第百十四話 過客
グリトニル、エルザ港の南。輸送路の中継地として賑わう海沿いの街は夜を恐れて沈黙している。
異変の始まりは四日前、内陸から現れた大量の魔物が街を駆け抜けていった。当然、穏便な通行に留まるはずもなく、進路上にいた人間は小腹を満たす餌として食い荒らされた。
魔物の黒波は二日目には小康を得たが、一難が去った後にも災禍は続く。
下位種の魔物を追うようにして中位種が現れたのだ。その半数は下位種と同じように街を通過していくのみだったが、半数は群れの去った方向を気にしながらも明確な捕食の意思をもって目に付いた人間を狩った。翌三日目、命懸けで軍を呼んだ商人の功労により脅威に対して犠牲は少数で済んだが、道端に散らばった血痕は街に深い衝撃と恐怖を与える。
魔除け石を砕き練り込んだ街道は長く人々を守ってきた。
ゆえに魔物は彼らにとって身近なものではなく、暗がりから湧いて出る異形に対抗する術を持たない。魔が活発になる夜の訪れを恐れ、朝の光に安堵して眠りにつく。しかし陽があっても安全とは言えない状況で、休息は危険に備えて浅くなる。
必要以上の緊張は街を守る部隊にも伝播していた。
光石に煌々と照らされた街路を哨戒する分隊の面々は疲労の色を隠せない。
心身ともに消耗は激しい。
魔物の討伐により仲間を失い、細切れの遺体を回収し、加えて不可解な現象への怖れが体を強張らせる。
たかだか一個中隊の手には負えない。せめて大隊であれば余裕が生まれるだろうが、守りを必要とする街はここだけではなく、寧ろこの人数を振り分けられただけでも運が良いのかもしれない。
魔物の影に怯えながら、それでも士気を下げまいとして毅然と顎を上げていた分隊長は後背に蹄の音を聞いて振り返る。伝令かと隊の足を止めて待つこと数秒、閑散とした大通りの先に灰色の馬が飛び出してきた。
土埃を上げ、急角度で方向転換をした際に跳ねた魚の尾を見て兵が口々に警戒の声を上げる。その背に人影を認めていた分隊長は武器を下ろすように怒鳴り付けようとし、
「鉄錆蜘蛛だ! 陣形を整え、伝令は本隊に連絡しろ!」
ケルピーの後ろに現れた人の丈の数倍はあろうかという怪物を見て絶叫した。鉄が錆びたような色の固い外皮を持つ人食い蜘蛛だ。
その声に後ろを見ていた馬上の人影は顔を正面に移す。成人間近と思われる娘はこちらを見て顔を歪め、大きく手綱を引いた。
急停止したケルピーは地面を滑りながら器用に進路を反転させ、娘が背を蹴って飛び降りた瞬間蜘蛛に向かって矢のように疾走する。
赤い八つ目を光らせた蜘蛛は長く鋭い歩脚を鎌のように掲げ鋏角で迎え撃つ。鉄塊が打ち合わされたような音を立て閉じた鋏をケルピーはひやりとする低空で飛び越え、初速の猛烈な勢いをほとんど殺さないまま腹部と歩脚の右半分を踏み潰した。
巨体が青い体液を撒き散らして転がってくる。
咄嗟に散開できた兵は半数、もう半数は僅か数秒で繰り広げられた怒涛の大立ち回りに頭が追い付かず反応が遅れた。その中に佇む娘を見つけて分隊長は青くなり、逃げかけていた足を踏み留めて手を伸ばしたとき、娘もまた正面に手の平を向けた。
ず、と空気が歪んだように見えた直後、先を薄く透かす紫色の刃が勢いよく空間を突き破り、転がる蜘蛛に突き刺さる。
頭部から胴体に渡って下から上に貫かれた蜘蛛は何度か鋏を打ち鳴らすも、やがて痙攣を始め、残った歩脚を丸めて絶命した。
「ご迷惑をお掛け致しました。街の手前で見つかってしまったので、抜けてから討とうと思っていたのです。エルザ港はどうなっていますか」
戦闘系の魔術師は滅多にお目にかかれるものではない。
衝撃が通り過ぎた後、我に返った兵から注がれる羨望や嫉妬の入り混じった眼差しに、しかしながら娘は動じることもなく尋ねる。
魔術師の戦術的価値を考えていた分隊長もまた己を取り戻した。部下に魔物の撤去を命じ、娘を派遣されてきた魔術師だと解釈して敬礼をする。
黒の強い金色の瞳が自然な動きで分隊長を捉える。外観に反して老成した態度に、魔術師の歳を見た目で計ると痛い目を見ると言う教官の指導を思い出し慎重に言葉を選ぶ。
「迷惑など、とんでもない。街の近くにいたのであれば何があろうといずれ襲いに来たでしょう。我々が犠牲無しに討伐し得たとは思いません。感謝いたします。エルザ港については、異常気象及び原因不明の魔物の大量発生により封鎖されているとのことです」
