何者かになりたいと、努力はしています」


 穴の開いた胸中にどこにそのような器官があったのか、複雑なものが込み上げる。大声で笑い出したくも、怒鳴り付けたくもあった。その後、先の気恥ずかしさがなかったかのように何食わぬ顔で視線を合わせた青年に、無意識の緊張がふっと解れる。すると一気に血液が引いていく感覚があった。

 小波に乗って意識が暗闇に引き去ろうとする。

 手足が氷のように冷たい。耳の奥でごうごうと凍えた音が吹き荒んでいる。嵐の只中にいるかのように。

 もう明の空を見ることはできないだろう。


「父親の前で言う台詞ではないな」


 呟きながら、笑みがこぼれる。笑みの理由がわからないのか青年は首を傾げる。

 説明してもまだこの感覚はわかるまい。父親面をしてみることの誇らしさは。今更身勝手で、取り返しもつかないことではあるが。

 全てにおいて気付くのが遅すぎた。


「待つ気は……ない。あっても、無理だろう」

「それを決めるのは貴方ではありません」

「神か? だが君たちの信仰する精霊は、グリトニルまで目を光らせてはいまい」

「貴方の生死を握っているのは私で、待たせると決めたのは貴方の娘ですよ。臆病の理由は存じませんが、死に際は潔くすべきでしょう」

「随分な言い様だな。……死に際か」

「恐ろしいですか」

「いや……違う」


 恐ろしくはない。

 そう自分に言い聞かせる。

 未知の暗闇に意識が流されていく。それに身を任せながら、相変わらず眼前に広がる黄金の世界を眺めた。

 これは何なのだろうか。碌でもないものであることは確かだろうが。

 彩のない光の世界など、灰色の夢と然程の違いはない。草木の緑や空の青さが鮮やかに目に焼き付く風景の方がずっと尊く愛しい。

 瞼を下ろしその裏にエルザ港を思い描く。

 今はまだ嵐の中だ。だがそれが過ぎれば何よりも美しい空が黒雲の隙間から現れる。

 意識が混濁していく。

 恐ろしくはない。



「頼む」



 もはや自分が何を求めて呟いたのかすら分からない。ただ、風音の鳴り響く中そばだてた耳に確かな了承を聞いて、安堵した。

 瞼の裏の想像さえも掻き消され、真っ暗な嵐の調べに静かに身を任せる。後は待つだけでいい。

 酷く寒い暗闇に、ほんの微かな、羽さえも舞い上がらない足音が聞こえた。近付いてくる。目を開けなければと灰色に染まり切る前の心臓が脈打つ。

 瞼が重かった。閉じてしまったことを後悔する重さだ。一瞬だけ心騒ぎ、抗えずに老いていくばかりの鼓動と共に更に重たく鈍くなる。

 それでも精一杯、持ち上げる。暗闇の切れ目に墨色に滲む空が映る。

 雲間は、すぐそこにある。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 ケルピーの背から飛び降りたアルクゥアトルは弾む息を飲み込み母アルクゥリーネに手を貸した。

 リーネは体重をどこかに忘れてきたかのような動きで地に降り、娘の手を取ったまま真っ直ぐ迷わずに歩を進める。その先に倒れた公爵の有様は遠目に見ても明らかで、近付くことすら躊躇われる死の気配を漂わせていたが、そんな夫の状態にも足を止めることなくリーネは進んだ。

 母は公爵の存在そのものをひたすら見詰めているのだろう。長く彷徨い、ようやく帰る場所を見付けて、そこを見失うまいと視線を逸らさないでいる。

 もう案内は不要だ。

 前のめりに歩く母の背中を見てアルクゥは握っていた手を緩める。するりと魚が泳ぐように母の白い手は離れていく。その場でアルクゥは立ち止まり、再会とその後の別れを見守ることを選んだ。

 リーネがあと一歩のところにまで近付くと、公爵の傍らに付いていたサタナが顔を上げ、一瞬リーネを見てからアルクゥに視線を遣る。頷くと、公爵の命を繋いでいたサタナの手の平が傷口から離れた。


「よろしいのですか」


 リーネに場所を譲って傍に来たサタナに問われ、それにもまた頷く。

 親子に戻れたわけではない。だから見送るのならばこの場所が丁度いい。

 公爵の傍らに膝突いたリーネは、覆い被さるようにして血塗れの頬に手を添える。柔らかな指先が目尻をなぞると、すると完全に閉じていた公爵の瞼が震え、光を失い掛けた瞳が辛うじて睫毛の影に現れた。

