第十一話 招かれた世界
擦り切れたような青の空に、透けた白の雲が立ち込めている。
冬を思い出したかのような寒々しい空模様の下、アルクゥは初春に芽吹き背を高く生い茂った草花に目を凝らす。従者のごとく付き従うケルピーも同じように地面を眺め、アルクゥが短剣で慎重に草を切り採るごとに皮袋を銜えて差し出す。
そこに何度も草を放り込んだアルクゥは、ふと曲げた腰を正し大きく伸びをした。体内で筋肉がバキリと音を立て労働からの解放を喜んでいる。空を仰ぎながら力を抜き、溜めた息を吐き出して皮袋を覗き込むと、緑の嵩は半分以上あった。
これでいいか、と植物の液で荒れた指先を擦りながら呟き、袋の紐を固く縛る。爪先で地面を叩き、痛む足裏を解してもう一度伸びをした。
「帰ろうか」
声をかけるとケルピーは乗りやすいよう体を伏せた。
帰る、と言っても一緒なのは山裾までだ。
キュール港での虐殺犯はケルピーに乗った小柄な人物として手配されている。
魔物を騎とする者は少なくないが、賢く足の速いケルピーは高価だ。盗賊のような裏家業、もしくは軍高官ほどにならねば所有するのは難しい。ゆえにアルクゥはケルピーを山に置くしかなかった。
幸い、ケルピーは完全にアルクゥを主と認め、山にあっても野生化しない。三歩進めば魔物に出くわす野においてアルクゥが無事でいられるのは、中位の魔物である彼が側にいてくれるからであった。
首筋を掻いて労うとケルピーは嬉しげに目を細める。その水面に似た瞳が弾かれたように茂みの方を向いた。
「……魔物が?」
アルクゥも生い茂る木々の間を凝視し、悪寒が走って腕を抱く。肌が粟立っている。
自覚すればそこからは早かった。
ケルピーの鬣に手を伸ばす。その背に乗ろうとし魚の尾で弾かれて転がった。同時に大きく割れた茂みから飛び出てた灰褐色の物体が、重い音を立て空気を突き破りながらケルピーの上を通過する。
「逃げて!」
そこらの木々よりも太くしなやかな、鱗のある長大な身体が視界を遮る。あれはそこいらにいるありふれた魔物どころではない。
アルクゥはまろびながら立ち上がり、叫んで走り出した。
行きに使った泥臭い獣道を必死で駆け下る。
枝葉で手足を切り頬を切り、いつしか細かな傷にまみれながら、全く開けない視界に焦りを覚えた。
この先に湖があり、そこに着けば人の使う山道へはすぐなのに。もしかして方向を間違えたかと焦燥に焼ける喉で咳き込んだとき、後背から木々を薙ぎ倒す音を聞く。
疎かにしていた足を再び速める。
幸い、正しい方角に進んでいたようで直に獣道は途切れた。視界一杯に広がる澄んだ湖に生存を見出したアルクゥを嘲笑うかのように、間近でにわか雨のような威嚇音が降り注ぐ。
振り返る間を惜しんで投げ出した体は群生する薬草の上を滑る。無様に一回転して起き上がった視線の先には、地面を噛んだ顎を持ち上げる大蛇の姿があった。
意図せず発生した睨み合いの状況に、アルクゥは目を逸らさず後退する。
舌で空気を舐める蛇を見ながら一歩、また一歩。
僅かにでも距離を稼ごうとする努力は、思いのほか近くにあった湖の畔によって水の泡と帰する。
ずるりと踵が滑る感触があったときにはもう遅かった。
傾いていく体を止めることなど不可能で、宙を掻く自分の手と擦り切れた空を最後に、冷たい水の中で全ての輪郭がぼやける。
――死。
ごぽりと吐き出した大きな泡が差し込む陽光に煌いて昇っていく。苦しい。
酸素を求めて必死に見上げたキラキラと光る湖面に巨大な影が掛かった。溺死か、喰われるか。考えるには空気が足りず、がむしゃらに水を蹴って浮かび上がる。
水面から飛び出るときに、何か別の境を越えたようなそんな感覚があった。
顔を出して飲み込んだ水を吐き出し、あえぐように息を吸ったアルクゥは、眼前にある大蛇の顔に恐慌してもがき――奇妙なことに気付いた。