「中の様子は?」
「不確かな情報ではありますが、様子を見に行った先遣隊は霧から戻らなかったと聞いております。魔術師殿も同行していたようですが」
国の要港であるエルザの異変、次いで貴重な魔術師の損失――失ったかは不確定だが状況はそれに近く、加えて内部の情報は僅かにも把握できていない。廃域が発生したのではと囁く将官もいる。近年、保守を強めている国がどのような対応を示すか。エルザを放棄するのは莫大な損害となるが、数少ない魔術師を問題解決にあたらせて失うこともまた同様だ。確実に意見は割れる。国の助けは数日後か、それとも数週間後か。
彼女はそう言った情報が上層にまで伝達される前、異変初期に調査命令を受けた哀れな魔術師だろう。
命令の再確認という建前で上に連絡を取れば、もしかするとここで待機、あわよくば共に防衛という運びになるかもしれないと分隊長は期待に胸を膨らませる。
「夜になると魔物は活発になります。今夜は是非この街に」
「ここはエルザの手前でしょう? 港から避難してきた者はいますか」
強い語勢に言葉を遮られて鼻白みながら、この街に来てからの報告を頭の中で辿る。商人や旅人が霧前で引き返した話は聞いたが、エルザの内部から避難してきた者の話は一つも聞かない。
「港近くから逃げてきた、という者なら……」
「そうですか」
何事かを考えるようにしていた娘――魔術師は体勢を低くしたケルピーに跨る。水面に似た瞳が誇らしげに光り、分隊長の小さな目論見を見抜いたかのように細くなる。戦力を求めるのは当たり前で、それに危険な時刻の出立を止めるのもまた然りだ。よって己が悪いとは思わないが、何故だか後ろめたさを感じて目を逸らした。
「お一人でいらっしゃるんですか。せめて国の支援を待ってからでも」
「私だけで充分でしょう」
魔術師は傲慢と受け取るには苦すぎる表情で吐き捨て、ケルピーに合図して走り去って行った。
茫然と見送った分隊長は、魔物の死体を処理した後、許可なく道の封鎖を通過した不審者がいたという警戒を促す勧告に隊の者と顔を見合わせて青くなる。
すぐさま指揮官に釈明という事情説明を行ったが、魔術師を危険な場所へと向かわせるなど何を考えていると更なる叱責を頂く羽目になる。魔術師を信望する輩は多く、中隊の指揮官殿は特にそれが顕著だった。
追って処分を言い渡すと聞いて何を理不尽なという怒りと、魔物に対する不安とはまた別の恐怖を抱えながら哨戒に戻る。
だがその気鬱も闇から湧くように現れる魔物を前にして霧散した。目の前の魔物を倒したと思えば、別の隊に呼ばれて討伐の補助を繰り返す。
「夜はじきに終わる! 空が白むまでが勝負だ!」
無数の目玉を持つ粘体に魔祓いの小瓶を投げ付ける。悪臭を発しながら溶けていく魔物に鼻を覆い、怪我をした兵士を貪ろうとしていた大鼠を剣で貫いた。
剣戟の音が止んだ頃、夜空は西に沈んでいた。
凌いだかと汗を拭う。
損害は昨晩より格段にましだ。鉄錆蜘蛛の死臭が小物を遠ざけたのかもしれない。もっともその体液が同族を引き寄せる危険もあったわけだが。
とにかく結果が全てだと、怪我人を運ぶ者と死体を集めて焼却する者を分けていると足裏に振動を感じた。今し方の想像と、昨晩に聞いた蜘蛛の歪な足音が重なる。
まるで不吉なことを考えた自分が悪いようではないかと冷や汗を流して襲撃に備え――しかし音は姿を見せることなく停止した。
唐突な静寂に唾を飲み込み、部下を二人連れて大回りに角を覗き、一瞬視界を暗く失って反射的な防御態勢を作る。
自分の両腕よりも長い鋏に両断される痛みはどれほどのものだろうか、とそこまで考える猶予がありながらも襲って来ない衝撃に恐る恐る目を開けると、何故か木の葉がひらひらと目の前を舞っていた。
秋らしく色づいた紅葉は血痕のように点々と続き、それを辿ると頭と胴、脚が千切れた鉄錆蜘蛛に行き着く。
「何だったんだ?」
「自分はよく見えませんでしたが……鳥の魔導人形と、それに乗った魔術師だったようです」
機械を分解したかのように転がる魔物は悪い夢にも思える不気味な光景だ。
また魔術師かと半分は苦く、もう半分は仕方ないという気分で呟いた。死体を回収して体液の染み込んだ土を削り取って――考えるだけでも面倒だが命と比べれば些細な代償だ。
