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精霊のシジル  作者: 染料
六章
116/135

第百十五話 異邦



 公爵邸のある東の丘陵を目指し、路地から乱戦の中に飛び出したケルピーに近くの魔物たちは一斉に反応し、無差別に殺し合うことを止めて団結するかの如く追う。

 ――背を向けて逃げるものを追う本能は残っているのか。

 アルクゥは頭の隅にそれを留めながら馬上からケルピーの退路を切り開いた。

 騎影に噛り付くように迫っていた群れは一定の距離を引き離すと我に返ったように脚を止める。

 アルクゥは前方の視界をケルピーに任せて遠ざかる魔物の様子を肩越しに窺う。立ち止まったものの再びふらりと霧の深奥へ向かうものが半数、もう半数は毛並みが触れ合うほど間近にいる異種族に驚き、逃げたり睨み合ったりと自分の意思を取り戻している様子だった。

 その姿が霧に溶け、完全に振り切ったと確信したアルクゥは多方向に自由な対応が取れる速度までケルピーを減速させる。


「ネロ、怪我は」


 顔、と返る声を頭の中に聞き、鐙を踏む足に力をこめ上体を乗り出す。落馬しないように鬣に縋って覗き込むと、ケルピーの鼻面に深い爪痕が三本刻まれていた。手の平を近づけて治癒をかけ、血が止まるのを確認してホッと息を吐き鼻面を指先で撫ぜる。自分にはこの使い魔しかいないのだ。

 思えば、ケルピーとの関係は契約の楔から始まったものだ。しかし互いに対する深い理解は契約に強要されたものではない。今でこそ主従契約は奴隷契約として悪名を轟かせているが、この種族や主従の垣根を越えた信頼を交わすことこそが本質だったのではないだろうか。

 だとすれば、或いは別の未来もあり得たのかもしれない。

 一方的で独善的な想いしか持てなかったベルティオと、ひたすらに使役されるのみだったシリューシュ。主従契約は比喩ではなく心が繋がるのだ。そこまでの要素があっても容易く理解し合えないことはアルクゥも実体験から知っている。

 それでも一つ違っていれば、今アルクゥが見ている霧と血の景色もなかったかもしれない。


「この先、角を曲がって」


 アルクゥは救いを求めるような自身の空想に苦笑をこぼし、段々と近付く生家に口元を引き締める。

 明るい赤茶の道のりは街灯の下でも乳白色の霧に煙ってはいるが見間違えはしない。

 最後にこの道を通った時は隣に師匠が――否、まだ師ではなかったネリウスが傍にいてくれた。優しい人だった。頭を撫でる手の大きさと暖かさの思い出は、強張ったアルクゥの背中を押してくれるようだった。

 坂の下に立ちはだかる、ここから先にある広大な公爵家の敷地を守護する最初の門に辿り着いたアルクゥは番兵の不在に目を細め、大きく開け放たれた扉を睨んだ。

 折れ曲がった扉の片方が地面に転がり、もう片方も蝶番が壊れて今にも外れそうだ。

 血腥い予感を抱き緩やかな屋敷に続く緩やかな傾斜を上って行く。その半ばまで来たところでケルピーは指示もなしに脚を止め、そしてアルクゥも先を急かすことはしなかった。

 正門の前には大小様々な魔物が陣取っている。

 見えるだけでも十体ほど、明かりの間隙に蟠る暗闇に潜む赤い目を換算すればその倍ほどになるか。さもありなんと言ったところだ。扉の向こうに容易く引き裂いてしまえる大量の餌がいれば魔物が集まるのは当然だと、アルクゥは思考に反して流れてくる冷や汗を拭う。

 坂に抗戦の跡と武器の残骸が散らばっている。

 奴らは人の味を占めている。

 そして適度に満腹であり、霧の誘引に抗える程度の力を持っているのだろう。

 周囲を囲む小物はその限りではないようで、見ている内にも数匹、誘われるようにして霧の彼方に消える。しかしどこからか代わりのように別の魔物がやってくるので数が減ることはない。

