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精霊のシジル  作者: 染料
六章
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第百十九話 融雪

 アルクゥは視線をサタナに戻す。

 何か、聞き間違ったか。

 そう考える最中にサタナの口は再び同じものを紡いた。

 ――逃げませんか。

 アルクゥは眉をひそめる。何を言っているのだろうかこの男は。


「……貴方の都合で目的を曲げる気はありませんが」

「違います」

「何が」


 立ち上がったサタナはアルクゥを上から覗き込み、軽く眉を上げてアルクゥが深く被っていたフードを脱がせた。咄嗟に頭を引いて逃げるよりも、手が頬に添えられる方が早い。かさついた親指がゆっくりと目尻の下辺りをなぞっていく。ピリピリとした痛みがあるのは、そこに傷があるからだろう。

 慰撫は何度も規則的に頬を行き来する。他人に顔を触れられる緊張で首筋が強張る。


「……あれほどの兵士が門の中にいて、貴女は一人で戦っていましたね」


 あれのことか、とアルクゥは少し得心がいく。

 客観的に見れば酷い絵面だったのは確かだ。後から来た第三者が首を傾げるのは寧ろ当然とも言える。


「あれは私の傲慢が招いた事態です。援護しかできないのなら、いらないと言いました。……細かな傷まで、お気遣いありがとうございます」


 手が頬を離れてるのを待って軽く握り締めていた拳を開く。治療行為だとしても、他人に触られるのは慣れない。否――サタナだからこそか。


「そうだとしても判断力のあるまともな指揮官であれば兵を援護に向かわせます。魔術師は前を守る者がいてこそ最も力を発揮できる。軍人であれば誰でも知っています」

「被害は少ない方が良いと判断なさったのでしょう。それに私が口出しをしていい領分ではありませんから」

「モーセスとかいう魔術師に正午の作戦について聞きました。貴女はその要だという。失っては決行すらままならなくなるのに、支援の一つすらないのは異常です」


 礼を言った時点で話題を打ち切ったつもりだったアルクゥは咄嗟の反論が思い付かない。

 結果として自分は生きているのだから、それでは駄目なのだろうか。内心で考えてみたが、サタナの態度からして口に出せば否定が返るのは一目瞭然だ。


「どのような確執があってあのような状況に至ったのか私には分かりませんが、言われるがままに安全な場所で結果を待つしかしなかった者たちの為になぜ貴女が命を懸けなければならないのですか」

「それは……そうかもしれませんが」

「我々が門に近付くまで扉は硬く閉じたままでした。誰一人として外に出ようとはしなかったのでしょう。そして誰一人として、歓声を上げることに恥じる様子もありませんでした。それが当たり前だという顔をして、単身で魔物に挑んだ年下の少女を称賛した。おかしいとは思いませんか」


 兵士の的外れな賛美に対して抱いた侮蔑を見透かされたような気がしてアルクゥは一瞬動揺した。


「思いません」


 不自然に強い口調で否定してから拙いと口を手で覆う。

 ――覚えていなくせに、忌々しいほど勘がいい。

 アルクゥはサタナを睨み、これ以上触れられたくない部分に土足で踏み込まれては堪らないので踵を返す。噴水の横でじっとこちらを見詰めるケルピーに移動しようと呼び掛けた。しかし知性のある眼差しは何を訴えるわけでもなく、その場に凛と佇んだまま動かない。

 まだ怒っているのかと勝手に決め付けて苛立ちが湧き上がる。その勘気が伝わったのかケルピーは耳を伏せた。怯える様子を見てアルクゥは我に返り、今の愚かしい自分を振り返って呆然とする。謝ると、頭の中に許しが聞こえた。ケルピーは魚の尾を大きく一振りして近付いてくる。仲直りしようと自分からも距離を縮めようとしたとき、


「アルクゥ」


 名前を呼ばれた。

 応える気はなかったが、顔を摺り寄せてきたケルピーの鼻先に軽く胸元を押されて促され、アルクゥは半身だけ振り返る。


「まだ何かありますか」

「この霧は貴女のせいではない」


 アルクゥは唐突な言葉の意味を咀嚼して、ゆっくりと飲み込んでから、嘲笑を作り損ねた苦々しい笑みを口に湛えて体ごとサタナに向き直った。

 アルクゥがエルザ港の惨状に責任を感じていることは、トゥーテの知らない情報だ。考えてみれば、ただの半日でサタナがここに着いたこともおかしい。転移陣はそう易々と用意できるものではない。

 ――情報と移動手段を与えたのはヒルデガルドだ。

 そしてあの魔女が無償でそれらを提供したとはとても思えない。以前、ガルドはネリウスの情報と引き換えにデネブの立場の保障を得た。今度は一体何を売って何をせしめたのだろうか。