死体処理を終え疲れた体を引き摺って拠点に返った後に、分隊長は無許可の通過者が二人に増えたと聞き、どうしてか安堵の息を吐いていた。
娘の苦い表情が頭の端に残っていたからだろうか。ケルピーに乗って去る細い背中を思い出すと、どうしてか軍人になる際に結んだ民を守護する宣誓が脳裏を過ぎった。
娘が夕闇の色を吸い込んだ街道に消えておよそ半日。目的は異なるのかもしれないが、もう一人の魔術師はその背中に追い縋る形だ。目指す場所が同じであれば手を携えることもあるだろう。
一人で充分だと娘は豪語したが、二人なら尚のこと安心だ。
それにグリトニルは朝を迎えた。じきに差し込む陽の光は地を暖め魔を退ける力を持つ。
一日を始めるに相応しい空を見上げる。
ふと見遣った港の方角に、光を擁する空の中に灯された不思議な煌めきを見つけた。それが何か目を凝らす前にそれは青と橙を溶かし込んだ複雑な色合いに消える。分隊長は首を傾げる。なぜだか物悲しく感じられる光景だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
月が一番高い場所に昇る刻限、軍による道の封鎖を飛び越えアルクゥを振り落す勢いで駆け抜けていたケルピーの脚に迷いが見え始めた。
本当にこちらへ行ってもいいのかという再三の問い掛けにアルクゥは頷き先を促す。
しばらくすると街道に薄い霧が立ち込め、進むごとに視界を遮った。
退けた魔物は街中で葬った巨大蜘蛛を合わせると五体、ここからはより増えるだろうとケルピーの歩調を襲歩から速歩に落とす。
使い魔の呼吸は速い。
疲れだけのせいではない。伝わってくる緊張に影響されないよう気を引き締め、体に絡み付き始めた霧に鼻を覆った。酷い臭いがする。
街道を彩る秋の色彩が霧の乳白色に負け、不快な臭いが気分にまで影響を及ぼし始めた時、アルクゥはここだという境目を見つけた。
寸分たりとも先を見通せない霧の壁を見上げ、脚を止めたケルピーの首筋を叩く。
行くべきではない、とぐずるように前脚を踏み鳴らす。命を惜しむのではなく、主人を案じての提案にアルクゥは強張っていた口元を緩めた。
「大丈夫。私の故郷だから」
逆に不安を感じたのかケルピーは大きく頭を振り、それでも命令に従い一歩踏み出した。
見透しを零にする濃い霧はいくらか進んだところで見通しが利くまで薄くなる。
創設者エルザの名が刻まれた碑を過ぎ、歩いてすぐのところにある噴水広場に来たアルクゥはそこで惨劇の痕跡を見た。
黒く変色した衣服の残骸、石畳に引かれた赤黒い跡は建物の植えられた茂みの中へと続き、終着点と思われる場所には大きな血染みがある。
ゆっくりと歩を進めながら覗き込んだ噴水の水面は鉄臭い臭いを発しており、目を凝らせば水中に人の指が沈んでいた。
石畳を掻く爪音に気付いて周囲を見渡すと、霧の先から犬の群れが現れる。どの個体も大型犬ほどの体躯だが、その中でも一際大きな双頭の犬を見つけアルクゥは指先を弾いた。刃に貫かれ静かに絶命したリーダー格に、十頭ほどの群れは散り散りに消え、傍で様子を窺っていた赤く光る目たちも霧の奥へと逃げて行く。
ここいらの魔物には離脱を選択する判断能力が残っているようだ。
ラジエルでは魔力濃度の高さに狂ったように噛みついてくる魔物も多かったと聞くので、霧の中心部に近付けば同じような状態の魔物が徘徊しているかもしれない。
一先ずは脅しが効いて助かった。
しかし付近の住民にとっては魔物の正気が仇になったのかもしれない。統率の取れた動きで狩られていく様子が目に浮かぶ。漂う魔力も住民たちの足を阻害しただろう。
――境目まで目と鼻の先だったというのに。
その短い距離を逃れることが叶わなかった無念は察するに余り有る。しかし同じく霧に引き寄せられ捕らわれた魔物もこのままでは死の後を追うことになる。ここに食物連鎖の理はなく、あるのは饐えた臭いと退廃だけだ。
アルクゥは目の当たりにした惨状から目を引き剥がし、全滅とするには少なすぎる死者の数に考えを向けた。
脱出が不可能と知れば、人々は安全な場所への避難という選択肢に目を向けた筈だ。
家の中で息を殺すか――否、容易に破られることは子供でもわかる。公爵邸を襲った海魔の例があっても市井の者にとっては蚊帳の外の出来事だったろう。見た限り、窓に格子を嵌めたり周囲を塀で囲む建物は一つもなかった。