 空気を押し潰すような不格好な咆哮が轟き、牛と虎を合わせたような姿のキメラが正門に突進していく。

 一瞬ひやりとしたが魔物は門扉に刻まれた魔除けに弾かれ、しかし確実に門を震わせた。

 それを遠巻きにする中位以下の魔物、更に遠くにはお零れを狙う小物が忙しなく体を動かし、その中にいた兎に似た魔物が唐突にアルクゥたちを振り返る。

 感情のない赤い目の中に澱む瞳孔が細く収縮していく。

 様子見の猶予が失われたことを悟り、アルクゥはケルピーの腹を蹴った。

 慣性に置いて行かれないよう馬首にしがみ付くアルクゥの耳にきぃきぃと不快な鳴き声が届く。

 気付かれた、と嘶くケルピーに「分かってる!」と叫び、


「門の前に!」


 同時にぐん、と下に強く引かれるような感覚があった。

 ケルピーの跳躍により高くなった視点から足下を見ると、一瞬猛然と下を通過していくキメラが見えた。緩やかながらも下り坂ゆえに踏ん張りが利かなかったのか、視界の外で派手な転倒音に次いで重たい物体が滑り転がる音がする。

 アルクゥは背中にそれを聞きながらケルピーの着地に備える。

 衝撃を殺しきらない乱暴な着地の衝撃に息を詰める間もなく、ケルピーは前脚に全体重を乗せる仕草を見せ、アルクゥは全力でしがみ付く。

 間髪入れず、ケルピーは両後ろ脚を高く天に向かって振り抜いた。

 背後でぐしゃりと肉と骨が砕けた音がし、アルクゥの首筋を生暖かい血滴が跳ねる。

 その感触にぞくりと肌を粟立てながら騎上から飛び降り、他に襲いかかってきていた魔物を退け、正門を振り仰いだ。ケルピーの跳躍時、門上の見張り台に人影を見た。その確認のつもりだったのだ。

 しかし――もしかすると、と少しでも考えなかったわけではない。


「……ネロ、全部だ」


 こちらを見下ろす兵士の驚愕の目と、悔しげに、そして申し訳なさそうに眉を下げる表情を見たアルクゥは、援護があるだとか、魔物が遠巻きにしている今の瞬間に少しだけ門を開いてくれるだとか、そのようにして微かに抱いた甘い幻想を打ち捨てる。


「全部、倒さないと」


 そうしなければ協力を仰ぐどころか招き入れてすらもらえない。当たり前だ。中には沢山の避難民がいる。兵士も好き好んで静観に回るわけじゃない。彼らが従うべきものは自身が抱く同情や憐憫などではなく指揮官から発せられる命令だ。

 アルクゥはそうやって自分を納得させようとし、同時に心の隅に残っていた古びた期待の残骸をこそぎ落とす。故郷だから、生家だからと言ってもとうにアルクゥはそこから切り離されている。無償の助けを期待してはならない。そもそもこの事態はアルクゥの行動が原因である可能性が高く、間接的な加害者が被害者面をしてはならないのだ。

 ――私が悪い。

 本心ではない。心のどこかが理不尽だと叫んでいる。

 しかし、そう考えでもしなければ、固く閉ざされた門を故郷からの二度目の拒絶と受け取ってしまいそうだった。そうやって解釈してしまえば、ここに訪れた意義は自分の行いに対するけじめだというのに、なぜ拒まれてまで努力する必要があるのだと責任と義務を放棄してしまうかもしれない。

 アルクゥは深呼吸を繰り返し、一人で逃げろと言うケルピーに首を振る。幽世を経由すれば魔除けの障壁を越えられることをケルピーは知っているのだ。


「この程度の数を向かい討てない魔術師の言葉に耳を貸してはもらえない。私がここに来たのは逃げるためではないのだから。丁度良く、野次馬も集まってる」


 悪意ある表現で門上の見張り台に増えた兵士を見上げ、臨戦態勢にあるケルピーの首筋を親愛を込めて叩く。信用は行動で勝ち得なければならない。


「二人で拠点に帰ろう」


 アルクゥはフードを乱暴に引き被る。

 腕を裂いて地面に血を振り撒き、叩き付けるように両手を突いて石畳の下にある土を隆起させる。パルマの氷像を真似た土人形が三体、酷くぎこちない動きで空高く腕を振り上げ、怒りの咆哮と共に坂の下から駆けあがってきたキメラに拳を振り下ろす。

 それが開戦の合図となり、公爵邸の絢爛な正門前は泥臭い戦場に変わる。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 一体どれほどの時間が経過したのか。