 アルクゥはガルドに何の口止めもしていない。

 ゆえにガルドが誰に何を話そうが自由だ。害が及ばない限りアルクゥは何も気にする必要はなく、今回に限ればガルドの行動がアルクゥを救ったとも言える。

 それでも――そうだとしてもだ。

 胸にどす黒い感情が広がる。


「あの魔女とどのような取引をしたのか知りませんが、その上で得た情報でしか私を知らない赤の他人に口出しされるのは不愉快です」


 サタナは虚を突かれたような顔をし、思わずといった風情で一歩近付く。アルクゥは拒絶を込めて同じ距離を下がった。酷い胸やけがする。


「何があろうと逃げるつもりはありません。第一、私が貴方の希望通り逃げたところで、貴方が私から有用なものを引き出せるとも思いませんが。ただ人伝に聞いたばかりで、この霧も、そのきっかけも、私のことも、何一つ実体を知らないくせによく私のせいではないなどと言えましたね」


 一息に言って逸る息を無理矢理深く吸い込む。

 ――激情に駆られて当り散らして一時溜飲を下げたとしても、後から同じ分だけ惨めな思いをするだろう。

 アルクゥは勢いよく飛び出そうとする罵倒を喉元で押さえつける。絞り出すような声は自分で聞いても醜かった。


「助けてくださったことも、治療も、感謝しています。……無事戻って来られたら、その時には」


 全てを話して、そして二度と交わらないように縁を絶やそう。

 アルクゥはフードを深く被り直してサタナの視線を遮る。

 相手の目が隠れただけでも対峙は幾分か楽になる。今度は何を言われても冷静でいようと自戒したアルクゥに、他が見えない故に際立ったサタナの口元の動きが一字一句を押し付けた。


「私は貴女が思っている以上に貴女のことを知っています」


 無意識に右腕の鱗を爪で掻く。

 一瞬前の決心も忘れたアルクゥは、サタナは狙って自分の逆鱗に触れているのだろうかと怒りの中で勘繰り、今度は形になった嘲笑で皮肉を返した。


「顔を合わせたのは二回目ですから、知人という意味では正解ですね」

「傍にいるときにはずっと見ていました」

「そうですか。それで、一日にも満たない時間で何か分かりましたか」


 自分自身でさえ分からないことは多いのだ。ましてや他人に、そんな短時間で自分の何かを理解されて堪るものか。

 アルクゥは攻撃的な眼差しでサタナを見上げ、しかしそこに見つけた微笑に眉をひそめる。


「それよりは少し多い。貴女を契約で拘束した時から、今この瞬間までの時間です」


 アルクゥは更に強く眉を寄せる。


「……それも人に聞いたものでしょう」

「誰のものでもない、私の記憶と感情です」


 断言するサタナに戸惑うも、すぐにありえないと鼻で笑う。

 サタナの記憶はベルティオごと燃やした。跡形もないものを思い出すことはできない。

 できないはずだ。

 サタナは余計な言葉を挟まず辛抱強く信用を得る瞬間を待っている。

 心臓は一度大きく跳ねたのを皮切りに嫌な速度で脈打ち始めた。自身の追い詰められた鼓動しか聞こえない沈黙がアルクゥには耐え難い。


「覚えているわけが……ないでしょう」

「ええ、覚えてはいませんでした。ただ――貴女の兄弟子に預けていたものを返してもらっただけで」


 アルクゥは目を何度も瞬かせて、口元しか見えないサタナを見つめる。記憶を預ける。禁術か。恐らくはネリウスがアルクゥを救った魔術と同系統の。

 苦いものが口内に広がるようだった。

 よく考えてみれば、記憶を失ったヒルデガルドの有様を間近で目の当たりにしたサタナやヴァルフが対策を講じておかない筈がないのだ。殊にサタナは仕事上黒蛇に関わる機会が多く、ヴァルフはアルクゥの近くにいるが為にその危険は付き纏っていた。

 サタナはすでに記憶を得ている。

 それがどれほど欠落を補ったのかは分からないが、少なくともサタナにとってアルクゥは二度会っただけの他人ではないのは確かだった。

 納得した瞬間、先ほど自分が喚き散らした的外れな暴言に対してアルクゥは言いようもない羞恥を覚え頬に朱を昇らせた。


「覚えているのなら……なぜ初めから……」

「帰れと言われそうでしたので」

「ふっ……ざけないでください! 大体、覚えているのなら、こんなところにまで来る必要なんてなかったでしょう! それに貴方がもしここに来るまでに死んでいたら……」


 顔も知らない他人の死と、知人の死では、その重みが違う。

 今更ながら、そういった未来もあり得たのだという想像に肌が粟立った。目の前に生きている本人がいるというのに恐怖が体を強張らせる。


「……私に会いに来た貴方が死ねば、私は罪悪感を背負わなければならなくなる」


 迷惑です、と俯いて前髪をぐしゃりと握りしめる。


「これ以上、私は私を悪いものだと思いたくない。……帰れとは言いません。どうせ霧が晴れるまで出られないのだから。せめて結界の中で大人しくしていてください。余裕なんてないのです。だから」


