第百二十話 遠く近いものたち
暗闇に微睡んでいた意識が浮上する。
眠りの沼に足を取られたような鈍い覚醒に、アルクゥは閉じていきそうになる瞼を懸命に持ち上げた。体の右側が暖かい。余程疲れていたのか、座ったままケルピーにもたれて寝てしまったのだろう。今も目を閉じれば数秒で泥のように眠ってしまうだろうが、眼前に漂う霧の色がアルクゥに二度目の休息を許さない。
この明るさでは正午が近いか、それとも過ぎたか。
しかしながら、意にそぐわない時間の経過に慌てふためくにはアルクゥの頭はまだ鈍麻していた。霧の匂いを嗅ぐ。そこにあるのは不快な臭気だ。歪みの臭い、それを正せと急かす臭い。
事態はまだ自らの手に負える範囲にあることを確認し、光に小さく痛む目を細め、右側に顔を背けて額を擦り付けるように埋める。霧の臭いを上書きするつもりで大きく息を吸い込むと、微かな硬直を密着させた額から感じ取る。同時に水の匂いがしないことに気付いて顔を上げた。
僅かに硬い表情で口を引き結ぶサタナと視線がぶつかる。
アルクゥは音もなく寄り掛かっていた体を起こして記憶を手繰り寄せた。何があったのだったか。しばらく考え抜いてようやく睡眠前の記憶に指先が掛かったとき、よく眠れましたか、と寝起きを気遣う低い囁き声に体温が耳に集中した。不自然に熱い耳朶をフードで隠す。
「……時間は」
「正午まで一時間と言ったところでしょうか」
目元を覆って呻くように尋ねると簡潔な答えが返ってくる。
寝過ごさなかったことに安堵しつつ一度霞を払うように頭を振る。覚えているのは、覚えていない方が良いような記憶までで、込み上げる羞恥に歯噛みしながら自分が眠った瞬間が見当たらないことを不思議に思う。そうしてふと抱いた半疑にアルクゥはサタナを見上げた。頑なにこちらを見ようとしない横顔に視線を突き刺していると、サタナの方から折れた。
「健全な魔術師であれば、欠片も影響を受けない簡単な暗示です」
つまるところ自分は健全ではなかった訳かとフードの下で顔を顰めるが、ひと寝入りする前の精神状態を鑑みるならば赤面ものの事実だ。返す言葉もなく、ただ僅かに眉を下げて生垣に隠れた向こう側の前庭を見遣ると、懸念を察したサタナが首を横に振る。
「まだ敵に動きはありません」
「……このまま動かないでいてくれたらいいのですが」
「そうはいかないでしょうねえ」
重大な不安要素を残したまま正午を迎えることになる。
アルクゥは膝頭に視線を落とした。サタナの言う通り、敵は我が身可愛さに静観を続けてくれるような人間ではないだろう。このまま保身に走るような者ならば初めから強制力のない遺言など聞き届けはしない。
ベルティオを信望する魔術師、しかし形振り構わず襲いかかってくるような狂人ではないという二点のみが、アルクゥに予想し得る敵の全てだ。情報はどうしようもなく少ない。とにかくモーセス達の所に戻ろうと腰を上げたとき、何気なく零れたような呟きにアルクゥは動きを止めた。
「戦える魔術師ではないのかもしれませんね」
アルクゥはそのまま座り直す。
主人の行動に合わせ噴水の傍で立ち上がっていたケルピーも再び四肢を折り曲げ休息の体勢に戻った。行かないのか、と問う水面の瞳に少し待てと待機を命じて、何となしに視線を移したその足元に謎の肉片を発見する。齧り跡のある赤々とした塊に、屋敷のホールから運び出されていく遺体が頭を過った。瞬間、ケルピーは嘶いて魔物の肉だと声高に主張してアルクゥは胸を撫で下ろす。
「司祭はどう思われますか」
「司祭ですか」
一人と一頭のやり取りを興味深げに観察していたサタナに先程の続きへと水を向けると、呼び方に違和感を覚えた様子で眉を下げた。
「司祭……様」
「いえそういう事ではなく、私はすでに破門された身ですので。……ああそう言えば、石の聖女が病死したことはご存知でしょうか」
どうでもいい話題からの唐突な転換にアルクゥは目を見開く。
「それは、いつ?」
「ベルティオが死んだ翌日です。嗅ぎ付けた一部の新聞社が騒いだようですが、すぐに教会の手が回り誤報だったという事になっていますね。彼女の後継が決まるまで隠し続けるでしょうねえ」
「……本当に病死ですか?」
「さて。療養していた私の与り知るところではありませんが、まあどんな死に様であれ彼女は無事御許に召されたことでしょう」
聖職者らしい微笑みを装い適当なことを言ってのけたサタナは一度思索に目を伏せ、「敵についての話でしたね」と話を元に戻した。
「干渉があったと思われる出来事は二つあります。一つは霧の発生、そしてもう一つはエルザ港に配備されている魔術師の分断と殲滅」
言われてみれば、とアルクゥは今までにモーセス以外の魔術師を見かけていないことをようやく問題として理解した。後から来たサタナの方が先に来た自分よりも状況を把握しているのは据わりが悪い。