エルザ港で魔物を退ける備えがある施設は僅か、その殆どが避難者数に対して狭すぎる。唯一、突出した収容面積を誇る場所と言えば。
「――公爵邸」
公爵ケリュードランは民衆を見捨てはしない。顔を顰めることなく彼らの手を引いたのだろう。想像すると少し切なかった。見知らぬ人々を受け入れるその懐にアルクゥは拒まれたのだから。
アルクゥは頭を強く振ってその感傷をくだらないと斬り捨てる。
自分は後始末をつけるために来たのだ。余計な事を考えている暇はないと、自身の感覚に従いより嫌悪の強い方向に踏み出した。
中心部に近付くごとに魔力は粘性を帯びていく。
宿の立ち並ぶ道を抜け、港側に歩を進める。
エルザに観光地としての名声ももたらした、様々な店が立ち並ぶ色鮮やかな通りはとろりとした霧の中で灰色に沈んでいる。自動で燈る街灯だけが霧に染まることなく白々と輝いている。
霧自体の濃さは精々視界を曇らせる程度、行動に支障を来たすものではないが、出くわす魔物の動きは街の入口で追い払ったものより格段に攻撃的なものへと変化していた。襲撃の度に足を止めてケルピーと共に撃退するも、三歩と進まない内に次の襲撃者が現れる。
――まともではない。
切れ味の悪い短剣を振るって首のない鳥を落とし、狂の証左とも言える光景に眉をひそめる。入り乱れ、相争う魔物たち。勝った個体は死体を食した後、膨れた腹を揺らして次に目に入った動くものに襲いかかる。
襲撃のみを退けて更に進むと、道は足の踏み場もないほどの死体で埋め尽くされていた。その死の舞台の上ですら争いは繰り広げられている。
霧に招かれた魔物は、ここに辿り着く運命にあるらしいとアルクゥは悟り、死臭の中に硫黄を嗅ぎ取り咄嗟に路地裏に隠れた。
竜までいるのか。
道の奥から現れた無翼竜が乱戦の中に顔を突っ込み炎を一吹き、空気を焦がしながら魔物たちを燃やし尽くす。常に襲う側であるはずの彼は、体のあちこちに薄いピンク色の肉を覗かせている。魔術を弾く無敵の鱗が無残に剥げ落ちているのだ。
しかしながら腐っても竜と言うべきか、霧に狂う様子はない。引き寄せられてしまった辺りは流石下位種の頭脳と言ったところだが、苛立った様子で近付く魔物を一蹴する様は圧倒的だ。
だがその力の差があっても竜は負傷している。
――このまま進めば一体どれほどの魔物に囲まれる?
突破する力があるのかと自問したアルクゥは唇を噛み締めた。認識が甘すぎた。
酷い臭いがする。
十中八九、この先には世界の理から外れたものがある。
それがラジエル魔導院にあった肉塊か近い性質を持つ物体だとすれば。
――この霧は羊水か。
胸に落ちてくる事実があった。
デネブを覆った霧とは全くその特性を異にするものだ。人を逃がさないという似通った性質ばかりが目立っていた為に誤解をしていた。
霧は孵化まで晴れない。
肉塊の孵化には大量の魔力が必要だ。ゆえに魔物を集め、内に捕らえ、争わせる。霧に散った魔力は霧に溶け、肉塊に揺蕩う化け物の糧となっていく。
反対に言えば、孵化するものが消えれば霧も役割を失い消失する。
「まだ……時間はあるはず」
前回は魔導院の魔術師を根こそぎ、マニの魔力のほとんどを与えられてようやくの孵化。ベルティオのような庇護者は傍にはいない。居たとしても、生き残ってはいない。この中で生き延びられるような優秀な魔術師ならば、そもそもベルティオの下になどつかない。
どうする、と顔を寄せてくるケルピーを抱き締め、路地裏の先を駆け抜けていく虎のような魔物を見送った。
「……助けが、いる」
一人では不可能だと、無謀に走ろうとする自分に自覚させるための言葉は酷く苦い。
公爵邸に詰めている兵士と傭兵の力を借りる。
巻き込んですまないとは思うが、どうせここでアルクゥが潰えれば早期解決は望めず備蓄が尽きて餓えるのだ。
どれほど犠牲を出そうとも、その死がアルクゥの肩に圧し掛かってくるとしても、付き合ってもらうしかない。
アルクゥはケルピーに飛び乗り一気に危険地帯を抜ける。
――かつてあれほど希った帰郷がこのような形で実現するのか。
魔物にすら怯まない足は、爪先を生家に向けた瞬間から重く鉛のように鈍くなっていた。




