第百十三話 回帰
草原には薄い青の夜が広がっていた。
月光の下で威容を放つ月陽樹以外には何もない開けた場所に降り立ったサタナたちを、ポツリと佇む女が気のない表情で出迎える。近付くにつれ、苛立ちを湛えた気の強そうな目が眇められていくのが見えた。
「保護者同伴なわけ?」
「護衛だ。くだらんことを言っている暇があるならさっさと魔女のところに案内しろ」
「そう。ここで待機していたいのならそうしなさいな」
「なっ……」
横暴な対応に絶句するヤクシの存在をないものとした女はサタナとユルドを一瞥し、顎で何もない空間を示し付いてくるように指示する。
「二人には許可を与えるわ。さっさと入りなさい」
声に応じて月陽樹の根の傍に三階建の武骨な建物が現れる。魔術の気配は微かにあるが、そうと知らなければ素通りしていたであろう高度な護りの結界だ。
「言っておくけれど私が作ったものではないから、質問はしないでちょうだい」
女はサタナの視線に気付いて先んじるように言ってから形の良い眉を歪める。
「本当に……何も覚えていないのね」
「貴女は?」
「パルマよ。関係は赤の他人かしら。けれど貴方の狡猾さと周到さは買っていたの。だから今回の迂闊な二の舞にはガッカリよ」
先導するパルマは建物に入り二人を応接室と思しき部屋に案内する。そこには誰の姿もない。ユルドの問いたげな目線を受けてパルマは「少し待っていなさい」と目を吊り上げ、二人にソファを勧めて自身は壁に背を預けた。
時計の針が規則正しく音を刻む。
耳を刺すように一つ一つ打たれていく時の流れは据わりの悪さを加速させる。波立つ心を鎮めようと呼吸に意識を寄せて束の間の忘我を努めるも、ふとした拍子に思考が好き勝手を始めて胸がざわつく。待つことをこれほどに煩わしく感じるのはいつ以来だろうか。
「一つ聞きたいのだけれど」
扉の外に待ち人への注意を向けて十数分が経過した頃、パルマが誰に向けるでもなく呟いた。サタナは組んだ両手の指に落としていた目を上げる。
「今どういう気分かしら」
答えないでいると、パルマは彫刻じみた冷たい横顔に微かな同情を浮かべた。
「忘れてしまった人間は哀れだわ」
「そうでしょうか」
「……変なことを言ったわね。忘れてちょうだい。もう、そろそろかしらね。案内するからついて来なさい」
「私は彼女を探すつもりでここに来たのですが」
「うるさいわね、そのくらい分かってるわよ。その前に貴方に用事がある人間がいるの。貴方を呼んだのはお師匠様だけれどね。ヴァルフは返事を出す気もなかったから。ああ、ヴァルフって言うのは竜殺しの兄弟子よ」
「……竜殺し?」
思い掛けない場所で出て来た英雄の名にサタナは目を瞬かせ、何とはなしに視線をユルドに移す。酷くばつの悪そうな顔でサタナの視線を迎えたユルドは「申し訳ありません」と謝罪した。
背後での会話など興味はないとばかりに案内を始めたパルマを追い掛けながら、肩を窄める部下の耳に叱責と聞こえないよう気を付けながら尋ねる。
「知ろうとしなかった私の怠慢です。ですが、少し理由は気になりますね」
「そうした方が互いの為だろうと彼女の希望でした」
先を行っていたパルマは二階の一室の前で立ち止まり二人を一瞥する。
サタナはユルドに微苦笑を向けて仕方なく会話を打ち切った。外面のしおらしさに騙されてしまったが、返答に悩む振りをして長い間を空けたのはそれ以上の疑問を遮断する狙いがあったのだろう。
三度扉をノックしたパルマは返事を聞かずに扉を開けて遠慮なく入っていく。
サタナはパルマの背中向こうに見える部屋の簡素な内装を観察しながら後に続き、明らかな敵意に踏み入った最初の一歩で足を止めた。
室内にはパルマを除いて二人の人間がいた。
蹲る童話からそのまま出て来たような出で立ちの魔女と、ベッドで上半身を起こしている三白眼の青年。
