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精霊のシジル  作者: 染料
六章
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第百十八話 泥濘の朝


 担がれたまま正門に近付くにつれ、魔除け向こうにあるくぐもった人の声が聞こえてくる。坂が平坦に変わった辺りで一層ざわめきが増したのは、正門から様子を窺う兵士らの視界に運ばれるアルクゥの姿が映ったからだろう。

 死んでいると思われるのは癪だ。

 アルクゥは運搬者の肩に手を突き、弛緩させていた体を上半身だけ持ち上げる。すると背すじ付近を支えていた腕が重心の移動を追って脇腹を這い硬く巻き付き、大げさに思える程に丁寧な手付きでアルクゥを地面に下ろした。

 指先が体から離れ、預けていた体重が返ってきた途端、全身の疲労が流れて来たかのようにアルクゥの足は重みを増した。持ち上がらない踵に逸った体が傾くと、予測するように添えられていた手がそれを留め、アルクゥが体の状態になれるのを待ってから離れて行った。

 その手を目で追いかけたアルクゥは、しばし視線を彷徨わせてから手の主を見上げた。

 俯き加減でこちらを見下ろす琥珀色の目は、白に近い銀色の前髪が陰を作って記憶よりも色濃いように思える。引き結ばれた口からは不機嫌とも無感情ともうかがえない。

 サタナは地面に薄く落ちた互いの影が重なるほど至近に佇んでいた。

 見上げた先には人を喰った笑みがあるのだろうと、漠然と予想していたアルクゥは実際との乖離に息を呑む。

 ――警戒しているのか。

 サタナにとって自分は殆ど初対面の人間だ。

 しかしそう考えるならばこの距離は近すぎる。手を伸ばせば余裕を持って届く範囲で、一歩でも詰め寄れば肉薄する。どちらもアルクゥを脅かす距離に他ならない。

 助けられたばかりだ。だから恐くはない。しかし注がれる感情の読めない目が、追い詰められる焦燥に似た危機感をアルクゥに抱かせるのだ。

 先程離れたばかりの手が、再びアルクゥに向かって伸びてくる。

 指先が頬に触れるか否かのところで、アルクゥは何歩か後退し硬い表情で感謝を述べた。サタナはふと双眸を和ませ、あからさまな行動に気を悪くする風でもなく頷き、二人の間にあった奇妙な緊張感は立ち消えた。

 安堵の息を吐いたアルクゥは先程から聞こえていた正門の開かれる音に気兼ねなく目を遣った。キメラの一撃で歪んだ扉は威勢の良い掛け声と一緒に段々と隙間が開いていき、やがて人一人通れる幅が出来上がる。

 そこから顔を突き出し避難を急かす兵士に従い、アルクゥは早々と門をくぐった。

 敷地に一歩踏み入った途端、どこかで喝采が上がった。転倒を恐れて足下ばかり見ていたアルクゥが驚いて顔を上げる間に、喝采は伝播していき大歓声に変わる。

 困惑に足が止まる。後ろから続くサタナに背中を柔らかく押され、いつの間にか寄り添っていたケルピーに促されて仕方なしに歩を進めるも、降り注ぐ賛辞に戸惑いやはり立ち止まった。

 正門を取り囲むように集まる兵は、当事者の心情など無関係に口々にキメラを倒し魔物を退けた魔術師を称えている。

 ならば、賞賛を受けるべきは。アルクゥは背後のサタナを意識する。

 弱らせたのはアルクゥだがキメラに止めを刺したのはサタナで、魔物をどこか遠くへ追いやったのもそうだ。

 けれども、安全地帯で戦果を待っていた兵士らはそれを知らない。間違った想像を押し付け喜びの鬨を上げる様の何と滑稽な事か。

 冷めた目で兵士を見遣っていると一部の人垣が割れ、額に汗を浮かべたモーセスが顔を出す。


「よくやったな。そちらの御仁は?」


 畳まれた布をアルクゥに押し付けながら尋ねるが、それはアルクゥも把握していない事柄だ。知人に会いに来たと言っていたが、国に命じられての偵察という可能性もなくはない。

 本人の口からの説明を期待して少し振り返ってみるも、サタナは自分に直接向けられた問いではないからか答える気配が微塵もない。モーセスが何とかしろという無言の要求を寄越すが、アルクゥは無視して渡されるままに受け取った荷物を軽く掲げた。


「これは何ですか」


 軽く見分したところ衣服と清潔な布のようだ。モーセスは今思い出したと言わんばかりの顔で「ああ、それはな」と続ける。


「公爵閣下がキミに渡してくれと仰られたのだ。酷い格好を見兼ねての差し入れだろう。ほら、あちらにおられる。しかし、礼は後にした方が良いだろうな。閣下は血が得意ではないのだろう。顔色が良くない」