振り返ってみれば公爵邸に来てから出来て当然の思考が疎かだ。いかに視野が狭まっていたのかこうして話をするとよく分かる。前だけしか見ようとしない頭のまま正午を迎えていたかもしれないことを考えると、あまりの無謀さに背筋に悪寒が走る。
「グリトニルの要港を守る魔術師は常時十名以上と定められているようですが、五日前の夕刻にエルザ港を霧が覆ったときには五人しかいなかったそうです。不在だった半数は霧発生の数時間前に近郊で確認された魔獣のつがいの討伐に出ている。彼らは帰ってきていない。外で立ち往生か、それとも殺されたか。
残りの五人の内三人は、霧発生後に濃い魔力が立ち込める場所があると通報を受け、港近くの大広場に調査に出てそのまま消息を絶ちました。最後の二人は住民を避難させる最中に魔物に群がられて死亡しています。魔物たちは周囲の人間には見向きもせずにひたすら二人を狙ったそうです」
見事に全滅してますねえと一旦話を結んだサタナにアルクゥは疑問を呈する。
「魔術師は軒並み排除する方向で動いているようですが、モーセス様は生きておられますね」
「ええ。護衛もつけずに歩き回っていたそうですよ。取るに足らないと判断されたか、それとも罠を張らなければまともに相手取ることができないくらい敵は戦いが不得手なのか……私は後者を推します」
先程の独り言と繋がった。断じるには早計ではないかと首を傾げたアルクゥに、サタナは目前に広がる霧の庭園を眺めながら続ける。
「戦えない魔術師は本当に弱い。そして彼ら自身がそれをよく理解している。時間さえあれば彼らの魔術は脅威であり、また武器を持てば人を殺すくらいは当然可能ですが、それでも貴女のように反射的に攻撃を行使できる魔術師には遠く及ばない」
どの国の魔術師養成施設でも早い段階で戦闘に対する適正が調べられる。適していても不適であっても魔術師としての素質を図る指標として扱われるわけではないのだが、それでも心情的な優劣は発生し、魔力保持者として持て囃されてきた人間にとっては初めて下から上を見上げる経験をすることになるのだと言う。
「十人を排除したときのようにあらかじめ有利な状況が作れないとなれば、情報にない予定外の魔術師との相対は避けるでしょうね」
「モーセス様は戦えない魔術師だと自認されていました」
「いくら弱そうに見えても、人は見た目通りであることの方が稀ですからね。貴女も、私もそうでしょう」
胡散臭いという第一印象は概ね正解だった気もするが、とは胸に留めておく。
「武器を携えて排除を強行しなかったことを考えれば、数もそれほど多くない。五人、はいないか。二人か、三人程度でしょうか。刃物を持っても強気に出られない数は。敵が貴女の来訪も視野に入れているのであれば、尚更頭数を減らすような真似はしたくないはずです」
戦闘に長けた敵があえて手を出さず冷静に機を窺っている可能性の潔すぎる切り捨てに、アルクゥは納得にはあと一歩足りない感覚を抱えて曖昧に頷いた。サタナは横目にそれを見た後、どこか遠くに焦点を映して何かを思い返すように冷たく笑う。
「どうかしましたか」
「いえ……少し嫌なことを思い出しましてね。ベルティオは非常に嫉妬深い男だったでしょう。それがこの憶測入り混じった推論の要です。彼は優秀な仲間をラジエル魔導院で怪物の餌にしている。そんな人間が研究の成果を預け、手足のように使うとするならば、彼が歯牙にもかけないでいられるような者だと、そう考えました」
こちらを向いた顔からは冷たさが立ち消え、苦笑に似たものが浮かんでいた。
「一時ではありますがベルティオの思考を後ろから見ていましたから、あの外道が何を考えたか少しばかり自信があるつもりです」
「そうでしたか。……申し訳ありません」
「私が勝手に思い出しただけですよ。それに悪いことばかりではありませんでしたから」
ベルティオが体を操るなど最悪の一言に尽きるのに、サタナは虚勢を張る風でもなく断言する。ベルティオの性向を理解したというのは果たしてサタナにとって良いことに分類されるだろうか。
聞くに聞けず消化不良を腹の中で持て余していると、サタナはそれを見兼ねてか付け加える。
「僅かな時間ですが、聖女が夢見た世界を垣間見ることができました」
それはベルティオの視線を通して幽世を見たということで、ベルティオを殺そうとしていたアルクゥを見たと言うことだった。
失念していた事実に焦りがゆっくりとした歩調で背筋に這い寄ってくる。
ベルティオを殺すときは――鱗があって爪があって、多分牙も生えていた。
気味が悪いと思ったはずだ。
「そろそろ行きましょうか」
立ち上がり手を差し伸べるサタナを上目に窺う。こちらを見る目に不快が混じっていないかを探すのは人でなかったことが後ろめたいからだ。サタナが覚えていない可能性がないでもなかったが確認する勇気はない。