敵意の出所は青年だ。緩く細められた灰色の眼差しは底冷えする殺気を内包している。病気か怪我か、とにかくベッドから離れられない様子ではあるが、軽く投げ出された手には剣だこが見える。シャツに覆われていながらも一見して鍛えていることが分かる体からは戦闘職種に就く者であることが容易に察せられた。
近付かないに越したことはない尋常でない敵愾心を嗅ぎ取るサタナに、一方の青年は「何日か振りだな」と気安げな態度を見せる。寝起きのように掠れた声だが、部屋の隅々にまでよく透った。
「そう警戒するでないよ司祭殿。ヴァルフも噛みつく前の狼みたいな目をするのは止しなさい」
魔女は腕まくりして汗ばんだ額を拭い、白墨を投げ出して指先の粉を払いながら剣呑な視線の間に割って入った。あの剣呑な目をした青年が元近衛騎士のヴァルフかとサタナは了解する。
魔女は手に持った図面とベッドのすぐ近くの床に複雑な魔法陣を見比べて何度か頷き、
「言われた通りに描いたよヴァルフ。ああ、すまないがパルマはメイの手伝いに行っておくれ」
「はいお師匠様。すぐに」
数段高い声音で答えたパルマは従順な弟子の皮を被って淑やかに退室していった。
魔女は満足げに弟子を見送り、手を叩きながら「それで」とヴァルフを振り返る。
「このワタシに労働を強いたんだ、もう教えてくれてもいいだろう。これはなんだい? 情報譲渡の術式が入っているけれど、まさかそんなお人好しじゃないよね?」
ヴァルフは魔女に答えず未だ瞳に敵意を滾らせサタナを冷たく眺めていたが、やがて面倒そうに頭を掻いて魔法陣を指さした。
「返して欲しけりゃここに立て」
「……返す? 返すって?」
サタナに向けられた言葉を魔女が横から奪い取る。「ヒルデガルド」と刃の切っ先を孕む声に窘められても魔女は怯まず、口を歪めた。
「周到だね。気付かなかったよ。いつ?」
「テメェが師匠の研究室で復讐を語った後だよ」
「……あの時か。妬ましいな。不幸は共有するもので傷は舐め合うものだろうに。知っていたら手伝わなかった」
「ガキか。テメェの歳を言ってみろ」
「三百ちょっとぐらい」
「いい加減その腐った性根をどうにかしたらどうだクソババア」
「誰が直すものか。司祭殿。ワタシという前例があって助かったようだよ。咽び泣いて感謝してくれたまえ」
こちらを見た魔女の目からは友好的な色が消えていた。椅子を引いて腰を下ろしそれきり口を閉ざす。
身に覚えのない話で敵対者を増やしたサタナは、訝りながら慎重にヴァルフに問う。
「私の記憶をお持ちですか」
「少しだけな。一時的な保管、忘れるべきでないことを幾つか血に溶かす魔術だ。期待するほどのもんじゃねぇとは思うが」
ヴァルフは気怠そうに首筋を撫でる。
「……そこの魔女が記憶を失った様を見て、俺とテメェは保険をかけた。一方が被害にあった場合にもう一方が記憶を返す」
「貴方はそれを履行する気がなかったように見受けられますね」
「返せと言われなかったからな。親切に教えてやる義理はねぇよ」
サタナは動揺を隠すように口の端を上げる。
ヤクシがこの男に手紙を出せと言ったのは、自分に保険について聞いていたからか。それとも持ち前の勘の良さか。
それよりも――自分はこの男に何を託したのだろうか。
命を懸けたと言う柄でもない自分を直接突き付けられるかもしれないという躊躇を、サタナは頭を一つ振って断ち切った。
「対価は何をお望みですか」
「別に。俺が足労願ったわけじゃねぇが、ここに来るまでの駄賃代わりに返してやる。約束を破ったとごねられるのも面倒だ。……それで?」
「では有り難く」
「じゃあさっさとそこに立て」
苛々と招く手に従い魔法陣を踏む。
ヴァルフはそれを待ってから嫌そうな顔で指先を切り陣に血を落とした。紫色の光が術式を走り部屋全体を仄かに照らす。
契約魔術の一種ならばこちらの血も必要だろうとヴァルフに視線を送ると、突如として伸びてきた手に胸ぐらを掴まれる。いつの間にかベッドから立ち上がったヴァルフが、サタナと同じ高さの目線で忌々しげに口を歪め凶悪な笑みを浮かべた。