視界に映るもの全てが黄金のごとき光をたたえている。
美しくて鳥肌の立つような世界だった。
風にそよぐ草木も、地面も、湖の水もだ。目と鼻の先にいる蛇は特に力強い光子を纏っている。
更におかしなことに、蛇は正面のアルクゥを認識していない様子だった。
やがては捕食を諦めて木々をなぎ倒しながら去っていく。
「ケルピー……ケルピー、どこ」
息も絶え絶えに岸に這い上がったアルクゥはごろりと仰向けになりながらケルピーを呼ばう。それに応えて茂みから駆けてきたケルピーだったが、アルクゥの周囲を回るだけで近づいてこない。見えていないのだ。
アルクゥは何度も咳き込む。光の粒子が喉に入って息がしづらい。解放を求めて宙をまさぐると、指先が不思議な弾力のあるものに触れた気がした。その瞬間、風にさらわれる砂のように光は世界から取り払われ、アルクゥが見慣れた山野の風景へと戻っていく。
楽になった呼吸を確かめるように繰り返してから、アルクゥは跳ねるように近付いてきたケルピーによじ登る。呆然としていたい気分だったが、またいつあの大蛇が襲ってくるかわからない。人に見られるのは怖かったが、この日ばかりは山肌ではなく山道を駆け下るように指示し、艶やかな鬣に顔を埋めた。
その日は、アルクゥは初めて境界を踏み越えた。
◇◇◇
薬草の名産、シグニ山から南には四大都市の一角に数えられるデネブがある。
人口の殆どが魔具や魔術に関係した仕事に従事しており、常に魔導技術を先進する姿から別名魔導都市とも呼ばれていた。
その象徴とも言えるのが他に類を見ない隔壁の構造だ。
東西南北に門の替わりとして一対ずつ太い銀の柱があり、その隙間を等間隔で同色の細い柱が並んでいる。それらは門を基盤として、地面深くに描かれた防衛術式の力を吸い上げ、デネブを護る巨大な障壁を作り上げているのだ。
晴れた日にシグニの山頂へ行くと、薄青の障壁が都市を覆っている様子が見えるのだという。
門番に立つ騎士に泥まみれの格好を心配されながらアルクゥは北門を通り抜ける。
そこから真っ直ぐ伸びる大通りの脇道に入り、少し歩いた先にある薬種屋の戸を叩いた。返事を聞いて中に入ると、真正面のカウンターに座っていた女主人のマリがアルクゥの姿を見て嫌そうな顔をする。
「その格好は何?」
「ただいま帰りました。これは……少し、転んでしまって」
「汚さないでちょうだいな」
ピリピリとした不機嫌さをぶつけてくるマリに苦笑して、命懸けで採ってきた薬草を入れた袋を渡す。マリは無言で受け取りアルクゥなど眼中にないように中身の検分を始めた。
「あの、私は」
「まだいたの。暇なら裏の掃除でもしておいて」
またですか、と呟くと、マリは「嫌なら辞めてくれても構わないのよ」と無表情で言い放つ。身元を証明できないアルクゥがつける職は限られている。ここの違法労働じみた環境はその中では真っ当な方なので手放したくない。
「……申し訳ありません」
「分かったらさっさとお願いね」
小さな溜息を吐いたアルクゥは、疲れきった体を引き摺ってカウンターの裏にある薬臭い作業場に向かった。
キュール港から逃げ延びて一ヶ月が経とうとしている。
以前と比べて安定した日々を考えればマリに雇われたのは僥倖だったといってもいい。給金は少ないが部屋を間借りさせてもらえているし食事にも困らない。
雇い主との関係は一向に改善しないが仕事にも雑用にも慣れた。魔物を避けて山に特殊な薬草を採りに行き、不器用に裁縫をしたり料理を作ったりと毎日は忙しい。指先は荒れ果て足裏には血豆が絶えないが、くよくよと悩む暇がないのはアルクゥにとって良いことだった。
作業所の床を箒で掃き、棚に並ぶ瓶や魔石で動く乾燥機の埃を払う。