 そこに最愛の姿が映ったかは、本人にしか分からない。

 もしかするともう何も見えなかったかもしれない。

 それでも再会は果たされた。

 空気を求めたのか、もしかすると何かを言おうとしたのか。公爵は薄く唇を開き、そこから肺の空気を全て出し切るような長い長い吐息を零す。

 そして二度と息をすることはなかった。

 リーネは赤子を抱くように公爵の肩口を引き寄せ顔に頬擦りする。血が付いた白い顔に涙はなく、ただ眉を下げて微笑んでいた。



「ありがとうございました」


 一人の人間の死を見届けて、アルクゥはサタナに向き直る。

 真っ赤に染まった両手が、血と汗が伝った顔が、たった十数秒の為にどれほどの力を尽くしたのかを物語る。どのような言葉でも財産でも礼とするには足りない恩義に、サタナは何も誇ることではないと言うように小さく首を振り踵を返す。後に続こうとすると立ち止まりアルクゥの背後に視線を向ける。その行動の意味するところにアルクゥは俯く。


「何かあれば呼んでください」


 サタナは特に強制するでもない一言を置き、疑似幽世の結界際で兵士や避難民を追い払っているモーセスの方に歩いて行った。アルクゥは逡巡を繰り返し、結局リーネと公爵の方に足を向ける。

 二人の傍に立ったアルクゥは、かといって悼むことも縋り悲しむことも出来ず中途半端に佇む。

 間近で見下ろした公爵は安らかな顔をしていた。サタナが苦しませなかったのだろう。胸を貫かれたにもかかわらず苦痛の痕跡が見当たらない。

 人は死んだ途端、蝋のような肌になるのだなとアルクゥは思う。

 恐らくまだ体は温かいだろう。それなのに命が感じられない。

 死の実感が胸に迫る。


「おとうさま」


 口の中で誰にも届かないように呟くと喉がにわかに震えて熱を持つ。

 強く目を閉じ、涙の味が通り過ぎていくのを待ってから、母の細い肩に手を置いた。


「冷たい石畳では可哀想です。屋敷に行きましょう」


 遺体に身分などなく、他の犠牲者に倣い安置所に連れて行くべきなのだろうが、港に尽くした人だ。少しの我が儘は許されるだろう。

 しかしリーネは人を呼ぼうとしたアルクゥを止める。


「待ってアトル。私が連れて行くわ」

「でも……」

「大丈夫よ」


 母の細腕ではどうやっても無茶な話だ。

 アルクゥは困惑したが、一応は頷く。もしかすると他人に触れさせたくないのかもしれない。ならば自分とケルピーで運べばいい。体のあちこちにある痣が時折思い出すように痛むが些末なことだ。