瞬間、ぐんと引き寄せられ顔面に硬い骨が衝突する音が鈍く響く。
衝撃が脳を揺らし目の前が一瞬白く染まる。
「……血が必要ならそうと言えばいいでしょうに」
「ふん」
鼻を押さえた指の隙間から血が重たく滴り落ちていく。
ヴァルフも無傷とはいかなかったらしくふら付く足でベッドに戻る。額を赤く染める傷を乱暴に拭い、何事もなかったように先程と同じ体勢に戻りサタナから顔を背けた。
相当嫌われているなと溜息を吐いたとき、足元から紫光が立ち昇った。湧き出る水を思わせる柔らかな動きでサタナを取り囲む。
いよいよかと大きく息を吸い込み――その呼吸は途中で止まる。
「――アルクゥ」
「裏に転移陣がある。使いたきゃ使え」
サタナは無言で踵を返して部屋を出て行った。硬直していた上司が突然動き出したことに驚いたユルドは脇に飛び退き、慌てて背中を追っていく。
それらを見送ったヴァルフは隠していた荒い息を吐き出し、横になって扉に背を向け、深々と瞼を下ろした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「書き終わったよパルマくん」
転移陣の敷き直し、残った痕跡を辿っての目印と目印の繋ぎ直しを終えたメイは腰を押さえて体を左右に傾ぐ。骨が鳴る音が夜闇に大きく響き、振り返ったパルマの「歳でしょうね」という痛言が老体に突き刺さる。
少し落ち込みながら横目で盗み見たパルマは瞑目し転移陣に魔力を込め始めていた。機嫌が悪い態度を隠さないが、その白い指先からは限界に近い速度で力が放出されている。
今の内に休憩を取って交代に備える算段を立て、メイは少し離れた場所で宙を睨み付けるサタナの傍に近付いて行く。
「やあ。待たせているね。もう少しだよ」
「ありがとうございます」
機械的な反応にこれは聞いていないなと苦笑し近くの石に腰かけた。
「キミはアルクゥくんを迎えに行くんだろう?」
「そのつもりです」
「恐い顔をしていると逃げられてしまうよ。相手は女の子だ」
そこでようやくサタナは暗闇を見詰めていた胡乱な焦点をメイに結んだ。その琥珀色の目に窺うような色が浮かび、勘が働いたメイは心外だと口を曲げる。
「ヴァルフくんから記憶を返してもらったんじゃないの?」
「返ってきたのは片手で数えられる程度です。未だに記憶は穴だらけ、却って疑問が深まった箇所さえあります」
「忘れることはあっても、人に忘れられることはないのになあ」
「申し訳ありません」
「慇懃無礼って言われない?」
「特には」
絶好の話し相手だと思った聖職者は会話を続ける気はないようで再び前を向いてしまった。
精悍な横顔は無表情なれど、何か一つの思考に盲いているような危うさがある。そっとしておこうとメイは喋りたがりの口髭を撫でて宥めるが、転移陣の完成までは長い。興味深い人間を前にした夜長、体を蝕むような実りのない沈黙に忍耐は数分ともたなかった。
「アルクゥくんは心配はないと思うよ、僕としては。どのみち彼女が何かと相対するまでには間に合わないんじゃない? 即断即決を旨としているからねえ彼女。こちらはこの分だと出発は夜明けかそれ以降だよ。マニくんが手伝ってくれていたらもうちょっと早かったんだけど、彼もまだ体調に波があって一日中寝ているんだ。ああ、マニくんって言うのは」
「知っています」
「それは釈然としないね」
虫の音すら絶えた夜、月陽樹の葉を透る月光に照らされた風景は絵画のようで、表情のないサタナは見事に馴染んでいる。
「……かと言って、行くことが無駄になるというわけじゃないよ。キミの役目はアルクゥくんを呼び戻すことにあるかもしれない。エルザ港からこの拠点に、戦いの場から平穏に、或いは幽世から現世へと。ガルドの作った怪しげな結界は?」
「研究用に保管されていた最後の一つをユルドが保管庫から持ち出してきてくださいました」