何度かくしゃみをして大体が綺麗になった頃に奥の部屋で物音がする。裏口を開けるとアルクゥと同じ年頃の娘が大きな袋を抱えてぱちぱちと大きな目を瞬かせ、荷物を投げ出した。ぎょっとして零れた中身を広い集めようとするアルクゥの肩を掴む。
「どうしたのその格好! 怪我までしてる!」
マリの娘、リリは素早く上から下までアルクゥを見遣り、作業所に駆け込んで治療箱を取り出してくる。その間に荷物を拾い集めたアルクゥは表にいるマリがうるさいと怒鳴り込んでこないか恐々としていた。
「また薬草取りに行かせられたの? それで魔物に襲われた?」
「見慣れない蛇に噛まれそうになっただけです」
「だから別の仕事探せって言ってるのに!」
リリの明るい黒茶の瞳は怒りに染まりマリのいる方向を睨む。
「前に雇った人だって、母さんは辞めただけだって言ってるけど、薬草取りに行って魔物に襲われたんだ。どうせ辞められないからって訳ありの人を雇って使い捨てにしてるんだ。アルまでそんな風になって欲しくない」
アルクゥは苦笑するだけにとどめる。店を訪ねて回り不審がられながら探してようやく見つけた仕事と住処だ。帰る目途がつかないままには手放しがたい。
徹底的に日和見を決め込んでいるアルクゥにリリは頬を紅潮させてどっかりと椅子に腰を下ろす。すっかり機嫌を損ねてしまったなと気まずい思いでいると、ふと怪我の手当てを止めて「ごめんね」と小さく呟いた。アルクゥはそれだけで心に暖かな火が灯されるような気分になるのだ。
「……ねえ、蛇に噛まれそうだったっていったよね。どんな蛇のだった?」
治療箱を元の棚に仕舞い込みながらふと思い付いた様子でリリは尋ねる。
魔物に好奇心を持つのはこれが初めてではないので深く考えずに答える。
「大きな蛇でした。灰色がかった鱗に赤い斑紋があって……そういえば、小さな角も」
「それってどのくらい大きかったの?」
「胴回りで言えば、大人二人分くらいでしょうか」
リリはしばらく考え込む風情で腕を組み「ちょっと」と言って作業場を飛び出していった。いつものことだ。心得ているアルクゥはリリを呼び止めて裏口の鍵を渡し、掃除を再開する。それから数回のやり直しを経て休むお許しをもらい、二階に間借りしている部屋に重たい足を運んだ。
古びた木の扉は開閉の度にキキキと猿のような鳴き声を上げる。
ベッドと小さな戸棚が置かれた小さな部屋はいくら掃除しても埃の臭気が消えない後で洗わなければならない汚れた外套を脱ぎベッドに倒れ込む。固い布団でも疲れた体に心地良い。
――今日のあれは何だったのだろうか。
眠って頭を整理したいがまだ夕飯の支度が残っている。暖かい睡魔に負けないように今日の奇妙な出来事について考えを巡らせる。
思い返せば返すほど、溜息が出るほど美しい光景だった。
あの時はまるで自分だけが別の世界にいるかのような感覚で、実際それは正しいのかもしれない。大蛇にもケルピーにも自分の姿が見えていないない様子だったからだ。
あのまま居たらどうなっていただろう。心を惹きつけてやまない光景だが、その代償であるかのように息苦しくもあった。
あの場所には近付かないでおこう。
もう一度だけ、いや駄目だと揺れていた心の天秤は、生家を想うことで正しき方向に傾いた。山々に取り巻かれたこの地域は魔力が溜まりやすい。異変は日常茶飯事で、きっとあれもその中の一つなのだろう。
「でも、本当に……本当に綺麗な場所だった……」
アルクゥは仰向けになり、シミの浮いた天井に手を伸ばした。指先が届かないものを希うように空気を掻く。その時、爪が違和感を引っ掻いた。薄い膜のようなものに沈んでいく。
不意に世界が塗り替えられた。
はっとして飛び起きたアルクゥは光に塗れた自室を見回す。息が苦しい。
場所の問題じゃない。これは。
呼吸が浅く早いのは息が苦しいだけのせいではないだろう。興奮と緊張で握り込んだ手の平に汗がにじむ。これは、もしかすると。