 反射的にモーセスの視線を辿ると、兵士の人だかりの向こう側、離れた場所に佇むケリュードランは公爵邸に漂う薄い霧の色を差し引いても青いと一目でわかる顔でアルクゥを見ている。視線がかち合った直後、見たくないものから遠ざかるように踵を返し、護衛を連れて庭園方面へと行ってしまった。


「行ってしまわれたか。まあ礼は会った時にでも……待て、どこに行く」


 アルクゥもまた別方向に歩き出す。着替えて来る、と引き止めるモーセスに言えば大仰に顔をしかめた。


「外で? いや、物陰は多いが……キミは女性だろう、はしたないぞ。せめて女性兵士と治癒術師を連れていくがいい」

「一人で結構です」

「待て、そういうわけには……おい! 無駄に魔術を使うな! 魔力は温存しろ!」


 モーセスはアルクゥを引き止めようと伸ばした手を、届く直前になって彷徨わせる。

 アルクゥは幽世の中から目の前で自分を探しているモーセスを一瞥し、人垣の切れ目を縫い兵士の囲いを抜け出た。突如姿を消したアルクゥにざわつく兵士を、狼狽しながらも融通を利かせたモーセスが宥めるのを背後に聞きながら、石畳を彩る生垣の向こう側へと足を向けて現世に戻る。

 誰の目もない静かな場所に来ると、胸のつかえが取れて呼吸がしやすくなる。

 少し奥に進めば、広大な前庭に比べると余りにもささやかな広場が姿を現す。そこには小さな噴水があり、休憩用のあずまやガゼボがある。

 緑を彩る花々に目もくれず、アルクゥはボタンを外しながらあずまやの円形に添い設置されたベンチに近付き、汚れた外套とシャツ、そして新しい衣服を投げ付ける。取って返して控え目に水を噴き出す噴水に行き、水を受ける部分目掛けて乱暴に両腕を突っ込んだ。

 凍るような冷たさに悪寒が走る。

 構わず頭を下げると噴き出す水が丁度良く降り注ぎ、頭から肩口にかけての汚れを洗い落としていく。首飾りの黒い宝石も水に浸かり不思議な色合いで光を湛えていた。


 怪我をした手の平の痛みが冷たさで麻痺した頃、アルクゥはゆっくりと両腕を引き上げて凍えた息を吐き出した。

 渇いた布で髪と体を拭き新しいシャツと既製品の外套に袖を通せば、戦闘で体に溜めこんだ熱も兵士たちに感じた不快感も、公爵の眼差しも、その一切が感情の後ろへ遠のき透徹した思考だけが残る。

 頭が静かに回りはじめる。

 ――戻らないと。

 自分は見張られなければならない。出来ることならば、早々に敵を誘き寄せ排除しておきたかった。出撃直前に横槍でも入れられるのが一番困る。

 傷の治療もしなければならない。概ね掠り傷だが、外套を捲ると真っ白なシャツにはすでに血が滲んでいる。集中が欠けているせいか、自分で治癒を行使してみても一つも塞がる気配はなかった。


「……短い」


 ふと血染みからシャツの袖口に目が惹かれる。丈が僅かに合っていないのは、見知らぬ誰かの衣服だからだろう。自分の私物はきっと、とうの昔に処分されているはずだ。

 戻らなければ、と何度も頭で繰り返しながらも足はベンチに向かう。

 深く腰掛け全身の力を抜く。今なら眠れそうだ。

 怪我の痛みと寒さの中に混在する眠気に瞼を下ろすと、頭の中にけたたましい嘶きが反響して強制的に目を開かされる。幾度とない呼び掛けを無視していたので、ケルピーが実力行使に打って出たのだろう。


「ネロ、ここにいるから、おいで」


 位置を知らせると頭を苛む嘶きは止んだ。

 アルクゥは手の平に小さな赤い火を浮かべ、慰め程度に暖を取りながら使い魔を待つ。しばらくすると速歩はやあしの間隔で刻まれた蹄の音がし、生垣の角からケルピーが現れた。