「優秀な部下だねえ。そう言えばさっきヤクシくんがついて行くって言ってたけど、どうなったの?」
「巻き込むわけにはいかないでしょう」
サタナはそう答えはしたが、この調子ではヤクシの声が耳に届いていたかも怪しい。
薄い反応しか返さないサタナにあれこれと思い付くままに口を動かすメイは、ふと閃いた名案に身を乗り出した。
「そうだ。いいことを教えてあげよう。アルクゥくんが幽世にいたら、手を取って跪いてこう言えばいい。此の名は死を越えて尚、汝の許に」
どうせ見ていないとニヤニヤ顔で笑っていると、気付けば呆れた顔がこちらを見下ろしていた。
「何のまじないですか、それは」
「ええっと……人と神の隔たりを打ち消したありがたいお言葉だよ」
サタナは少し考える素振りを見せ、
「古い神話にそういう話があると聞いたことがあります」
「知ってたかあ。そうか。キミの職業で知らないわけないよね」
「そのような文言はさすがに知りませんよ」
「じゃあ使ってみるといい」
「まるで求愛の言葉ですね」
「すごいや、アルクゥくんより答えに近い。是非とも彼女に使ってみてよ。あながち間違いでもないんだろう?」
冗談交じりに言うと、それまでの澱みない応答が途絶えサタナは別の話題に水を向けた。
「記憶の譲渡や干渉が禁じられた理由をご存じでしょうか」
メイはきょとんと目を丸くして瞬き、なるほどと小さく呟いた。怜悧な印象を受けていた男がこうまで呆けている理由がわかった。
記憶に関する魔術が禁術とされた理由はいくつかあるが、サタナの身に降り掛かったのは時間という緩衝剤の消滅だ。
記憶の並びの中で都合良く切り取られた部分は他人に受け渡す際に一塊となり、再度本人に戻されるときには元の位置には戻らない。時間をかけて身に馴染ませてきた記憶を、誤差なく一気に思い出す。
禁術と知りながら弟子に生涯の研究成果を託す魔術師は多いが、余程の馬鹿でない限り渡すのは情報だけだと了解している。大量の情報だけならば混乱は少なく済む。
だがそこに感情や感覚が加われば始末に負えない。
好悪どちらにおいても濃縮されればそれは毒だ。
「でもキミってかなり冷静じゃない?」
「面目を保てているのなら私の理性も捨てたものではありませんね」
そう言いながらもサタナは今の会話で感覚を思い返したのか苦しげに眉を寄せる。
「記憶を返された直後は酷い有様でしたよ。私の行動は贖罪を根底としているのだと思っていました。息が止まって我を忘れるような感情を私は知らなかった。あれでは、嫌でも」
微かに上擦った自身の声を自覚してか、サタナは目頭を手で覆って呻きとも溜息ともつかない息を吐き出す。しかし先程とは異なり表情にあるのは苦痛だけではない。口元は僅かに笑みあった。
拮抗する葛藤と悦びを持て余すとこうなるのかとメイは冷たい夜風のせいにして身震いする。
止めるか――否、頼もしい限りだ。
少し危ういようにも思えるが、何かを吹っ切った人間というのはそう言うもので、概して良い結果を出す。
出来る限りの手を貸した後、アルクゥにしたときと同じようにこの青年も見送ればいい。年長者とはそうやって泰然と構え、すまし顔で彼らの帰還を迎えればいい。
それからしばらく、取りとめのない話を一方的に投げ付け休息としたメイは、息の上がったパルマの呼び声に応えて立ち上がる。
「さて、交代。もう一息かな」
「感謝します隠者アーチメイゴー」
メイは微笑む。
「誰かを助けるのも楽しいものさ。キミだって分かるだろう。アルクゥくんを頼んだよ」
「必ず」
そして橙と青の溶け合った夜明けが空に広がる時刻、転移陣は完成する。
メイは繋がりの先に消えていくサタナを見送り、幕を終えた解放感と一抹の寂しさを噛み締めた。
手を貸せるのはここまでだ。後は彼らのなすがままに。
佳き一日が始まる予感に胸いっぱいの朝を吸い込み、メイはゆっくりと歩いて帰路についた。