 冷静だと自分を騙すことさえ限界なのだ。

 エルザ港に来てからの記憶が無秩序に頭を回り続けている。自分が悪いと言い続けながら、何かに期待して勝手に傷ついていく様はあまりにも哀れで情けなくこれが自分なのかと涙が滲んだ。

 弱さの証明を拭おうと腕を上げたとき、そこを掴まれて引き寄せられる。

 無音で睫毛から零れていった水滴の行方を見届けることはなく、アルクゥは暗くなった視界と額に感じる他人の温度に全ての思考を止めた。


「貴女は悪くない」


 宝石よりも価値のある、アルクゥに逃げ口を与える言葉がすぐ真上から落ちてくる。

 アルクゥの頭を自分の胸に押し遣ったサタナは不器用に慰めの言葉を紡いだ。少し速い鼓動が服越しに聞こえる。

 ネリウスやヴァルフにそうしてもらったときのような安心感はない。

 リリのように柔らかくて心地良いものでもない。

 衣服越しにも分かる重たげに付いた筋肉は、ぎこちない抱擁のせいで余計に固い。

 慰められるどころか落ち着かない。

 ただ、溶けて合わさってしまいそうなくらい暖かいということだけは皆のそれと一緒だった。


「エルザ港を襲えと命じたのはベルティオで、実行したのはその仲間です。貴女は罪人を裁いただけだ」


 だとしても切っ掛けがアルクゥであることは変わりない。原因でなくとも遠因ではある。


「あえて実行犯以外に責任の所在を明らかにするというのなら、怪しげなものの入港を許した者たちや、凶行を止められなかった警備隊でしょう。更に言うのであれば、ベルティオの死から霧が出るまでの期間が短すぎる。これは前々から霧の原因が運び込まれていたと考えるべきでしょう。猶予はあった。なのに発見できなかった。これもまたこの地に住む者たちの責に他ならない」


 サタナの囁くような小さな声も密着した箇所から低く耳まで響いてくる。言われてみればそうかもしれないと相手に思わせることができる能力は、武に頼らねばならない場所では宝の持ち腐れだ。


「流石に弁が立ちますね」

「自罰的になることでしか救う動機を見出せないのであれば、いっそ止めてしまった方がいい」

「……万が一、責任がないとしても、関わりはあります。それを知って逃げ出すような、卑劣な人間になりたくないのです」

「では貴女が逃げ出さないように私が傍で見張っています。それで良いでしょう」


 その提案に呆気に取られたアルクゥは、サタナの胸にくぐもった笑い声を零した。


「言っていることが真逆です。逃がしたいのではなかったのですか」

「本音を言えば私は貴女の近くに居られさえすればいいのですよ」


 ここにきて打算を勘繰るほど疑心に囚われてはいないアルクゥは、言葉をそのままに受け取って愚痴るように言葉を吐き出した。


「本当に……何を考えているのか分からない人だ」


 口ではそう言ったアルクゥだが何となく――分かるような気もした。機微に疎い自分の想像などたかが知れているので、実際は違うのだろう。

 そう考えた矢先、サタナはアルクゥの髪に指を差し込み一度梳くように滑らせる。擽ったさに身じろぐと背中にサタナの腕が回り、より密着した体から鼓動の音が一層大きく聞こえてきた。

 知りたいですか、と風の音と聞き紛うほどの声が耳朶を震わせる。焦燥に似た感覚が背筋を走り、アルクゥは体の動かし方を束の間忘れた。


「冗談ですよ」


 硬直したアルクゥに気付いたのかサタナは酷く優しげに取り成す。

 そこから薄氷に触れるような気遣いを感じ取ったアルクゥは、しばし迷ってからだらりと垂らしていた両腕をサタナの背中に回した。特に嫌ではなかったのだと拙い言葉よりも行動で示す。すると息を呑む音がして「参ったな」と低く掠れた声が呟いた。

 その困ったようでいて拒絶の色が一切混じらない声音にアルクゥは安堵する。静かに目を閉じると、瞼の裏に常に在り続けた不安は消えていた。



 

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