 こちらだと手を伸ばす。

 しかし珍しいことにケルピーは応えず、背後を確認する仕草で首を反らした。数秒その体勢で静止した後、満足したのかようやく近付いてきた。

 アルクゥは両腕を広げて出迎える。ケルピーは鼻で腕を撫でて親愛を表してから、アルクゥの胸の辺りまで頭を下げた。それを強く抱き締める。

 大きく息を吸い込むと、嗅ぎなれた水の香が悪臭ばかり漂う霧の不快感を少しだけ消してくれる。

 大きな額に頬を摺り寄せ、再度忍び寄ってくる眠気に身を任せようとしたとき、


「怪我を見せてください」


 肩が跳ね、思わずケルピーを突き放した。

 ケルピーのすぐ後ろに立つ片手に簡易医療具の箱を提げたサタナは微苦笑する。


「申し訳ありません。驚かせてしまいました」


 いえ、と小さく返したアルクゥは、連れて来たのならなぜ最初に教えないとケルピーを睨む。今は誰とも会いたくなかったのに。

 数秒して我に返り、それが理不尽な八つ当たりだと気付いたときには、ケルピーは頭を大きく振ってアルクゥに魚の尾を向けていた。

 噴水の方に遠ざかるケルピーに思わず手を伸ばすが届かない。

 有り触れた小さな喧嘩だというのに離れていく姿に焦りを覚え、戻っておいでと優しく声を掛けても、ケルピーはアルクゥの血混じりの噴水に夢中な振りをして応えてはくれなかった。

 途方に暮れるアルクゥの隣、腰を下ろしたサタナは黒い手袋を外して白い手の平を差し出す。眉を寄せて眺めるだけのアルクゥに「怪我を」と催促する。断ればサタナを連れて来たケルピーの好意を無駄にすることになる。

 比較的傷口の深い左手を預けると、サタナは微かに眉をひそめて負傷部分に触らないように慎重に左手を握り込んだ。離さないまま、もう片方の手で器用に消毒器具を取り出し傷口を清めていく。

 そもそも魔力保持者は毒物に強い耐性を持つ。酷いものでなければそれほど消毒を意識する必要はないというのに、端々まで念入りに拭うものだから、左腕の治療が終わるころにはアルクゥの凍えた指先はサタナの体温が移り温度を取り戻していた。


「……知人には会えましたか」


 以降、手際良く治療箇所を捌き始めたサタナの横顔に、不自然な熱を湛える左手を持て余し気味に開閉しながら問う。口元が少し綻んだ。


「ええ、目の前にいらっしゃいます」


 アルクゥは目を眇め、長い溜息を吐く。

 ティアマトの関与があればサタナの素性を知るアルクゥにそれを隠す意味はない。信じ難くはあるが、本心として受け止める他ないだろう。

 アルクゥがこちらに渡ったという情報源はトゥーテか。護衛よりも監視としての仕事をこなした形だが、誠実な女騎士にそのつもりがないだけ厄介だ。ガルドに足止めを任さずしっかり口止めをしておくべきだった。

 それにしても、追い掛けてくるほどにサタナが記憶の空白を取り戻したがっているとは知らなかった。手紙からは然程の執着が感じられなかったからだ。所詮は文章、いくらでもお行儀よく繕えるということか。


「ヤクシさんやユルドさんの話では足りませんでしたか」


 あの二人に聞くだけでも記憶の粗方は補完できる。サタナは少しの齟齬も見逃せない神経質な性格ではなかったはずだが、余程気になる箇所が出て来たのだろうか。

 サタナは小首を傾げる。


「話?」

「記憶のことです」


 サタナは手を止め顔を上げる。しばし考えてから「それは」と何事か言い掛けたが、アルクゥは言葉を被せる。


「愚問でした。ここまで来たということは、納得のいかないことがあったのでしょう。訊いてください。お答えします」


 サタナはしばらくの間アルクゥを見詰め、ふと仕方ないと言った風に苦笑して治療の手を再開させる。


「疲れているでしょう。休んでいてください」

「悠長に話していられるのは今だけです」

「後で構いません。私からも……お話ししたいことがありますから」


 何の話だろうかとアルクゥは訝しげに眉を上げたが、追及はせずに頷く。


「後があるかは保証できませんが、それでもいいのであれば」


 返答はない。アルクゥはそれを了承と取って、広場の風景に視線を移した。

 霧の悪臭さえなければ、見とれるほどに幻想的な景観だ。霧に毅然と佇む花々は一層鮮やかで、時折水滴が宝石を思わせる輝きを放ちながら花弁から丸く滑り落ち地面を濡らす。

 霧に含まれる光は刻々と増してきている。

 外では朝陽が地上を照らしているのだろう。正午まで五、六時間と言ったところか。今眠ればそれなりの回復が見込めるだろうが、その前にモーセスたちの元に戻っておいた方がいい。

 アルクゥは手当ての終了を待って立ち上がる。痛いところは、と聞かれ首を振った。流石に治癒の技量が高い。両手を翳してみると、痛みも傷跡も見当たらなかった。


「ありがとうございます」


 サタナは礼に応じるように一度視線を上げて微笑し、顔を伏せて治療器具の片付けを再開しながら柔らかい感情の余韻が残る口を開いた。


「逃げませんか」


 

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