「私の……お母様の力?」
聖人は精霊の住まう世界に行くことができる。
だから母は誰にも見つけらなかった。ただ同じ力を受け継いだアルクゥにのみ連れ戻せるのだと考えれば辻褄が合う。思い返せば自分にも兆候はあった。あの夜の森でアルクゥは見つからなかったではないか。
解を見つけた興奮でドクドクと心臓が脈打っている。
もし自在に出入り出来るのであれば――これほど心強いものはない。
アルクゥは抑えきれない高揚に口元を歪ませて拳を握る。一条の光が差し込んだ気がした。
◇◇◇
友人を残して作業場から飛び出した薬種屋の一人娘リリアーヌは、まず最寄りの書店に駆け込んでいた。書架から重たくて分厚い本を引っ張り出して魔物の項、動物が変化したものについて説明したページを開いた。目論見は外れてピンとくるものはない。
顔見知りの店員が「ひやかしはお断り!」と追い出そうとするまで粘ったがこれといった成果は出なかった。
肩を落として書店を出たリリだが、頬を両手で叩いて次だと呟く。
中央区画の図書館に行くつもりで手持ちのお金を確認していると、定期巡回の騎士が小路の先から現れた。
デネブを護るのは衛士ではなく騎士だ。
元々自警団としてあった組織にデネブ内での警察権を持たせたのが始まりで、騎士とはいえ平民出身が大半だ。しかしその誇りは主君に忠誠を誓い叙任せられた本物の騎士に劣らない。デネブと住民を守ることを第一とし切磋琢磨する姿に、住民も感謝と親しみを込めて彼らを騎士と呼んだ。
「どうしたリリ坊。この時間は母さんの手伝いじゃねぇのか?」
「あの人の手伝いなんてしないもん」
「まあたそんなこと言ってからに」
老齢の騎士は豪快に笑う。するともう一人の若い赤毛の騎士は顔を顰めた。
「リリを甘やかすと碌なことにならんのでやめてくださいよ。リリお前な、親御さんにあんまり迷惑かけんなよ。今度は何してんだ」
「べつにーパシーに言う筋合いなんてないし」
眉が吊り上がる。
騎士団に入って間もないパシーは生真面目であるがゆえか、幼馴染であるリリを頻繁にたしなめるようになっていた。リリとしては鬱陶しくて仕方がないが、怒り出す前に宥めておかないと後が面倒になる。
「うそうそ。魔物を調べていたんだ」
「またか。今度は何だ? 妖精か? 魔獣か? それとも竜種か?」
「蛇だよ」
「またそんなゲテモノを……いい加減、女らしくしろよ。化粧の一つくらいしたらどうだ?」
「そんなことしなくても引く手数多だし」
「そんな物好きがどこにいるんだ」
「五軒隣の男の子」
「何だと!」
うろたえるパシーにリリは鼻を鳴らす。
「それに言っておくけど。調べるのにはちゃんとした理由があるんだからね。母さんがまた人を雇ったって教えたでしょう?」
パシーは先輩騎士が子供に絡まれていることを確認して小さく頷き耳打ちする。
「雇い方が灰色なんだろ? あんまり大きな声で言うなよ。お前の母親を捕まえたくないぞ俺は」
「一回痛い目見た方がいいから今証拠集めてるの。それでね、その子がシグニ山に薬草を取りに」
「まさか入山禁止の区域まで登らされているんじゃないだろうな?」
「その子が教えてくれないから分からない。ねえ、話の腰を折らないでよ」
やかましい口を閉じさせてから続ける。
「今日見慣れない魔物に襲われたんだって。小さな角が生えた蛇で、胴が大人二人分っていうくらいだからきっと大きい魔物なんだと思う。大きな魔物ってそれだけで中位に分類されるから、そうなれば入山自体に規制がかかるでしょう?」
「ああ、なるほど。お前はその子を山に入れたくないんだな」
「当たり前じゃないか。でも通報するにはもうちょっと確かな情報がいると思って」
「それで調べてたのか。馬鹿だな。言えば俺たちで調べるさ」