 星の動きも月の位置も分からない霧の中では時が澱んでいるように錯覚する。

 アルクゥは肩で息を繰り返しながら、砕けたゴーレムを挟んでキメラと目線に宿る殺意を拮抗させていた。

 緩やかな坂道は所々抉れ、または捲れ上がり、坂を彩る両端の木々は庭師の努力が見る影もなく捻じれて折れ曲がり、随所に魔物の死体が横たわっている。

 何体倒しただろうか、とアルクゥは渇いて張り付く喉に咳き込む。

 十体から先は数えていないが、視界に残る敵意はキメラだけなので、相当の数を討ったのは間違いないが。

 兎にも角にも反応が鈍いゴーレムの動きをケルピーが補完し、アルクゥは時折こちらに零れた魔物を魔力任せに引き裂くという流れでここまで来たが、最初に叩き潰した筈のキメラがここに来て厄介な敵と化している。

 中位以上、魔獣位か、それ以上か。

 戦ってみるまで力が分からないところが、異種の混血である合成獣キメラが面倒である所以だ。手負いの魔物は危険だからしっかりと止めを刺せというヴァルフの言葉が頭の中を過って消える。

 牛の頭が不格好に咆哮し、虎の体躯で地面を蹴る。

 突進は直線、しかしその額と双角は魔力の刃を砕くほどに硬い。アルクゥは原型を保つ最後のゴーレムから魔力の回路を切り離した。

 土の巨体が崩れていく。

 その落下する大量の土塊をキメラは物ともせず突き破り、怒りに充血した目を剥いて土埃の向こうにいる人間を跳ね飛ばそうと加速し、唐突に消失した足裏の感覚に体を引く間もなく体勢を崩した。

 猪突猛進で助かった、とアルクゥは古典的な罠の淵からキメラを見下ろす。

 巨大ゴーレム三体分の穴だ。突進の衝撃が残る間は容易には抜け出せまいと、辺りに散った土から再びゴーレムを作って穴に投身させた。窒息死を願って穴を塞いだ土に血を撒き魔術で固める。確実な止めを刺すには精霊の炎で焼くしかないが、長時間の戦いで小さく膝が笑っていた。ここで倒れるわけにはいかない。

 虚勢を張る体力すら惜しいというのに、それでもアルクゥは胸を張り正門を見上げなければならなかった。陽動役に徹しアルクゥの比ではなく疲れているだろうに、ケルピーも堂々とした足取りでアルクゥの傍に付く。


「開けてください」


 ゆっくりと、しかし確たる意思を含めて告げる。

 二階建ての建物程度の高さがある門上にいる兵士は十数名ほど、ほとんどがアルクゥを驚愕の眼差しで見る中で、一般兵とは服装の違う青年が速やかに頷くのみの反応を返し手振りを交えて周囲に何事かを伝えた。門上の何人かが急ぎ足で消え、時間を置かず門が開く。

 アルクゥはケルピーを伴いその隙間に体を滑り込ませ、ようやくだと溜息を吐いた。


 視界に飛び込んできた煌々と照らされる広大な前庭には人が犇めいている。

 アルクゥは腕を擦る。人の多さに反してあまりにも静かな空間だ。

 開いた門を不安に思ったのか、それとも入ってきた血塗れの魔術師に脅えたのか。こちらを見る目はどれもこれも気が滅入る色を湛えている。皆が皆、顔色が悪く、強い光源のせいで目元に影が差し落ち窪んで見えた。

 アルクゥは返り血を吸って重たい外套を煩わしく思いながらもフードが落ちないように深く被りなおす。生家に戻ったという感慨など皆無で、ただ一人異郷に放り込まれたような心細さを感じる。

 母は生きているだろうか。乳母は。父親であった人は。

 体を寄せてくるケルピーに大丈夫だと頷いたとき、門上で見た青年が話しかけてきた。


「この場の指揮を預かるヘングストだ」

「魔術師のアル……です」


 馬鹿正直に名前を言いそうになり言葉を詰まらせるアルクゥに「疲れているところ申し訳ないが」とヘングストは意思の強そうな眉を下げる。


「先に確認をさせてほしい。キミは軍属だろうか」

「……いえ、残念ながら」

「そうか」


 国からの助けではないと知り周囲の兵士が落胆する。高みの見物をしていた割には随分な反応だなと軽く嫌悪を滲ませていると、ヘングストはその兵士を滲むような強さで叱責し見張りに戻らせた。アルクゥに深々と頭を下げる。


