第百十六話 枯渇
厳重な警備を通り過ぎ正面玄関から屋敷に入った瞬間、生暖かい空気の中に漂う鉄臭さが鼻を突く。
覗き込めば顔を映すほどに磨き上げられているはずの玄関ホールは、今は血と包帯の白が敷き詰められ記憶にあるよりも遥かに手狭に見えた。等間隔に並べられた怪我人が作る細い通路を医師や看護婦が静かに行き来している。マスク越しにも滲む疲労の濃さはやがて訪れる崩壊を予感させた。
アルクゥの見ている目の前で医師が怪我人の脈を取り、淡々とシーツを引き上げ物言わぬ亡骸を覆い隠す。一言、冥福を祈る聖句を唱え、兵士に命じて臨時の診療場所から遺体を引き上げさせた。暖められた室内では痛みが早いのだ。
そうして迅速な対応を取ってきたであろうにも関わらず、アルクゥが霧から嗅ぎ取る悪臭とは別の生々しい腐敗臭が屋敷を侵食しているようだった。
皆、追い詰められている。
運ばれていった遺体は扉前に詰める兵士たちに見送られ外に消えていった。しかし兵士らは死を悼む葬列を成しているわけではない。
物資が圧倒的に不足している。
怪我人に巻く包帯すらシーツを裂いて作っている。食料は尚のこと、既に行き渡っていないことは、アルクゥが敷地に入るときにわざわざ魔物の死体を回収していたことから窺えた。
玄関口を分厚く守る兵士は、終わりの見えない状況下で残り少ない物資を独占しようと考える人間を遠ざける為のものだろう。
奪い合いが発生すれば失われるのは物資だけではない。秩序もだ。
極限の空腹は理性を殺す。倫理の箍が外れた状況で、どれほどの人間が先程の死体に涎を垂らさずにいられるだろうか。
それはまだ先の話でしかない地獄だが、現実味を帯びた未来だ。アルクゥは不安を紛らわせるように意識して触れていたケルピーの楔に呼びかけ、返事があったことに安堵した。
「ここだ。少し待ってくれ」
前を歩いていたヘングストは冷気が漂う廊下の半ばで足を止める。
アルクゥは光を一筋も漏らさない扉を見、確か応接間の一つだったかと記憶を掘り返す。立ちはだかるようにしている屈強な男は公爵の護衛だろう。いかめしい顔でアルクゥを一瞥し、ヘングストに用事の内容と返り血で汚れた身分不明の娘についての説明を求めた。
ヘングストは誠実な言葉を選びアルクゥの釈明に腐心したが、そうすればするほど護衛の視線は不審に染まっていく。それでもヘングスト自身の切迫した思いは伝わったのか、武器を提出しヘングストが傍で見張ると言う条件でアルクゥは入室を許された。
安堵したように眉を開いたヘングストに促され、アルクゥは素直に短剣を渡す。
受け取ろうとした護衛の男は鞘から染み出す血に一寸手を止め眉をひそめたが、前言を撤回することはなく、アルクゥが拭い忘れた魔物の血だと釈明する前に短剣を回収して大きな拳で扉を四回叩いた。
一拍置いて扉が開き、光が薄暗い廊下に射す。
護衛の男は、隙間から顔を覗かせたこれまた見事な体躯の大男に話を通し、ドアノブを大きく引いた。「粗相はするな」と釘を刺して二人を部屋に送り出す。
アルクゥは暗闇に慣れた視界に痛みを感じて微かに目を眇め、深く息を吸い込みヘングストに続いた。
眩しさがなくなっていくにつれ、応接室の暖かな色合いがアルクゥの目に沁み込んでいく。
床に敷かれた毛織の絨毯。その上には重たそうな四足の丸いテーブルがあり、それを囲む奥行きの深いイージーチェアは腰を下ろしたらいかにも心地良さそうな丸みを帯びている。少し不気味な鐘を鳴らす背の高い時計は曇った硝子の向こうで振り子を止めていた。長針も短針も中途半端な位置を指さし、ピクリとも動かない。
屋敷の規模に反して小作りな部屋に、アルクゥは懐かしさに目を細める。ここは公爵の私的な知人を招く場所だ。時には家族三人で団欒の時を過ごしたこともあった。
アルクゥは束の間の回顧に溜息を落とし、すっと背筋を伸ばした。胸の内側を擽っていた覚束ない幼い感情は抜け、段々と乾いていく懐かしさに揺らいだ瞳でかつての父親を直視する。
フルクトゥアトの公爵ケリュードランは、入室したアルクゥを一瞥もしない。緑色と金糸が鮮やかなローブを纏う魔術師と向かい合い、意思の強い顔で断固とした拒否を示していた。
「モーセス殿、何度も言うようだがその提案は受け入れられない」
扉の開閉音は届いただろうに、たった一目の注意すら惜しいほどの重要事だろうか。アルクゥは室内の護衛を盗み見てその考えを否定する。室外の護衛も、先客があると分かっていながらアルクゥたちを招き入れた。少なくとも公爵を守る彼らにとっては、押し退けて良いと判断した事柄なのだろう。