パシーは笑い、子供の玩具にされている老齢の騎士を救出して蛇の魔物について話す。隣でリリが特徴を補足していった。すると騎士の穏やかだった表情が曇る。
「大蛇、ねえ」
「どうかした?」
「いんやなんでも。パシー、一旦詰所に戻るぞ。リリちゃん情報提供ありがとな」
足早に立ち去る二人の背中にリリは小首を傾げたが、予想しなかったとはいえ目的は果たせたようだ。
弾むような足取りで薬種屋に帰ると良い匂いが漂ってきて、夕食の用意を手伝うつもりだったことを思い出し台所へと急ぐ。
「おかえりなさいリリさん」
「ただいま! ごめんね手伝えなくて……」
「いえ」
口数の少ない友人は薄く笑って手早く調理器具を片付ける。せめてそれだけでも手伝っていると、妙に友人の機嫌が良いことにリリは気付いた。
「何か」
良いことがあったのかと尋ねかけて、悪い雇用主の娘である自分がそんなことを聞くのは無神経に思えて続きを飲み込む。友人は金色の目を和ませて不思議そうに首を傾げた。時折、この友人の仕草は思い出したように恐ろしく優美になる。どぎまぎしたリリは目を逸らした。
翌日、騎士団本部より直々のお達しがあった。中位以上の魔物が出現した可能性があり、詳しい調査が終わるまでシグニ山への一般人の立ち入りを禁ずるというものだ。
ひと月越しの悩みが解決したと胸を撫で下ろしたリリは薬種屋に帰って愕然とすることになる。
「薬草を取りに行かせた? ねえ冗談だよね?」
「何でそんな冗談を言わなければならないのよ」
薬草がなければ店が開けないでしょう、とマリは淡々と続ける。
「わかってるでしょう? 魔力を鎮めるシグニ草はデネブで需要が高いの。あれをいつも切らさないからこの店を利用してくれるお客だっているのよ。魔物が増えたことで最近では供給が不足しているから、特にね。あの子だって危険を了解して雇われているのだから、あんたが文句を言うことではないわよ」
「だって、入山禁止は……」
「破ったからって捕まるわけではないでしょう。母さんは忙しいんだから、あっちに行ってちょうだい」
蚊でも払うかのようにマリは娘の抗議を一蹴する。リリは唇を強く噛み怒りで何も言えずにその場に佇む。
「あんたは主張ばかりが一人前ね。文句があるのなら自立してから言いなさいな」
それは卑怯だ。リリは歯を食いしばる。そう言われてしまえば子供は何も反論できない。どうしようもなく腹が立って、悲しくなって目に熱い涙の膜が張る。
感情が爆発しそうになったとき、友人が何食わぬ顔をして帰ってきた。
「ただいま帰りました。……リリさんどうしましたか?」
マリに投げるように採取袋を渡して金色の目が覗き込んでくる。慌てて涙を拭って確認すると、妙に息切れした風情だが傷は昨日の分だけだ。
「大丈夫だった?」
「また蛇がいましたが、何とか」
「そっか。良かった。入山禁止は知ってたの?」
余計なことを言うなとマリが台帳から険しい顔を上げるが無視だ。
「ええ、門の見張りの騎士様に呼び止められました」
「じゃあ何で行ったの馬鹿!」
友人は困った風に眉を下げる。
そら見たことかとマリが唇を歪めた。
「身の程を弁えているのなら、休んでいないで店番をしていなさい。こちらは寝る場所や食事の世話をしているのに、甘えてだらだらしているんじゃないわよ」
マリは恥ずかしげもなく散々健気な従業員を扱き下ろしてから「薬種商会に行って来る」と言い置いて再び店から出て行った。リリは羞恥と怒りのあまり友人の顔を見ることができない。
「アル……ごめん。母さんが」
「いいのです。虫の居所が悪かったのでしょう」
「無理に薬草なんて取りに行かなくていいよ」
「大丈夫ですよ。逃げることには自信がありますから」
妙に確信めいた言い方にだった。リリは金色の目をまじまじと見つめる。その印象的な虹彩が一瞬だけ尋常ではない光を帯びたようにリリには見えた。