「魔物が外にいる間は、門を開くわけにはいかなかった」

「わかっています。謝罪を強請る気も受け取るつもりもありません」


 他意なく答えたつもりだが恨みがましく聞こえたのかもしれない。ヘングストは一瞬、痛みを堪えるような表情をし、すぐにそれを押し隠して「そう言ってもらえると気が楽になる」と淡い笑みを浮かべて見せた。

 魔術師とはいえ民間人を見捨てたという罪悪感が強いのだろう。

 実直だと感じると同時に物慣れない指揮官だとアルクゥはヘングストを評する。すると案の定、前任が戦死したゆえの抜擢だと聞いた。


「兵は彼らが全てですか」


 アルクゥは視線を一巡りさせて宛てが外れたかと内心舌を打った。

 見えている兵士が全てではないだろうが、全部掻き集めても二百にも満たないのではないだろうか。

 思った以上に兵力が少ない。言外の含みにヘングストは頷く。


「動ける者は彼らだけだ。他は魔力にあてられて動けないでいる。霧が濃い場所で住民の避難を助けていた者たちは特に酷い。薬が足りなくて、今も昏睡が続いている。体は訓練で鍛えられるが、魔力への耐性は生まれつきのものだ」


 平然と霧を突っ切ってきたアルクゥには分からない感覚だ。自分の基準が当たり前だと目が曇っていたのだろう。恥じ入るべき失念に唇を噛むと、ヘングストは唐突に声音を低く落とした。


「俺などが指揮官に任じられたのは濃い霧を行き来しても平気だったお陰だ。決して指揮官としての器量を期待されたからではない。この有事を未熟な人間に任せるなどどうかしている……」


 明らかな愚痴ではあったがアルクゥには好ましく感じられた。苛立ちを語る横顔はじっと見詰めると、ヘングストは我に返った様子で苦笑する。


「すまない。少々疲れているらしい。キミは今までどこに?」

「私はこの街の人間ではありません」

「まさか外から来たのか? なぜそんな危険な真似を……こんな深夜に、何かあっては遅いだろう」


 門の上から魔物を殺す様を見、今も外套の返り血を目の当たりにしているというのに可笑しな人だ。アルクゥは思いながら、嘘か本当か自分でも判じがたい言い訳を口にする。


「知人がいます」

「……そうか。待っていられない気持ちはわかる。確か、避難者のリストを作っていたはずだ。持って来させよう」

「それに、この現象に少し心当たりがあったので」


 殆ど囁くような声量でも、近くの部下に声を掛けようとしていたヘングストには届いた。柔和な顔が強張り綱を渡るような慎重さで言葉の確約をアルクゥに求める。


「本当か」

「兵士の皆様の力をお借りすれば、この霧を晴らすことができるかもしれません」

「霧は廃域によるものだと……キミの他にも霧の発生後に外から入ってきた者たちがいた。国からの調査隊だ。その中に魔術師がいて、そう言っていた」

「その魔術師様はあなた方に情報以外の何かをもたらしてくださいましたか」


 自分は正門を破りかねなかった魔物の群れを退けた。価値があるのはどちらだ、と。

 アルクゥはヘングストの探る眼差しに信用を強要する視線をもって挑む。


「自然現象では……ないんだな」

「お力添えを頂けるのであれば、詳しくお話しいたします」


 目を逸らしたヘングストに畳み掛ける。あわよくば言質を取り押し切ろうという算段だったが、ヘングストは冷静だった。


「キミは信用に足り得る人物だと、私は思う。しかし大きな決断だ。私の一存では決めかねる。公爵に会って説明をして欲しい。あの方の判断であれば、皆死地に向かうことになろうとも従うだろう」


 それでいいかと窺う声に束の間アルクゥは息を詰め、浅く頷く。

 かつて父親だった男性が自分を見てどんな反応を示すだろうか。それとも気付かないだろうか。

 気遣わしげに擦り寄ってくるケルピーに待機を命じる。屋敷の中には連れて行けない。

 指先が震えるのを疲れのせいにして、アルクゥはフードの淵を強く握り締め目深に引き下ろす。隣に誰かの体温が感じられないことがこれほど不安だとは思わなかった。

 ヴァルフ、マニ、リリ、とアルクゥは傍にいて欲しい者たちの顔を思い浮かべ、その中に不意を打って白皙の男の姿が差し込まれる。意外だった。こういった場面で思い出すほど頼りにしていたのかとアルクゥは自分の感情に目を見張り、今になってようやく忘れられる側の痛みに気付いて虚しさを飲み込んだ気分に囚われるのだった。



 

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