ともあれ、会話が途切れるまでは待たなければならない。先客の存在に困惑しながらも話を切り出す機会を窺うヘングストを見上げてから、モーセスと呼ばれた男の神経質な口元に視線を移した。
「民を慈しむ。ええ、平時であればそのお考えは大変尊いと言えるでしょう。ですが今は有事だ。犠牲を決断せねばならない局面だ。このままでは我々は干乾びる」
「貴君は口減らしをせよと言うのか。民を魔物の口元に放り出せと」
「口減らし? 違いますとも。いえ、結果的にはそうなる可能性もあるかもしれませんが、私の提案の目的はどこかにある廃域核の捜索及び破壊です。そのような邪な考えは、とても思い付きはしない」
「核があるとするならば魔力の濃い場所、殆どの者が活動困難な区域だ。避難民の中にはこの薄い魔力の中でも体調を崩す者がいる。彼らを調査隊に仕立てるなど現実的ではない。モーセス殿が魔術を駆使し捜索の先頭に立つというのなら話は別だが」
モーセスは考えたこともなかったといった顔をし、やや小馬鹿にした風情で苦笑した。
「私の職分は調査のみです。魔物を倒すのは軍人の役目でしょう」
「差し出がましいことを言うようですが、それならば霧の探索も避難民の役目ではありません」
モーセスを不愉快そうに見ていたヘングストが堪りかねて口を差し挟む。
ケリュードランはそこでようやく訪問者二人に顔を向け、アルクゥを見てゆっくりと目を見開いた。
アルクゥの心臓が跳ねる。
視線が合ったことに対してではない。ケリュードランの顔色が酷く悪く見えたからだ。
昔は何よりも強い色だと信じて疑わなかった黒髪には白いものが混じり、前はなかったように思える深い皺が額や口元に気難しく刻まれている。周りを圧倒する威厳は変わらず、しかしそこには人を惹きつける光はなく他人を慄かせるばかりの色しかない。
この人でさえも老いるのか。
晴れ間に落ちてきた雨滴のような、虚を突かれる類の驚きが胸を染める。
ケリュードランの持つ魔力は僅かで、自分よりも先に死んでしまう人間だと頭では分かっていながらも、アルクゥの中でケリュードランは不変の人だったのだ。
アルクゥはよく分からない心地の悪さを抱えながらケリュードランの表情を窺う。
気付いているのか、それとも大量の返り血に驚いているのか。反応から機微を読み取れるほどアルクゥは公爵のことを知らない。
「重要な話の最中に無関係の者を招き入れるなど、いくら腕が立とうとも所詮は礼儀を知らない野蛮な人間だな」
「私の護衛を不当に貶めるのは止めていただきたい。優秀な人間だ。考えがあってのことだろう」
苛立ちの矛先を護衛に向けたモーセスをケリュードランは静かに諌める。護衛はケリュードランに感謝するように頭を下げ、モーセスには取り澄ました顔で「指揮官殿が火急にお伝えしたいことがあると仰いましたので」と卒なく険の行方を視線をヘングストに擦り付けた。
「ヘングスト、何があった」
「この霧の現象に関わることです」
ヘングストは敬礼をしてケリュードランに答える。モーセスの鼻で笑う音が狭い室内に響いた。
「はっ魔術に通じぬ武官の私見が何の役に立つというのだ」
「私ではございません。彼女が」
モーセスは体をずらし、位置の関係でヘングストに隠れていたアルクゥを見て微かに頬を引き攣らせた。小汚いものを見る目だったが、特権階級を笠に着て誰彼構わず貶すような分別のない人間ではないらしい。口には出さなくとも顔で語れば同じだがと思いながらアルクゥは目礼する。
「そちらの、あー……女性? は魔術師なのか。所属は?」
「国家には属してはいないとのことです」
「はあ、市井の魔術師」
「卓越した戦闘技術をお持ちです。門を破ろうとしていた魔物を使い魔と共に退けてくださいました」
「はあ?」
モーセスは細く鋭い目を更に糸のようにしてアルクゥを見、ヘングストに視線を返して再び鼻で笑おうとしたのを止め胡散臭そうに頷いた。
「まあ、どんな小さな意見でも広く聞くべきか。魔術に明るい私も居た方が良いでしょう」
当然、同席を許可されるものとした態度で肯定を待つ。ケリュードランはしばらく口を閉じたままだった。思案する風情ではなく、ただ虚空に意識を漂わせるかのような茫洋とした面持ちで、「ケリー様」と訝しんだ護衛の声でようやく我に返り首を横に振る。
「申し訳ないがモーセス殿、席を外してもらいたい。ヘングストとケイザルもだ。私は……そちらの魔術師と二人で話しをしよう」
血塗れでも、フードで顔を半分隠していても、髪と目の色が違っていても――分かったのか。