 そうしてケルピーを呼んだ矢先、リーネは入れ替わりに立ち上がる。

 動きを追って母を見上げたアルクゥは、刹那、彼女が胸の前で重ね合わせた両手の内側に淡く光る珠を見た。

 今のは、と答えを求めてリーネを見詰めると、同じ色の目がアルクゥを見詰め返す。


「大丈夫。迷わないように、私がちゃんとお連れするから」


 理解したくないと感情と言葉の意味を考えようとする理性がぶつかり、束の間思考が止まる。

 僅かに得た数秒の逃避の時間にもリーネは言葉を撤回することなく、痛ましさを含んだ表情で優しく娘が察した事実を飲み込むのを待っている。

 アルクゥは渇いた唇を舐めか細く尋ねる。


「それで、お母様は……どちらに?」


 気の遠くなるような長い時間幽世にいた人間が、何の奇跡もなしに、たかだかアルクゥの差し出した手一つで現世側に戻って来られるはずがない。

 尋ねるという形式を取りながらも、無意識の中ではすでに諒解していた事柄だった。それを否応なしに直視せざるを得ない状況になっただけのことだ。


「ケリュードラン様と一緒に、少しだけ遠いところへ」


 リーネは応える。受け入れろと合理的な部分が囁く。

 感情はそれに反発した。


「私は一度に失うわけですか」


 勢い込んで立ち上がったアルクゥは吐き捨てる。

 頭では仕方のないことだと分かっている。存在がこちら側から離れる感覚はアルクゥも知っている。

 それでも口は止まらない。


「二人とも、勝手だ。突き放したり、消えてしまったり、果てにはようやく帰ってきた娘を置いてさっさとどこかに行ってしまう」

「アトル」

「聞いてほしいことだって沢山あるのに、どうして!」

「アトル!」


 初めて聞いた母の大声で我に返る。

 アルクゥは頭を振り額に手を当てた。熱い。

 体に灯った火を吐き出すように大きな溜息をつく。


「子供を置いて行きたいと思う親はいないわ」

「分かっています」

「私は、もう留まることができない」

「……それも、知っています」


 温かくて柔らかい感触がアルクゥを包む。

 アルクゥにほとんど体を預けているリーネは恐ろしく軽い。込み上げてくるものを堪えて眉を寄せ、腕を回して抱擁を返す。


「私を見つけてくれて、ありがとう」

「遅くなって……ごめんなさい。もっと早くに来ていれば」

「遅くなんてない。それにケリー様なんて、目の前に立っても気付いてくれなかったもの」

「恨んで、いますか」

「いいえ」


 リーネはアルクゥの肩口に顔を埋め、嘘と呟く。


「嘘よ。恨んでいるわ。少しだけ。変なところで、仕方のない人だったから」

「そうでしたね。可笑しな言い方かもしれませんが、人間臭い人でした」

「まったく、その通りね。……ねえ、アトル」

「はい」

「一緒に行く?」


 吐息に近い言葉が衣擦れの音と一緒に衣服に染み込む。


「行きません」


 両肩を押して離れる。母は聞いてみただけだとでも言うように微笑んでいた。


「ずっと愛しているわ」

「私もです」


 リーネは一瞬目に過った悲しみを隠すように笑みを深めゆっくりと二歩後ずさる。アルクゥが咄嗟に手を伸ばすと柔らかく握ってくれた。


「私はここに残ります。でも……これからどうすればいいのでしょうか」


 どんな弱音も許されるような気がして、口に出さないようにしていた本音がこぼれた。


「皆、疲れ切っています。待つのは限界で、指導者である公爵を失い進むことも難しくなったかもしれない。私一人ではどうしようもありません。結果の見えた戦いならば、公爵が、お父様が言った通りに、私は私の失いたくないものを連れて逃げた方が良いのでしょうか」

「私は今何が起こっているか分かってはいないから、無責任に口出しなんてできないのだけれど……どんな母親だって娘に危険な真似はさせたくないでしょう」

「お母様も、逃げるべきだと?」


 二人に背中を押されたのに、どうしてだか免罪符には思えない。

 リーネはその逡巡を見透かして、大きく首を巡らせた。金色の瞳が微かな光を持っている。


「もしも、あちらにある嫌なものに挑むのなら、ほんの少しだけ助言をあげられるわ。人が作った歪みは、人が正さなければならない。けれどねアトル。もし、もしもそれが手に負えないようなものになってしまったら……きっと助けてくれるものが現れるのだと私は思っているの。彼らはとても情が深いのだから」

「神なんて都合の良いものは」


 いない、と言い掛けたアルクゥは、リーネの強い双眸に息を飲む。

 ――この人は今から何になる?

 リーネの金色が陽炎にのまれて形を失った。

 ここだけ夜明けの空のようだ。音もなく青と緋の炎に包まれたリーネは、一欠片の火をアルクゥに渡した。


「いつでも見守っているわ」


 リーネの姿は溶け、炎と混ざり合う。

 疑似幽世の光子も霧も退ける力が渦を巻き、母を別の形へと変えていく。

 結界外で見ていた人々の間から上がった悲鳴がどよめきに、次いで驚愕に変わり、最後には針の落ちた音さえ聞こえそうな静寂が満ちた。

 炎の殻を破るように生まれ出でた姿に呼吸すらも躊躇われたのだ。

 白銀の枝角を頂く、暁の鱗を持った龍だった。

 鋭利な爪の前脚で、淡く光る珠を大事に握っている。

 龍は大きな体を波打たせて飛び立ち結界を突き破る。舞い散る光子を瑪瑙に似た質感の鱗で弾きながら、窮屈な体からの解放を喜ぶように屋敷の上空を大きく旋回し、アルクゥの目の前に降りてくる。

 マニの時と同様に、とてつもない次元の存在を前にした動揺が気安く声を掛けて良いものかと戸惑いを生む。そんなアルクゥに龍はおとがいを差し出し、金色の目を細めた。その色だけは、母の優しい色と変わらない。

 アルクゥは両腕一杯に龍の頭を抱き締めた。

 これが母子としていられる最後の瞬間だ。


「さようなら」


 惜しむ気持ちを振り払うように素早く離れて距離を取る。

 別れの言葉に応じ、月の弦を弾くような円やかな音で吼えた一匹の龍は、頑健な顎先を霧で覆われた空に向け一直線に駆け上がる。瞬きの暇さえなく、アルクゥがまだ見ぬ彼方へと飛び去って行った。


 

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