アルクゥはしばし意気地のない考えを巡らせて、どうせ今更だとサタナの内心を推し量るのは諦める。聞いたところで誤魔化すか気を遣うか、本心が返らないのは目に見えている。そうして傷付かないように配慮を示された分だけ、失敗したときにここに残されるサタナの未来が気掛かりで足が鈍るだけなのだから。
アルクゥは最初からサタナの同行を認めていない。
情報を聞くだけ聞いておいて卑怯な行いかもしれないが、確約を引き出さない方が悪いのだ。それに着いてこさせないのはサタナの為にもなるだろう。
――頃合いだ。
差し出された手を取ったアルクゥはサタナを幽世に引き摺り込んだ。
「貴女の企みは目に表れますねえ」
――つもりだった。
気付けば真上にあったサタナの顔と、その背景の霧の空に緩慢な瞬きを繰り返す。
背中にある冷たいベンチの感触から状況を理解するが、失敗に焦るよりも鮮やかな対処に感嘆した。行動を察した勘の良さにも。
不首尾を予想していなかったアルクゥが呆けていると、頬を包んだ右手の親指が目の縁を際どくなぞる。軽く力を入れるだけで企みを暴露したという眼球に指が触れる。
「ここでお役御免とは酷いな。私に何をしようとしたのですか」
「離していただけるのであれば白状しますが」
「アルクゥ」
「……貴方と同じことです。少し眠ってもらおうかと」
「いつまで」
「夕方には起きるでしょうか」
ユルドが幽世に入ったときのことを基準とすれば、数秒の滞在で数時間気を失う程度だ。個人差があるかもしれないが。
サタナの感情の色を消した顔がその下に苛立ちを秘めていることは未だアルクゥを押し倒す体勢と見下す瞳から窺い知れた。
それでも気分は不思議に落ち着いている。
この行動が他ではなく己に対する正答だと知っている。サタナがここに命を懸けるに足るものを持たず、更には事の一切と無関係であることもアルクゥを後押しした。
サタナに手を伸ばすと痛みを覚悟するように目を竦ませる。雨が降り出しそうだとそこに触れると、右手がアルクゥの頬から離れ、慎重さと恐れを孕んだ仕草で自身に接する指先を軽く握り締めた。
「私を信用できないのはわかっています。ですが」
全くの見当違いな思い込みに、存外鈍いところもあるのだなと笑う。
その反応を訝しみ無表情が微かな困惑へと変化していく過程にささやかな充足を覚えた。
サタナが与えてくれた不器用な慰めはこの先死ぬまで忘れない記憶の一つになるだろう。呼吸が止まりかねない狭窄から抜け出せたのはアルクゥを知り、肯定し、案じてくれる存在があったからこそだ。
そうして告げた感謝にサタナはゆっくりと目を見開いていく。そこに映った鏡写しの自分は瞳に金色の光を宿し、これでは気付かれるわけだと二度目の企みも挫かれながら納得した。
「馬鹿な人だ」
押し殺した声がぽつりと零すのを聞いた直後、アルクゥは視界を失う。
両目を塞いだ手を外そうとすると、そのまま聞いてくださいと暗闇が懇願した。
「貴女が本気で私を遠ざけようとするなら抗う術はありませんので、優しさに付け込ませていただきます」
「……それを知って大人しく聞くと思うのですか?」
視界がなくても幽世に入るには何の障害にもならない。寧ろ、アルクゥが境界に触れる兆候が見えなくなりサタナが抵抗手段を失うだけだ。
「ここで話すことができなければ、私は死ぬまでこの瞬間を忘れないだけです」
呪詛じみている。心中の不吉を煽られたアルクゥが沈黙すると、一度だけですからとサタナは掠れた息を吸い込んだ。
「――私は貴女に恋情を抱いています」
罪を負う身としていかに浅ましく醜行な情動であるか理解している。誓って、契約の不履行と尊厳を穢した咎の贖いを忘れたわけでもないと連ねられた言葉が、アルクゥの思考の表面だけ撫でて理解を素通りしていく。
顔さえ見えればこれほどの困惑はなかったかもしれない。同時にアルクゥの目を隠したのではなく、サタナがそれを告げる自分の表情を隠したのだと気付いた。
「貴女を失えば私は何もかもどうでもよくなって生を投げ出すでしょう。盾になることすら許されないのであれば、いっそここで役立たずの首を掻き切ってください」
混乱する頭が、暗闇の中で思い浮かべた黒に映える白い頸に赤い線が引かれる様を想像する。
――吐き気がした。
馬鹿が、と思惑に嵌まった自分を罵倒しても、間近に手繰り寄せていた幽世の感覚は既に遠のいていた。何度もサタナを引き摺り込もうとしたが赤い線が頭をチラついて離れない。躍起になるほど指先がぶれ、諦めに辿り着くには時間の問題だった。
腕を落として脱力すると目を塞いでいた手が外れ、今まで広がっていた暗闇の代わりに余裕を欠いた男の顔が視界を塞いでいる。
無性に苛立って勝手に死ねと吐き捨てる。
サタナは愁眉を開き、それを答えと受け取ってもよろしいでしょうかと生真面目に訊ねて前言撤回の余地を潰すのに抜かりなかった。