アルクゥは複雑な気分で黒い目を見返す。忘れられていなかったという喜びがあり、罪悪の顕現を見詰めるような眼差しに心の鬱屈した部分が満足がある。気持ち悪い気分だった。これを愛憎と言うのだろうか。
視線はケリュードランの方から外れる。
断られると思っていなかったモーセス、思いがけず退室を促されたヘングストと護衛は怪訝な表情を露わにしていた。ケリュードランの発言は見知った人間に対するそれであり、三人に疑心を抱かせるには充分な材料だ。
「我々は出ましょう」
それでも、ヘングストはアルクゥへの信用を選び取り他の二人に退室を促す。護衛の男は主人の命令と自身の本分に挟まれ動きあぐね、モーセスは目に浮かべた猜疑を敵意に変えた。
「拘束しろ」
「何だって?」
「その薄汚い女とフルクトゥアト公に面識があると思うのか? 暗示をかけられたのかもしれない。魔術師とは己の利に忠実で、殊に女とは惑わす生き物だ」
「暗示になど」と困惑するケリュードランをモーセスは遮る。
「手足を縛ったままでも話は出来るでしょう」
「言いがかりも甚だしい! モーセス殿、この部屋に入ってから彼女は一度も魔力を発していない」
「この澱んだ空気の中で感覚がまともに働くと思うのか? 護衛、突っ立っていないで仕事をしろ!」
僅かに体を揺らした護衛の肩を掴み、ヘングストが低く唸った。
「その言葉は自分に言うべきだろう」
「何だと?」
「彼女は魔物を退け門を守った。擦り切れていた部下たちの表情に人間らしさを取り戻した。可能性を見せてくれたからな。彼女は貴方よりも余程魔術師らしいことをしている。無暗に力を誇示することもなく、従えと脅すこともない。知り合って間もないが、貴方よりは信用に値する人間だ。
私たちは一気に死ぬか、緩やかに渇くかしかない。霧を晴らす方法を知ると言う彼女に縋るしかないんだ。国の助けも調査に派遣された貴方たち以外に誰一人として来てはいない。見捨てられたのか、それとも手出しができないのかはわからないが。どちらにせよ、ここで足掻かなければ先はない!」
モーセスは寸での間、何を言われたのか分からないと言った顔をし、数秒後に理解してからは部屋に響くほどの歯噛みをした。
「軍人風情が知ったような口を……! 私とて案は出した。廃域核の存在を信じ、人を捜索に遣るしかないだろう! 口減らしの目論見もあることは、ああ認めようとも。非道だ。正義に反する。しかし悪ではない、決して! 何が間違っていると言うのだ。一所に固まったまま皆で仲良く死ぬべきだと貴様は抜かすつもりか!」
「そうならないように最善を尽くす必要があるのだろうが! ……どうか、今は私たちと共に退室を」
庇われたはずのアルクゥはヘングストの信用にモーセスと同様苦虫を噛み潰す。
自分は救済の手を伸べているのではない。上からの施しを与える側ではなく、下から許しを乞う立場にあるのに、まるで徳高い人格者のように扱われて後ろめたい。
言わなければ、アルクゥの評価はそのままだ。ヘングストは間接的加害者を疑わず、周囲の兵もその判断を信じて死地に向かうのだろう。
「……ヘングスト様は同席してください」
指揮官には情報を得てもらわなければならなかった。二人で話したいと言うケリュードランの意思には反するが、元々アルクゥはケリュードラン自身と話に来たのではない。この場の最高責任者に協力を仰ぐ為に来たのだ。
屋を出ようとするヘングストの背中を呼び止めると、すかさずモーセスが反応した。
「そこの指揮官はよくても、魔術師がいては不都合か」
「いてくださっても構いませんが……」
アルクゥはあえて言い澱みどうにかして不審点を見つけようとするモーセスの関心を引く。案の定、言えないことかと食い付いてきたので止めを刺した。
「魔術師様の職務とはかけ離れたお話になりますが、協力してくださるのであれば心強い。その高い魔力があれば澱みにあてられることはないでしょう。私と共に前線で戦っていただきます」
しばらく口ごもっていたモーセスは段々と耳を赤くしていき「失礼する」と悔しげに扉の向こうへと消える。アルクゥは息を吐き、ケリュードランを振り返る。
裁定を待つ罪人のように神妙で青い顔の公爵にアルクゥはもう一度、今度はささやかな息を吐いた。
「このようなことがなければ、二度とお目にかからないつもりでした」
本意からはかけ離れた行動なのだと、アルクゥも申し開きをする。
ケリュードランは深い苦渋に顔を歪め、何を否定したいのか微かに首を振った。